森に住む少女

ゆんちゃん

森に住む少女

 少女はどこか遠い、世界の果てのような森の中にある、木でできた家に住んでいました。朝、小鳥のさえずりで目を覚ますこともあれば、雨の音で目を覚ますこともありました。この森は家のほかには太陽と、空と、地面と、木々と、食べ物と、動物とがありますが、そのほかには何もありませんでした。少女には年齢なんてものはわからず、自分の体の成長さえ無いようなものでした。少女にとっての時間とは日が昇り、空の真ん中にきて、やがて沈み、空が暗くなるということでしかありませんでした。

 少女の一日は実にゆっくりとしていて、朝がくれば家の中で朝食のパンやごはんを食べ、お昼になったら家の外を散歩し、夜になればベッドに入って寝るというものでした。ベッドにはどこか幼さがあり、まるで赤ん坊が寝かされるような、そんな感じです。そのベッドで寝ると包まれているような心地よさを感じ、すぐに眠ることができました。

 この森には少女以外の人間はいませんでした。それなのに、少女はいつからか人の気配や、温もりというものを知っていました。少女は人間というものを知りませんでしたが、自分以外の何かが自分を愛しているという感覚を持っていました。寂しさを感じることはあまりなかったといっていいでしょう。

 少女には体がありません。上半身どころか、下半身すらも実体として存在してはいませんでした。これは大変な問題だと思われそうなものですが、少女にとっては何の問題もないことでした。これまでもずっとそんな感じだったし、体なんてものの存在すら少女には必要なかったのです。

 いつものようにパンを一斤食べてから散歩をしています。木々は緑色の葉をさわやかな風でざわめかせ、揺れた木々につられて木漏れ日がちらちらとしていました。小鳥が飛び立っていき、リスが少女を抜かして走っていきました。森はどこまでも続いていきます。切り開かれた道はありません。ですが、森は意志を持ったように少女が通る道を作っていきます。まるでどこかに案内するように。少女はそれに従って歩いていきます。

 やがて水音が聞こえてきました。ちゃぽんちゃぽんと水面が揺れるのを思い起こさせる楽しげな調べでした。湖が近いのかもしれません。

やや開けたところに出て、湖に到着するころにはすでに夕方になってしまっていました。湖の向こう側の茜色の夕焼けが、湖面に反射してまばゆい光を放っていました。夕日は刻々と位置を変え、このままじっとしていたら水平線に沈んでしまうかもしれません。少女にはなぜこんなところに来たのかなんてわかりませんでしたが、それは大した問題ではありません。ただ歩いていたら湖に到着した。ただそれだけのことでした。

 引き返して家に戻るころにはすっかり日は沈み、あふれんばかりの星々でいっぱいの夜空が広がっていました。今日も一日を過ごし終え、後はもう寝るだけです。

 少女の部屋には写真が写真立てに入った状態で飾ってありました。毎日寝る前にその写真を見て、懐かしい気持ちになるのが日課です。今から遠く離れた時間の彼方に、その思い出は眠っているような気がします。その写真の中で、男女が並んで、どこかで見たことのあるような家の前でこちらを見ていました。どちらも朗らかで、幸福に包まれているような表情でした。写真は色褪せています。

「お父さん……お母さん……」

 少女にはその二人が誰なのかがわかってしまいます。会ったことも、触れたこともないのに。少女は二人のことを思いながら写真にキスをして、ベッドに潜り込みました。明日はいい日になればいいなと思いながら。


 いつも通り湖に向かおうとしますが、その日の空にはもくもくとした雲が広がってきていました。早く行かないと雨が降ってきてしまうかもしれない。少女は駆け足で家から飛び出していきました。身体から湧き上がってくるエネルギーをじわじわと感じました。身体を存分に動かすのは楽しいものです。少女が走っている隣では、リスや犬などの動物も一緒に走っていました。動物たちも少女と同じように走りたいみたいです。

 ぽつり、ぽつりと降ってきた水滴に気が付いて空を見上げると、厚い雲が空を覆い、日光を遮っていました。やがて激しい雨が降り注いできたので、少女は木々の合間に隠れて雨宿りをすることにしました。少女は雨が降る理由を考えます。物事には存在する理由というものが必要なのだと少女は思っていました。だから、わざわざ日光を隠してまで降ってくる雨にも、何かしらの存在理由があるはずです。

 普段は空に雲はありません。太陽と青い空が広がっているだけです。そしてその下では木々の葉が風でざわめき、木々は地面に根を張っています。その木々の下では生き物が思い思いに暮らしています。生き物たちはお天道様に喜びを覚え、日が当たるところに出ていきます。生き物が存分に動くにはエネルギーが必要です。しかし、生き物たちを動かすものは何なのでしょう? 

