学校生活というものに、私は辟易していた。

 どこに目を向けても誰かの顔が見えるこの教室も、絶えぬよう引きられる声も、安っぽい絡繰からくり仕掛けの人間関係にも。

 だからいつも、イヤフォンで耳にせんをしている。まぶたで目にふたをしている。一日で最も賑やかな昼休みの時間を、こうしてパスしている。

「……っ、」

 お気に入りの音楽に浸っていると突然、こめかみの辺りに痛みが走った。驚いて目を開くと、私の机越しに女生徒が一人立っていた。

「あ、ごめんね!」

 彼女はそう言って苦笑し、私の頭を撫でる。

「痛かったでしょ、よしよし。」

「……。」

 彼女は悪戯いたずらのつもりで、私の耳からイヤフォンを引き抜こうとしたのだろう。ところが、それに絡んだ私の髪の毛まで一緒に引っ張ってしまったらしい。

 向こうは向こうで驚いたかも知れないけれど、私は一層憮然ぶぜんとしてしまう。

「……何?」

「うん。あのね?」

 このとは、友達ではない。ただいつも元気で誰にでも話しかけるような性格みたいだから、たまに勢い余って、私にすら話しかけてくるというだけ。

「次の携帯さ、これか、これで迷ってるんだけど、どっちがいいと思う?」

 パンフレットから切り取ったらしい紙片を私の机に広げ、飾りつけた爪で順に指す。オレンジか水色か、ということらしい。

「こっち。」

 どちらでもない漆黒の機種を示す私に、彼女はどこか期待していたような笑みを見せた。

「渋すぎるよー。それってきみの趣味じゃん。」

 それは当然に思うけど。

私的わたしてきには、オレンジかなって思うの。後でミカンのデコつけようと思ってるし、私とのイメージとも合うかなーみたいな。でも水色もよくない? ああ迷うー。ねぇどっちが似合うかなぁ?」

 ……よく動く口だ。

 彼女の健康的なピンク色の唇を見るたび、消しゴムでも突っ込んでやろうかと思う。しばらくは黙るだろうし、その時に目をさまは、ちょっと見たい。

 微かに低音だけが漏れるイヤフォンを拾って、また耳に押し込もうとしたとき、ふと窓の外に気づいた。

「……んでる。」

「ん?」

「雨。」

「あぁ、ほんとだ。……え、どこ行くの? もう授業始まっちゃうよ。」

「トイレ。」

「じゃあ何でカバンとイス持って……、」

 後ろ手に教室の扉を閉め、彼女の声を遮った。

 ニュースサイトの気象情報を確認し、携帯を閉じる。

 梅雨が明けたらしい。となると本格的な夏がやってくる。これから気温はぐんぐん上がって、その蒸し暑さに皆みっともなく喘ぐのだろう。

 梅雨と一緒に終えるとを決めていた私には、もう関係のないことだ。

 椅子いすを引きって、廊下を歩く。並んだ窓ガラスが一枚また一枚と通り過ぎていく。そこに、今まで起こった色んな記憶を映写しようと試みるけれど、あまり上手くいかなかった。

 5限目が始まる直前という周囲の慌ただしさのせいかも知れないし、窓の向こうに続いてゆく景色が、野暮やぼなくらい鮮明で、そして押し付けがましく輝いているせいかも知れない。

 ろくな思い出もないのに走馬灯を自己演出するのは諦めよう。いざ終えるとなると、世界というものが少しくらいはいとおしく見えるかと想っていたんだけれど。

 遠ざかる雨雲を追うように、私は歩いていく。




 短編#01 (少女side)




 国道沿いのバス停にて。

 学校から持ち出した椅子と、ロープと水筒が入ったかばんを抱えて立つ私の前に、目的のバスが停まる。向かうはあの山。私にひどい仕打ちを与えた××学校とゆかりのある、あの場所。

「……。」

 椅子ごと車内へ乗り込んだ私に、他の乗客たちが一瞬、ざわついた。私は空いたスペースに椅子を置き、そこに座る。思ったより揺れるので、座り心地はよくない。それに、乗客たちの視線をあちこちから感じる。放っておいてほしいのに。

 そこから数回目の停車の際、たくさんの買い物袋をげた中年の女性が車内に入ってきた。そのとき座席は空いておらず、彼女は途方に暮れているようだった。

「……あの、」

 私が声をかけると、女性はすぐにこちらへ振り返った。

「席、どうぞ。」

 私の言動に、乗客たちが静かに動揺したことが分かった。

 当の女性は、笑顔で会釈してこちらへ歩み寄る。そして私が譲った席がバスに備え付けられたシートでなく、ただそこに置かれた木製の椅子であることに気づき、硬直した。

 彼女はそれなりに疑問を抱いているようだったが、バスが動き出したので結局、その椅子に腰を下ろした。

 居心地が悪そうに座っている女性を間近で見下ろしながら、私は吊革を掴んだ。

 さらにいくつかのバス停を経て、目的地の最寄りへ着いた。あの小学校の正門前だ。

「……あの、」

 声をかけると、女性は私を見上げた。

「その椅子と私、降ります。どいてくれませんか。」




 #




 バス停から離れ、××小学校の敷地に沿って歩く。椅子を引き摺り、あの山に向かって。

「……。」

 緑色のネットで覆われたグラウンドで、小学生たちがドッヂボールをしていた。きゃあきゃあ喚いては飛び跳ねている。しばらくの間、ネットを掴みながらそれを見る。




 何度も持ち方を変えながら、椅子を連れて山道を歩く。さすがに疲れてきて、息が弾み汗も流れた。苦手な感覚だ。

(べつに急ぐこともないか。せっかく最期なんだから、じっくり味わおう。)

