アジ
あべせい
アジ
「ヨシッ、きょうはアジ刺しから、いくかッ!」
テーブル席の男が、向かいの若い2人の女性に向かって、気勢を上げている。
彼のすぐ横にはガラス製の水槽があり、中にアジが2尾見える。
その瞬間、水槽のアジがブルッと震えたように見えた。
「アジ刺し、ってあなた、かわいそうじゃない。2匹が仲良く泳いでいるのに。あなたって、デリカシーがないの?」
「怒るなョ、わかった。イカ刺し、店員さん、中生3つにイカ刺し3人前、持って来てヨ」
女性連れの男は、急に大人しくなり、店員に注文をし直した。
海に面した地方都市の、ある鉄道の駅から5、6分の商店街通りに位置する、通称「貝焼き屋」の店内。
店のドアを開けると、左手に幅2m、深さ40cm余り、奥行30cmの、横に長いガラス製の水槽と、その手前にも畳半畳ほどの深さ10cmに満たない、こちらはステンレスで4辺の枠だけの浅い水槽がある。どちらも、魚介類を生かしたまま保管する、いわゆる生け簀になっている。
横長の水槽には、アジ2尾とシマアジが1尾、元気に泳いでいる。平たい水槽には、ホタテを中心に、サザエ、白ハマグリ、ホッキ貝がぎっしり並んでいる。
客は、テーブル上の携帯ガスコンロのガス火を使い、注文した貝などを自分で焼いて食べる。これがウケているのか、不景気のこの時節でも、客足は絶えない。
メニューは貝焼きだけではない。焼きものは他にエビや干物もある。刺身、サラダ、チャーハンなど、飲み屋で見かけるメニューも一通り揃っている。貝焼きを中心とした居酒屋といったほうがわかりやすい。
「お兄さん、わたしたち、今夜食べられてしまうの?」
メスのアジが年上のアジに尋ねる。
「いや、今夜はまだ、その気配はない。オレたちより、仕切り板の向こうのアイツのほうが心配だ」
兄貴分のアジが「アイツ」と呼ぶのは、水槽の3分の2を占有しているシマアジのことだ。横長の水槽は、横幅の長さがちょうど2対1になるところに仕切りのガラス板があり、シマアジとアジが分けられている。
「お兄さん、どうして?」
妹分のアジが、かわいい眼を開いて尋ねる。
「さっき、店長が話しているのを聞かなかったのか?」
「ううん、聞いてない。わたし、3番テーブルのお客さんに気をとられていたから……」
「3番テーブル? なンだ、キミの関心を奪ったヤツは? だれもいないじゃないか」
兄貴分のアジは、斜め向かいの、いまは空っぽの3番テーブルを見ている。
「もう、帰ったもの」
「どんなヤツだ。キミの好みは?」
「好み、って、そんなンじゃないわ。カップルで来ていたのよ。美人の恋人と一緒だった」
「そいつは残念だったな」
「ヤキモチをやいてくれてンの? うれしィッ!」
「それより、アイツだ。今夜は危ない。いよいよかもな」
兄貴分のアジは、仕切り板を通して、優雅に泳ぐシマアジを見つめる。
シマアジは体長30cmほどで、シマアジとしては、少々こぶりだ。
「店長さんは、何て言っていたの?」
「店長は、『アイツは今夜で4日目だ。痩せる前に出さないとな』と、言ったンだ」
「でも、シマアジさんはこの店のメニューにはないでしょ。出すって、どういうことよッ!」
「オイ、どうした。興奮するナッ」
「だって、シマアジさんはお客さんに食べられる、なンて思っていないわ。わたしたちのほうはメニューにあるから、食べられても仕方ないけれど……」
「そりゃそうだが。こういうことだ。アイツは、4日前、2日ごとに仕入れる貝と一緒に、この店にやって来た。そのとき、業者は、『前の店で、コイツはいらないと断られました。少し小さいから、安くしておきます。どうか、引き取ってやってください』と言ったそうだ」
「そうなの。アノ方、貝のついでに買われたの……」
「キミは、アイツのことが好きになったようだな」
「……」
「あんなに怖がっていたくせに。わからないな、キミってやつの気持ちが……」
「怖がってなンか、いないわ」
「しかし、この生け簀に初めて入れられたとき、仕切り板がなかったから、アイツがサーッと泳いで来て、キミは思わず飛び跳ねた。その拍子に、水槽から跳び出て、下の貝の生け簀に落ちただろう? 忘れたのか」
