第86話 隠していた逆転の切り札
追い詰められた月ヶ瀬杏珠が、彼方を抱えて窓から飛び降りた。
ここは廃ビル、結構昔の造りだから当然窓は剥き出しで落ちれば―――即死だ。
「いやぁ!嫌だぁ!彼方ぁ!」
ボクはその場に崩れ落ち、子供のように泣き叫ぶしか出来なかった。
隣に居る黒羽さんも涙を流し、呆然と立ち尽くすだけ。
最悪の結末だ。信じたくない現実だ。
彼方を取り戻そうとした結果、逆に取り返しの付かないことになるなんて思いもしなかった。
「彼方ぁ···かな、たぁ···っ、あぁっ···」
彼らが落ちていった窓から様子を覗き込む勇気は、ボクには無かった。
それは黒羽さんも同じらしく、微動だにしない。
結局、ボクらの行動は無意味だったのか。
彼方の姿を見られなくなるのは嫌だ。
彼方の笑顔も、彼方の優しさも、彼方の弱いところも、全部が思い出になってしまった。
悔しくて、悲しくて、辛くて。
彼方を救えなかった慚愧が涙が溢れて、後悔に溺れていく。
『―――ますか?』
そんな時、まだ着けていたインカムから声が聞こえてきた。
『聞こえますか、紡さん!』
「さ、くら···ちゃん?」
その声は、紛れもなく桜ちゃんだった。
彼女にも申し訳なかった。
せっかく絆を取り戻そうとした桜ちゃんの思いを踏みにじるかのように、彼女にとって大事な家族をみすみす死なせてしまった。
合わせる顔がない。
いや、気の済むまで殴ってほしい。
そうでもなくとも、罵声の一つでも浴びせてほしい。
そうじゃないと、あまりに自分が惨めだ。
「す、すま···ない···桜ちゃん···っ!ボクは、彼方を···っ」
そう言いかけると、桜ちゃんが随分と落ち着いた様子で話した。
『大丈夫ですよ、紡さん』
「だ、大丈夫なわけ、あるか···き、君のお兄さんは···も、もう···」
通話が繋がっていた以上、何が起こったのかはそちらにも理解出来ているはず。
だが、信じられないのだろう。
だから落ち着いていられるんだ。
信じたくない気持ちは分かる。
しかし、現実は残酷で残忍で冷酷で。
『だから大丈夫なんですよ!お兄ちゃんも月ヶ瀬杏珠さんも無事です!』
「·········えっ?」
何を言っているんだろう、この子は?
彼方たちが無事?そんなはずがない。
ここは結構高さのあるビルで、そこから落ちれば即死は免れないのは子供でも分かることだ。
優しい子だから気休めに慰めようとしているのだろうかと思っていると、黒羽さんがゆっくりとした足取りで窓に近付き覗き込んだ。
「···本当だ···彼方たちは無事···」
涙で震えた声で言う黒羽さんの言葉が、ボクの頭の中を反芻する。
彼方が···無事?彼方が···?本当に···!?