 そう思い、休憩をとることにした。錆びついたカーブミラーの周辺に日陰があったので椅子を置き、そこに座る。

 山というものの特性なのか、ここは少し涼しい。真昼で今の気温なら、朝や夜は肌寒いくらいなんだろう。

 鞄を開け、いつも持ち歩いている果実酒で喉を潤す。アルコールは飛ばしてあるので幼い頃からジュース代わりによく飲んでいたものだけど、これで最後だと思えばなかなか感慨深い。

 何だか、ようやく気分が盛り上がってきたかも知れない。目的地と目的までは、もうすぐだ。




 寂れた神社の境内を素通りし、汚らしいベンチの奥、荒れ放題の茂みを越えて、あの場所に辿り着いた。

 あまり大きくない樹と、〝××小学校卒業記念樹〟と記された立て札。当時流行っていたらしいキャラクターのイラストが添えてあり、あてがわれたフキダシに、『みんなの思い出の記念樹』と書いてある。

 私はその記念樹に歩み寄った。幹の直径はバスケットボールくらいなので、さほど頑強でもない。けれど私ひとりの体重くらいは支えられるだろう。

「……う。」

 ふいに、生々しい香りが漂っていることに気づいた。甘く、ぼうっとしてしまいそうな……酔いれそうな匂いだ。思わず口元を覆ってしまう。

 周囲に咲いている、あの白い花たちの香りだろうか? こちらへ訴えかけてくるような、主張めいた干渉だ。何だか、茶々を入れられたようで面白くない。今くらい、そっとしておいて欲しい。

 急いではないけれど、あまりのんびりしていても仕方ない。私は作業に取りかかった。

 ロープを取り出し、まず幹に縛りつける。おかしな言い方だけれど、命綱だ。ここがゆるかったりすると、いざ本番で大変かっこ悪いことになる。

 とはいえロープなんて扱い慣れていないので、蝶々結びの上からぐるぐると何重にも巻きつけることしか出来ない。最後は綱引きのように体重をかけて引っ張り固定した。雁字搦がんじがらめにされた蝶の姿は無残だけれど、これでたぶんほどけはしない。

 次に、ロープの反対側の先端部分。言わずと知れた首を吊るための輪だけれど、これは事前に調べて、既に結んである。

 遠心力を使ってロープを放り、手ごろな枝に渡して何とか引っかけた。これで準備は完成した。

 いよいよだ。私は靴を脱ぎ、椅子に立って背筋を伸ばした。おごそかな心持ちで輪を掴み、喉元に引き寄せようとして、そのまま数秒が流れた。

「……っ。」

 これは。

「う……?」

 まずい。まさか。

「とどかない……。」




 #




 何てこと。

 私は、万が一を恐れすぎた。恐れすぎて、足下をすくわれてしまった。

「……何なの!」

 思わず幹を蹴る。枝や葉が揺れて、雫が降ってきた。一層腹が立つ。足先も痛い。

「うう……。」

 一度、落ち着こう。癇癪かんしゃくを起こしても仕方ない。何か考えないと。

 輪の高さが合わないだけだから、どうにかなるはずだ。例えば、椅子の下に周囲の土を集めて盛り上げて、足場を高くするとか。

「スコップがなければ無理だ……。」

 垂直跳び、あるいは懸垂けんすいで誤差ぶんの高さを埋めるとか。

「私に出来っこない……。」

 最も確実なのは、幹に縛りつけたロープを一度解くことだろう。無闇に巻きつけた部分を二、三周くらい省略して結び直せば、喉元に届く長さになるはずだ。

 ただ、二度と解けないようにとガムシャラに縛ったロープに取り組むのは正直、気が遠くなる。先端の輪も解かないといけないだろうし、億劫おっくうだ。

 どうしよう。いっそ、この椅子から思い切り飛び降りてみようか。頭から落ちれば死ねないだろうか。

「でも足場がやわらかいな……首を折っても意識は残ったままで、徐々に衰弱死なんて絶対に嫌だ……。」

 もう諦めて、筆記用具で頸動脈けいどうみゃくを引っこうか。それが無難だろうか。

 でも死体が見つかったとき、「いや、じゃあこの椅子とロープは何だよ。さてはこいつ首吊りに失敗して、慌てて血管突きやがったな。」ってバレたらどうしよう。「これだから××小学校出身じゃないやつは。」だとかも、言われかねない。そんなの死にきれない。

 冗談じゃない。こんな山奥にまで来て、ただ樹にロープ結んだだけで帰るもんか。だいたい帰ったところで、もう私の机に椅子はない。これ持って帰るのも億劫なんだ。

 大丈夫。神が私を見捨てるはずがない。きっと今に、救いが訪れるはず。

 椅子の上で爪先立つまさきだちになって、両手で輪を掴んで、首よ伸びろ今こそ伸びろと念じているその時、

「!」

 いきなり、一人の少年が樹下に現れた。

「……。」

「……。」

 まったくの出し抜けだった。その少年も驚いたらしく、見開いた目で私を見つめてくる。

 そしてふと、この樹の周囲が、太陽にまばゆく照らされていることに気づいた。

 改めて、少年に目を向ける。

「……?」

 ああ。

 この、汗が似合わない、けれど妙に上目遣いが似合う少年こそが、私にもたらされた救いなのだろう。

 そう思った。




 了



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短編#01 蒔村 令佑 @makirike

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