 まだ雨はやみません。少女は木の根元にしゃがみこんで、退屈そうに曇天を見上げたり、あたりを見回したりしました。茂みがガサゴソとしているのでのぞいてみると、ウサギとリスを見つけました。二匹は向かい合って何か話し合っているように見えました。何を話しているんだろう、そう思って意識を集中させてみると、二匹の会話が聞こえてきました。

「おいらこの前かわいいウサギの子に一目ぼれしちゃってさあ、君が好きですなんて言っちゃったんだぜ」

「君は短絡的すぎるよ、もっと手順を踏んでから近づかないと」

「いいじゃないか、ちゃんと草とお花をプレゼントしてあげたからね。君はどうなのさ」

「僕? 僕はねえ……」

 二匹は時折話の途中で草木から滴る露を飲んで喉を潤していました。

 生き物の体の動力源、それは水であると少女は思い至りました。水が空から降ってきて、それは木々や生き物の体内をめぐり、やがて川に流れ、湖に流れ着き、空へと昇っていきます。循環するものこそが水という流体で、雨は循環を繋げる役割を持っていることを理解しました。

 やがて雨は収まり、雲が割れ、まっすぐな日の光が差し込んできました。これなら大丈夫です。少女は再び湖まで駆けだしました。木々が作った道には水たまりがいくつもでき、地面がぬかるんで、足をつくたびに湿り気の多い音が鳴り響いてきました。

 湖面はまるで鏡のようになっていました。空が放つ青さも、残った雲の白さも、太陽の眩い光も、すべてを湖面に映し出していました。はぁはぁと息を切らしながら、少女は湖面をのぞき込みました。そこには少女の代わりに、見知らぬ女の子が映し出されていました。黒髪は肩のあたりまで伸びて、顔の彫が深く、瞳の色はこげ茶色の女の子でした。

 初めて見る女の子を少女はじっと見ていると、次第にぼんやりと違う風景が浮かんできました。それは写真に載っていた男女でした。二人は写真よりも多少若く見え、まだ表情は硬く、写真でみた朗らかな顔とは程遠いものでした。そして、次々に違う映像が映し出されていきます。二人の表情はだんだんと明るくなり、幸せそうな顔になっていきました。少女は、この人たちは一人ではないということに気が付きました。今まで一人で暮らしていた少女は、これは不思議に思えました。二人の口から紡がれる「あなた」「君」という言葉に大きく興味を注がれました。茂みで話していたウサギとリスは、動物として数えれば二匹です。自分はなぜ一人でいるのだろう? そういったよくわからない違和感を覚えてきました。少女はこの世界以外の世界を知りません。それゆえ、今の世界は温かいけれど孤独であるということに気づきました。

 湖面の中の男女はどうやら一緒に暮らしているようでした。そこは写真の中でも見、今自分が暮らしているのと全く同じ木製の家でした。時は流れ、二人の間に子供が生まれました。黒髪が肩のあたりまで伸び、顔の彫の深い、茶色の瞳をした女の子です。三人の家庭はとても明るいものでした。笑顔が絶えず、なにも心配することのないような幸せな家庭でした。