「彼方···!」
信じられず、でも信じたくて慌てて窓に走り寄り覗き込む。
下を見ると、地面には巨大なマットが敷かれていて、その中央部分には彼方と月ヶ瀬杏珠を保護している桜ちゃん、そして何やら黒服を着た男性数人が集まっていた。
呆然として見ていると、未だ通話状態のスマートフォンから美白さんの声が流れた。
『あらあら、驚かれましたか?実は最悪の事態を想定し、前もってそこにマットを敷いて桜ちゃんの他に呼び出しておいた内空閑家の者を数人配置しておきました。あぁ、ご安心ください。信者の方々は丁重にお帰りいただきましたので』
「そういうことですよ、紡さーん!お兄ちゃんたちも無事だから安心してくださいねー!」
下から桜ちゃんがぶんぶんと手を振って、笑顔を向けている。
「は、ははっ···良かった···良かったよぉ···」
その光景に脱力感を覚え、へなへなとその場に座り込むと、黒羽さんがジト目をしながらスマートフォンに向かって声をかけた。
「美白。何故、最初から彼らを呼ばなかった?」
『あらあら、嫌ですね。最初から彼らを連れて歩けば、当然相手は不審に思ってさらに行方を眩ますでしょう?それに、一応これは私の切り札です。知りませんか?切り札は最後まで取っておくものなんですよ、ふふっ』
「じゃあ、こうなることが分かってて、敢えて無視した?」
『ええ、まあ。当然、あなたたちの説得による解決が一番好ましかったのですが、言った通りこれは切り札で保険ですから』
「それでも、私たちに言わなかった理由は?」
『あなたたちは感情を表に出しやすいですからね。月ヶ瀬杏珠にそれを悟らせないため、と言えば納得しますか?』
「···複雑。それに性格悪い」
『あらあら、それは今さらでは?』
確かに複雑だが、せめてボクには直前にでも言ってほしかった。
子供のように泣いちゃったじゃないか、とても恥ずかしいったらありゃしない。
まあ、最終的には生きていてくれてホッとしたけど。
『あらあら、ご心配なく。今、そちらに救急車を手配致しましたので、花咲彼方君やそのご両親、西川愛莉も搬送させましょう』
「···月ヶ瀬杏珠の処遇は?」
『それはまた後で検討するとしまして。今は、私たちのほうで監視と保護をさせていただきます』
「厳しい拘束を求む」
『あらあら、当然ですよ。私もちょっと怒ってますので。それでは、また後程』
ボクのスマートフォンを拾って話をしていた黒羽さんと美白さんの会話は終わり、黒羽さんはスマートフォンをボクに渡してきた。
「大丈夫?」
「は、ははっ···まあ、とりあえずは。でも、安心したら腰が抜けちゃったよ···」
「···失禁した?」
「してないよ!失礼だな!」
「本当に?ちなみに、私は少し漏らした」
「それは別にカミングアウトする必要は無いよね!?」
いらない情報だった。
しかし本当に彼方が居なくなる恐怖で失禁しそうにはなったけど、弱味を握られたくないのでそれは言わずにしておく。
「何はともあれ、一段落」
「···うん、そうだね」
「どうしたの?何か心配事?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど···」
不意に落ちないというか、なんというか。
なんだか、これまで色々とあったのに決着はあまりにもあっさりとし過ぎてて逆に違和感しかないのは気のせいだろうか?
拘束された以上、月ヶ瀬杏珠に何か出来るとは思えないし、あの様子から察するに彼方にはあれ以上何もしていないように感じる。
周りからしてみれば大団円のハッピーエンド。
そのはずなのだが、何か変な違和感がするのはボクの気のせいか?
「悩んでても仕方ない。今は彼方が無事なのを喜ぶべき」
ボクの不安そうな顔を見たのか、黒羽さんは肩をポンと叩いてきてそう言った。
「···うん、そうだよね。今は、それをとにかく喜ぼう。やったね、黒羽さん!」
「ん、やった。でも、まだ終わりじゃない。やるべきことは、たくさんある」
そうだ、やるべきことはまだある。
まず彼方の心の回復とケアだ。
彼方が治るかどうか、それは月ヶ瀬杏珠次第だし、協力的でなくとも無理矢理協力させるしかない。
その上で、彼方に謝罪。
もう信じて貰えなくてもいい。
赦しを乞うための謝罪じゃないんだ。
ただ、ありのままのボクの気持ちを彼にぶつけ、分かってくれるだけでいい。
それと、彼方のご両親と西川愛莉の心のケアとカウンセリングを手配しなくてはならない。
そして事件の事後処理。
頭が痛くなるほどの問題が山積みだが、それは仕方ないと腹を決めるしかない。
今は、とにかく彼方を病院まで運んで、看病と介護に専念しよう。
「行こうか、黒羽さん」
「言われるまでもない」
そしてボクらは、部屋を後にする。
こうして月ヶ瀬杏珠との長きに渡る因縁と決着に終止符を打ち、また彼方との日々が始まると胸を弾ませた。
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