「あれは、怖くて飛び跳ねたのじゃないわ」
「じゃ、どうして飛び跳ねた?」
「……」
「どうして、だ?」
「あなた、しつこいわね」
「おれはしつこいのが取り柄だ。どうして、なンだ?」
「わかったわ。あれは、恥ずかしかった、からよ」
「ゲッ!? キミは恥ずかしいと飛び跳ねるのか。ここの店員はキミが怖がっていると思って、おれたちとアイツの間に仕切り板を入れたンだゾ」
「難しい問題ね」
「何が難しい、ダッ」
「シィッ、だれか来るわ」
店長の天川知與(あまかわともよし)が、タモ網を手に、水槽に近付いてきた。
「悪く思うなよ。お勧めで、塩焼きにして欲しい、って、ご常連がな」
店長はそう言いつつ、水槽の脇にある脚立を引き出し、タモ網を持ってその上に乗った。
「店長ッ!」
「エッ?」
店長は、タモ網を水槽に突っ込んだ姿勢のまま、声のしたテーブル席を振り返る。
水槽のなかでは、シマアジが侵入して来たタモ網を避けようと、狂ったように泳ぎ回っている。
「シマアジは、ヤメだッ。別のにする。エビがいい。ロブスターを焼くから、出して」
「そうですか。じゃ、すぐに……」
店長の天川は仕方なさそうに、タモ網を水槽から引き出すと、脚立を元の位置に戻し、厨房に入った。
シマアジの動きは穏やかになった。しかし、シマアジの寿命は、今夜がピークであることは疑いようがない。アジが入荷したのは、2日前。シマアジは、それより早く4日前だ。この店では、同じ魚を5日以上、水槽に置かないようにしている。店長天川の方針だ。
釣った魚は、1週間程度ならエサもいらず、魚の形も変わらないかららしい。
天川は、メニューにない食材は、常連客に勧めている。シマアジもその1つだ。
天川は考えている。シマアジをどうするか。タダでもらった魚ではない。シマアジのサイズはふつう6、70cmだが、小ぶりだから安くしておく、と出入りの業者からしつこく勧められて買った。早く捌かないと、そのうち形が崩れてくる。
そのとき、天川がひらめいた。今夜は、金曜日。彼女が来る日だ。彼女に勧めよう。なんなら、タダでもいい。食べてもらえさえすれば、いいのだから。
一方、水槽の中では。
「アイツ、命拾いしたな」
「お兄さん、なンてこと言うの。あの方はまだこどもよ。もっともっと大きくなる方なンだから」
「こども? おれたちより、デカイのにか?」
「そォ。シマアジさん、って、わたしたちみたいに海にいる天然ものだと、1mにも成長するンですって。あの方が、天然なのか、養殖なのかはわからないけれど……」
「キミは詳しいンだな」
「昨日、お客さんがそう言っていたわ」
「おれが寝ているときだな」
「そォ、お兄さんは、目の前のテーブル席に男のお客さんばかりだと、すぐに寝るンだもの」
「いいじゃないか。野郎の顔を見ていてもしようがない。オイッ、いよいよ真打ち登場だ」
そのとき、表のドアが開いた。
時刻はちょうど夜の8時。
「いらっしゃい!」
ひときわ大きな声が店内に響き渡る。
天川がうれしそうな笑顔とともに、厨房から飛び出てきた。
「どうぞ、奥に……」
現れたのは、淡いモスグリーンのスーツを着た、OL風の若い女性。髪を七三に分け、肩まで垂らしている。ぽっちゃりとして、驚くほどの美形だ。
「オイ、彼女は今夜、何しに来たか、わかるか?」
「貝を食べるンでしょ?」
「それだけじゃない」
「大切な用事があって、来たンだ」
「どういうこと?」
「見ていりゃ、わかるさ」
「お兄さん、勿体ぶった言い方はやめてくれる。わたしたち、2日前の同じ朝に相模灘で釣られて、その日のうちにここに連れて来られたのヨ。海のなかでは、大きな群れのなかにいて、いろいろあったわ。そして、いまは同じ運命を辿るの。もう少し、親身になってくれたら?」
「わかった。すまなかった。実は、おれもよく知らないンだ。店員の話を小耳に挟んだだけなンだ」
「小耳って?」
「いちばん古いベテランの店員が、新人の店員に話しているのを聞いたンだが、なんでも、彼女とここの店長はわけありで、今夜店長は彼女に大切な話をするらしいンだ……」
「そういうこと……お楽しみなのね」
