第85話  最悪の結末へ




『あ、杏珠···?杏珠なの···?』




今にも消えてなくなりそうなほどにとても弱々しく、戸惑いと焦燥が混じり合った女性の声がスマートフォンから聞こえてきた。

その声を聞いた途端、月ヶ瀬杏珠の肩がピクッと震える。

そして眼を大きく見開き、静かに呟いた。




「···お、母さん···?」


『あぁ···っ、やっぱり杏珠なのね···!』


「お母さん···!」




電話口から聞こえてきた声の主は、月ヶ瀬杏珠の母親だった。

実は、ボクと桜さんは彼女と一度病院で面会したことがある。

あの日、月ヶ瀬杏珠の部屋で見付けたのは、仲睦まじく映る月ヶ瀬杏珠と両親の写真。そしてノートは日記だった。

そこには、月ヶ瀬杏珠が両親に対しての思いが綴られており、彼女がいかに両親を愛しているかが記録されていた。




「これって···」


「うん、美白さんがコンタクトを取って電話を繋げたようだね」




これがボクらの切り札。

弱点にして、弱味にもなる手札。

彼女は両親の愛に餓えていた。

愛を欲し、愛を注げる居場所が欲しかった。

だから、彼方に依存した。

そうでないと、自分が壊れてしまうからだ。

ならば、両親がいかに彼女を愛していたかを叩き付ければ、もしかしたら希望が見えてくるかもしれない。




「あ、ぁ···お母さん、お母さん···!」




案の定、月ヶ瀬杏珠は目から涙を流して母親に向かって叫んでいる。




『杏珠···ごめんなさい、私たちが弱かったばかりに、あなたの気持ちを考えずに安易に離婚の道を選んでしまった。その結果、虐待やイジメなんかにも遭わせてしまったわね···。守ってあげることが出来なくて、本当にごめんなさい···』


「お母さん···」


『でもね、私たちはあなたを愛しているわ。それだけは、絶対に揺るがない事実なの』




その一言を聞き、月ヶ瀬杏珠は目を閉じて口を閉ざした。

何かを考えているのだろうか、私たちには彼女の考えが読めないが、自殺を踏み留まっている以上は彼女の心に母親の気持ちは届いていると思う。

良い傾向か?そう思いつつ、いつでも取り押さえられるように準備していると、月ヶ瀬杏珠は突然「あはっ···」と嗤い出した。




「あははっ···お母さん、そんな下手な演技なんかしなくてもいいんだよ?」


『あ、杏珠···?』




涙を流しているが、開かれた彼女の目はさっきまでと変わっておらず、口元は歪んでいる。

予想外の展開に、ボクと黒羽さんは思わず目を見開く。

誰でも愛に餓えているなら、この作戦は有効だと踏んでいた。

しかし甘かった、彼女の狂気を読み違えた。

彼女は誰でもいいから、愛が欲しかったわけではない。




「あたしが欲しいのは、お母さんたちの愛じゃない。ダーリンの愛。それだけが、あたしが今一番欲しいもの。それを邪魔する奴は、誰であっても許さない。彼の心も愛も、あたしだけのものなんだから!」




そう言い、彼女はボクたちが呆然としている隙を突いて彼方に駆け寄り、椅子に縛り上げられている彼ごと抱き抱えて窓際に立った。

あまりの一瞬の出来事にどうすることも出来ず、ボクたちは気付くのに数秒遅れた。




「な、何をしているんだ!?」


「うるさい!どいつもこいつも、あたしの邪魔ばかりする!あたしは、ダーリンの愛さえあれば何もいらない!ダーリンさえ傍に居てくれたら!この身体も、命さえ!」


「まさか···」




黒羽さんもボクと同じ予想をしたのか、顔が青ざめている。

この展開はまずい、ボクらの失態だ。

この作戦は失敗だ。

まさか、こんなことになるなんて予想だもしなかった。

彼女は彼方を誰にも奪われないよう、彼方と一緒に窓から飛び降りる気だろう。

ここが何階かは知らないが、人が死ぬには充分な高さのあるビルだ。




「止めろ!そんなことをしても、彼方の愛は手に入らない!彼方とずっと一緒に居られなくなるぞ!?」


「あはっ···バカね、あの世で一緒に居られるわ。そうよ、初めからこうするんだった。あたし一人が死んだところで、彼の心だけあたしのものにしかならない。なら、一緒に死んであの世に行けば、ずっと一緒だし愛し合える。あぁ、なんて素敵なの!」




