誰そ彼
手を繋いで並んで歩く。沈む夕日を眺めていると、遅くまで遊んでいた日々を思い出す。
「ほんとに、結姉は変わらないな」
「それはお姉ちゃんがいつまでも小さいことを言ってるのかな?」
「背の話はしてないけどな……?」
「嘘だー! 絶対お姉ちゃんのこと馬鹿にしてるよ!」
「してないって」
くだらないことを言い合いながら歩く。
昼間はとても暑かったのに、この時間になると途端に過ごしやすくなる。だから、よく夕方や夜はこうして山に入ったりして大人に怒られた。
「そういう朔斗だって、私からしたら変わらないよ」
「そっか。まあ、変わりたいとは思わないかな」
「そういうところが、変わってない。お姉ちゃんがいて、雄二と光哉と美梨がいて。朔斗はそれで満足なんでしょ?」
「うん、そうだよ。それでいいんだ」
「……ごめんね」
突然、結姉は立ち止まった。気づけば、眼前には海と星空が広がっていた。
日が沈みきっていたことにも気づかなかった。
「朔斗。私は、もう……」
「やめてくれ」
「駄目。駄目だよ、逃げ続けたら」
「逃げる? なにからだよ。今日、ちょっと結姉変じゃないか?」
「変、か。変かもね。だって、お姉ちゃんは……」
「やめろ!」
聞きたくなかった。理由なんてものはわからない。それでも、結姉の言葉の続きを聞きたくなんてなかった。
「ごめんね、朔斗。あんなお願いしなかったら、朔斗はこんなに苦しまなくてよかったのにね」
「違う。何も苦しんでなんかない」
「うん、うん。ごめんね。でも、いつまでも現実から目を逸らすのは駄目だよ。ちゃんと、大人になろ?」
「……もう、十分大人になっただろ。ほら、結姉が頭撫でられないくらいにでかくなった。もういいだろ」
「そうだね、大きくなった。だから、お姉ちゃん離れしないとだよ。いつまでも結姉って言ってたら駄目だよね」
「いいんだよ別に。いつまででも結姉はお姉ちゃんなんだろ」
「駄目、なんだよ」
泣きそうな顔で、でも手を離すことはなく俺を見つめる結姉の顔を、俺は直視できなかった。
耳を塞いでしまいたかった。けれど、片手を繋いだままだから無理だった。口を塞いでしまいたかった。けれど、そんな表情の結姉の口を塞ぐなんてできなかった。
「朔斗は、自分がなんでここを出ていったか覚えてる?」
「なんで? そりゃ…………えっ?」
思い出すことができなかった。なぜこの島から逃げたのか。
「逃……げた……?」
「……うん、そうだよ。朔斗は逃げた。現実から逃げて、願い事に縋ったの」
「願い事……?」
「ずっと一緒に。忘れてる……わけがないよね」
ただの、お遊びみたいな願い事だった。二人だけの約束のようなものだった。
だから、今更そんなことの話をする意味がわからなかった。
「朔斗がこの島からいなくなった理由。それはね、私が死んだからだよ」
「……は?」
「あの日、一緒に船に乗った日。初めてこの島から出た日に、私たちの乗ってた船は沈んだんだよ。今日乗ってきた船と同じ種類のやつだったかな」
「何言ってるんだよ、結姉。大丈夫か?」
「誤魔化さないで。目を逸らしちゃ駄目だよ」
それなら、どうして俺の前にいるんだ。どうして死んだはずの人が生きている俺と話しているんだ。
ずっと感じていた違和感にようやく納得がいってしまったのは、どうしてなんだ。
「お姉ちゃん、みんなに朔斗が帰ってくること言わなかったと思う?」
「でも、実際誰も知らなかった」
「そりゃそうだよ。だって、朔斗はお姉ちゃんに言ったらみんなに伝えてくれるってそう思ってたでしょ。でも、違うよ」
「また死んでるからとでも言うつもりか?」
「うん、そうだよ」
「さっきだって、美梨は結姉に話しかけてたろ」
「それは朔斗が私に話しかけたから、ここにいるってわかっただけだよ」
美梨は、本当に結姉のことを見ていたのだろうか。
ただ俺と、その俺の傍にいるなにかに話しかけただけなんじゃないんだろうか。そんなことには、気づいてしまったいた。
母さんは俺のことしか見ていなかった。すぐ隣にいる結姉を一切見ようとはしなかった。
結姉が俺の部屋に入らなかったのは、入れなかったから。触れることができなかったから。
そう考えれば辻褄が合う。合ってしまうのだ。
「そ、そうだ、スマホは?」
「願い事を叶えるためには必要なものだったんじゃないかな。ずっと一緒にいるのは無理だもん」
「なんでだよ。本当に死んでるんなら、幽霊なんだったら俺の傍にだっていれただろ」
やっぱり、嘘だったんだ。そう思いたかった。
「あの神社の言い伝え」
「……先祖の霊とか死んだ友人が願いを叶えてくれるんだろ。だから、ずっと一緒にいるって願い事をした」
「うん、そう。その願い事が中途半端に叶っちゃったのかな、私は幽霊になっても朔斗だけには見てもらえる。認知してもらえるんだ」
「さっきの質問はどこいったんだよ」
「さっき自分で言ったよ、死んだ友人の霊。そんな幽霊なんて、この島にしかいないよ」
