第53話 不吉を知らせる兆候
俺の下駄箱に、血に濡れた黒猫の首が正面を向いて置かれていた。
中は血で汚れており、当たり前だが上履きを手に取ることは出来ない。
それどころか、あまりの戦慄に後退りをしてしまう。
目の前にあるのは、明らかな悪意。
それも、狂気に満ちた底の見えない悪意だ。
それを目の当たりにした俺たちは、顔を青くして立ち尽くしているだけだった。
多少の悪戯には慣れたと思ったが、これは初めてのケースだったので、あまりの強烈な光景に吐き気を催す。
「っ、ぅぷ···っ」
「彼方!大丈夫かい!?」
俺の具合の悪さに感付いた『つむぐ』が、慌てて俺の身体を支える。
黒羽先輩も顔を青くしながらも、俺の背中を優しく擦ってくれていた。
二人共優しいが、この状況では感謝が出来ない。
美白先輩は何処かに電話をかけている。多分、この場の収拾を図っているのだろう。
「っ···だ、大丈夫だ···ちょっとショックだっただけだから···」
『つむぐ』と黒羽先輩に支えられ、俺はようやく立ち直る。
美白先輩が周囲の人払いをしてくれたおかげで、他の生徒は居ないがおそらく噂にはなるかもしれない。
まあ、こればかりはいくら箝口令を敷いたところで人の噂は止められないものだ。
「ありがとう、二人共···だいぶ、落ち着いた···」
そう強がってはみたものの、やはり気分は一向に良くならない。
ここまで敵意を向けられたのは、いつ以来だろうか。
「花咲彼方君。今、校長先生と警察を呼びました。この場は私に任せて、あなたは早く家に帰って休んでください。今、車を呼びますので」
「ありがとう···ございます、美白先輩···」
二人に支えられながらその場を離れようとすると、パサッと下駄箱の中から何かが落ちてきた。
一瞬、猫の首が転がってきたのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「···手紙?」
それは、紛れもなく一通の便箋だった。
遠目でも分かるが、その白色の便箋は血で汚れていて不気味さを増している。
この精神状態で手に取りたくはなかったが、『つむぐ』がそれを代わりに取ってくれた。
血で汚れているというのに、それを大して気にも留めずに拾い上げるとは凄い根性だ。
「行こう、彼方。早く家に帰ろう」
「早急に休むことが大事」
「っ···あ、ああ···」
俺は二人に支えられながら美白先輩が手配してくれた車に乗り込み、すぐに学校を後にするのだった。
部屋に帰ってきてもなお、気分は優れない。
いつまで経っても自身に襲う不快感が拭えず、吐き気も未だに残っている。
あの光景は脳裏の奥底に焼き付き、離れようとはしてくれない。
「大丈夫かい、彼方?」
「ああ···」
『つむぐ』が心配そうな顔で、水を入れたコップを持ってきてくれた。
俺はそれを受け取って一気に飲み干すが、それでも気分は晴れない。
本音を言えば、あまり大丈夫ではない。
あれは、さすがに強烈過ぎた。
今までで一番の悪意だ。それは間違いない。
「そういえば、黒羽先輩は···?」
「あぁ、彼女なら美白さんと連絡を取るべく外に出ているよ」
「そうか···」
俺のことで皆に迷惑をかけているかと思うと、居たたまれなくなる。
あんな不気味なものを、俺の意思ではないとはいえ女の子に見せてしまったことにも罪悪感が芽生えてしまう。
「まさか、あんなものが···あれは、悪戯の範疇を越えるよ。明らかに犯罪だ」
「そう、だな···」
「警察に被害届は出したほうが良い。それと、あの手紙のことも相談したほうがいいね」
そう言って、『つむぐ』はテーブルに置かれた血で汚れた便箋に目を向ける。
時間が経過しているため、既に乾いてはいるが快く開けられるはずがない。
あんな状況で手紙を置くなど狂気の沙汰ではないし、中身もそれに合ったものだろう。
間違いなく、悪意と狂気の文章が書かれているに違いない。
