一章 8
山吹教授の研究室を後にしてから、本館と研究棟を繋ぐ木々に囲まれた道を歩く二人は終始無言のままであった。うつむき加減に歩く凪は、気を落とした様子を見せず、何かを考えこむ湊に抽象的な言葉で問い掛ける。
「湊様、その……大丈夫ですか?」
「えっ? あぁ、もちろんだよ。先生に言われたことは――ちょっと痛いくらいだったけど、正しかったって思うんだ。でもオレは、自分が間違ってるとは思わないし、それらは背反してるわけじゃない。先生の言葉で重要なのは、多分そこなんだ」
「それでは……」
「うん。だから、まだ諦める理由にはならないよ」
心配しなくていいよ。と、具体的な言葉にこそしなかったが、微笑みながらそう答えると、
「それに――」
足を止め、少し間を置いてから言葉を続ける。
「昔の出来事が、それも多分大切なことが思い出せそうで……引っかかってるんだ」
「…………」
昔という言葉に対して、申し訳なさそうな顔をする凪の胸中には、複雑な思いがあった。もし、偽りで彼を真実から遠ざけずにいたら。椿を止められていれば。家族の暮らしを失わずにいたならば。あるいは……と。
「もしかしたら、灰奈さんようにもっと早くから多くを学んでいたら……今こうして悩むことも無かった、そうは思いませんか?」
そして、生まれた環境が少し似ている少女を思い浮かべ、成長の過程の違いがもたらした差が足を引っ張っていると考えてしまい、意味が無いと分かっていながらもつい尋ねてしまった。
「いや、思わないよ。えっと……上手く言えないんだけど、それぞれが別人だからとか目的が違うからとか、そういう理由じゃなくて……灰奈もオレも、過去の根底にあるものは確かに違うけど、現在には同じ何かがある。だから、どちらの人生であっても変わらないって、そう思っ……」
湊が最後まで言葉を言い切る直前、不意に動きが止まる。
「湊様? どうしました?」
「あの部屋……そっか、だから見覚えが……」
その瞬間に脳裏をかすめた光景は、先ほどまでのぼやけたイメージではなく、鮮明に映し出されていた。
書籍の山、辺りに散らばった書類、乱雑な字でまとめられたノート。
それらのイメージから必死に記憶を思い返すと、やがて一人の人物の顔にたどり着いた。
「なぁ、凪。一つだけ確認したいんだけど――父さんも、よく研究をしてた……?」
「はい、確かにその通りです。詳しい内容は分かりませんが、虎太郎様は度々『戦う事だけが御霊使ではない』と仰っていました。しかし、それがどうしたのでしょうか?」
突然の話題に戸惑いながら凪が答える。
「……ごめん、話が飛躍しちゃったけど、引っかかってたことが分かった気がするんだ。とはいえ、肝心なところはまだ思い出せてないんだけどね……でも、何をするかは決まったよ」
「と、言いますと?」
「……もう一度、山吹先生に会いに行く。オレは、やっぱりあの人に教わりたい」
はっきりと宣言した言葉は、他でもない自分に言い聞かせるものであり、それを見た凪の顔にはいつもの安心感が戻っていた。
「ふふっ……人の過去を私が悔いるなど、烏滸がましいだけですね」
そして、湊の耳には届かないようにそっと呟いた。
「それで、もう一度行くとしましても、どうやって説得をしますか?」
「うっ……そうだよね、問題はそこだよなぁ……思い出さなきゃいけないことが鍵にはなっても、結局オレ自身の話でしかない。返すべき答えじゃないんだ」
進展しているようでしていない問答の末、再び元の壁に当たってしまう。そんな膠着した状態は、ある物音をきっかけに解け始める。
――ガサガサ。
「おや、そこでお困りの少年や――」
突如として、脇の草陰から声がしたかと思えば、それをかき分けながら、
「――ふぅ。何でこの学院は自然で溢れてるんでしょうかね?」
面倒くさそうに体の葉っぱを払う女性が現れた。
