第30話
仕事を午前中で切り上げ、スーツのまま長野へ向かった。金曜の午後の話である。
手提げには財布と携帯の貴重品類に加えて、一冊の日記と教科書だけ入れて家を出た。どうせすぐ帰るのだ、大荷物は必要ない。
新幹線を降り、駅を出ると一人の男性がこちらに向かって手を振った。何でも屋、瀬立瑞樹さんである。お供の琥太郎くんは、車の中だろうか。
「こんにちはー。すみません、待たせましたか?」
俺は駆け寄った。瀬立は相変わらずの笑顔で答える。
「いえ、大丈夫ですよ。僕たちも今来たとこですから。では、早速行きましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
頭を下げ、車に乗り込んだ。
車内は三人でしりとりをしながら潮田中学校に向かった。まるで修学旅行のバスの中みたいだなと思ったのだが、それは彼らなりの配慮でもあったのだろう。わざとその話題を出さないように、気を遣ってくれたのだ。琥太郎くんはとても熱中していたが。
中学校に着き、校門をくぐる。思えば、もう何年ぶりの来校だ。
事前に連絡はしておいた。スムーズな流れで校内に入る。何でも屋の二人にも同行してもらった。なんとなく、そのほうがいいと思って。
あの頃毎日駆け回った校内をゆっくりと進む。不思議と使っていたものが小さく見えたのは、少しだけ俺が成長したからだろうか。
「あ、あそこです。俺の教室」
夕日が流れたように扉の小窓から廊下へ抜けている。その前に立ち、小さく息を吸う。
「じゃあ、俺たちはこの辺で待ってますね」
瀬立さんが言った。
「せっかくなので、生徒さんたちの修学旅行のレポートでも読もうかなと。あ、終わりましたら声かけてください。では」
それだけ言って、二人は教室の前から離れた。
ああまた、気を遣わせてしまったな。あとで何か奢ってあげよう。特に、琥太郎くんには。
今日、ここに来たのには理由がある。
それは、景倉に伝えたいことがあったからだ。話したいことがたくさんある。だからそれを、ここに話に来た。
三枝夫妻に景倉の墓の場所は教えてもらっていた。しかし、まだ墓参りができるほど俺は景倉の死と向き合うことはできない。きっとそこには景倉はいないような気もした。
いるとしたら、きっとここだ。俺と景倉が話せるのは、ここしかない。
閉じた扉の前で、もう一度息を整える。そして扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
オレンジに染まった教室は、思っていたよりもずっと小さい教室だった。綺麗に並べられた机、黒板に書かれた日付と日直であろう二人の名前、所々中のものが飛び出たロッカー。十年経っても、中学生の日常というものが変わっていないことを感じさせた。
あの時、俺たちがいたままの景色のまま。
当時の自分の席、廊下側から数えて三列目、前から二列目の席。ここが俺の席で、その後ろが景倉の席だ。
椅子を引いて座ってみる。小さいなと思うのは、知らぬ間に自分が成長したからだ。見えないうちに成長してるもんだと不思議に思う。自覚は全くないのに。時だけは何もしなくても過ぎ去って止まらない。
あの日のように椅子を横向きにして、後ろの席に顔を向ける。当然、そこには誰もいない。けれど頭の中にある風景は、ずっと同じままだ。
あの頃と同じ、二人だけの教室がここにある。
「俺の中にはずっと、景倉がいるよ」
誰に向けたわけでもなく呟くのをきっかけに、持ってきた手提げから二冊取り出す。それを景倉の席に並べて置いた。
一つは十年日記。もう一つは中学の数学の教科書だ。
「まったく、探しちゃったよ俺。実家に連絡してさ」
日記を読んだ直後、俺は実家に連絡した。数学の教科書は役立つと思って捨てた覚えがなかったから、慌てて父親に送ってもらうように頼んだのである。
「景倉の日記、読んだよ」
