君は泡沫の儚い幻想
神凪柑奈
彼は誰
船に揺られながら、海を眺めた。
懐かしい友人たちの顔が浮かんでくる。車の通りもほとんどない、一日に数本だけ船が来るような小さな島。そこが俺の故郷だ。
魚が跳ねるのを見ながら、携帯電話を確認する。
あの島では一人だけ携帯電話を持っている人がいる。貧乏で持てないというわけではなく、ただ電波環境が悪すぎて港でなければ使えないから持たないというだけだ。
「『学校とかそっちの話聞けるの、楽しみにしてます』か……」
結姉こと結奈とは連絡を取ることもできるが、頻繁に話しているわけではない。いつ電話をかけても出ないし、メッセージを送っても既読すらつかないから連絡を取るには取れないわけなのだが、そもそもスマートフォンを使う機会がなかなかないからだろう。少しくらい俺のことを思い出してくれてもいいと思うが。
水平線の向こうに、小さく島が見えた。なにかが揺れている。
それが何なのか、誰なのかはすぐにわかった。
「そんなに手、振らなくてもわかってるけどな……」
ぶんぶんと大きく手を振っているのは、他でもない結姉その人だった。
「……おーい! さーくーとー!」
麦わら帽子を押さえながら、その手とは逆の手を振っている。今にも帽子は飛んでしまいそうだ。
距離はある。こっちを認識できているかは、正直なところ微妙だ。多分見えてないけど手を振っているのだろう。
とりあえず、手を振り返してみる。どうやらそれは見えたようで、帽子から手を離してぴょんぴょん跳ねてしまった。
「帽子! 飛ぶぞ!」
精一杯叫んでみる。さっき結姉の声はなんとなく聞こえたから、届いてほしい。が、その願いは届かず帽子は宙に浮いて、そしてこちらに飛んできた。
なんとかその帽子に手を伸ばす。ギリギリだったが、取る事が出来た。
そうこうしているうちに船が港に着いた。乗客はそれほどいなかったようで、降りる人は少なかった。
「
「結姉……自分の身だしなみくらいは理解してくれ?」
「にへへ……ごめんなさい。ありがとう」
「いいよ、別に。行こう」
「ん!」
小さくて、柔らかな手を握る。どうにもその手を握ることに慣れることはできない。
船が港から離れていった。幼い頃はいつも見送っていた船の姿が懐かしくて、なぜか泣きそうになった。
「背、伸びたねぇ……お姉ちゃん頭に手が届かなくなったのでちょっと悲しいです」
「去年、俺が島出る前も同じこと言ってたぞ」
「およ? そだっけ?」
「そうやって背伸びして頑張ってた。ほんとに結姉数ミリも伸びないよな」
「うるさい! もう、つい数年前まであんなに可愛かったのに!」
「何年前の話だよ」
昔は俺だけじゃなく、他の連中のお姉ちゃんのような存在だった。年が経つにつれてみんなが結姉の身長を越して、そして今では結姉が一番小さくなってしまった。
そうして俺たちは成長する中、結姉は成長が止まってしまったのだ。
「部屋、綺麗にしてるよ」
「掃除してくれてたんだ。ありがとう」
「みんなでしてたんだよ。なーんにも面白いものは出てこなかったけどなー? えっちなのとか」
「結姉が見るようなところにそんなもん置いとくかっての」
「ほー、それは
「断じて違う」
しばらく結姉は疑ったような表情だったが、すぐにいつものにこにこ笑顔に戻った。その辺に興味があるわけではないのだろう。
海が見えなくなってきたくらいの場所で、ようやく家が見えてきた。父親は出稼ぎで今年の夏も帰ることができないと申し訳なさそうな連絡が来たが、母親はいるはずだ。ちなみに父親の職場と俺の下宿先が近いので俺は偶に父親と会っている。
「ただいま」
「ただいまー、おばさん」
「……朔斗?」
懐かしい声だ。聞き慣れた、忘れるはずもない声。
「朔斗! もう、帰ってくるなら先になんか連絡くらいしなさいな!」
「ん? 結姉から聞いてないのか?」
「……結ちゃん?」
母さんはなにやら首を傾げている。どうやら、結姉は言ってないらしい。
「にへへ、ごめんなさい」
「はぁ……」
「なんのことかわからないけど、とりあえず部屋に荷物置いてきなさい。みんなが掃除してくれてるから、そのまま使えるはずだから」
「ああ、うん」
いつの間にか結姉は部屋に向かっていたらしく、扉の前で手を振って待っていた。
