第47話  彼女の心を救うには




「彼方、黒羽先輩はどうだい?」




水が入ったコップを片手に、心配そうな表情を浮かべた『つむぐ』が黒羽先輩を抱きかかえている俺に声をかけてくる。




「ああ、ようやく治まったよ。せっかく水を持ってきてくれたのに、すまない」


「気にすることはないさ。それより、落ち着いたようで何よりだね」




とりあえず黒羽先輩をベッドに寝かせ、またいつ発作が起きてもいいように彼女の傍に座る。

『つむぐ』は、そんな俺の隣に座って黒羽先輩を起こさない程度の声で話しかけてきた。




「これは、思ったより深刻だよ」


「···だよな」




未だに涙を流しながら眠っている黒羽先輩の頭を優しく撫でながら、『つむぐ』の言葉に同意する。

確かにこんなに酷い症状ならば、薬物投与もカウンセリングも意味を成さないのは納得がいく。

何故、こんなに優しい彼女がこんなにも打ちのめされなくてはならない?

何故、こんなに弱い彼女が傷をさらに負わなくてはならない?

そう考えると、腹の底から沸々と黒い感情が込み上げてくるのが分かった。




「こら!」




と、不意に『つむぐ』が人差し指で俺の頬を突いてきた。

彼女へ視線を向けると、ムッとした不機嫌な顔になっている。




「そんな顔をしない」


「···どんな顔だ?」


「怖い顔。気持ちは分かるけどさ、無力だと自分に怒ってもダメだよ?」




どうやら見抜かれていたらしい。

諭されるように言われ、その言葉に納得したおかげで沸々とした感情が収束していく。

そうか、これが『怒り』か。

今までもこんな感情は何度もあったが、今回のような強い感情は生まれて初めてだ。




「彼方らしくない。君も落ち着いてくれ」




そういい、水が入ったコップを俺に差し出してくる。

本当は黒羽先輩に飲ませるためのものだったのに、俺が飲む羽目になるとはなんと情けない。

冷静さを取り戻すため、『つむぐ』からコップを受け取って一気に飲み干す。




「ふぅ···」


「落ち着いたかな?」


「ああ、心配かけてすまない」


「あははっ、いいよ。君を心配するのも支えるのも、ボクの役目だしね」




にこっと微笑む『つむぐ』の笑顔に癒されていき、ようやく冷静さを取り戻す。

それを見届けた彼女は、真剣な顔に切り替えて訊ねてきた。




「しかし彼方、どうするんだい?正直、これはボクたちの手に余るんだが···」


「だからといって、何もしないわけにはいかない。俺は、校長先生や美白先輩と約束した。黒羽先輩にも誓った。絶対に守ってやると。だから、何とかしなくちゃいけないんだ」




そうだ、ここで諦めるわけにはいかない。

なんとしてでも、彼女を心の闇から救わなくてはならない。




「そうか、妬けちゃうね。もし、もしだよ?ボクが黒羽さんみたいなことになっていたら、君はボクを助けてくれるのかい?」




寂しさにも似た声で『つむぐ』がそう言うと、優しく俺の手を握ってきた。

その回答なんて、最初から決まっている。

俺は、『つむぐ』の手を握り返す。




「当たり前だ。相手がつむぐであっても、俺は全身全霊で守るよ。もう、誰も失いたくないから」




そうだ、俺はここに来るまでいろんなものを失った。

元幼馴染み、仲の良かったはずの友人やクラスメイトたち、そして家族さえも俺は失ってしまった。

だが、引き換えにとても大切なものを手に入れた。

『つむぐ』や黒羽先輩、美白先輩といった俺を本当に信じてくれている人たち。

この人たちのためなら、俺はどんなことだってしてみせる。どんなことでも守ってみせる。

相手が何者だろうと関係ない。

俺の大事なものに手を出そうとする奴は、決して許さない。




「ん···?」




そんなことを考えていると、唐突に俺のスマートフォンからメッセージが届いたことを知らせる着信音が流れた。

時刻は深夜を回っている。

···こんな時間に、一体誰だ?まあ、心当たりはあるが。

スマートフォンを手に取ると、やはり美白先輩からメッセージが届いていた。

それを見て俺は驚愕したが、次第に再び怒りが沸き上がった。




