第82話 心を壊す最悪の助っ人
「何って?当然、彼方の心を壊しただけだよ」
まるで当然と言わんばかりに、淡々と告げる黒幕、月ヶ瀬杏珠の言葉にボクは時間が止まったような感覚に陥った。
彼方の心を壊した、だって···?
「う、嘘だ···嘘だ嘘だ嘘だ!」
やはり手遅れだったのか?
時間を掛けすぎたのか?
その疑問は絶望となって、ボクの頭の中を蹂躙する。
黒羽さんもその言葉を聞いて顔を青ざめているが、月ヶ瀬杏珠は可笑しそうに「あはっ」と小さく嗤った。
「ごめんごめん、正確には壊しかけていると言ったほうが正しいかな?」
「壊しかけている?それって、どういう···」
「どういうも何も、そのままの意味なんだけど?ダーリンの心は、後一歩で完全に壊れちゃうってこと」
『ハナっち』ではなく『ダーリン』と呼ぶのには、もう自分を誤魔化す必要がまったく無いからであろう。
しかし、後一歩で彼方の心が完全に壊れるとはどういうことだ?
その疑問を投げ掛ける前に、月ヶ瀬杏珠は残念そうな顔をして言った。
「ダーリンに催眠を施して、私しか居ないようにするつもりだったのに、結構自我が強くてね。今一歩のところで、なかなか心が完全には壊れないんだ。こんなケースは初めてで、びっくりだよ」
初めてのケースと彼女は言った。
それはつまり、彼女にとっても予想外の展開だったということだ。
彼方は元から壊れている分その意思は強く、催眠をかけられていても壊せなかったということか。
「じゃあ、もしかしたらまだ救える可能性があるってことかい?」
「まあ、手遅れでないのは確かだね」
ボクの希望にすがる質問に、月ヶ瀬杏珠は素直に認めた。
だが、次の一言でその希望は打ち砕かれることになる。
「でも、救えるかどうかは別の話。ダーリンにかけた催眠術は今まで一番最高レベルのものでさ。そこまでやったら、催眠が解かれることは難しいよ?多分、あたしくらいしか解ける人物は居ないかもね」
「じゃあ、解いて。今すぐに」
黒羽さんが怒りの感情を含めた声で言うも、彼女は涼しげな顔で流す。
「本気で言ってるの?ここまでして、あたしがそんな要求受けるわけないじゃん!」
ケラケラと可笑しそうに嗤う月ヶ瀬杏珠。
元から話が通じないのは分かっていた。
彼女は普通とは違う。頭のイカれた狂人だ。
だからボクたちの話なんて聞く気はこれっぽっちも無いのだろう。
だが、それなら何故ボクたちをここまで侵入を許したのか。
彼女の口振りからも察するに、ボクたちが来ることは既に看破済みのはず。
「ダーリンの心が壊れるには、後一歩足りない。なら、どうしたらいいのか。頭の良いあなたたちなら、分かるんじゃないかな?」
「···彼方の目の前で、ボクたちを危険な目に遭わせることかい?」
「わぁっ、すっごい!大正解!」
ボクの質問に、月ヶ瀬杏珠は全然驚いた様子もない顔をしてパチパチと拍手をした。
この女、本当にどこまでもボクたちを愚弄する気でいる。
正直腹が立つが、そんなことは今は気にしないでおく。
何故なら、それより気になることがあるからだ。
「君一人でボクたちをどうにか出来るとでも?まさか、信者の方々を待機させているとか?」
「信者?あぁ、勘違いしないで。あたし、別にあの人たちを手下にした覚えはないし。あたし、別に教祖様じゃないしね」
「ハッ···今まで散々人を操ってきたくせに」
「そうだね、でもそれは仕方ないことだったの。彼方を手に入れるためだったんだから。あなたたちだって、欲しいものがあれば何をしてでも手に入れたいでしょ?」
やはり、こいつは狂っている。
彼女の考えがボクらとは根本的に異なる。
分かっていたことだが、最初から説得なんて無意味なのだろう。
「そんな、ことのために···お母さんを···!」
目に涙を溜めて怒りに震える黒羽さんだが、当然彼女の心には響かない。
「あぁ、あの人は良くやってくれたわ。ちょーっと脅しただけで、まさかあんなにあたしの言うことを聞いただなんてね。生徒想いで娘想いの良い人だわぁ」
「この···っ!」
挑発するかのように話す月ヶ瀬杏珠の言葉に限界が来たのか、黒羽さんは今まで見たことがないくらいに怒りに顔を歪ませて彼女に向かっていこうとする。
そんな黒羽さんを止めるため、ボクは彼女の腕を掴む。
