第88話 兄と妹、その袂を別つために
「そろそろいい加減に覚悟決めて、腹を割って話そうじゃないか」
ボクはゆっくりと歩を進め、彼に近付く。
目と鼻の先にまで寄り、見上げて睨む。
こいつが真の黒幕。
「なぁ?鳴海光星」
ボクはその人の名前を呼んだ。
心療内科の医者で、ボクの兄。
こいつが裏で動き、彼方を傷付けてきた張本人。
彼はかけていた眼鏡をかけなおすと、ボクの顔を見て口を開く。
「···何故、分かった?」
その声は今までとは違い、冷たく暗い。
しかしボクは、引き下がるわけにはいかない。
ここで引いてしまえば、ボクは何のためにここまで来たんだ。
思い出せ、ボクが月ヶ瀬杏珠に言った言葉を!
彼方を傷付ける奴は、誰であっても許さない。
それが例え、家族であろうとも。
「簡単な話さ。さっきも確たる証拠を見せたけど、月ヶ瀬杏珠のスマートフォンの通話履歴には、ここの電話番号が使われていた。しかも、この部屋の内線とだ」
「·········」
「月ヶ瀬杏珠が黒幕にしては、これまでの動きとボクたちが相対した時の行動が一貫性を伴わない。それは何故か?おそらく、彼女に助言をしてサポートしてきた人間がいるからだ」
「それが、私だと?」
「そうだよ。あなたは心療内科に勤める医者で、彼方の担当医でもあった。だったら、どのような方法で攻めれば彼方の心を壊せるのか、あなたなら理解しているはずだ。違うかい?」
「···確かに、そうだね」
「さらに言えば、あなたがこんなことをした動機も心当たりがある」
「···ほう?」
「それは、あなたの愛する妻のためだろう?」
瞬間、兄さんの眉がピクッと動いた。
図星を突かれれば眉が動くその癖は、相変わらずで分かりやすい。
そう、兄さんがこのようなことを仕出かした留学は、兄さんが愛してやまない妻のため。
ボクにとっての義姉さんは、まだ20代であった兄さんとは10年ほど前に結婚した。
ボクは一度しか会ったことはないが、彼女はとても優しくて綺麗な人だった。
幼いボクから見ても、彼らは本当に仲が良く、嫉妬しそうなくらいだった。
しかし、幸せな日々は長く続かなかった。
ある日、義姉さんは暴漢たちに襲われた。
複数の男たちに乱暴され、犯された挙げ句に金品も強奪された。
幸い彼らは逮捕されたが、その代償として義姉さんの心が壊れてしまった。
抵抗するも快楽に負け、兄さん以外の男に身体を許してしまった。
それが何よりも心にダメージを負ったのだろう。
それ以来、義姉さんは感情も言葉も表に出すことが無くなり、まるで人形のようになった。
兄さんは悔やみ、悲しんだ。
なんとか自分の持てる力で義姉さんを救おうと、日夜寝る間も惜しんで彼女の治療を行ったが、状況は芳しくなかった。
そして今も、義姉さんはここに居るらしい。
「全ては彼方の心を壊して再起させることで、義姉さんの心を取り戻すサンプルを掴むため。ようは、実験のためだ。違うかい?」
「···ふぅ」
兄さんは観念したと言わんばかりに、両手を上げて目を閉じた。
「そこまで分かっているなら降参だよ」
「抗いはしないんだね?」
「したところでどうなる?妻の心がそれで治るなら、私はいくらでも抗おう。しかし、それは無い。だから抗わない」
「···後悔はしてるのかい?」
「するわけがないさ。彼には気の毒だが、おかげで良いサンプルが手に入ったからね。まあ、これで彼女が治るとは限らないが···」
眼鏡をかけなおし、失笑する兄さん。
ボクはギリッと奥歯を噛み締め、再度兄さんの顔を見た。
あの日···ボクらが仲良かった関係はもう無い。
兄さんと過ごしてきたあの日々は、全て思い出の中だけだ。
だから、これからすることに一切の未練も後悔も無い。
「···兄さん、ごめんよ」
「なに···?」
一応先に謝ってから、ボクは力の限り彼の顔面を殴った。
「ぐぼっ···!?」
兄さんは自身の身体を支えることが出来ず、その場に倒れ込む。
デスクワークばかりしてきたからか、女の子であるボクに殴られた兄さんは眼鏡が割れ、鼻や口から血が流れている。
だが、そんなことはお構い無しに、ボクは彼の胸ぐらを掴んだ。
