魔女は家族を愛してる

今野綾子

魔女は家族を愛してる


ひとしきり話を終えた後、彼女は涙をいっぱいに溜めた目を窓に向けた。

秋の低い空。雲間から差す柔らかい光と、色を変えて散り積もった落ち葉。

深い茶のフレームの中には四季が描かれる。

彼女の横顔は憑き物が落ちたようにすっきりとしていた。

「本当にありがとうございます」

テーブルの上にはタロットカード。逆位置の死神。産みの苦しみ。死からの再生。私は占いが示す通り、出来る限り慎重に言葉を選んで進むべき未来への助言をした。そして、今日最後にと白い手のひらに石を一つ握らせた。『お守り』だ。

澄んだ青い石を見つめ、彼女は言った。

「でも、これ高いんじゃ……」

首を振ると、驚いたように二重の目が開く。

相談料は既に貰っている。私は今の暮らしを保てるだけの金銭があれば充分だ。

石に意識を向け、彼女を守るようにと再度『力』を送った。細かな光がすうっと溶けていくのは、きっと見えていない。

助けを求める手は離したくない。どうか幸せになって欲しいと願う。だけどそれは、一朝一夕には運ばない。

傷ついた心には深く根付いた恐怖や不安、自身と他者への猜疑が根深くこびりついている。一時的に落ち着きを取り戻したとして、治りかけの傷に痛みが重なればトラウマにもなりかねない。治療には時間と薬が必要だ。

私は日を改めてここに来るよう言った。次回までにあなたのために別の『お守り』を用意するから受けとって欲しい。もちろん代金なんかいらない。

彼女は女神のように私を崇めた。過度な賛辞は気恥ずかしい。しかし、この店を訪れた人は必ず幸せにする。それが力を受け継いだ魔女としての務めだからだ。

ベルを響かせて扉は閉まる。

さて、と顎をなでた。どの薬がいいだろう。

飽きるほど読んだ薬草学の本と庭で育つハーブを頭の中で照らし合わせる。

そうだ、アロマがいい。香水として肌につけることができるし、湯舟に数滴たらして全身で浸る事もできる。しかし、効果を求めると調合は複雑なものになりそうだ。

祖母の手を借りる必要がある。

店を継いで随分と経つけれど、まだまだ一人前には遠い。ここに座っていた先代の魔女がいかに偉大であったか改めて思い知る。背もたれに寄りかかると、ぎいと椅子が音を立てた。

