恋愛短編集(タイトル未定)

神庭

第1話 声と暴力


「あなたの声が好きなの。それ以外はゴミ」


 赤銅色の光の中、彼女はとても近い距離にいた。

 僕の机に両腕をつき、正面から覆いかぶさるようにして立っている。

 僕はいつの間にか、彼女の影に囚われていた。覗き込んでいた青いリュックから顔を上げる。

 至近距離で目が合った。

 美しい。妖精のように神秘的な細面だ。でも、なんだか斜に構えていて、ひどく高圧的。


 ……睨まれた。


「悪いけど、こっち、見ないでくれる?」


 弱腰な僕の視線は、鋭い声に叩き落とされた。

 はっきりとした目的もなく顔の周りを飛び回る、うっとうしいハエみたいに。

 反射的に、僕はうつむいた。そうしなければならない気がした。


「キモい」


 彼女は有名人だった。


 文武両道、学年一の美人で秀才。男女問わず、憧れと羨望の的である。

 でも、その性格だけは最悪で、口を開けば飛び出す言葉の刃。精神的・物理的暴力。

 最後のひとつについては噂の域を出ないけれど、その他についてはおおむね評判通りに思える。


 無防備に晒したつむじに、冷えた視線を感じた。


 ゴミを見るような目だ。わざわざ見なくたってわかる。肌で感じる。


「で、付き合うの? 付き合わないの?」


 罰ゲームか。


 スクールカースト上位の人間が、冴えないヤツを選んで嘘の告白をし、笑い者にする卑劣な遊び。

 話には聞いたことがあるけれど、実際にターゲットになるのは初めてだ。

 ここでOKなんて出したらどんな目に遭うか、大体の想像はつく。


「なんとか言えば?」


 不機嫌な声で、威圧される。心地よい高音が地肌をくすぐった。


 なんとしてでも、首を縦に振らせるつもりだ。


 それはそうだろう。僕みたいな地味な男が、この学校の勝ち組代表である彼女を振るなんて、許されないことだ。プライドを傷つけてしまう。

 明らかな虚偽の告白だったとしても、僕は彼女の嘘に振り回されなければならない。


「……付き合います」


 これでいい。

 僕は誰かに恥をかかせるよりも、自分が恥をかくほうがずっと好きだ。


 デートに誘った。


“調子に乗るな”

“身の程を弁えたら?”