店長は、客の女性を厨房の角にある2人掛けのテーブルに案内した。そこは、本来、従業員が交替で休憩したり、賄いをいただく場所になっていて、他のテーブル席からは見えづらい位置にある。
「果数未(かすみ)さん、きょうは何にしますか?」
果数未と呼ばれた女は、店長が差し出したメニューを見ずに、裏返してテーブルに置くと、
「知與(ともよし)さん、今夜は泡盛をいただきます」
「エッ、いきなり泡盛から、ですかッ」
「ダメ?」
「いや、果数未さんの好きにしてくださっていいですが……。酒の肴は?」
「肴なンか、なんでもいい。あなたの好きにして……」
果数未はそう言って、天川の顔を穴が開くほど見つめる。
「はい。それだっら、いいシマアジが入ったので、刺身にしましょう。いますぐに……」
店長は再び、タモ網を持つと生け簀に向かった。
脚立を出して、その上に起ちあがる。タモ網を生け簀のシマアジの側に入れる。シマアジは再び死に物狂いの様相で、逃げまわる。
そのとき、
「アッ!」
あちこちのテーブル席から、声があがった。
シマアジとガラス板で仕切られたアジが1尾、跳びはね、水面から踊り出たのだ。アジはそのまま、下の貝の生け簀にポチャリと着地した。
貝の生け簀は浅いから、アジは泳げない。横になって口をパクパクさせている。
店長は、脚立に立ったまま、貝の生け簀に落ちたアジを見下ろし、
「こいつ、この前も……どういうことだ」
考え込んだ。
「トモちゃんッ! シマアジはいいから……」
果数未が叫んだ。
「エッ!?」
天川は、その鋭い声に驚き、脚立から降りると、タモ網を使ってアジを生け簀に戻してから、果数未のテーブルに行った。
「お兄さん、やるじゃない。わたし、お兄さんのこと、好きになるかもよ……」
妹分のアジがそう言い、生け簀に戻ってきた兄貴分のアジに近寄り、体をすりよせた。
生け簀から跳び出たのは、前回のときと違い、兄貴分のアジのほうだった。天川には、2尾のアジの見分けがつかないようだ。
シマアジは、そんなやりとりがあるとも知らずに、再び落ち着きを取り戻し、生け簀のなかを悠然と泳いでいる。
「果数未さん、シマアジは苦手ですか?」
「トモちゃん、わたし、殺生は嫌い。目の前で元気に泳いでいる魚を食べる、って出来ない。まして、刺身になンか。あなたは、平気なの? だから、お腹の赤ちゃんも、どうでもいいというのね」
果数未はそう言って、5合徳利に入っている泡盛を、手酌でショットグラスに注いでから、腹部にそっと手を当てた。
「そんなこと、言ってないじゃないですか。もう少し、小さな声でお願いします。ここはお店なンです。ほかの従業員に知られると、私、立場が悪くなります。ヘタすると、店長をクビになる……。ちょっと飲みすぎですよ、果数未さん……」
この店の系列店はこの街周辺に、ここ以外に3店舗ある。天川は、入社して10数年で、昨年ようやく店長になったばかりだ。給与は手取りで30数万円。家族は妻と娘2人。この店から、バスで20分ほどの住宅団地の一画に住んでいる。
家は3年前にローンで購入し、毎月ローンの返済に汲々としている。
「それはあなたの都合でしょ。わたしの体はどうでもいい、って言うの!」
果数未は、一気に泡盛を煽ると、すぐに徳利から泡盛をグラスに注ぎ足した。今夜の果数未はかなり荒れている。
「いいえ。そんなこと、言ってないでしょ。そンなに飲むと、お腹のこどもに……」
天川はそう言って徳利を持ち上げると、ボトルキープ用の棚に置いた。
「わたし、どうしたらいいのッ。トモちゃん、教えて……」
果数未の目から涙があふれだし、彼女はそのままテーブルに顔を伏せた。
「オイ、彼女が泣いている。女を泣かせるとは、最低だな。あの店長は」
「お兄さんは、どうしたらいいと思う?」
「おれか?」
「ええ。お兄さんなら、あンな風な立場に立たされたら、どうするの?」
「おれか。おれなら、女房とこどもを捨てて、彼女と一緒になる。女房にはお金を送れば、こどもは育つだろうが、これから赤ん坊を生むという女を捨てるわけにはいかないだろう。男として……」
「お兄さんって、頼もしいのね。わたし、安心したわ」
「エッ、何か言ったか?」
「お兄さん、もう忘れたの?」
「忘れた、って?」
