第37話  人生に正解なんて無いんだよ




家を出るとは言ったものの、俺はまだ実家の自室に居た。

その理由はごく簡単。荷造りだ。

普通ならばまた日を改めてから行うことだが、美白先輩から「早いほうがいいでしょう?」と諭されてしまったために今こうして引っ越しの準備をしている。

美白先輩の行動はとても早く、なんとその日の内に校長先生と連絡を取り合い、電気、ガス、水道をその日のうちに使えるよう部屋を確保したというから驚きだ。

ついでに絶縁したために残る親権問題などの細かい事案も、校長先生の知り合いに弁護士が居るとのことで、相談に乗ってくれるよう手配をしてくれているというのでさらに驚きを隠せない。

本当に美白先輩には借りを作ってばかりで申し訳ないが、いずれこの借りは返そう。

ちなみに『つむぐ』と内空閑姉妹には、家の外で待機してもらっている。

あんなギスギスした雰囲気の中で待たせるのも、また波乱を呼びそうで怖かったからだ。




「こんなものかな···?」




部屋に入って数分。荷造りは終了した。

何故なら、俺の部屋には何も無いからだ。

いや、ベッドやクローゼット、机などの基本的な家具は置かれてはいるが、娯楽的なものや私物などはほとんど無く、あるのは勉強道具一式と制服、後は服が何着かある程度だ。

だから、キャリーケース一つで大体の荷物は片付く。

我ながら、無欲な人間だとつくづく思う。

その時、ふとドアがノックされた。

誰だろう?あの三人のうち、誰かが迎えに来たのかなと思い、振り返らずに声をかける。




「どうぞ」




俺の合図で、ドアが静かにゆっくりと開く音が聞こえる。




「あ、あの···」




弱々しい声ではあったが、振り向かずともすぐにその人物は分かる。

はぁと小さい溜め息を吐き、振り返るとそこに立っていたのはやはり妹だった。

だいぶ泣き腫らしたのかその目は真っ赤に染まっており、なんだかやつれたような酷い顔をしている。

せっかくの美少女なのになんだか勿体無いとは思ったが、絶縁した今では俺には関係の無いことだ。




「···何か用か?」




極めて冷たく訊ねると、彼女はビクッと肩を震わせた。

予想以上に怖かったのかもしれない。

しかし妹はそれでも俺のほうを見て、小さく呟いた。




「あの···め、迷惑かもしれないし···いらないと思うけど···こ、これを···受け取ってほしいの···」




そう言って震えながらも俺に差し出してきたのは、茶色い封筒だった。

もはや赤の他人なので受け取る必要は無いのだが、これで関わって来なくなるならと俺はその封筒を受け取る。結構、分厚い。




「···これは?」


「あ、あの···わ、私の全財産···」




中を確認すると、見ただけで大金と分かるくらいの厚さの札が入っていた。

とてもじゃないが、中学三年生である妹が持つ金額ではない。




「···何のつもりだ?どうやって、この大金を?」




まさか、『援交』や『パパ活』といった犯罪まがいなことをしているのか?

興味は無いが、一応兄だったよしみで訊ねると、妹は申し訳なさそうな顔で答えた。




「両親から貰っていたお小遣いをずっと貯めてきたの···。いつか、お兄ちゃんに渡そうと思って···。本当はバイトをしようと思ったんだけど、パパたちが許してくれなくて···渡すのに、時間かかっちゃった···」




お小遣いを貯めた。

それが本当であるならば、一体いつから貯め始めたというのだろうか。

妹はまだ中学三年生だ。年頃の女の子のように、化粧品や服、アクセサリーなどといった欲しいものがいくらでもあったはずだ。

にも関わらず、それを我慢してずっと貯めてきたというのか?

しかし、そんな健気であろう妹の気遣いにも俺の心は動かない。




「···贖罪のつもりか?それとも手切れ金か?どちらにしろ、金で許してもらおうと思っているなら間違いだ」


「ち、違っ···!違うよ!ごめんなさい!そんなつもりで渡したんじゃない···!」




妹は泣き出した。

しかし、俺はそれを拭うこともハンカチを手渡すこともしない。

だって相手は赤の他人だ。

知らない人の涙を拭うほど、俺は出来た人間ではない。

どうしたものかと悩んでいると、妹は泣きながら一生懸命に言葉を紡いできた。




「ほ、んとはね···っ、私、なんとなく分かってた···お兄ちゃんがいつか···この家から出て行くんじゃないかって···っ」


「·········」


「で、でも···わ、私には···そ、れを止め···る権利も···資格も無い···っ。だか、らね····引き止める代わりに···っ、お、兄ちゃんを···応援しよ、うと思ったの···っ」




だから、この金か?