「……だから、この島から出れないのか」
逃げる道がなくなった。自分から逃げ道を塞いでしまった。信じられないとか、ただの言い伝えだとか、そんなことを言って逃げられたらどれだけ良かっただろう。
「……わかった。全部信じる」
「よかった。なら、お姉ちゃんの言いたいことはわかるよね?」
「結姉を忘れろ、とかか?」
「それはちょっと悲しいかな……そこまでは言わないよ。ただ、お姉ちゃんとお別れしてほしい。それだけ」
「お別れ?」
「願い事のことをなかったことにして、私とさよならする。簡単だよ。言い伝え通りなら、私にも願いを叶える力はあるはずだから」
「なら、俺が結姉に生きていてほしいって願えば……」
「無理だと思う。私たちの願い事だって、こんな中途半端な形になった。そんなふうに上書きしようとしても、いつかどこかで綻びが出る。そもそも、そんなの叶えられるかわからないからね」
「……そっか」
心のどこかでわかっていた。ずっと前から、結姉と離れなければいけないということくらい気づいていた。
それでも、もしも本当に願いが叶うのだったら、今度こそずっと一緒にいたかった。離れたくなかった。傍で笑っていてほしかった。
「さよならだよ、朔斗」
「なあ、結姉。これから、結姉がいなくなってもやっていけると思うか?」
「……どーだろうねぇ。朔斗はお姉ちゃんがいないとなんもできなかったからなぁ?」
「おい。ここはなんか背中押したりするところだろ」
「にへへ、ごめんなさい」
いつも隣にあった笑顔だった。どんなときでも俺たちを前向きにさせてくれたのは、結姉の笑顔だった。
ずっと見ていたかった。ずっと隣にいてほしかった。けれどもう、それは許されることではないのだ。
「朔斗は一人じゃないからね。雄二と光哉を頼ったらいい。美梨の面倒でも見てあげて、嫌なこと忘れちゃえばいい。大丈夫、朔斗はもうお姉ちゃんがいなくてもやっていけるよ」
「結……」
お姉ちゃん。それは自称するだけのものだ。結局彼女のことを『結姉』と呼び慕うのは俺と雄二だけ。
それでも、俺は心のどこかで頼っていた。恋人としてだけでなく、姉のようなものだと思っていた。それゆえに、失うことなんてないと思い込んでいた。
「結姉、願い事してもいいか?」
「……うん。いいよ」
「もう、さよならだ」
視界が揺らいだ。いや、視界に入っていた品川結奈が歪んだ。
「わお、こうなるんだ……幽霊だね」
「そう、だな」
「もー、そんなに悲しそうな顔しないでよ。もうとっくに死んでるんだよ? 今死ぬんじゃないんだからさ」
「そう……だな」
「にへへ、お姉ちゃんはこの状況が実は嬉しかったり。彼氏の成長が見れてお姉ちゃんは満足です」
「…………そっか」
どうしてそんなに楽しそうにしていられるのだろう。消えてしまうというのに、どうして笑っていられるのだろう。
答えは簡単だった。情けないなと思った。
離れていく結姉の手を掴んで、最後に伝えたいことを叫んだ。
「結姉!」
「朔斗……!」
「今まで、ありがとう! 俺はまだまだ弱いけど、それでももっと頑張るから!」
「……うん」
「大好きだ!」
「私も、大好きです……!」
そっと口づけを交わした。目を開いたときにはもう、結姉はどこにもいなかった。
翌年の夏。
俺はまた、島へ帰って来ていた。本当は結姉が死んだという事実から逃げるためだけにこの島から出ていったからあの学校に通う必要は無いのだが、せっかくなら卒業まで頑張ってみたいと思っている。
いつものように背中に美梨を乗せて、雄二の馬鹿に光哉が付き合っている。
そこには、いつも優しく見守っていた彼女の姿はない。
「さくと……あつい……」
「降りろ。俺も暑い」
「歩いた方が暑いよ?」
「俺の気持ちを少しでも考えたことあるか?」
「ははっ、まーたやってるよ。変わってやろうか?」
「なんか汗臭いから雄二にだけは乗らない」
「そいつ放り投げていい?」
「やめてやれ。これは美梨なりに朔斗のことを想ってのことだろう」
「……そうなのか?」
尋ねてみるも、美梨は返事をしない。なるほど、本当に俺のことを気遣っているらしい。
そうして、俺たちはいつもと同じように喋って、遊んだ。飽きもせずに同じ面子で、同じようなことをしていた。
「帰るか。あっちぃしここ」
「同感だ。朔斗と美梨も、それでいいか?」
「いいんじゃない? 私はなんでもいい……溶ける……」
「溶けそうなやつがいるから帰るかな」
いつもの神社に背を向けて、また集会所へと向かう。
『にへへ……がんばれ、朔斗』
「……っ!」
「朔斗?」
「いや、なんでもない……ありがとな、結姉」
前だけを向いていこう。きっと結姉は傍にいてくれるから。
君は泡沫の儚い幻想 神凪柑奈 @Hohoemi
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