「イヤだ。わたしに恥をかかせるつもり?」
「何のことだ?」
と、そのとき、
「何をゴチャゴチャ言っているンだ。こどもなンか、つくらないほうがカップルはうまくいくンだ。あの2人、近い将来、別れるな」
シマアジだ。初めて、アジの会話に加わってきた。驚いたのは、兄貴分のアジだ。
「アイツ、おれたちの話を聞いていやがったンだ。まだ、こどものくせに、いやな野郎だ」
「お兄さん、そンなことを言うものではないわ。あの方、今日か明日かの命なのよ。そういう方の話には、ウソや無駄はないと思うわ」
「だったら、キミも、カップルにはこどもがいらないと思っているのか。家庭は作らない。そうなンだな」
「そうは言ってないわ。カップルとして充分わかりあえて成熟したら、こどもはいたほうがいいわ」
「そうだろう。それなのに、アイツは……」
「いいえ、シマアジさんは、恋しているカップルの話をなさっているのだと思うわ。充分に愛し合っていないときに、こどもが出来るのはよくない、って……お兄さんもそう思うでしょ」
「そりゃそうだが……」
店長の天川は、テーブルに突っ伏している果数未の向かいの席に腰掛けた。厨房の店員には、「妹だ。酔いつぶれたようだ」とウソをついている。
「果数未さん、わかりました。あなたのいう通りにします。幸いというか、女房の実家はお金持ちです。元々一人娘でしたから、将来は女房の実家に入る約束で結婚したのですが、こうなった以上、ぼくはあなたと一緒になります。女房は実家に帰れば、両親は歓迎してくれるでしょ」
果数未はハッとしたように、テーブルから顔をあげた。うれしそうな笑顔だ。眼が涙でうるみ、キラキラ輝いている。
天川は、果数未を天女のように美しい女だと思う。もっとも、実際の天女に会ったことはないが。だから、初めてこの店に来たとき、一目で惚れてしまったのだ。
「トモちゃん、今度こそ、ウソはないのね。わたし、赤ちゃんを生んでもいいのね」
「勿論です。今夜、家に帰ったら、女房に打ち明けます、全てを」
「お子さんはどうするの? お2人でしょ。確か、小学3年と1年のお坊ちゃんとお嬢ちゃんだったわね」
「それは……、養育費の問題もありますから、月に一度程度は会いに行きます」
「そうね。そうなるわね。結局……」
果数未の顔に愁いの陰が差す。
「トモちゃん。わたし、きょうお医者さんに行って、先生に相談してきたの。いまなら赤ちゃんはおろすことができます。でも、あと1週間たつと母体が危うくなる、って。だから、わたし、生む決心をしたの。例え、あなたの考えがどうであろうと。シングルマザーとして、生きているひとは、世の中にたくさんいるじゃない。そういう気持ちで、ここに来たの。あなたのいまの気持ちを聞いて、すっきりした。これで別れることができる。トモちゃん、元気でね。ちょっと酔ったかも知れないな」
起ちあがった果数未の足がもつれ、厨房から慌てて出てきた天川の体にもたれかかった。
「トモちゃん、これが最後ね。キスして……」
「エッ……」
そこは、厨房からも他のテーブル席からも死角になっている。
天川は、堪えきれなくなったように、果数未の唇に触れた。
「お兄さん、あの2人は別れるみたい。これでいいのかしら?」
「いいンだ。男が誠意を見せた。女はそれに応えた」
「でも、店長の気持ちに計算があったら?……」
「そこまで考えてもしょうがないだろう。妻子には養育費を送り、こどもには毎月会う。そして、彼女とは出来ちゃった結婚をする。そう一度は決意したのだから、彼女の心が落ち着いたのだ。丸く治まった」
「なンだか、わたしたち、今夜はすごい修羅場を見せられたみたいね」
そのとき、5、6人の若い男女が雪崩れを打つように店内に入ってきた。
「予約している相模大医学部です」
先頭の学生風の男が言った。
天川は、果数未から離れると、急いで彼らを出迎え、
「お待ちしておりました」
と言いながら、
「奥にお席がご用意しております。どうぞ……」
すると、学生の一人が、
「店長、首筋に何かついているよ。それ、だれかに、抓られたみたいな……」
天川はびっくりして、首筋を手で隠しながら、
「そうですか。いや、ネコに引っ掻かれたのかな」