「えっと、あの……どちら様で――」
「おーっと、お待ちなさい。さて、私は一体何者でしょうーか?」
驚きよりも呆れが勝った湊の質問を制しながら、謎の女性は自信に満ちた顔で逆に問いを投げかけてきたかと思えば、
「その答えは、悩める者の下へと現れる。神出鬼没の教導者――マーガレット・ベルウッドでしたー」
答える暇も与えずに名乗りを上げたのであった。
「マーガレット……ベルウッド……」
こうした難解な状況に既視感を覚えつつ、どう見ても外国とは縁の無さそうな顔立ちの女性を前に気圧される。
「まぁ、冗談ですけどね」
かと思いきや、先ほどまでのテンションとは裏腹に、やれやれと少し気だるげな様子で言い放った。
「いやいやまったく、この登場は何とも受けが良くないみたいですね。ま、それはさておき、実際のところはこの学院の学生相談室のしがない一職員ですから、そう警戒せずによろしくどうぞー」
職員という肩書すらも信じていいのかどうか、目の前で起きた出来事を頭の中で処理するのに少し時間を要したものの、湊はあることに気が付く。
(この人は、確か……何日か前に、こっちに来たばっかりの時に見た、山吹先生と一緒に駅で清祓をしてた人……?)
その微かな記憶を頼りに、ひとまずはマーガレットの存在を受け入れる事にした。
「それで、マーガレットさん……は、どうしてこんな所に?」
「おや、ノリの良い少年」
特に警戒した素振りを見せなかった湊に少し驚いたものの、すぐに表情を切り替えて怪しげな笑みを浮かべながら話を続ける。
「さて、どうしてここに居るのか――それは、この学院に潜む怪禍『新人殺し』に痛めつけられた人の心を救うのが、私の責任だからなのだよ」
「怪禍が……!?」
思いも寄らないその言葉に、湊は今度こそ驚きを隠せなかった。だが、
「まぁ、冗談ですけどね」
またしても、マーガレットは同じ要領でおどけてみせた。
「本音を言えば、仕事をサボる為に瑠璃ちゃんの所に避難しようと思ったら取り込み中だったもんで、仕方なくこの辺りをぶらぶらしてたら君が出てきた。って、ただそれだけ」
「……湊様、私には分かります。こういった類の人は避けるのが無難です」
「いや、まだだ……まだ、挫けちゃいけない。何か、理由があるはずなんだ……」
ひっそりと耳打ちをする凪の言葉は至極もっともであったが、相談室の職員なら何かしらの手掛かりになることを信じて、会話の継続を試みる。
「えっと、じゃあどうして今声を掛けてくれたんですか……?」
「それはもう、アレですとも。一応学院の職員ですから、大事な金蔓――おっと間違えました。大切な学生さんが瑠璃ちゃんの手で、いや言葉の棘が主だから正確には口先かな……? ともあれ、そのなんやかんやで辞めてしまわないかどうか心配になって気が気でないからですよ」
「………」
「まぁ、半分冗談ですけどね」
「半分なんですか!」
何となくの流れを予測していたところで裏切られ、反射的に声を上げてしまった湊は、それを満足気な顔で見られていることに悔しさを隠せなかった。
「いやー、私が言うのも変だけど、君はもう少し気を付けた方が良いよ?」
「はぁっ、その通りですね……では、今から気を付けますので、これで失礼します」
「あー! 嘘、嘘ですって! もうふざけないから、最後に大事な話をしましょうよ」
諦めてその場を去ろうとする姿を、マーガレットは慌てて引き留めると、
「……本当に最後ですよ」
(ほら、そういう所ですよ、気を付けなきゃいけないのはー。と、ここで言いたい気持ちはぐっと堪えましょう。よし、ここからは真剣に……)
立ち止まってしまった湊に思う所があれども、今度こそ真面目に話を進める。
「もう一度、立ち向かいに行くんでしょう? だったら、私の助言を聞いてからでも遅くはないですよ。何せ、この学院で大親友たる私以上に瑠璃ちゃんに詳しい人はいないですから」
