第31話

 何でも屋の二人が報告に来た。景倉彩香の所在についての報告だった。

 得られた情報に、私は涙を流した。

 会えると思っていたのに。また、文通でもしようなんて思っていたのに。それは永遠に叶わない願いになってしまった。

 実家の自分の部屋に戻り、ベッドに寝そべって彼女から貰った手紙を見ていた。

 せっかく手紙を貰ったのに、どうして私は彼女の元へ行かなかったのだろう。彼女の元へ行けば、何か変えられたんじゃないか。変わらなくても、彼女の痛みに触れられたんじゃないか。

 色々考えて、眠りに落ちた。

 夢で彩香ちゃんに会った。彼女は暗闇の中を走っていて、私はそれを止めてあげたかったのだけれど、それはできなかった。泥の中を走っているような感覚で、追いつくことさえもできなかった。

 起きた時、私は泣いていた。

 ああこれは、私の気持ちそのものだ。私の後悔が見せた彩香ちゃんの幻想だ。後悔なんてしたくないとつくづく思う。

 そう思った途端、私は少年の言葉を思い出した。

 休みたいなら休めばいい。それが今のあなたに必要なら。

 後悔。

 したくない。

 今、仕事に復帰したら。あの場所に戻ったら。

 きっと後悔する。

 私は二階へ行き、本を読んでいた母の肩越しに言う。

「私、もう少しだけ休んでもいい?」

 母は少し驚いた顔をした後、微笑んで言った。

「千夏のしたいようにしなさい」

 彩香ちゃん、私もう少しだけ、頑張ってみようと思う。

 あなたの分まで、幸せになるから。


 何でも屋の少年が報告に来た。景倉彩香の所在についての報告だ。

 告げられた事実に、俺は落胆した。

 返しそびれた答案用紙は、永遠に返されることがなくなってしまったのだ。

 俺はファイルの中にしまわれた答案用紙を職員室の机の上に広げた。本当に、よくできた生徒だったと思う。

 またいつか会えた日に渡せばいい。そう思いながら、もうこんなに長い時間が経った。俺は歳をとり、彼女はいなくなった。この世から永遠にだ。

 伝えたいことがたくさんあったのだ。聞きたいことだって、たくさんあった。けれどそのどれもが、もう叶うことはない。何一つ、帰っては来ないのだ。

 最後に彼女に会った時の話だ。

『退学届?なんで急に』

『...すみません。でも、本当です』

『いや、でも...』

『お願いします。受け取ってください』

『...じゃあ、とりあえず預かっておくから。また後日呼ぶから、な?』

『はい』

 そう言って彼女を職員室から追い出し、俺は帰ろうとして。

 彼女に呼び止められた。

『先生』

『んー?』

『...ありがとうございました。楽しかったです、私。ここに来られて』

 何でも屋が言っていた。彼女の中学時代の担任と副担任は彼女の虐待に気づいた上で、無視と無責任な対応をしたらしい。

 それは多分、悪いことなのだと思う。けれど同時に思うのだ。

 俺は何一つ、気づきはしなかった。気づけなかった。

 一体俺と中学の担任たちのどちらの罪が重いのだろう。答えは出ない。きっと今後もずっと考え続けていくような気がする。ずっと、ずっとだ。

 何でも屋が置いていった住所のメモを見る。そこは三枝という、景倉の面倒を見ていた夫婦が経営する喫茶店らしい。生徒と同じくらいの少年が言っていた。

『その答案用紙を受け取ってくれると思います。三枝さんたちに教えてあげてください。景倉さんのこと』

 その顔はどことなく、彼女に似ている気がした。

 もしかしたらこの子も。そう思って、口にした。

 もしかして君も、景倉さんのような境遇なのか。

 少年は一瞬目を伏せるようにしてから、顔を上げた。

『そうです。けど、俺はもう大丈夫です』

 なぜかと聞いた。すると彼は気まずそうに苦笑して言った。

『変なやつだけど、悪いやつではない人を見つけたので』

 ああそうか。

 彼女に必要だったのは、隣にいてあげることだったのか。

 答案用紙を握りしめた。

 景倉、今度の休み、答案を返しにいくよ。そして言ってやるんだ。

 よく出来ましたねって。


 何でも屋のイケメンの方が来た。いやまあ、子供の方も顔の造形は悪くはないんだけれど。それはともかく、景倉彩香の所在についての報告だった。

 知り合いでもなんでもない私にどうして報告しに来たんだと、イケメンに聞いた。すると、『あなたが悪い人じゃなさそうだから』という適当な返しが来た。その体のいい笑顔で言うもんだから、嘘にしか聞こえなかった。もちろん、本人はそれを否定していたけれど。