そのとき、果数未が天川のそばを通りかかった。
「トモちゃん、ご馳走さま」
と言い。彼の太股を力一杯抓った。
「イタッ!」
「どうしたの、店長」
と、女子学生の一人。
「いいえ、なんでもありません。ちょっとお客さんを、お見送りしてきます」
天川はそう言い。果数未を追って、店の外に出た。
「果数未さん、本当にこれでお別れですか?」
そばに近寄りささやく。
「ンなわけないでしょ。あなたは、死ぬまでお腹の赤ちゃんの父親よ。その責任を果たしてもらうまで、あなたから離れないから……」
「そうですよね」
1週間後。
「貝焼き屋」の水槽は空っぽになっている。
生け簀にいたシマアジと2尾のアジはどこに行ったのか。食われてしまったのか。
いや、ちゃんと生きていた。
果数未の自宅マンションのリビングに、熱帯魚用の120センチ水槽と90センチ水槽が据えつけられ、そのなかで、シマアジと2尾のアジが仲良く泳いでいる。
と、天川が果数未と一緒に、その水槽の前に現れた。
「果数未、いいだろう。このアジ……」
「この水槽、高かったでしょ?」
「いいから。おまえのためだったら、安いもンだ」
「でも、どうして、シマアジとアジを一緒にしないの?」
「この2匹のアジが入荷したとき、先に生け簀にいたシマアジと一緒にしたら、アジが1匹水槽から跳び出たことがあったンだ。こいつら、オスばかりだから、大きいのが小さいのをいじめるンだな」
「そうなの。わたしは、シマアジがメスで、小さいアジは2匹ともオスで、一緒にしたら、どちらのアジがシマアジに好かれるのか、見てみたいと思ったのに……」
「そォか。アジのオスメスって、どこで見分けるのか、本当のところはおれにもわからないンだ。シマアジが飛びかかったから、みんなオスと思ったンだが……」
そのとき、水槽の中で、2尾のアジがコミュニケーションを始めた。
「お兄さん、人間ってバカね。わたしたちの雌雄の見分けも出来ないンです、って。それでよく、釣りができるわね」
「おれたちは、外見からでは雌雄の判別が難しいとされているからな。雌雄の区別さえ付かないのに、人間は平気で釣りをする。
人間ってのは、無責任で無分別なのだ。あの店長を見れば、よくわかるだろう。妻とは離婚すると言いながら、いまだに離婚話さえ、持ち出していない。彼女がシングルマザーになると言ったことをいいことに、家庭円満を貫いている。ヤツの家庭はいまだ平穏無事だ。そのくせ、こうして愛人のマンションを足繁く訪れている。彼女の機嫌をとるために、おれたちばかりかシマアジさんも一緒に、生け簀からここに移して、よしとしている」
「彼女のお腹、少しづつ大きくなってきているのに。いいのかしら? 彼女、余り焦っているようすがないのは、どうして?」
「それがよくわからない。シングルマザーを決意したからか。それとも……」
「それとも、って?」
「お腹のこどもの父親は別にいるのかも……」
「エッ、まさか。お店で、あんなに泣いていたのよ。あれが、お芝居、って言うのッ」
「かも、知れない。人間は怖い生き物だからな」
「そういえば、わたしたち、ここにいつまでいられるのかしら?」
「わからない。最近は、海水魚を自宅で観賞する輩がふえた、って話だから、ずーっとこうしていられるのかもな」
「でも、わたしたち、って、見ていて、楽しい生き物かしら?」
「そんなことはないと思うが……」
そのとき、天川が果数未に言った。
「そうだ。忘れるところだった。きょうは、こいつらを調理していただくンだった」
「お刺身はダメよ。胎教によくないから」
「だから、パン粉と小麦粉、油を持ってきた。鑑賞用の魚は明日、別のを仕入れてくる。これから、夕食のフライを作る」
天川がタモ網を持ち出し、水槽に近寄ったその瞬間、水槽から、シマアジと2尾のアジが一斉に飛びだし、三方から天川のノド仏に、ガブリッと力強く噛みついた。
天川の女房は、こうした事態を予想していたのか、夫には高額の死亡保険金を掛けていた。
(了)
アジ あべせい @abesei
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