景倉彩香という人間が抱えていた辛すぎる過去を知った。俺が知るはずもなかった彼女の未来も知らされた。一日で彼女が生きていないことも、抱えていた過去の重さを知ったのだ。言葉にできないほどの怒りと悲しみと切なさが込み上げて、その日はよく眠れなかった。翌日、ただでさえ勝手に仕事を休んで行くのが億劫だったのに、寝不足で余計に行きたくなくなったほどである。それでもちゃんと行って、ちゃんと怒られた。俺もそれで良かったと思っている。人はちゃんと叱られなければならないから。
「俺、景倉に何もしてやれなかったんだなって...思ったよ。だって、俺は景倉が暴力を受けてることなんて気づいてやれなかったし、むしろ...俺の方が相談に乗ってもらってばっかりで」
景倉は俺の悩みを聞いている時、どう思っていたのだろうか。チンケなことで悩んでいる、そんなこと私の悩みに比べたらと思っていただろうか。腹が立ったのだろうか。憎かっただろうか。
「ごめん。今更だけど、謝るよ。俺は景倉の気持ちに...何一つ気づいてやれなかった」
こんなことを言っても彼女には届かないことはわかっている。けれど、こうでもしないと自分の気持ちの整理がつかない。彼女は死んでしまったけれど、俺は生きているのだから。
返事は返ってこない。だから、弱音を吐いた。
「でもさ、気づいたところで俺、何かしてあげられたのかなとも思うんだよ。当時の俺、中三の俺なんかにできることなんて...あったのかなって」
彼女を家から連れ出すことができただろうか。それとも、周りの大人に知らせて、彼女を救ってやることができただろうか。けれど、調べてみると児童相談所などに連絡したことがきっかけで最悪の事態が起きてしまった場合も存在するらしい。数年前に同じような事件をテレビで見た。あの時の俺だ、景倉のそんな状況を聞けば、そうしていたかもしれない。無責任にそんなことをしてしまえば、景倉の未来を奪っていたかもしれないのに。
「俺ができることって...なんだったんだろうな...」
景倉の日記を読んでからの数週間、ずっと考えていた。答えは未だに出ない。
「それにもう一つ、景倉に謝らないといけないことがあって...」
俺は十年日記の上に置いた拳を握った。
「俺、忘れちゃったんだ。あの時、景倉がなんて言ったのか、景倉の将来の夢がなんだったのか、思い出せなくて」
日記の中で彼女は覚えて欲しいと言っていたのに、それを俺は忘れてしまった。何度も思い出そうとするのに、ちゃんと聞いた記憶はあるのに、そこだけ記憶が欠落している。
あんなに大切な思い出だったのに。
「ごめん、思い出せなくて。忘れてしまって、景倉の願いだったのに...くそ、なんで忘れたんだよ、俺!ほんっと、昔から大事なことほど忘れやがって...!」
絶対に買ってこいと言われたものほど、おつかいでは忘れていたように、景倉の大切な願いも失わせてしまった。どうして俺の脳はこんなにも大事なことを忘れてしまうのだ。自分が傷つくのならいい、けれど、景倉はダメなのだ。もう帰ってこない、会えもしない、二度と彼女は笑うことも、泣くことも怒ることもできないのに。
怒りが湧いてくる。握りしめた拳の内側で爪が食い込むのを感じた。痛いのに、それを感じれば感じるほど、景倉を想って怒りが湧いてきた。彼女はもう、この痛みすら感じることができない。
彼女は死んでしまったから。
俺は十年日記を捲った。その最後のページに挟まっている一枚のメモ。十個のリストが書いてある、彼女が自殺だと決定づけた例のリストである。
「これ、本当は見たくなかったよ。まるで死ぬ前にやりたいこと、みたいに書いてあるもんだからさ。でも、違うんだよな」
美味しいものを食べる、あそこに行くとか、そういう些細なことが書いてあったから、警察もそう判断したのだと思う。
けれど一つだけ、不可解な点があるのだ。
十個目のやりたいことが書かれたそのずっと下に、『P146』と書かれているのだ。
「瀬立さんから聞いたんだ。当時、警察はこれはただ景倉が何かをメモしただけなんだろうって。だから別に何も気にしないでそのまま自殺って結論づけたらしいんだけど...」
でもそれは違った。日記を読むと、俺だけにその答えがわかるようになっていた。