香ばしいものが鼻をくすぐる。

ジンジャークッキーの香りが後ろの扉からふわりと漂った。

短針は三の少し前を指していた。次の予約は一時間後。休憩を取るにはいい頃合いだ。万が一急な来客があってもベルが教えてくれる。

次のお客についても、祖母のアドバイスをもらいたかった。

家庭のある男との恋。抜けられない、ダメだと分かっていても止められない。自分はいったいどうしたらいいのか。

電話の向こう。悲痛な声は足掻く沼の深さを物語っていた。恋に狂った女の哀しさは身をもって知っている。

私は椅子から立ち上がり、背後にある厚い木の扉を開けた。

光の洪水。眩しさに目を細める。広いリビングがそこにあった。オーブン皿を持ったミトンと、深い皺が刻まれた優しい顔が私に微笑みかける。

「お疲れ様。丁度焼きあがったところよ」

焼き立てのクッキーの香りをいっぱいに吸い込む。たちまち空腹に拍車がかかった。

「さあ、おかけ。あなたの好きなカモミールもあるわ」

アンティークのダイニングテーブルを祖母と私と母の三人で囲む。

テーブルの上の水晶玉の中では、赤い花びらがひらひらと舞っている。まるでスノードームだ。

絵に描いたような幸福。家族の団欒。

カップに満ちるお茶を眺めながら、しばしの休息に息を吐いた。


***


魔女の住処は街の中にあった。

大通りを渡り幾つかの細い路地を入っていくと、その店は見えてくる。

小さな二階建て。こじんまりとした門の内側はハーブと季節の花々で溢れていた。正面玄関はそのまま店の入り口となっているが、看板は出ていない。

祖母はこの家で占いやカウンセリング、骨董品の売買をして生計を立てていた。

狭い店内には分厚い外国語の本や人形、絵画に様々な形をしたガラス細工と大小の水晶玉が所狭しと並んでいる。

祖母は愛用の椅子に座り、厚い別珍を敷いたカウンターを挟んで来客の話を静かに聞いていた。

そんな光景とともに、私は育った。

仕事で帰りの遅い母が迎えに来るまで宿題をしたり、興味のまま祖母の蔵書を読みふけったり、頼まれたハーブを摘んできたり。

この店に足を運ぶのは予約客がほとんどだが、時折ふらりと迷い込むようにやってくる客もいた。祖母は必ずその少し前に『あら、お客様がいらっしゃるわ』と視線を宙にやる。そうしてしばらくすると、本当に扉が開くのだ。

どうして分かるの? 聞くと『ベルが鳴るのよ』という答えが返ってきた。

私は首をかしげた。ベルの音なんて聞いた事ないし、扉のどこを見てもそれらしきものはない。それ以降もベルの音も姿も見る事はなかったが、祖母は相変わらず『ああ、お客様がいらっしゃる』とおしゃべりや庭の手入れを中断し、いそいそと客を持て成す準備に取り掛かる。

店は不思議であふれていた。

薬草や水晶、タロットカードを操る祖母は魔女のようだったし、店は物語から飛び出した魔法使いの家そのものだった。そして、私にとってここはとびきり居心地が良かった。だが、過ごせる時間には限りがある。

月が濃く輝き、高く登る頃。母が迎えにくる。と言っても仕事終わり、大通りの交差点近くで私を待っているだけで店には来ない。

祖母と折り合いが悪い事は幼心に気付いていたが、私は二人をとても愛していた。

帰りたくないような、帰りたいような。いっそこの家に三人で暮らせればいいのに。この小さな二階建てに大好きな祖母と母と暮らせたらどんなに素敵だろう。そう言うと、祖母は決まって困った顔をした。どうして? だって、私が母と暮らすマンションは大通りを渡った少し先。引っ越しをしたところで生活に支障があるとは思えない。

しかし私の願いを聞いた祖母は曖昧にうなずくだけ。

「……ママが心配するわ」

ぐずる私をあやすように額と、首からぶら下げた石にキスをした。これは祖母がくれたお守りだ。今も約束通り、肌身離さず身に着けている。

しぶしぶ家路につき大通りに出る。ネオンの眩しさに目を細めた。アスファルトと人工的な光の洪水に満ちた世界は少しばかり居心地が悪い。目と鼻の先の交差点の向こう。路肩に停まった赤い車に乗り込んだ。

「宿題は終わらせたの?」

開口一番、不機嫌そうに母が言った。

ルームミラー越しに見た顔は疲れているようだったが、薄化粧を施した母はとても美しい。一緒に街を歩けば子連れだろうとお構いなしに男達が振り向いた。それこそ、魔法にかかったかのように。

私がシートベルトをしたのを確認して、車はゆっくりと滑り出した。

「あなたももう大きいんだから、おばあちゃんの店に通うのはやめなさい。お留守番くらい、一人でできるでしょう」

私は何も言わなかった。この小言は本気じゃない。

心から祖母を疎ましく思っているならこんなに近い距離にマンションを買うだろうか。自分の娘を預けるだろうか。

沈黙の車内。短いドライブの間、母はそれ以上何も言わなかった。

そうした日々をすごし、何度かの春ののちに中学を卒業した。

高校に上がる頃にはすっかり手伝いも板につき、見様見真似でタロットカードやダイスを使った占いを始め、庭で育てたハーブからアロマなんかを作るようになる。同じ年頃の女の子たちがお洒落や男の子の話に夢中になるのと同じくらい、祖母と過ごす時間と空間に夢中になっていった。

神秘で満ちた毎日が積み重なると同時に、私の中に秘めた思いがより輪郭をくっきりとさせていく。それを母に打ち明けることになったのは高二の春、初めて進路選択の紙を配られた時だった。

卒業したら祖母の店を手伝いたい。

母は納得するだろうか。決して良くは思わないだろう。いずれにせよ、三者面談の日程を確認しなければならない。

憂鬱な気分になった。このところ母とは満足に会話もない。それどころか、顔も合わせていないのだ。休日も平日もなく家を空ける上、帰宅は日付が変わる頃。年に何度かこういった時期がある。