 それくらいは言われると思ったのに、意外にも彼女はすんなりとついてきた。

 場所は流行りの喫茶店。店のあちこちでカメラアプリのシャッター音が聴こえる。

 僕はここに、ずっと前から来てみたかった。

 たっぷりのホイップクリームにチョコレートソースやチップやスプレーをてんこ盛りにした、スイーツと呼んでも遜色ないコーヒーを一度飲んでみたかった。

 だけどこういう店は、男ひとりだと尻込みする。テイクアウトの勇気すら出ない。彼女が付き合ってくれて助かった。


「×××××××××××の△△△△△を〇〇〇〇〇〇〇。で、コイツは……」


 注文はなぜか、僕のぶんまで彼女がしてくれた。

 さすが女子。さすが勝ち組。すごく慣れている。

 僕には何を言っているのかさっぱりわからなかった。すべてが呪文のように聞こえる。

 一応、ネットで最低限の知識は得たつもりだったが、“コイツ”しか聞き取れなかった。

 コイツというのは、十中八九僕のことだろう。

 窓際のテーブル席を選んで向かい合う。僕なんかと向かい合うのは嫌だろうと、カウンターの方を勧めたのだが、無言でひと睨みされた。要らぬ気遣いだったらしい。

 互いに黙ってコーヒーを啜っていると、


「なんか喋ってよ」


 不意に声を掛けられた。

 顔を上げると、聖なる獣みたいに神秘的な横顔がある。

 彼女は大きな目を細めて、退屈そうに窓の外を見ていた。不思議と嫌な感じはしない。飼い猫にそっぽを向かれているのと似ていた。


「喋らないなら、用事ない」


 黙っていたら、ここにひとり置き去りにされる。

 僕は仕方がなく、ストローを吐き出した。


「昨日のアレって、本当に罰ゲームじゃないんですか」


 他に話題がなかった。


「違うって言った」


 彼女は素っ気なく答える。わかってはいたけれど、こちらには一瞥もくれない。

 赤いストローが、早くも“ズズズ”と空気を含んだ音を立てていた。


「僕のこと好きですか」

「声がね。他は興味ない」


「付き合うなら、声以外も好みの相手の方がいいんじゃないかな」

「声以外、要らないからどーでもいい」


 ない。ない。違う。どうでもいい。

 含んでいる意味はどうであれ、彼女が発する台詞のすべてが、否定の言葉だ。

 僕はため息をついた。

 嫌な気持ちになったからではない。こんな性格に生まれついて、苦労しそうだなと思っただけだ。

 僕は話をしながら、彼女の姿を観察していた。昨日と違って、いくら見ていても怒られないことに気付いたからだ。

 どうでもいい質問を重ねては、否定される。そのたび、心の中でメモを取る。

 子供時代を思い出した。

 風邪も引いていないのに、病院に連れて行かれたことがあった。

 家から遠く離れた場所にある、聞いたこともない名前の個人病院だった。白衣の女性が僕にいくつも質問をしたけれど、すべてが的外れ。的外れはつまらない。ノーを繰り返した。

 今のやりとりは、それに似ている。


「こんな話してて楽しい?」


 二十個めか三十個めかわからないけれど、僕はこの質問で会話を閉じることにした。

 窓の外を見ていた彼女の大きな瞳が、今日初めて僕を捉える。

 形のよい唇が微かに綻び、綺麗な弧を描いた。


「……楽しい」


 初めて見る彼女の笑顔だった。


「僕たち、別れませんか?」


 彼女は至って普通の彼女だった。恋人らしさはまったくなかったけれど。

 ただ、隙間なく傍にいるだけ。中身のない会話。空気と変わらない。

 暴力的な噂は、完全に尾鰭だった。

 家に帰ってシャツを脱いでも、僕の身体には痣ひとつない。

 それどころか、初日に聞いた“ゴミ”と“キモい”以上の罵倒すらない。


「なに言ってんの?」

「だから別れようって」


 告白を受けた時と同じ、夕方の教室で、僕は彼女に提案した。

 彼女の綺麗な顔が、不機嫌そうに歪む。


「意味わかんないんだけど」


 ここに来て、ようやく恋人らしいやりとりが発生した。

 一種の感動を覚えるが、僕にとってはどうでもいい。

 でも、睨みつけてくる切れ長の眸は、少し惜しかった。

 彼女はこういう表情をしている方がいい。僕を見て微笑むなんて、全然らしくない。


「ま、いいけど」


 彼女は思った以上にすんなり引き下がった。

 スマートな仕草で僕に背を向ける。翻った黒髪が遮光カーテンみたいに、僕をシャットアウトした。

 平手打ちか、脛に蹴りのひとつくらいはあると思ったのに。


「いままでありがと」

「こちらこそ」


 短い言葉を交わし、僕たちの交際は終了した。


 予想外の出来事が起きた。

 屋上に続く階段を昇り切った場所で、僕は仰向けにひっくり返っていた。

 ワイシャツのお腹の辺りが真っ赤に染まっている。

 あまりにベタなスポットに呼び出されたので、完全に油断していた。


「これはちょっと、不意打ち……うぇほっ……」


 血の泡を吐きながら、僕は笑い出しそうになった。

 もちろん、そんな余裕はない。

 激しく咳き込む。腹部が燃えるように熱い。

 真上から、蔑むような視線が、僕を見下している。

 僕は手を伸ばし、彼女の白い上履きに触れた。

 短い舌打ち。


「……キッモ」

「きみこそ、なんだよ。その手に持ってるのは」


 血に濡れた安っぽい果物ナイフのことじゃない。

 僕の方に向かって突き出された、小さな筐体のほう。


「これ? ボイレコ」


 ギラギラとしたシルバーの先端で、赤いランプが点滅している。

 まっすぐ僕に向かう光は、生きた人間の視線のようだった。

 僕は血で汚れた彼女の上履きに、頬ずりする。


「……あの」


 彼女は鋭い双眸を冷たく細め、首を傾げる。

 汗の滲む額に、柔らかな靴底が乗り、ゆっくりと力がこめられた。

 赤い光が無言で命じる。


 はやく続きをいえ。


 ズキズキと脈打つ痛みに、弾むような僕の心音が重なる。

 僕は今度こそ笑った。


「もっかい……ふふふっ……付き合って貰えます?」


 きれいに並んだ白い歯が、にんまりと笑うのが見えた。


END

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恋愛短編集(タイトル未定) 神庭 @kakuIvuki

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