「あ、そうそう。誤解の無いよう先に言っておきたいですが、瑠璃ちゃんが厳しいのは……御霊使の危険性をよく理解しているからなんです。それはもちろん、戦う事の厳しさを表してもいるけれど、同時にその力が間違ったことに使わる事も恐れてる。だから、自分にも制限をつけてて、どんなに簡単に解決できる清祓であっても、一人であたらないようにしてるんです。と、まぁここまでは分かってることだったかな?」
「はい……何となくですけど、理解できる気がします」
「そうは言っても、あそこまで学生さんに厳しく言うのは私も初めて見ましたけどね」
「さ、ここからが本題。その意味を考えると、君は少し彼女に似てる気がするよ。そうでしょ? ただ御霊使になるだけなら、言われたことを気にしなければいい。他の教授の所に行けばきっと喜んで受け入れてくれるはずです。私には理解できないけど、そうやってわざわざ険しい道、難しい方法を選ぶのには訳があるんだろうなと思います」
「そう、なんですかね……?」
「『自分を表現したければ、相手をよく知りなさい』昔、瑠璃ちゃんはそう言ってました。自分の内側を探るだけじゃなくて、伝えるべき相手の事を知ろうとすれば、その過程でより確かな自己を得られる。多分、そういう意味の言葉。それはつまり――恋! 恋愛と同じように――まぁ、というのは冗談で……。ちょっと待ってね、今のはノーカウントってことにしましょう……」
「あ、いえ。何か、逆に安心しました」
本当に真剣な話を続けたマーガレットの急な舵取りに翻弄されて呆気にとられるも、ようやく返すべき答えを探す道が見えてきたことに安堵していた。
「何とお優しい少年ですか……仕方がない、特別ですよ。瑠璃ちゃんプロフィール大公開のコーナー!」
「え?」
「山吹瑠璃、28歳。身長は170cmくらい。職員としての同期は私、マーガレット・ベルウッド。交友関係では友達が少なく、二匹の犬――白い方の『ウル』黒い方の『エン』と暮らしている。趣味は研究、特技も研究。休日はフィールドワークに行くことが多い。仕事中にはよくコーヒーを飲んでいるが、別にコーヒーが好きなわけじゃない。御霊使になったきっかけは才能があったから。学院で教授をやることになったのは、聞くも涙語るも涙の悲劇のヒロインとしての物語があったからとか。まぁ――」
「――冗談。なんですよね?」
突然始まった個人情報の暴露は、最後のお決まりを湊が締めくくり、マーガレットはその言葉にあっけらかんとしながらも満足そうな顔をしていた。
「もちろん、君が知りたいのはこんな何の役にも立たないジョークじゃないもんね。そろそろ本当に最後の助言をあげよう――御霊使は自らが行った清祓の詳細を報告書としてまとめ、資料として保管しなきゃいけない。他にも、研究の成果発表の論文なんかもありますね。そうした物は学院の図書館にも保管されていて、学生はある程度それを自由に閲覧できますから、そこを探せば瑠璃ちゃんの関わった物も見つかると思いますよ」
「図書館。確かに、まだ行ったことなかったっけ……。ありがとうございます! まずはそこから、少しずつ始めていくことにします」
そして、お礼とともに頭を下げた二人は、その足で図書館のある教育棟へと向かっていったのであった。
「ふぅー。どうやら、また迷える者を救ってしまったみたい。あぁ、これも才能かな……なんて」
その二人を見送って一段落した頃、誰にも聞かれぬ冗談が呟かれた。
なおこの後、マーガレット・ベルウッド――本名、鈴木めぐみはサボっているところを他の職員に確保され、大きな説教を受ける事になったが、彼女が反省して改心することはなかったそうな。
今日より始めて 堵碕 真琴 @kakisakimakoto
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