駄目だ、彼女の心は完全に壊れたようだ。

何が正しいのか、何が間違っているのか判断が追い付いていない。

いや、違う。自分がやることこそが正しいと、信じて疑わないでいる。

ここまで病んでいると、もはやボクたちや母親の言葉すらろくに届かないだろう。

それでも、みすみす死なせるわけにはいかない。

彼方はボクにとって恩人で、友人で、大切な人なんだ。

彼が居なくなったりしたらと考えるだけで、気が触れておかしくなりそうだ。




「止めろ!止めてくれ!ボクたちから···ボクから彼方を奪わないでくれ!」




だから、必死に呼び止める。懇願する。

涙が溢れてきたが、そんなことはお構い無しに慟哭する。

隣に居る黒羽さんも涙を流し、身体を震わせて佇んでいた。

だが、そんなボクらを彼女は嘲笑うかのように、ニヤッと口元を歪めた。




「あはっ!形勢逆転は、こっちのほうだったね!なに、その顔?良い気味!ざまあないわね!結局、あたしが勝ったの!あははっ!」


「君の勝ちでも何でもいい!だ、だから···彼方を死なせないで!」


「だぁめ、その要求は聞き入れません!だって、ここまであたしを追い詰めたのは、あなたたちだよ?それなのに、止めろって要求は自分勝手過ぎないかなぁ?」




ニヤニヤと嗤う彼女だが、これはハッタリでも何でもない、本気だ。

対峙したからこそ分かる、彼女の狂気。

だからこそ、このまままおめおめと彼女たちを死なせるわけにはいかない。




「止め···て、くれ···お願いだから···ボクらに出来ることがあれば、何でもする···だから、止めて···お願い···っ」




泣いて懇願するも、彼女の態度は変わらない。

スマートフォンからも彼女の母親が必死に呼び止めるも、その顔に一ミリも変化は無い。




「あはっ、やぁだね!散々、あたしの邪魔をしてくれたんだ。これは、あたしなりの意趣返しってやつだよ!」


「そ、んな···」


「そんなこと···彼方は望んでいない···!」




隣に居る黒羽さんも、涙を流しながら訴えるがもちろん効果は無い。




「彼が望む望まないは、別に関係無い。これは、あたしのエゴであなたたちに対する復讐でもあるの。だから、譲らないし譲れない」


「そんな···!」


「ねぇ、知ってる?人間には、ちゃあんと魂が存在してるの。何グラムだったかなぁ、覚えてないけど」


「い、一体何の話を···」


「その魂って、死んだら何処に行くと思う?あたしね、思うんだ。死んだら魂は天国でも地獄でもなく、永遠にこの世界にさ迷い続けるの。肉体を見付けるまで、ずぅっとね。そして生まれ変わったら、今度こそあたしたちは結ばれるの!皆に祝福されるの!結婚して、子供も作って、お爺ちゃんお婆ちゃんになっても変わらずイチャイチャして。あははっ!これって素敵なことだよねぇ!」




彼女の言っている意味が分からない。

考える余裕も無い。理解もしたくない。

だが、分かるのはこのまま彼女の思う壺にはしたくはないということだけ。

だって、彼方はボクにとってかけがえのない大切な人なのだから。




「止めて···!彼方を死なせないで!ボクたちの希望を···摘み取らないで!」




だが、もちろんボクの叫びは彼女には通じなかった。




「あはっ、バーカ!あなたたちの希望なんかじゃない。彼の希望も、心も、愛も、何もかも全てあたしのもの!あたしだけのもの!だから、あなたたちには譲らない!」




そう叫び返され、月ヶ瀬杏珠は彼方を抱えて窓に近寄る。




「止めて···!」


「お願い···!」




ボクらは必死に叫ぶが、彼女の心にはやはり届かない。

彼女はうっとりとした顔で彼方の顔に近付き、そっとキスをしてから囁くように言った。




「愛してるよ、ダーリン。ずっとずぅーっと、あたしと一緒に居ようね···?」


「止め―――っ!」




そして、彼女は彼方を抱き抱えたまま―――













―――――――――窓から飛び降りた。









「い、いやぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああぁあああっ···!!」




ボクと黒羽さんの声が重なり、その場には地獄のような悲鳴が部屋に轟いた。






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