「そうか、やっぱり来たか···」


「ん?何が来たんだい?」


「···すまない、少し電話をするから外に出る」




俺は『つむぐ』に答えることはなく、ベランダに出てスマートフォンを操作して通話ボタンをタップする。

すると、1コールで相手は電話口に出た。




『あらあら、夜分遅くに失礼致します』


「いえ、俺たちもちょうど起きていました。やはり美白先輩の言った通りになりましたよ」


『そう···ですか、やはり発作が···』



電話口に出た美白先輩は、悲しみの声を漏らしていた。

そのせいで心が、ぎゅっと痛みを感じる。




「すみません、美白先輩。聞いていたはずなのに、俺何も出来なくて···」


『あらあら、あなたが謝る必要はありません。これは、彼女自身の心の問題ですから』




気にするなという美白先輩の優しさが、逆に胸を締め付けてくる。

彼女の言うことはもっともかもしれないが、それでも俺は校長先生や美白先輩から黒羽先輩を任されたのだ。

それがこの体たらく、謝らないわけにはいかない。だが、ずっと謝ってばかりもいられない。

後悔している暇があるなら、一刻も早く彼女を救う手だてを考えなければ。




「それで、美白先輩。メッセージに書いてあったことは本当ですか?」


『ええ、本当ですよ。予想してはいましたが、少し早くて意外でした』




電話口でも、美白先輩の声は沈んでいるのが分かった。

俺も、心情的には同じだった。

だが、そうと決まれば悠長にしていられる時間は無い。

黒羽先輩にまた余計なダメージを負わせたくないし、一刻の猶予は無い。

俺の頭には、案が一つ浮かんでいた。

だが、これを実行するには俺一人の力では不可能だ。『つむぐ』や美白先輩の力も借りなければ。




「美白先輩、折り入って頼みがあるんですが···いいですか?」


『あらあら、私に出来ることがあれば何でも』


「それじゃあですね―――」













『承りました。では、そのように手配致します。ですが花咲彼方君、あなたはそれでいいのですか?あなたのその考えは、あまりにも無茶です。支えてほしいとこちらから頼んでおいてなんですが、それではあなたが―――』


「構いませんよ。俺は何があっても黒羽先輩を守ると決めた。だから、俺なんて二の次でいいんです。今、最優先なのは黒羽先輩の心のケアですから」




そうだ、俺のことなんてどうでもいい。

今、一番大事に考えるべきは黒羽先輩のことなのだから。

そんな想いを美白先輩に伝えると、『ふぅ···』と小さく溜め息を吐く音が聞こえた。




『考え直す気はないようですね。まったく、そこまで想われている黒羽が羨ましいです』




どういう意味だろう?

首を傾げて考える俺をよそに、美白先輩は続けて言葉を並べてくる。




『しかし、老婆心ながら一つご忠告を。感情が壊れているとはいえ、あなたもご自分を大事にしてください。決して、自らの命を軽く見ようとしないこと。そうでないと、黒羽も悲しみますよ?』


「···善処します。とにかく、明日中によろしくお願いします」


『ええ、分かりました。間に合うようにこちらで対処させていただきますね。それでは、私はこれで。おやすみなさい』


「はい、おやすみなさい」




挨拶を交わすと、俺は通話終了のボタンをタップした。

自分を大切に、か。自愛したことは今まで一度も無かったが、美白先輩の気遣いを無駄にしないように心掛けよう。

ただ、無茶はする。それだけは確実だがな。




「そうと決まれば···」




俺はベランダから部屋に戻ると、『つむぐ』はベッドにもたれ掛かるようにして眠っていた。

しまった、少し放置し過ぎたか。

まあ、こんな時間なら仕方ないよな。

自然に頬が緩むのを感じつつ、俺は眠ってしまった彼女を抱えて黒羽先輩の隣に寝かせた。

その二人の寝顔を見て、改めて誓いを立てる。

黒羽先輩も『つむぐ』も、なにがなんでも俺が必ず守る。

再び俺が悪意に巻き込まれようとも、絶対に。






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