母は男の人と会っていた。

それに関して、私は否定的な考えは持たなかった。子供がいるとは言え独り身だ。恋人がいたってなんら問題はない。しかし――。

洗濯物のブラウスには、昨日と違う男物の香水が染み付いていた。

母が会っているのは不特定多数の男。遊び? それにしては楽しんでいるようには見えなかった。そして、もう一つ不可解だったのは男と会った日、必ず母はプレゼントを貰って帰ってくる。『気持ちが悪い』と食べ物でもなんでも他人からの贈り物を嫌う母が、だ。

一目で高価と分かるブランドロゴの入った袋はしかし開く事なく数日のうちに忽然と姿を消し、替わりに質屋のレシートがテーブルに放られていた。

母の顔色はますます悪くなっていき、やがてストレスが頂点に達すると一日中自室にこもって泣くようになる。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

どうしたのかと様子を訊ねると縋るように謝罪をされた。どうして私に謝るのだろうか。いや違う。謝っているのは私にではない。母が見ているのは私の瞳だ。

明るい茶色。それは、生き写しのような私と母の容姿でただ一つ大きく異なる箇所だった。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい」

誰に謝っているの?

どうして自分を傷つけるの?

喉まで出かかった言葉は声にならなかった。

こんなに苦しくてもそうせざるを得ない理由があるのだ。その理由について私には見当もつかないし、誰に対して罪悪感を抱いているのかなんて、まして聞いてはいけないような気がした。

殺風景な部屋でしんしんと泣く母はあまりに頼りなく、私はその度に途方に暮れた。こんな時、祖母だったらなんと声をかけるだろう。抱きしめた華奢な身体。その肩越し、整頓されたデスクの上に黒い水晶玉を見た。

直線的な家具に囲まれたこの部屋で、あの水晶玉だけが異質だった。昔からあるそれは祖母が持つ水晶玉と似ていたが、母のは黒く濁っている。

うんともすんとも言わない黒い玉が妙に気になり、痩せた背中をさする間も私はじっとそれを見つめていた。

結局、進路調査について話はせずに夜が明けた。リビングには化粧を終えた母がいた。テーブルには私の分の冷めた朝食が置いてある。

「出かけてくるわ」

仕事ではないのは恰好を見ればすぐに分かる。男のところだ。昨日、散々泣いたのに。

見えないよう唇を尖らせた。しかし私には止める言葉も術もない。

「荷物が届くから受け取って。おばあちゃんの家に行くのはその後にしてちょうだい」

言いつけ通り、朝一番で店に行くのは諦めた。簡単な昼食を終え、読みかけのハードカバーを開くと同時にチャイムが鳴った。郵便局員から分厚い封筒を受け取る。ずっしりと重い。扉を閉めた後、一体これはなんだろうと興味をそそられ表面を撫でた。

瞬間、全身が総毛立った。

何? これ。

冷たく黒い何かが一瞬にして背筋を駆け抜けるような気味悪さ。一方で好奇心に駆られた私は恐る恐る再び封筒を撫でた。

ぞわり、とひどい悪寒に目をつむる。瞼の裏。茶封筒に重なって、もう一つ、隠された封筒が見えた。

――●●探偵事務所。

それ以外の細かな文字は読み取れなかったが、替わりに何枚かの写真が見えた。

何の変哲も茶封筒だ。しかし私の目は視界とは別の何かを認識している。

あまりにも不自然なその事象だが、私はなぜかすんなりと受け止めた。

そうしてまた封筒を二度、三度と撫でる。

視える。

空港だろうか。大きなキャリーを引くスーツの男。視線は全く別の方を向いている。明らかな隠し撮りである事が窺えた。次の写真はマンションのエントランスが背景。やはり隠し撮りだ。最後の一枚は証明写真のようだった。四十代くらいの男が真正面からこちらを見つめていた。