 それを見ていた少女は、自分まで幸せな気持ちになったのを感じました。どこに自分以外の人間は存在するのか? わくわくが止まりません。

 ふと湖面から顔を上げると、世界はあまりにも美しさで充ち溢れていました。湖面は空を移す鏡となっていますが、今は雨上がりの空で、雲がところどころ散らばっています。裏から太陽光線が当たり、輪郭は光で縁取られ、影が際立って見えます。その後ろには青い雲のグラデーション、それに応じて湖面も青くなっています。影を作り、光が反射しないようにして湖面をのぞき込むと、湖底には様々な水草やごつごつした岩石がはっきりと見えました。その上を何匹もの小魚が、宙に浮いているかのように泳いでいきます。後ろを振り返ると、いつの間にか集まってきていた野生の動物たち。走っている間には気が付かなかった木々の生命の香り! 力強い幹。生い茂った葉。風になびかれて木々の影がさざめいていました。風が吹いています。風も水と同じく、循環をしているのです。それはつまりこの自然が、躍動しているということ。

 少女には世界が色鮮やかに映りました。満足して、帰路につきます。自分は今日、このためにここに来たのだという思いは、次第に、自分はこの世界に、このために来たのだという思いに代わっていきました。

 夜、いつもと同じくベッドに入った時、色あせていた写真が少しだけ色づいて見えました。気のせいだったかもしれません。写真の中の二人の表情は少しも変わらず朗らかです。しかし、この写真を見るのもこれで最後であるような気がしていました。少女は新しい世界を見たいと強く願いました。だから、目が覚めた時にはきっと違う世界にいるのだという確信がありました。少女は写真にキスをして、眠りにつきました。

 その日の夢はとても不思議なものでした。少女は、空の雲のもっと上、宇宙に漂っていました。まるで胎内にいるかのように、心地よい空間でした。

 普通の宇宙と違うところ。それは、ある宇宙と別の宇宙をつなぐもっと上位の大宇宙であるということでした。その世界では、宇宙と宇宙は鎖のようなものでつながれています。宇宙が星のように散らばり、輝いて、それぞれが鎖でつながれているのです。そして、鎖に沿って流れていくなにか──それはおそらく生き物たちの魂だと少女は直観します──はそれぞれの宇宙に向かっていきました。

少女の意識はある宇宙に引っ張られていきました。二重らせんの鎖にそって、別の宇宙へと旅立とうとしています。

 宇宙は鎖同士で結ばれています。点と点を線で結ぶかのように。そしてそれらは大きな円を描きます。魂たちはそれらを巡り巡って行っているのです。水のように、風のようにそれらは大きな円を描いて循環していくのです。

 次の宇宙では、ある男女が少女を迎え入れていました。その二人はあの家で住んでいる、写真で見た時の二人でした。写真よりも顔に皺が増えていましたが、間違いなくあの二人でした。そしてその二人は、少女が過去に会ったことのある二人です。

少女は自分と二人の関係について気が付いていました。

 二人の間には女の子が一人いました。髪が黒く、顔の彫が深い、茶色の瞳の女の子です。女の子は両親に愛され、女の子も両親を愛していました。父親は女の子のために仕事に励み、母親は女の子の育児や家事に励んでいました。女の子は自分が愛されているということを十分に知っていました。しかし、女の子には致命的な病気がありました。体力はほかの子よりも低く、ベッドで寝ている日も多い、そんな子でした。それでも両親の愛情は変わりません。二人は女の子に献身的に尽くしていました。

 女の子は五年目の誕生日を迎える前に息を引き取りました。両親は深く悲しみました。特に母親の落ち込み用はひどいもので、自分のせいだという思いにとらわれ、病んでいました。父親はそんなことはないと何でも慰めます。

二人は一時ひどい状態になっていました。しかし、時間をかけて傷を癒していきました。

 二人は新しく子供を授かる決心をしました。最初の子の分まで、二人目の子に愛情を注いでいこう。その両親の思いはとても大きなものでした。

しかし少女は知っています。亡くなった女の子は少女そのものであり、次に生まれる子供は少女であることを。この輪廻の鎖はつながっており、魂は循環していることを知っています。両親の愛情も自分がすべて受け継いでいることを知っています。

子供だけしか知らない秘密を少女は持っています。それはとても綺麗で、生きる活力に満ち溢れたものです。

 次の宇宙が見えてきました。

 これで大丈夫だと少女は思います。今度生まれたときはしっかりとやっていける。そして、しっかりと生きて、両親の愛情に「ありがとう」と伝えようと思いました。

 少女は、新しくも懐かしい世界に旅立っていきました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

森に住む少女 ゆんちゃん @weakmathchart

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る