 淡々と話したその報告に、私は淡白に頷いた。

 だってそうでしょ。私、あの子とものの数分しか喋ってないんだから。

 けれどその日の夜、スナックのお客さんと話をしていたとき、ふとそのことを思い出した。

 そのお客さんには娘さんがいる。それも、彩香って子が亡くなった年齢の子供だ。お客さんはいつもその娘のことを話題に出して、色々愚痴を吐きながらも愛しているんだと言っていた。

 私は思い出した。

 あの日、あの時のことを。忘れていたつもりだったけれど、忘れていなかった。

『ここで働かせてほしい?無理よ、だってあんた見るからに未成年でしょ。しかもまだ高校生とかじゃない?』

 彼女は黙った。的中したようだ。

『ダメよ。うちではそういう子雇えないから。それにあんた、こういう仕事向いてないと思うよ。覚悟ないでしょ』

『...覚悟ならあります』

『...あんたね、適当なこと言うんじゃないよ。あんたが相手にしようとしてんのは、そこら辺歩いてる人たちなんだ。そこにはなんの制限もないし、綺麗な世界なわけもない。あんた、本気でその世界で生きていけると思ってる?』

 彼女の顔は綺麗すぎた。きっとそれなりの事情はあるのだと思う。けれど、泥水にまみれたところで彼女の顔はきっと綺麗なままなのだ。

 そんな子をここに縛るわけにはいかない。

『悪いことは言わない。あんたみたいなのはちゃんと表で仕事探しな。大丈夫、そのうち社会が助けてくれるって』

 彼女は黙った。私は煙草の煙が登っていくのをじっと見た。

 その時、彼女が言った。

『...かいが...』

『え?』

 強く、強い瞳だった。

『...その社会が助けてくれなかったから、ここまで来たんじゃないですか...!』

 彼女の震える唇があまりにも切なかったのを、忘れることは出来なかったのだと気づいた。

 そうか。あの子、死んでしまったのか。

 優しい夫婦に巡り会えたと聞いた。そうか、巡り会えたのか。ちゃんとした大人に会えて、助けてもらえたんだ。

 私はボトルを一本、開けた。

 あの時、手を差し伸べられなかったことは悪いと思ってる。でもきっと、私なんかの汚れた手よりも綺麗な手があなたには合ってたんだと思うよ。

 この酒はあんたの酒だ。本当は、生きて飲み明かしたかったと、少しばかり思うけどね。

 

 緒方と別れたあと、長野へ一泊し琥太郎と瀬立はそれぞれ報告へ向かった。円堂と水戸部、それから三好の元へ景倉彩香について簡単に話した。三好は一瞬しか付き合いがなかったので大したことはなかったが、円堂と水戸部の悲しみは相当なものだっただろう。

 その報告が終わって本当に依頼は終了した。

 帰りの車内、琥太郎はいつものように外を見ていた。長野の景色ももう随分と慣れたものである。帰ればいつも通りに戻るのだ。

 長野に来るまでと違うのは心だけである。

 景倉彩香のことを知った。その短すぎる人生を、琥太郎はもう知ってしまった。

「そういえば瀬立、警察が景倉さんを自殺と判断した理由知ってたよな。あれなんで?」

 瀬立がハンドルを切りながら答える。

「ああ、実は身内に警察がいてね。それで、ちょっと協力してもらったんだよ。ほら、この前言ってた最終手段もこれね。警察に聞けば、少しは辿れるかなって」

 なるほど。もはやこの程度では驚きはしない。

 車内は静寂に満ちた。

「なあ、瀬立」

 琥太郎が問うた。

「どうしたら、景倉さんは死なずに済んだんだろうな」

 それは逆にいえば、何が彼女を死なせてしまったのかでもある。一体どこで何を間違えてしまったから、彼女は死んでしまったのか。どうして彼女が、死ななければならなかったのか。琥太郎にはわからなかった。だから瀬立に聞いたのである。

