第62話  邂逅と思いがけぬ縁




「花咲彼方君、どうぞ」




病院の待合室で俺の名前が呼ばれ、ソファーから立ち上がって歩き出す。

看護師に案内されるまま部屋に入ると、そこには眼鏡をかけた一人の男性が待っていた。




「やあ、久しぶりだね、花咲彼方君」


「ご無沙汰しています、鳴海先生」




この白衣を着た男性が鳴海光星先生。

俺を『失感情症アレキシサイミア』と診断し、その時からたまのカウンセリングや相談も乗ってくれたとても気さくの良い人である。

しかし、高校入学を機にたまにしか連絡をしないほど会う機会も少なくなっていた。

まあ、この人は医者だし、俺にばかりかまけている場合ではないから仕方ない。




「先日は、相談に乗ってくれてありがとうございました」


「いやいや、気にしないでくれ。あの時も言ったが、私はこれでも医者だ。困っている人を見捨てるほど、私は鬼ではないよ」




柔らかく笑う鳴海先生には、本当に感謝してもし切れない。




「それで、何かあったのかな?」


「はい、実は―――」




俺は事の経緯と、自らの不調について全て先生に話した。

すると先生はしばらく何か考え事をして、真剣な眼差しで口を開く。




「ふむ。それはおそらく、君の心がまた壊れ始めているのかもしれないね」


「また、壊れ始めている···?」


「そうだよ。その事件のせいで君の心に大きな負担がかかり、堪えきれなくなった感情が一つ一つ欠け始めたのだろう」




先生の言っている意味が良く分からない。

それが顔に出たのか、鳴海先生はまた思案して何か思い付いたように続ける。




「そうだね、分かりやすく言えば···シャボン玉を想像するといい。シャボン玉を膨らませる行為は、君がその子たちから与えられた感情だと同じことだとイメージしてくれ」


「はい···」


「うん。そのシャボン玉は宙を舞うだろう?それは人間が次々に表す感情そのものだ。笑ったり怒ったりすることは、感情の起伏。シャボン玉も上がったり地面に落ちようとする。なんだか似てると思わないかい?」


「···まあ、なんとなく」




先生は分かりやすく言っているのだろうが、今の俺にはなんとなくのイメージしか出来ない。

まるで自分のことじゃなく、他人事のようだと感じているからだろうか。




「なんとなくでいいさ。私も上手いことを言えたとは思ってないからね。それで、ここからが本題。君は、何故シャボン玉が割れると思う?」


「えっ···?」


「その理由は様々ある。シャボン玉が重力によって地面に落ちるから。玉の膜が徐々に薄くなり、最終的には穴が開くから。だけど、その中で例えるなら、空気中の小さな埃や塵といったものによる衝突。ここまで言えば、理解出来るかな?」




そう言われて、ハッとする。

確かに、その現象は俺の今の心の状況と酷似しているかもしれない。

俺の感情がシャボン玉だとするなら、埃や塵は悪意。

つまり悪意という埃や塵が、感情というシャボン玉を一つ一つ割っているということだ。




「その顔、分かってもらえたようだね」




先生は、満足そうに微笑んだ。

そうか、俺の感情が不安定なのはシャボン玉が風によって揺れているのと同じだ。

感情を感じなくなってきたのは、シャボン玉の膜が薄くなってきたり、悪意によって一つ一つ壊されていったということだ。

となると、最終的に俺の心はどうなってしまうのだろう?




「だが、心配はいらない。シャボン玉に例えたが、いくらでも対処法はあるよ」


「それは、どんな···?」


「シャボン玉を割れにくくする方法は知っているかい?」


「···いえ」


「シャボン玉はね、砂糖や蜂蜜、ガムシロップなどを混ぜることによって割れにくくなるんだ。つまり、君も同じように感情を強く壊れにくくすればいいのさ」


「えっと、仰っている意味が···」


「少し話は逸れるが、君は今までに恋愛感情を持ったことはあるかい?」




そう言われて考え込む。

過去を思い出してみたものの、特に特定の誰かに恋愛感情を持ったことは一度もない。

月ヶ瀬杏珠とは結婚の約束はしたが、あれは恋すら知らないガキが簡単に交わした戯言だ。

これを本人に言えるわけはないがな。

今まで関わってきた『つむぐ』や内空閑姉妹、桐島彩花、岸萌未らに至ってもそうだ。

家族にだって、親愛を持つ前に裏切られてきたから特別な感情を寄せることはなかった。




「···そう言われると、一度も無いですね」


「そうか。少し変な言い方をしてしまうけど、恋愛感情とは、まさにシャボン玉を強固にする砂糖や蜂蜜だ。君がその感情を持てば、君が失いかけているその感情もより強固なものになる。私の言っている意味、分かるかな?」