あっ、と声を上げて封筒を手離した。

男の瞳は、私と同じ茶色だった。

夜。帰宅した母はテーブルの上に放った封筒を見ると頬をバラ色に染めた。ブランドの袋は雑に放られた。

私は祖母の家にはいかず、部屋に籠って写真の男について考えていた。

悪い事と分かりながら漁った母の寝室。机の引き出しからは様々な興信所や探偵事務所の封筒や名刺、そしてとある人物の捜索に関する書類がどっさりと仕舞ってあった。

納得がいった。

これだけ頻繁に探偵や興信所を利用していればお金はいくらあっても足りない。母は男達からの貢ぎ物を金に換え、それをもってあの男を探し続けていたんだ。

――ごめんなさい。

茶色い目に謝る母の姿が脳裏をよぎる。

あの悲痛な叫びがちぐはぐな行動の理由を教えてくれた。だが、疑問は消えても気分は晴れない。勝手に秘密を暴いてしまった後ろめたさも相まって、母と顔を合わせる事を考えると酷く気が滅入ってしまう。

明日からどうしよう。

進路調査用紙の提出期限も迫っている。担任には散々急かされた。クラスで未提出なのは私だけ。

様々な事が一気に突きつけられたが、この無数の剣先を無視してはいけない気がした。逃げてはいけない。それは、私のためでもあるし自分を傷つける母を守るためでも、悲しそうに微笑む祖母のためでもあった。

意を決して調査用紙を持って廊下に出ると、まだリビングの明かりはついていた。

テーブルには空になったボトルとグラスに残った赤ワイン、それから書類の束があった。

母は私の気配に気づき、険しさの消えた顔で手招きをした。

話があるのはお互いのようだ。

「家族で暮らしたい?」

唐突な質問だった。母の言う『家族』に写真の男が含まれていることは容易に理解できた。

封筒を手にした時と同じ嫌悪が湧き上がる。

私の家族は祖母と母だけだ。暮らすなら三人がいい。

母はさっきまでの笑顔を引っ込めた。

「パパに会いたくないの?」

さりげなく写真を差し出されたが、私は顔をそむけた。藁半紙を握る手に力がこもる。手汗が滲む。

「……それは何?」

静かな声に逆らえず、調査用紙を差し出した。まだ何も書いていないそれと私の顔を、母は交互に見つめた。

「大学に行くのよね?」

私は首を振った。

「どうして? 高校からの就職は難しいわ。ママだってずいぶんと苦労したの。あなたにそんな思いはさせたくない。きちんと大学へ行って、お勤めをして、そうして暮らしなさい」

私はまた首を振った。

「だったらどうするの!」

ヒステリックな声に私は淡々と答えた。

祖母の店を継ぎたい。大学には行かない。あの家で三人で暮らしたい、と。

「そんなのダメよ。あなたは大学に行くの! 卒業して会社勤めをして普通に暮らしなさい! おばあちゃんの店なんて継がなくていい!」

話し合いは平行線だった。

ただでさえ笑顔の少ない母を困らせたくない一心で聞き分けの良い娘であろうとした。けれど、ここは引けなかった。

やがて諦めたように母は俯いた。

「……好きにしなさい」

吐き捨てるように呟き、ぐしゃぐしゃの紙にボールペンを走らせて浴室へと消えていった。三者面談の日程は、全日にバツがついていた。

その晩、夢を見た。

私は交差点の前にいた。車も人もいない街はシンと静まり返っている。

祖母の店に行かなきゃ。急がなきゃ。どうしてかそう思った。それなのに足は鉛のように重く、コンクリートの上で空回ってしまう。

私は走った。のろのろと思い足を必死に動かし、走って、走って、そうして――。

目の前の光景を見て、ああ、と小さく悲鳴を漏らす。

あるはずだった家が忽然と姿を消していた。植えてあったハーブや花もない。膝から崩れ落ちる。祖母はどこへ行ったのだろうか。

必死に祖母を呼んだ。喉がちぎれる程叫んだはずなのに誰の声も何の音も聞こえない。

それでも、何度も何度も祖母を呼んだ。土を掻きむしって声を上げた。どれくらいそうしていただろう。やがて瞼の奥がチカチカと瞬く。耳鳴りがする。バラバラになった漫画のコマが順に並び勢いよくめくれていく。目の前の光景が切り替わる。

そこは店の中だった。母が祖母と何かを話している。いや、母が一方的に祖母を怒鳴りつけていた。ヒートアップし続ける母に対して、祖母は苦しそうに眉根を寄せるだけ。口は一の字になっていた。

