明日のことだけ

沈黙が流れていた。

想いが伝わりますように、そう願う心は切だった。名も知らぬ目の前の彼に、私は貴方の曲が好きだと、歌いたいと伝わって欲しかった。二人の間の沈黙が、何分か前のあの部屋の沈黙よりも心地良い気がしたのはなぜだろうか。


「……えっと…別にいいですけど」


彼は戸惑いながら呟くように言った。耳を少し疑った私は嬉しさのあまり飛び跳ねそうになるのをグッと堪えて、


「いいんですか!じゃあ明日詳しいこと話すためにそこの喫茶店で会いましょう!」


と瞬さんの喫茶店を指さした。そして言いたいこと全て言い切るつもりで、まくし立てるように話した。彼の曲が歌えることに対するワクワクする気持ちのまま。彼の口元が少しだけ笑顔になった。その憂いの中にある表情がなぜだかすごく印象に残っていた。

しかし彼は何か思いついたように考え込むと、


「えっ…明日?」


と、驚いたように目を見開いて言った。最初は表情が乏しい人なのかと思ったけれど意外と思っていることが顔に出るタイプなのかもしれない。


「はい!あっダメでした?じゃあ午前中にしましょうか」


相手の都合と自分の都合に合わせたくて、どうにか交渉する余地が欲しくて、明日の午前中と指定してしまったが大丈夫だったろうかと後になって少し不安になった。でも、午前中なら大体の人が大丈夫だろうから多分平気だろう。


「あのさ君の名前すら知らないんですけど」


日向ひなた 結夏ゆかです。」


正直自分の名前なんてどうでもよかった。明日ゆっくり話せばいいと思っていたから。


「……?」


「だから、日向 結夏。日に、向かうに、結ぶに、夏で。それで、私今気づいたんですけど私も貴方の名前知りませんでした」


「あー…井上 秋翔あきとっていいます」


その後に二人でよろしくお願いしますと軽くお辞儀をした。今までにないほどの適当な自己紹介だった。それが少しだけおかしくもあった。とりあえず明日のために早く帰ろう。家まではまだある。早く帰って早く寝よう。呆然として見える彼も、そろそろ眠い頃だろう。


「じゃあまた明日ー!」


私は家の方向へと歩きながら彼に手を振った。いつもの作り物の笑顔じゃない。心からの笑顔だ。この出会いがどれだけ素晴らしいものなのかは未来の自分しか分からない。でも、ものすごく素晴らしいものだと思い込んでいた。こんなこと奇跡か、そうでないなら運命に違いない、と。


「よし!」


私はガッツポーズをして気合を入れ直すと、綺麗な月の下、夜道を駆け抜けた。今日のことじゃなく、明日のことだけ考えて。過去は大切かもしれない。でも、それだけ見てるのは違う。過去1割の未来7割、現実2割で行こう。それが私だ。私のスタンス。

満月は望月と言って、綺麗なものだと尊ばれている。でも、見方を変えればこれから欠けていく月だ。だから私は新月明けの1夜目の月の方が好きになれる。そう思った。

明日が楽しみで仕方なかった。

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