「入ればいいのに」
「朔斗の部屋だし」
「掃除してくれてたんなら入ってたろ。別にそんなこと気にしなくていいよ」
「りょーかい」
びしっと敬礼をして、でも入ろうとはしない。前まではそんなにデリカシーがなかったような気がするが、少しは成長してくれたのかもしれない。
部屋の扉を開けてみると、去年までと変わらないままの部屋があった。
「本当に片付いてるな……ありがとう、結姉」
「私だけじゃないよ。みんな手伝ってくれたもん」
「そっか……まあ、後でちゃんとあいつらにも礼を言いにいかないとな」
「そうだね……」
「ん? なんかあった?」
「ううん……ごめん、ちょっと暑くて疲れちゃったみたい。お姉ちゃんはここで休んでます」
「じゃあ、結姉が回復してから……」
「い、いいよ。みんな待ってると思うから行ってあげなって」
「でも……」
「朔斗は、そろそろお姉ちゃん離れするべきだと思うな」
結姉にしては珍しく、含みのある言い方だった。拒むわけではなく、責めるわけでもない。いつもと変わらないままの口調なのに、違和感があった。
「……わかった。ここにいろよ?」
「うん。お姉ちゃんが朔斗に嘘ついたことあった?」
「ない、けど……」
絶対に嘘はつかなかった。どんなときでも、本当のことは言わなかったとしても嘘はつかなかったのが品川結奈だ。
それなのに、どうしてかその言葉を信じることができなかった。
結姉を置いて家から出る。夏の暑さを実感できる強い日差しに自宅へ引き返そうかと思ってしまうが、昔の仲間と久しぶりに会えるのだから足を進める。
変わりなければ、この時間はおそらく集会所にいるはずだ。なにもない建物だったが、子どもの遊ぶおもちゃが増えている、俺たちみんなの秘密基地。
まともに整備されていない坂道を歩く。荒れているが、いつも歩いていたから歩きにくさは感じない。
「変わってないな……」
ボロボロの外観。伸びきった草木がところどころに絡みついている。
「あや、朔斗?」
「
「んー……ん? そうだねぇ……?」
「一年ぶりだぞ」
「ん……そういえばそっか。ここまで一人で来たの?」
「いや、家までは結姉と来た。熱中症みたいだから置いてきたけど」
「……結と?」
「そうだ。ほんとに、帰ることちゃんと伝えといてくれよ……」
美梨は首を傾げて、それから突拍子もないことを言い始めた。
「つまり、存分にらぶらぶした……?」
「違うが?」
「あや?」
「さも不思議そうな顔をするな。ほら、二人のとこ行くぞ」
「んー」
錆び付いた階段を踏みしめると、軋むような音が鳴る。いつ壊れるともわからない階段は数年前からずっとこのままだ。
集会所には二人の、俺と同じくらいの身長の男子がいた。
「変わらないな、ほんとに」
「……お? 朔斗?」
「久しぶりだな、雄二。
「おー! やっぱ朔斗だ! どこにでもいる顔だから見間違えたかと思った!」
「絞め殺すぞ」
軽く首を絞めてやる。なにも変わっていないことに少しだけ安心した。
「まったく、急に帰ってきたからなんの歓迎もできんだろうが」
「やっぱり言ってない……まあいいや。それより、元気にしてたか?」
「それは見りゃわかんだろ。三人とも元気だよ」
「そっか」
以前までと変わらない光景だった。雄二と光哉は馬鹿みたいな遊びをして、それを見ながら美梨は床に突っ伏して溶けている。
「ああ、そうだ。朔斗が帰ってきたんならまた四人で神社行こうぜ」
「いいな。賛成だ」
「いや、結姉は置いていくのかよ」
「……朔斗、それマジで……」
「結は熱中症だから、安静にしとくべきだと思うなー?」
「あ、そっか」
雄二が何かを言おうとしていたが、それを美梨がそれを遮ってしまった。同時に光哉が頷くと、雄二はバツが悪そうにそっぽを向いた。
「なあ、美梨。結姉となんかあったのか?」
「んー、なんもないよ?」
「それなら、いいんだけど……」
「喧嘩してもすぐ仲直りしてたでしょ。大丈夫大丈夫」
「……まあ、それもそうか」
「そーそ……というわけで、おんぶ」
「はいはい」
美梨をおぶって、四人でボロい集会所を出る。神社は山奥の集会所の、その更に裏にある道を進んだ場所にある。
「先祖とか友達とかが加護を与えたり願いを叶えてくれたりするんだよな」