『あんたが殺せって言ったくせに! 今更あの子を横取りするな!』

穏やかでないその言葉に言い返すでもなく、祖母はじっと俯いているだけ。母の罵声は聞くに堪えなかった。やめて、そんなひどい言葉、言わないで。

怒鳴り疲れた母が大きく息を吐くと、祖母は微かに視線を上げた。悲しそうな顔を見て私は息苦しさを覚えた。皺だらけの手が開く。青い光が宙を舞う。そこから現れたのは古い一枚の紙。母はそれをひったくった。

『こんな店、無くなってしまえばいいのよ』

忌々しそうに店中を眺め、そうして踵を返した。やがて画面がぶれ、再び冷たい土が目の前に現れた。

夢は、そこで終わった。

どっさりと汗をかいて私は目覚めた。心臓はうるさく鳴り続ける。予知夢。そんな言葉が浮かんだ。

まさか、まさか、まさか……!

あの紙は店の権利書で、それを手にした母が店を壊した? あの店さえなくなれば『祖母の後を継ぐ』という私の夢は潰える。でも、だからって。

――あんたが殺せって言ったくせに!

夢にしたって物騒な言いがかりだ。どうして祖母は否定しなかったのだろう。どうして大人しく自分の大切な場所を明け渡したのだろう。胸騒ぎは収まらなかった。

学校なんてどうでもいい。パジャマを脱ぎ捨て適当な服に着替え、部屋を飛び出した。母のパンプスはまだ玄関にあった。

祖母はハーブを摘んでいる最中だった。

肩で息をする私を見て、しかし慌てた様子もなく『いらっしゃい』と中に促す。私は早口で、言葉を詰まらせながら夢の話をした。改めて口にすると何とも荒唐無稽な内容だが、不安に急かされるまま必死に説明をした。やがて一通り話を終えると、祖母は静かにうなずいた。取り乱した様子もなく、落ち着いている。いや、諦めている……?

私はとにかく祖母を急かした。権利書を隠そう。そして、どこかに逃げようと。あの夢では祖母の消息は不明だった。それが私は一番恐ろしかったのだ。貯金ならある。一時、どこかビジネスホテルにでも身を隠して――。

だが、提案は受け入れられなかった。

「ごめんなさい。私はあなたを殺そうとした。あなたのママの言う通りよ。助けてもらう資格なんてない」

一体どういう事?

聞くと、母が妊娠した時、祖母は真っ先に産む事を反対したのだという。予見していたのだ。幸せな結婚などできない事を。恋に溺れた母と違い、男は完全に遊びだった。道ならぬ恋だったのだ。祝福されない子供を産めば取り返しのつかない事になる。だから、祖母は赤ん坊を堕ろすよう強く言った。

「だけど、生まれたあなたを見た瞬間、とても愛してしまったの。一度でもあなたを殺そうとしたことをとても悔いている。あの子からあなたを奪おうとしたことも。だからあの子の生き方をもう邪魔しないと決めた。どんな結果になろうと、あの子の意思を尊重しようって」

それなら私の意思は? 嫌だ。祖母も、母も、家族を失うなんて絶対に嫌だ。

「……お守りは持っている?」

 頷き、カットソーの襟からチェーンをひっぱった。青い石が日の光を反射した。

「そう、いい子。私の可愛い小さな魔女。あなたの望みは何?」

私の望みは、家族みんなで仲良く暮らす事。この素敵な二階建ての家で祖母と、母と、私で食卓を囲み、三時のお茶の時間にはおしゃべりをして。それから、それから……。

こらえきれず零れた涙を祖母はそっとぬぐってくれた。

人差し指がくるくると動く。夢の中と同じ青い光が零れ舞う。魔法みたいだ、と魅入ってしまった。やがて光の中に古い一枚の紙が現れた。それはこの店の権利書だった。書類は光をまといながら私のお守りの中に消えていった。

「この店と私が持てる力をあなたに譲る。これは『魔女の約束』よ。ママとよく話し合って将来を決めなさい」

祖母がそう言ったとたん、ぶわっと全身が熱を持ち出した。手のひらが青く煌めいている。店の中に鮮明な気配と様々な音を感じた。見えなかったベルが見えた。人形が瞬きをしている。本たちの息が聞こえる。水晶玉が波打っている。店のあらゆるものが生きていた。