「待ってくれ、黒羽さん!落ち着いて!」
「っ···でも!」
「気持ちは痛いほど良く分かる!けど、焦っては相手の思う壺だ!それに、後ろには彼方が居るんだ!ボクたちが守ってあげないと!」
彼方の名前を出すと、それまで怒りの表情だった黒羽さんの顔は軟化して落ち着いた様子を見せた。
「···ごめん、冷静じゃなかった」
「いいさ、誰だって怒りたくもなる。だけど、ここは落ち着いて行動しよう」
「ん、了解」
「あれれー?向かってくると思ったのに、意外に冷静だね?」
二人で話していると、不思議とばかりに月ヶ瀬杏珠は小首を傾げながら驚いていた。
やはり、さっきのは挑発だったのか。
しかし見たところ、この部屋には罠があるようには見えない。
まあ、彼方がここに居る以上はそんなことをする意味など無いのだとは思うが。
「ボクたち二人に、君一人がどうにか出来るのかい?言っておくが、こちらは君を抑えるための武器はあるんだけど?」
そう、ボクたちには護衛用の武器がある。
いつか黒羽さんから借り受けた、人間を一瞬で気絶させるための特性スタンガン。
それがボクと黒羽さんのポケットに入っていて、いつでも取り出して使うことが出来る。
いくら彼女が強くても、ボクたち二人を相手に取ることなど出来はしない。
それを頭の良い彼女なら理解すると思っていたのだが、彼女はポカンとした後急にクスクスと笑い始めた。
「な、何が可笑しいんだい?」
「いや、さ。何を言うかと思えば、そんなことなんだと思ったら、急に笑いが···ふふっ」
月ヶ瀬杏珠はひとしきり笑った後、真剣な眼差しをして口を開いた。
「勘違いしないで?あたしがあなたちを襲う、なんて一言も言ってないよ。それに、あなたちが武器を所持していることくらい、このあたしが見抜けないとでも思った?」
やはり武器を持っていたことは、既に露見済みのようだ。
しかし、彼女がボクたちを襲うわけではないらしい。
なら、やはり信者が?いや、それは無いと彼女自身は言った。
あまり信用出来ない言葉だが、確かに信者たちを動かせるようなカリスマ性が彼女には見受けられない。
催眠術でも使えばそれもまた可能なんだろうが、大人数にそれを使う場合のデメリットを彼女が考えない訳は無いと思うし、また彼方の心を壊すためにそんな時間は無かったはずだ。
たかが信者を動かしてボクたちを襲わせたところで、彼方の心が完全崩壊するかは不確定だと思う。
今まで慎重に動いてきた彼女なら、それくらいは熟考しているはず。
「ならばどうやってあなたたちを襲うのか?そう考えてる顔をしてるね?」
「ッ―――」
「あはっ、当たりか!わっかりやすいね!」
考えていたことが顔に出ていたのか、月ヶ瀬杏珠にズバリ図星を突かれてしまった。
ボクとしたことが、冷静じゃなかったか。
黒羽さんに冷静になれと言ったボクが冷静ではなかったなんて、笑い話も良いところだ。
少し苛ついたので、お返しとばかりにボクは挑発混じりに訊ねてみた。
「じゃあ、どんな方法でボクたちを襲うのか、ボクたちにも分かるように丁寧に教えてくれないかな?」
ボクはチラッと黒羽さんに視線を送ると、彼女は小さく頷いてポケットに手を入れた。
ボクも頷き返し、ポケットに手を入れる。
これで、いつどんなことが起きても即座に反応出来る。
そう思っていると、月ヶ瀬杏珠は「あはっ」とまた人を小馬鹿にした態度で答えた。
「いいよ!じゃあ、教えてあげる。ダーリンの心を完全に壊すには、大切な人が大切な人に襲われてしまうところを見せるのが一番効果的なんだよね」
「大切な人、だって···?」
「そう、つまりダーリンにとって大事なあなたたちをダーリンの大事な人に襲わせれば、それを見ていたダーリンの心は完全崩壊!」
楽しげにそう言い、彼女は部屋の出入り口に顔を向けて言った。
「入っていいよー、諸君!」
声をかけられ、何人かぞろぞろと部屋の中に入って来る。
その人物たちの顔を見て、ボクと黒羽さんは驚愕に目を見開く。
だって、そこに居たのは―――
まるで別人のように変わり果てた姿の彼方のご両親、そして久しくその姿を見ていなかった西川愛莉だったのだから。
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