「あなたのそんな身勝手な行いで、彼方は傷付き苦しんだ!感情を!心を失った!だから、ボクは何があってもあなたを許さない!」
「は、ははっ···許されるつもりなど、毛頭無いよ。私は、私の信念で動いたんだ」
「そのくだらない信念で、ボクの大切な人を傷付けたんだ!」
「私の信念が···くだらないだと?」
「あぁ、くだらないね!兄さんの大事な人を救うために、ボクの大事な人を陥れて傷付けたんだ!周りも大勢巻き込んでね!」
「それがどうした!?」
ボクの怒声に反発し、普段穏やかな兄さんは口元の血を拭って咆哮する。
「私は!私の大事なものを救うためなら、悪魔にだって魂を売ってやると誓った!妻の笑顔をもう一度見るためなら、どんなことにだって手を染める覚悟でいた!どんな犠牲を払ってでも、私は構わないんだ!」
「ふざけるなぁ!」
ボクは再度、彼の顔面を殴った。
次は悲鳴を出さず倒れた兄に対し、ボクは再び胸ぐらを掴む。
「そんなことをしてほしいと、義姉さんはあにたに頼んだか!?そんなことを望む義姉さんか!?違うだろう!?」
「あぁ、そうさ!これは私のエゴさ!」
「そのエゴのために、義姉さんの心に傷を負わせた原因を、今度はあなたが彼方にしていると何故分からない!?あなたは、義姉さんを壊したあの人でなし共と同じだ!」
「わ、私が···あのクズ共と同じ、だと···?」
「そうだ!自分の欲を満たすためなら、自分の願いを叶えるためなら、他人を構わず傷付ける!そんなあなたは、あいつらと同じだよ!」
ボクの叫びが通じたのか、言葉が理解した兄さんは信じるれないとばかりに俯いた。
兄さんのやったことは、義姉さんを犯して心を壊した連中とまったく変わらない。
彼方の尊厳と感情を壊し、心を蝕んできたのだから。
だから、ボクは兄さんには同情しない。
兄と妹という絆も存在しない。
家族という関係も壊れた。
それを自ら手放したのは、他ならぬ兄さんだ。
「兄さん、ボクは医者としてのあなたは尊敬をしていた。だけど、人としてのあなたはまるで何の感情も湧かない。それはきっと、義姉さんも同じだ」
「妻が···私に、何の感情も湧かないだと?」
「そうだよ。多分、義姉さんも本能では察していたんだろうね。あなたの心の闇を。だから、あなたに義姉さんは心を開かなかった」
「そ、そんな馬鹿なことが···!」
「人間の心なんて分からない。それは、心療内科のあなたが一番理解していることじゃないのかい?」
「馬鹿な···そんな、馬鹿な···じゃ、じゃあ私は···一体、何のために···どこで、間違えた···?」
兄さん、あなたは最初から全てを間違えていたんだよ。
彼女を救うため、自分で何もかもを背負こんで他人を傷付けた。
そうじゃないんだよ、兄さん。
兄さんはもっと、誰かに頼るべきだった。
誰かに相談するべきだった。
親でも、ボクにでも打ち明けるべきだった。
もちろんボクらには彼女を治す手段なんて思い付かない、所詮は素人だから。
それでも兄さんの心を支え、義姉さんの心を癒す手助けは出来たはずなんだ。
「兄さん、家族というのは居てくれるだけで力になるものじゃないんだよ。支え合って、助け合って、励まし合っていくものなんだ。ボクも、兄さんに助けを求められていたら···きっと、今頃は···」
「馬鹿な···そんな、馬鹿な···う、おぉ···」
「兄さん、これで本当にさようならだ」
ボクは、兄さんを見限った。
この人は、彼方に取り返しの付かないことをした。
いわば、ボクの敵だからだ。
境遇は理解出来るけど、同情は出来ない。
ボクは兄さんに一瞥し、部屋を出た。
背後で慟哭が聞こえたが、ボクは彼を慰めることはしない。
ボクは、兄さんとの縁を切ったんだ。
彼がこの先どうなろうと、ボクの知ったことではない。
「···帰ろう」
ボクはボクに出来ることをするだけだ。
未練も、後悔も何もない。
ははっ、ボクって酷い女だ···。
こんなところを彼方に見られたら、どんな反応をするんだろうと思いつつ、ボクは病院を後にした。
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