「景倉は、自殺なんかするはずないよな」
日記を閉じ、数学の教科書を開く。
景倉が日記に書いていたあの日のことを俺は覚えていた。景倉の教科書に落書きをしたのなんて一回しかなかったから、その時のことはよく覚えている。
パラパラと捲っていく。このページの隙間一つ一つに、彼女がいるような気がする。
そしてピタリ、と手を止める。
百四十六ページ。
練習問題が書き連ねてあるページだった。あの日、見ていたような気がするページだ。多分俺は景倉の教科書のこのページに落書きをしたのだ。だから景倉はここに残した。
ページの一番端、ページ数が記された少し上に小さな文字が連ねてある。丁寧な字で、でもどこか照れ臭そうに。この数日間、何度も見た筆跡で。
「やっと気づいたよ、俺」
百四十六の上、小さく。
『緒方くんに会えたことが私の一番の幸せでした できればまた、一緒にいたいです』
景倉の真意はわからない。どういう意味でこれを書いたのか、それはわからないのだ。けれど、嬉しくないはずがなくて。だから余計に哀しくて。
「なあ、景倉。俺はやっぱり...やっぱり景倉に会いたいよ。もう会えないってことは十分すぎるくらいにわかってるけど、でも、でもやっぱり...!」
生きて会いたかった。
生きて会って、一緒に笑いあえたのなら。
景倉のことだからきっとすごい美人になって、俺はきっとすごくドキドキしたと思う。でもやっぱりそれ以上に嬉しくて、きっと、きっと。
君が描いた星の一つになることだって。
涙が出てきそうになるのを必死に堪えた。ここで泣いてしまえば、きっと外で待っている二人にバレてしまう。大人になって泣くのはこんなにも難しいのだ。
景倉は自殺なんてしていない。不幸な事故だったのだ。警察がなんと言おうと、それは俺と、それから三枝夫妻の間の真実だ。
夕日が濃くなる。校内にいる生徒の気配も少ない。ふと冷静になって感じた。
「じゃあ、俺そろそろ行くわ。同窓会、景倉の分も楽しんでくるよ。でも最後に、一つだけ」
最後に一番、伝えたかったことを。
「俺、実は...」
その瞬間、大きな鐘の音がなった。
チャイムだ。
最終下校時間を告げる、一日の終わりのチャイム。
キーンコーン、という音と夕日が混じり合うその瞬間、目の前の光景が十年前に巻き戻された。
『景倉はさ、将来の夢とかある?』
『そうだな...私は...』
窓の外に広がる夕日を眩しそうに見つめた横顔。輪郭がオレンジに染まった横顔があまりにも綺麗で、俺は見惚れていたのだ。
『私は...幸せを集めたい。生きていて良かったって...心から思えるような幸せ。そういうものを集めたいな。そしたらきっと、すごい幸せだと思うから。だから、それまでは絶対諦めたくないなって。辛いこともあるけどさ、それまで...生きていたいって、そう思うの』
そうだ、景倉はあの時。
思い出した瞬間、涙が零れ落ちた。ずっと堪えていたためか、溢れて溢れてしょうがない。涙だけじゃない、嗚咽も何もかもが、止まらなくてどうしようもなかった。
肩を震わせ、彼女の日記を抱きしめて。
この日記は半分も埋まっていないのだ。今頃とっくに十年日記は完成していて、彼女の新しい十年は始まっているはずだったのに。たった一冊の十年も埋めることができずに、彼女は。
俺がもっと、彼女の音を聴けていれば。そうして彼女の異変に気付けてさえいれば、もしかしたら何かが変わったかもしれないのに。
「ごめん、ごめん景倉...!」
どうして謝っているのかもわからなかった。気づかなかったことに対してなのか、無力な中学生だったことなのか、それとも彼女を追わなかったことなのか。
あるいは、忘れてしまったことに対してか。
景倉に連絡が取れないとわかった時、俺は探そうとした。けれど、主催の何人かは口だけで乗り気ではなかった。それとなく理由を問うてみると、彼らは口を揃えていった。
『あんまり景倉さんのこと、覚えてない』
彼らは景倉を忘れてしまっていた。クラスの中に確かにいたはずの景倉のことを忘れていたのだ。
あんなにも近くにいたのに。
それでも忘れてしまうなんて。