 しかし、瀬立から得られた回答は琥太郎の期待に応えてくれなかった。

「...なんだろうね。わからないな、こればっかりは」

 それを聞いた瞬間、琥太郎は窓の外の夜空を見上げた。

 そこには満天の星々が輝いている。それぞれが光り、混ざり合い、大きな光となってこちらを照らし、導いている。

 虐待していた親かそれとも彼女の心を壊した母親の恋人か、それとも無視をし続けた担任と無責任な行動をとった副担任か。もしくは気づかなかった人たちなのか。

 きっとどこかで彼女を救えたはずなのに。

 もしかしたら、会えたかもしれないのに。

「だって...緒方さんも円堂さんも、水戸部さんだって...みんな会いたいって、そう言ってたのに、こんな終わり方...」

 死んでいたなんて、あんまりだ。

 緒方の泣きはらした顔も円堂の涙も水戸部の落胆の表情も、全部全部彼女が生きてさえいればしないで済んだはずなのに。探してほしいと言われたはずなのに、見つけたのは彼らが悲しむ現実じゃないか。

 それに。

「俺だって...景倉さんに会いたかった」

 自分と似たような境遇にいた彼女が、今どのように生きているのか。辛いことがあっても、幸せに生きているのかどうか、この目で見てみたかったのに。会って話をしたかった。それでも彼女に訪れたのは不幸な事故による死だなんて、あまりにも報われない。

 だってせっかく、幸せになれたのに。

 三枝夫妻の元で、三人で幸せに暮らして。

 そう思った途端、目から何かが染み出してきた。熱いものがじわじわと流れては頬を伝っていく。溢れて溢れてしょうがなかった。涙なんてもう何年も流していないのに、どうして今これが出てくるんだ。

 窓の外で星が輝いている。そのきらめきがぼやけて見えづらくなる。

 そうだ、あの星々だって。

「景倉さんはやっと辿り着いたのに、やっと幸せに辿り着いたのに、なんで、なんでだよ...!」

 三枝夫妻との出会いなんて、これから景倉に訪れる幸せの最初に過ぎなかったはずなのだ。あのまま生きてさえいれば、いくらでも幸せにめぐり合うことができたのに、その夜空を幸せの光で埋め尽くしていくはずだったのに。

 嗚咽が漏れる。ダサくて瀬立の耳に入って欲しくなかった。けれど抑えることなんてできず、ただただ涙とともに溢れた。

「...それでも景倉さんは、見つけたんだと思うよ」

 瀬立が低く、落ち着いた声で言った。

「彼女の真っ暗だった夜空はちゃんと、明るい星があったんだよ。片手で数えられるくらいの星だったとしても、満天の星でも代わることができない星が。ちゃんと彼女は見つけたんだよ」

 探し続けて、探し続けて、ようやく見つけた輝く星。暗い夜空を照らし、自分を導く星に、彼女は辿り着いた。

「彼女が亡くなったのは紛れもなく事故で、誰かがどうにかできたわけじゃない。もちろんそれは彼女の親とかを肯定するわけじゃないよ。ただ、救える現実ではないのが、死っていうものなんだと思う」

 瀬立の淡々とした、けれど優しい声が車内に響く。琥太郎は涙を拭いながらそれだけを聞いていた。

「琥太郎は景倉さんと少し似ているから、彼女に会いたいと思う気持ちも強かったんだろうね。その未来が見たいって、自分がなりうるかもしれない未来だからって、そう思ったのかもしれない。でも、そう思うならね、琥太郎」

 赤信号で車が止まる。瀬立は琥太郎の顔をじっと見て言った。今までになく、とても真剣な表情だった。

「生きるんだよ、琥太郎。景倉さんが辿れなかった道なら、琥太郎が歩くんだ。琥太郎がこの先、生きて生きて、それでちゃんと幸せになる。それが彼女のために琥太郎ができることで、昔の琥太郎にできることだと思うよ」

 生きる。

 生きて、幸せに。

「死んだ人の願いを叶えられるのは、生きてる俺たちだけだからね」

 ぽつりと瀬立が言った。

 信号が青に変わる。拭った涙の先が一筋だけ、溢れた。

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