だとしたら、とんだ浅慮な考えだ。

俺は、金が欲しくて家を出るんじゃない。

この家が心底嫌だから出るだけだ。

この家に居たら、俺の自由も無い。




「お、お兄ちゃん··っ、私た、ちのことは···気に、しないで···っ···誰にも邪魔され、ず···自由に、生ぎで···ぐ、くださ、いぃ···っ」




涙をボロボロと流しながら、歯を食いしばって自分の思いを必死にぶつけようとする妹。

こんな状況で嘘を言う子ではないと、家族を信じなかった俺でも分かっていた。

なにせ、こんな妹を見るのは初めてだったから。

しかし同時に、あの日罵声を浴びせられ、汚いものでも見るかのような冷たい視線を向けてくる妹の姿がダブって見えた。

『近付かないでよ、変態!』

『気持ち悪いから、その顔見せないで!』

『早く出ていってよ、犯罪者!』

あの日からずっと向けられてきた敵意と罵声が、脳内に反芻はんすうして響く。




「ひぐっ···えぐっ···ぅ、うぅ···っ」




吐き気がする。妹が泣いているから何だ。

どうせ本心じゃないくせに。

今さらこんなことをされても困る。

何が目的だ?妹だった分際で。ふざけるな。

そこまで考えた途端、ふと何時だったか『つむぐ』が俺に言ってくれた脳裏に浮かんだ。




―――『




···ああ、その通りだよ。ぐうの音も出ない。

正解なんて有りはしない。

間違って、迷って、悩んで、傷付いて。それが人生だ。楽な答えなんてものはない。

だからこそ迷うな。自分なりの答えを見付けろ。




「···俺からも、餞別に言いたいことがある」


「えぅ···っ?な、に···?」




この選択が正しいのかどうかなんて、今の俺には到底分からない。多分、一生分かる気がしない。

だけど、間違っててもいいんだ。これが、俺が出した答えなのだから。




「俺は、その泣き顔を見てもまだ許せない。信じられない。心が拒絶している」


「っ···ぅ、ん···当然、だよ···っ」


「でも···」




俺は、妹の頭にそっと手を置いた。

心は拒絶していても、身体は動いてくれる。




「ふぇっ···?お、兄ちゃ···ん···?」




久しぶりに妹に触った。久しぶりに撫でた。

そこに感情はやはり生まれない。

しかし、どこか懐かしさを覚えた。

あぁ、妹はこんなに大きくなったんだな。




「それでも···俺は、待っている。いつかお前を信じられる日まで。許せると思う日が来るまで、俺は待ち続ける」


「おに、い···ちゃん···っ」


「だから、お前もその日が来るまで俺に謝り続けろ。後悔しながら生きるんだ。そうしたらきっと、俺はお前を許せる日が来ると信じているよ―――『』」


「っ···!!」




いつ以来だろうか、妹のことをさん付け無しで名前を呼び捨てにしたのは。

それが分からないくらいに、俺たちは心の距離が離れすぎていたんだ。

今はその距離を埋めようとは思わない。

だが、いつの日か妹を―――桜を許せる日が来たら、その時は···。




「その時は、また兄妹としてやり直そう」




言えた。俺の本心を。

後悔するか分からない選択を選んだ。

お人好しと言われるかもしれない。

馬鹿な奴だと嘲笑われるかもしれない。

おかしな奴だと蔑まれるかもしれない。

でも、きっとこれでいいんだと俺は思う。

だって、これが俺が選んだ人生なんだから。

そうだろ?『つむぐ』。




「お、にぃ···ちゃ···っ、お兄ちゃん···っ!ご、ごめんなさい···っ!ごめっ、ごめんなさい!わ、私···私ぃ···っ、ごめんなさい、あぁっ···お兄ちゃん···お兄ちゃぁん···っ!」




感極まったのか、桜は大粒の涙を流しながら俺の胸に飛び込んできた。

大声で咽び泣く妹の頭を、出来るだけ優しく撫でる。まるで、あの時のように―――




「しょうがないなぁ」




小さい頃に、頭を撫でながら泣いていた妹に向けて言った言葉。

とても懐かしい。あの日の光景が蘇る。




「うぁあっ···あぁああ····お兄ちゃん···お兄ちゃん···っ!あぁああああぁあぁああっ!!」




その言葉を聞いた桜は、また一段と大きな声で泣いた。





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