「だが、相談するにしろあの手紙には何かしらの犯人に繋がる手がかりがあるかもしれない。彼方、ボクが代わりに読もうか?」
「いいのか···?」
「そんな状態で読ませるほど、ボクは鬼畜でも何でもないよ。ボクに任せて」
彼女だってあの現場を見ていたであろうに、俺よりも遥かに強い子だ。
『つむぐ』は便箋を手に取ると封を切り、中に入っていた手紙に目を通している。
だが、それも一瞬で、彼女は苦い顔をした後にふぅと小さく溜め息を吐いた。
「つ、『つむぐ』?その手紙には、なんて書いてあったんだ?」
「うん···狂気といえば狂気なんだけど、さっきのよりはインパクトは低いよ。ただ、見るのはおすすめしないけど···」
「構わない···頼む」
「分かったよ···」
正直、目を逸らしたい気持ちはある。
だが、現実から―――いや、悪意から逃れることは出来ないと昔から学んできた。
だから、ここで逃げても何も変わらない。
どんなに辛くても、『つむぐ』と黒羽先輩が傍に居てくれる限り大丈夫だ。
そう信じ、俺は『つむぐ』から手紙を受け取り、深く深呼吸をしてから内容に目を通す。
そこには可愛らしく、しかし血で汚れた文面でこう書かれていた。
―――『あなたのことがだぁい好き♡』と。
「ッ―――!?」
背筋に悪寒が走る。寒気が止まらない。
吐き気が再び襲う。目眩もしてきた。
好き?好きだって?
こいつは、何を言っているんだ?
有り得ない、理解出来ない。
「彼方、大丈夫かい!?」
『つむぐ』が俺の異変に気付き、傍に寄ってきて抱きしめてくれた。
俺もこの狂気から逃げ出したい一心で、つい『つむぐ』のことを抱きしめ返す。
温かい。だが、その温もりでもこの恐怖は拭えない。
「彼方、大丈夫だよ!ボクが居るから!だから安心してくれ!」
優しく心強い声で俺を励まそうとしてくれる『つむぐ』だが、こんなに近くに居る彼女の声でも俺の耳には届かなかった。
好き?好きであんな非道なことをしたのか?
動物とはいえ、一つの命をあんなにあっさりと奪い取ることと、俺のことが好きだというその因果関係が分からない。
俺のことが好きなら、何故こんなことをするのか、矛盾だらけで要領が掴めない。
そいつの行動が理解出来ない。
今までで色々な人を見てきたが、これほどまでに狂気に囚われた人は見たことがない。
やはり不快だ。全身が危険を知らせる。
これは、そいつに対する嫌悪感だ。
「『つむぐ』···俺、は···」
「彼方···!?」
俺は安心するために『つむぐ』の顔を見ようとしたところ、例の下駄箱の映像がフラッシュバックしてしまい、俺は目の前が真っ暗になって倒れ込んだ。
「彼方!?しっかりしてくれ、彼方!」
意識を手放す直前にようやく『つむぐ』の声が聞こえたが、それでも俺は安心することが出来ずに闇へと意識を落としていった。
――――――――――――――――――――
人気の無い路地裏から、黒いフードの少女が彼の部屋を見上げてニヤニヤと嗤っていた。
「あはっ!ダーリンはプレゼント、気に入ってくれたかなぁ?気に入ってくれたよね!愛がいーっぱい詰まってるんだもん!」
これで彼の心が壊れてしまえば目的の一つは果たせるが、おそらくそう上手くはいかないだろう。
何故なら、邪魔なメス豚が三匹居るからだ。
彼が信用を置くあの三匹は、少女にとっては彼の心を支える厄介な邪魔者だ。
だから、まずはあの厄介者たちを先に片付ける必要がある。
その下準備として必要だったのが、彼の心を不安定にさせるための愛のプレゼント。
これで計画が上手くいけば、三人とも地獄に落ちて彼は少女の手の内に入ることになる。
「もう少しだけ待っててね、ダーリン♡」
そして、少女は歩き出す。
最悪で最凶の悪意によって、彼の心を粉々に壊す狂愛劇の幕開けを始まるために。
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