宵を待つカワセミ

九太

一本足らずの黒鳥 プロローグ

 昼と夕方の狭間、日照の熱がようやっと収まりだす頃。

 とある少年が一人、二輪車をキコキコとこいでいた。

 帰宅途中のこの少年は、ぱっと見はいたって普通の高校生だったが、内面は、どちらかというと不良に近い、素行の良くない生徒であった。ニッと歯を見せて笑う笑顔が爽やかに見えなくもないが、この時も、喝上げまがいの事をして手に入れた小金の使い道について、上機嫌に思案をしているところだった。この悪餓鬼が妙にニヤついているのは、そのためであった。

 もっともこの少年、不良を自称してはいるが、適当なカモを探し出し、それが年上だろうと脅して金をとる、というような大それたことができるほどの肝は持ち合わせていなかった。せいぜい、顔見知りの気弱な後輩などから定期的に毟るのが限度であった。チキンな性格、というのは余りにも俗すぎる言い方だが、この少年が臆病で、若干の小心者であることは、間違いではなかった。

 少年の自転車かごには、彼の高校の制服と、先ほど後輩から毟ったばかりの泡銭の入った長財布とが、整合性無く雑に詰めこまれていた。この少年は、学ランなどの制服を「暑いし、動きにくくてむかつく」と、登校時間中や式典の時以外では運動着に着がえて過ごしていた。少年はその妙なこだわりにかっこ良さでも感じているのか、高校入学の日からその習慣を続けていた。せれでも、式典や行事にはきちんと制服で出席するのは。小心者がゆえの、教師からの叱責への恐れが理由であった。

 少年は、乗っている自転車の飲み物ホルダーからペットボトルをはずし、右手に持った其れを口元へと運んだ。もう一方の手でハンドルを握り、ボトルのぬるい茶がこぼれぬよう、こぎ続けている自転車を片手運転した。タイヤが路傍の小石でも踏んだか、数回がたりと揺れたが、少年は手を止めず、一滴も零すことなく器用に茶を飲んでいた。ゴクッゴクッと小気味の良い音を立てながら、暑さと運動に奪われていた水分を取り返していく。ただの温い緑茶でも、この時の少年からすれば、命の水にも等しい価値があった。

 周りが田んぼばかりの道を通っているからか、少年はここを通って帰るときいつも、ケータイのスピーカーホンで音楽を流していた。民家との距離が離れている上、人通りも少ない故に、大音量の音楽を咎める原因がない事も、少年にとっては好ましい事であった。

 流している曲が盛り上がりに達したらしく、それまでハミングに収まっていた少年の小唄が、歌詞を口ずさむまでに昇華した。この少年は、自分で自覚のない型の音痴であり、この時の小唄も芸術性を感じさせない酷いものなのだが、その件はこの話に何ら関わり無いので割愛をさせていただく。

 歌を歌いながらの作業は、効率や精度が落ち、作業の質も落ちるらしい。それを、軽とはいえ車両の運転中に行うことの危険性を冷静に考えるには、今の少年は歌唱に夢中でありすぎた。先に述べたように、辺りに人の気が無いため、大きくてやかましい音を出しても、それを咎めるものが居ないので、少年が夢中になるのも無理はなかった。

 少年の気も昂り、最初は小さかった少年の歌が熱唱へと変わるのも時間の問題、という所で、少年はふと「バサッ」という、何かがはばたくような音を聞いた。歌を止め、「何か教科書でも落としたかな」と、背中のリュックサックを肩越しにチラッと見やった。

 リュックに何の異常もなく、きっちりと口が閉じていることを確認すると、少年は小さく鼻を鳴らし、視線をもとの位置に戻した。その時、突然少年の視界が黒くなり、顔面から額にかけて、衝撃を感じた。少年はその衝撃の正体が、空から飛来してきた一匹のカラスであると理解するのに、数秒を要した。人は誰も、予想していなかった方向から、突然予想していない攻撃を受ければ、少しは驚くものであろう。それが運転中に、しかも視覚的にもダメージがあるなら、なおさらである。

 少年も、その例にもれなかった。驚きのあまり声にならない声を発し、少年は無残によろけた。空からの急な襲撃に、心臓の鼓動が早まっていた少年は、一匹のカラスから受けた身に覚えのない痛みと、ご機嫌な歌を邪魔された事とに対する怒りが、沸沸と湧き上がり、カラスを追い払ってやろうと、反撃に出た。少年のケータイから流れる音は止まっておらず、その音楽に合いの手を入れるように、二種の音声が田んぼに響いていた。カラスのガア、ガアという威嚇の声と、少年が拳を振り回す時にうめく声とが、交互に鳴っていた。数十秒の激戦の末、ようやっとカラスに勝利したらしい少年は、肩で息をしながらも、カラスのほうへ向けてニヤリと嗤った。少年は軽く息を整え、戦の最中に一旦止めていた二輪車を再加速させるべく、ペダルに足をかけ、こぎ始めた。

 この時、少年が戦っていたカラスの逃げた理由などについては、少年は楽観的に「自分に恐れをなして逃げ去ったのだろう」などと考えていた。物事を深く考えず、単純に捉える性格をしていたその少年は、その考えを塵ほども疑わなかった。帰宅を再開した少年は、カラスが恐れをなした原因が何であるか、すぐに気付くこととなった。

 目の前に、音楽を聴きながらハンドルを握る男がいた。男は悦に入っているように、両方の瞳をとじていた。明らかな不注意運転。それは少年も同じであった。

 違う点を挙げるとするなら、相手の男が乗っていた物が、二輪車ではなく、貨物用トラックである事だった。

 一瞬時が止まったような感覚が、少年に訪れた。躱そうにも、トラックと自分との距離の近さや、自分が既にある程度迄加速していたことからして、無理であった。別段、これと云って運動や反射の神経が優れている訳でもない少年も、無理であることを刹那的に感じた。

 太陽の熱の猛威も収まってきた夕暮れ時の田路に、一つの衝突音が響いた。金属と金属のぶつかった、重く、鋭いその音は、周囲の田や草花にこだまするように吸われていった。少年のケータイは、未だやかましい音色を流していたが、アスファルトの路面に落下すると、パリンと云う乾いた音と同時に、その爆音を吐くのを止めた。静寂の訪れた田園で、その事故の一部始終を視ていた一匹のカラスが、満足したように飛び去った。

 黄昏時が、過ぎようとしていた。

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宵を待つカワセミ 九太 @napstabroook317

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