第32話(終)

 大きく伸びをする。ずっと中腰だったからすっかり身体が凝り固まっている。琥太郎はペット捜索の依頼を終えて事務所に戻ろうとしていた。

 すると公園の横を通り掛った。そこは東原の鈴を探すために訪れた公園である。思えばそれはたかだか一ヶ月ほど前のことなのに、なんだかもう随分と前に感じる。あの時はまだ不安の中で生活していたのに、今じゃ不思議と以前よりも毎日が充実している気がするのだ。

 公園の中を見ながら通り過ぎようとすると、聞き慣れた声が後ろから聞こえてきた。

「おーい!琥太郎兄ちゃーん!」

 振り返ると坊主頭した子供がこちらへ向かって走ってきている。琥太郎は自然と顔が苦くなるのを感じた。

「おい、そんな顔すんなって。失礼だろー?」

「お前な...」

 どうしてこの子供はこんなにも生意気なんだろうか。琥太郎は色々言ってやろうと思って、やめた。

 そういえば長野で瀬立に言われた。

『そういえば琥太郎、蔵之介くんにこの前のお礼言った?』

 無限に鶴を折り続ける依頼があった時、蔵之介にお世話になったことはまあ、紛れもない事実である。しかし琥太郎はそれを機会に恵まれなかったことと、プライドが許さなかったという二つの理由で先延ばしにしていた。

 琥太郎は蔵之介の顔を見た。腹立たしい顔だ。この子供に礼を言うのは屈辱でしかない。

 けれど。

 長野での出来事を思い出す。会いたい人に会えなくて、伝えたいことを伝えられない人をたくさん見てきた。会いたいとどれほど強く思っても、もう会いたい人は目の前からいなくなってしまったから。

 琥太郎はもう一度蔵之介を見下ろす。

 彼は今、目の前にいる。確かに。

 はあ、とため息を吐き、しゃがみこんで蔵之介と目線を合わす。丸い目が琥太郎を見つめた。

「ありがとな。この前、手伝ってくれて」

 目の前からいなくならないうちに、伝えられることを伝えておく。

 だって自分たちは、生きているのだから。

 蔵之介はわずかに驚いた顔をした後、ニカッと笑って言った。

「おうよ!どういたしましてだ!」

 未だ残る夏の日差しだ。けれどもう蝉の声は聞こえない。


 戻った事務所の玄関を開ける。廊下を抜けると、広いリビングが広がっていた。

 その中の一人がけのソファの上、公家のような顔をした男が長い足を組みながら本を読んでいた。机の上には彼の好きな紅茶が高そうなカップに入っている。

「あ、おかえり琥太郎」

 自分を拾った男、瀬立瑞樹がふわりと笑う。

 未だにどうしてこの男の元に自分がいるのか、明確にこれだと言える理由はない。

 でも信じてみる。今までしたことがなかった、信じるという行為をこの男にしてみるのだ。

 なにせ相手は道端に転がっていた自分をわざわざ雇うような奴だ。変なやつではあるのかもしれないけれど、悪いやつではないとそう思う。

「あ、琥太郎!聞いてよ、さっきの依頼人なんだけどね、すっごく面白い音の話を聞かせてくれたんだよ!」

 やっぱり変なやつだとは思う。でも彼のこの趣味が、少しだけ自分を変えつつある。

 人の音を聴く。

 それが経験になるから。

 そうすれば少しだけ、救えるものがある気がして。

 ここは色々な人がやってくるようになった。たくさんの人が持つ、様々な音が聴ける。

 それが聴けるうちは、ここにいよう。

 ふっと笑みが溢れた。瀬立が首を傾げる。

「何かいいことでもあった?」

 琥太郎は自分の頬に手をやる。無意識の笑みだった。

「...なんでもねえ」

 瀬立が笑う。暖かな音だ。

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何でも屋と記憶の音 一日二十日 @tuitachi20ka

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