ここはただの古びた一軒家じゃない。正真正銘、魔女の家だったのだ。

祖母はカウンターの向こうの扉を指した。

「あの扉の奥は自由に使って。あなたの望むまま、素敵な部屋にしてあなた自身の心を癒しなさい。魔女にとってとても生き辛い時代だけれど、それでも私たちの力を必要としている人がいる。その人たちがいる限り、この力を使い続けなければならない。あなたのママもその一人ね……」

元気でね。頬を撫でる手は乾いていた。

祖母はどこに行くのだろう。これからどうするのだろう。だって、ここはずっと祖母が生きてきた場所なのだ。煌々と光を放つ私に反して、祖母が纏っている光は少しずつ弱くなっていく。

「どうにでもなるわ」

嫌だ。祖母は家族だ。一緒に居たい。

「ダメよ。あなたのママは私を許さない」

そんな事はない。憎んでも憎みきれない母娘の情と男への恋慕の狭間で、母もまた長い事苦しんでいたのだ。

私は祖母にここで待っていてと言った。必ずママと一緒にこの家へ帰ってくる。

今度は私からの『魔女の約束』だった。

マンションに戻ると、パンプスは消えていた。

ソファには散乱した書類。男の写真も置き去りになっている。多分、もう必要ないのだろう。遅かったか。いや、まだ間に合う。

私は母の寝室へ向かい、水晶玉を取った。黒く曇ったそれを二度三度と撫でる。中は透明になり、揺れるはずのない球体の内側が波打つ。息を吹き返したようだった。

私を生んだ代償に、母は魔女としての力を失った。

それでも曇った水晶玉を後生大事にとっておいたというこの現実が、母の抱えたジレンマ全てを語っていた。

水晶玉の中に鮮明な映像が浮かぶ。夢の中とは比べ物にならないくらいくっきりとした絵だった。

荷解きを待つダンボールの山の中に、母と茶色い目の男がいた。

女はありったけの愛の言葉を、男はありったけの拒絶の言葉をぶつけた。やがて細い手がバッグから刃渡りの長い包丁を抜き取った。茶色い目が驚きと恐怖に染まった。

愛してる! 愛してるわ!

一定のリズムで繰り返される愛の言葉と肉を刺す音は、まるで一つの音楽のようだった。

どのくらい経っただろうか。もう動かない血塗れの肉塊を抱きしめる母の心がとくとくと伝わってくる。

ごめんなさい。ごめんね。ありがとう、愛してる。ごめんなさい、ごめんね。

それは間違いなく私と祖母に向けた言葉だった。

サイレンが聞こえる。ただならぬ声と物音を聞きつけた誰かが通報したのだろう。しかし母は逃げようとせず、ただじっと肉の塊を抱きしめていた。

決断するまでほとんど迷わなかった。倫理? 道徳? そんなもの、天秤にもかからない。

水晶を触れる手に『力』を込めた。青い光は強さを増し、水晶玉に吸い込まれる。光はリビングで熱い抱擁を交わす二人を包み隠し、そこには狂気と血だまりだけが残った。

愛した男と一緒に居たい。愛した家族と一緒に居たい。

その願いを叶えるためには、これが唯一の方法だ。

水晶玉には映像ではない、確かな影と形を伴った母と肉塊がいた。

スノードームのようだと思ったのは、肉塊の纏う血が舞い上がる雪に見えたからだ。


***


「そろそろ時間かしらねえ」

ふっと視線を上げ、祖母が言った。しばらくして私も気配に気付く。四時の少し前。間もなくベルが鳴るだろう。魔女を引退しても祖母の直感は衰えない。

「幸せに導いてあげなさい」

祖母は私の額にキスをくれた。私もキスを返し、水晶玉にも唇を寄せる。ここには、母がいる。動かない人形を抱きかかえこちらに微笑みを返してくれた。そうして、少し照れて祖母のほうも見た。

ああ、なんて素敵なティータイムだったんだろう。

私は扉を開けた。窓の外は曇天だ。だが、日差しは柔らかい。

目を閉じる。足音が聞こえる。さあベルが響くわ。

「ようこそ」

不安と怯えを抱えた来客に私はめいっぱい微笑んで見せた。

ここを訪れる人々が、どうか幸福に生きられますように。

魔女の住処で寄り添って暮らす三人がそうであるように、私はいつも願っている。

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