「...景倉、俺は...俺が探してた景倉は...」
死んだ景倉なんかじゃない。姿の見えない景倉なんかじゃない。こんな、一人だけの会話がしたかったわけじゃないのだ。
俺はただ、大人になった景倉に会いたくて。
憧れて、ただ大好きだった景倉を探していた。
一人きりの教室に自分の泣き声が響く。赤い夕日だけが俺を照らしていた。
校舎を見上げながら車の前で緒方の帰りを待つ。少しして校舎から出てきた緒方は慌ててそこに駆け寄った。
「すみません、先に出てきてしまいました」
眉を下げて瀬立が言う。琥太郎もわずかに頭を下げる。
「いえ、いいですよ。気を遣ってくれたんでしょう?」
瀬立は首を傾げる。琥太郎もそれを真似た。それを見た緒方が笑う。その目元が泣き腫れているのには気づかない約束だ。
空はもうほとんど青く染まり、遠くに夕日の名残を見せるだけである。わずかに星が見え始めて、夜の訪れを知らせる。
「緒方さん、駅まで送りますよ」
「いや、でも....助かります、ありがとうございます」
彼も少しだけ成長しているみたいだ。甘えることを躊躇いつつも、受け入れることができている。それだけ思うと、琥太郎は緒方よりも先に車に乗り込んだ。
発進した車の中は行きとは違ってとても静かだった。夜の静けさと相まってその静寂が永遠のように感じられる。
その静寂を破ったのは緒方だった。
「思い出しました、俺」
琥太郎は窓に肘をついて窓の外を見つめたまま聞いた。
「景倉がなんて言ってたのか。景倉はただ幸せになりたかったんだって、思い出しました。チャイムの音と夕日のおかげで」
あの時の状況が完全に再現されたから思い出すことができた。
「俺の音の話はチャイムです。きっとこの先、チャイムを聞く度に思い出すんでしょうね、俺は。景倉のこと」
きっと何度も、何度でも彼女を思い出す。その度に辛くなって、哀しくなってしまうかもしれない。
「でも、忘れないでいられますね。景倉さんのことを」
瀬立が言った。
「忘れなければいいんですよ。辛くても哀しくても、その分景倉さんを想えばいい。僕は部外者なので詳しいことはわかりません。けれど、客観的な意見を言うならば、僕は景倉さんにとって緒方さんに忘れられてしまうことがとても悲しいことなのではないかと思います」
琥太郎もそれは思う。きっと景倉にとって緒方は、とても特別な存在だったのだろう。でなければ三枝夫妻に何度も話はしないだろう。緒方にとって景倉が忘れられない存在だったのと同様に、景倉にとっても緒方は忘れられなかったと考えるのは容易だ。
繋がりは一方的なものではない。お互いに持っているから、繋がっているのだ。
「素敵な音ですね」
瀬立が言った。
緒方は声を震わせて、
「はい」
と呟いた。
星が瞬いている。
緒方を駅前で降ろすと、緒方の顔は晴れやかだった。
「それじゃあ、また何かあれば」
瀬立が言った。緒方は笑って答える。
「そうですね。今度はもっと楽しい依頼で来ますよ」
「それはそうですね。でも、そうでなくても待っていますから。僕たち」
琥太郎の肩をポンと瀬立が叩く。同意を求められているようだ。
「俺たち、何でも屋ですから。なんでも依頼しにきてください。仕事なんで」
言うと緒方がため息にも似た息を吐いて、琥太郎の頭をわしゃわしゃと掻き回した。
「ちょ、なんすか!」
「そういうことばっか言ってっと、ろくな大人になんねえぞ?ちゃんと子供らしく、な?」
「俺はもう大人だ!」
社会人なんだ、もう大人だ。未成年ではあるが、少なくとも子供ではない。
緒方は琥太郎の横にいる瀬立と顔を見合わせ、やれやれといった顔で今度こそため息をついた。
緒方はわしゃわしゃという手つきをやめ、ぽんぽん、と軽く頭を叩いた。
「んじゃ、またな。瀬立さんも、ありがとうございました」
そう言って深く頭を下げた緒方は明るい笑顔で手を振り、駅の中へ入って行った。
長い長い依頼が一つ、終わりを告げた。
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