「なっついなぁ、それ。それ信じてたのお前と結姉だけじゃん」
「うるせーな。結局あそこが今でも遊び場になってるだろ」
「お前と結奈があそこを気に入って離れんかったからだがな。まったく、肝心の結奈がいないと少し静かじゃないか」
そんな理不尽なことで怒られても、いつも俺と結姉が一緒にいるわけではない。恋人という関係ではあるものの、だからといってなにもかもが同じなわけではないのだ。
「にしても、私にこんなことしてて結に怒られないのー?」
「今更だろ」
「それもそっかぁ……なんか、デートとかも行かなかったし、変わらなかったねぇー」
「強いて言うなら、結姉が朔斗朔斗ってうるさくなったくらいだったな」
「そんなこと言ってたのか?」
「いや、わりと結奈はいつもそうだっただろう。頭の中は朔斗のことしかなかった」
「それは言い過ぎだろうけど」
「いやー、どうだろうねぇ……実際、結はそんな感じだったかもねぇ……」
残念ながら結姉はそれほどまでには俺のことが好きではない。嫌いというわけではなく、俺と同じくらいみんなの事が好きなのだと以前自分で言っていた。
しばらく歩くと、見慣れた神社に着いた。集会所と同じで誰も管理をしていないであろう、ボロボロの神社。
境内に一歩踏み入れると、神社を縄張りにしている烏が飛び立った。
「降りるー」
「相変わらず自由だな……」
「それが美梨の良いところだ」
「まあ、確かに」
「ほら。手、パンパンするよ」
「お参りしてもらってもいいか? 少なくとも手を叩きに来てるわけじゃないからな?」
「はいはい」
この神社には、ちょっとした言い伝えがある。先祖の霊や死んだ友人が願いを叶えてくれるという、今では誰も信じてもいない言い伝えだ。
そんな言い伝えでも、俺と結姉は小さい頃は信じていた。毎日のように二人でここまで来て、そうしていつも願い事をしていた。
「ずっと一緒に、か」
今思えば、その願い事は叶っているとは言えないだろう。俺が島を出てしまったから、一緒にはいない。
「……ん?」
なぜか、自分の思考に違和感を感じた。
「どうした? 早くしよーぜ」
「あ、ああ。そうだな」
願うことは特に思いつかなかった。だから、五人がずっと元気でいれるようにと願っておいた。
しばらくそのまま喋っていると、いつの間にか日が暮れていた。さすがに子どもの頃みたいに走り回ったりはできなかったが、懐かしい時間だった。
「んじゃま、今日は帰るかー」
「ふむ、そうだな。おい朔斗、今回はいつまでいられるんだ」
「月末まではいれるよ。まあ、課題とかもあるから毎日馬鹿やってる時間はないけど」
「課題……そうか。俺たちに手伝えることがあれば遠慮せず言うといい」
「課題くらい自分で片付けるよ」
本当はもう少しこうして話していたかったが、生憎疲れも溜まっている。それに、明日もその次も、夏休みの間はずっとこいつらと一緒だ。
それに、結姉も心配だった。
「じゃあ、また明日な」
「おう! 結姉によろしくな!」
「……本当に空気が読めん奴だな、お前は」
「えっと、結姉と喧嘩でもしてんのか?」
「あー、まあそんなところだ!」
逃げるように走り去った雄二。それを追って光哉も走っていった。
「美梨も、また明日な」
「……ん。ばいばい、朔斗」
手を振りながらも、その場を動こうとはしない。このままやり取りを続けていては埒が明かないので、回れ右をして帰ろうとすると、誰かとぶつかった。
「……結姉。家にいろって言ったろ」
「ごめんなさい。でも、お姉ちゃんももうちょっと朔斗とお話したいです」
「帰ってからすればいいのに……」
「今日の星は、今日しか見れないでしょ?」
「星が見たいのか」
「あの山の上。覚えてる?」
「もちろん。星と海とがよく見える場所だろ。行くのか?」
「うん。行きたい」
いつもとは違う、どこか真剣な表情で手を伸ばしてきた結姉の手を、離さないように掴んだ。
「結は、そこにいるんだ」
「美梨? 何言ってんだ、ちゃんといるだろ」
「ん……そうだね。またね、朔斗。結」
そう言って手を振る美梨は、俺と結姉を寂しげな表情で見ていた。
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