「はぁ···だけど、どうしたら恋愛感情を覚えるのでしょう?」


「うーん···そればかりは、私にも説明出来ないな。君に大切な人がいて、一生その大切な人を守りたい。助けてあげたい。恋愛とは、その延長線上の先にあるものだと思うよ」




なるほど、そういうことなら多少なりとも心当たりはある。

そんな気持ちを抱えている対象は、二人居る。

天野紡と内空閑黒羽。

あの二人は守っていきたいし、大事にしたい。

けど、これが好きという気持ちかどうかなのかは分からない。




「まあ、ゆっくり考えたらいいさ。君はまだ若い。時間はたっぷりあるんだ」


「はい、分かりました」




そうか、好きという感情さえ湧けば他の感情も壊れにくくなるのか。

具体的にどうすればいいのか今のところ分からないが、目標と道筋は立てた。




「ありがとうございます、先生」


「いやなに、礼には及ばないよ。代わりに、君には助けてもらっているからね」


「はい?俺、何か助けましたか?」


「いや、何でもないよ。気にしないでくれ」




なんだか意味深長な言葉だが、助けた覚えは無いので聞かなかったことにする。

そんな中、急に部屋のドアが開いた。




「兄さん、ちょっと大事な話が···あ···る···」




唐突に入ってきたのは、なんと『つむぐ』だった。

彼女の背後では、看護師が「困りますぅ」と慌てふためいており、当の彼女は俺を見て目を丸くして固まっていた。

多分、俺も同じだろう。

いや、待て。さっき、彼女は何と言った?

『兄さん』だと···?まさか―――




「はぁ···紡。久しぶりの再会で悪いが、他の患者に迷惑かける行動は慎みなさい」




呆れたように『つむぐ』を窘めようと、説教をする先生。

しかし、『つむぐ』はそんな言葉を無視して俺のほうを凝視していた。




「な、なんで彼方がここに居るんだい?」


「いや、『つむぐ』こそ···兄だって?」


「おや、二人は知り合いだったのかい?」




話を聞くと、鳴海光星先生と天野紡は年の離れた兄妹だった。

とは言っても『つむぐ』のほうは先生に対しては好意を持っておらず、最近は連絡以外は疎遠になっていたらしい。

名字が違うのは、先生は鳴海という医者の名家へ婿になったからとのこと。




「って、先生···結婚なされてんですか?」


「ああ、そうだよ。ほら、これが証拠だ」




そう言って、俺に左手を見せてくれた。

その薬指には、指輪がしっかりとされている。




「き、気が付きませんでした···」


「ははっ、私も見せびらかす真似はしないからね。それに、これは君の病気とは何の関係もない話だから、言う必要も無かったんだよ」




そう言われると、確かにその必要は無い。

それよりも一番驚いたのは、俺の知る二人が兄妹だということだった。

世間は狭いと言うが、まさか俺たちにそんな繋がりがあったとは夢にも思わなかった。




「まあ、兄さんの奥さんがあんな状態だから、自慢出来るわけがないけどね」


「えっ···?」


「紡、ここでそんな話は止めなさい」




いつも穏和な先生が、『つむぐ』の言葉に対して明らかな怒りを見せていた。

こんな先生を見るのは初めてだ。

気になる話ではあるが、『つむぐ』が黙ってしまった以上は俺も不躾に聞くことは出来ない。

すると先生は俺が居るということに気付き、コホンと咳払いをして『つむぐ』に訊ねた。




「それより紡、私に何か用かい?」


「ああ、訊きたいことがあったんだけど···彼方、君は席を外せるかい?」


「俺は先生から話は聞いたし、構わないよ。じゃあ、先に帰って夕飯の支度でもしてよう」


「うん、助かるよ。気を付けて帰ってね?」


「お大事に、花咲君」




俺は二人にお辞儀をし、部屋を出た。

にしても、紡は先生に何の用なんだろうか?

少し気にはなったが、久しぶりの兄妹の再会みたいだし、ここで首を突っ込むのは野暮な話だ。

俺はそう思い、帰宅の途に着いた。






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