第21話 春渡しの意味
「
ありすはそう告げると立ち上がり、それから唐突に帯をほどき始めた。
「ちょっ……何を!?」
「これ意外ときついんですよー。長くつけてると辛いのでもう外しちゃいます」
言いながら帯をほどいて綺麗に畳んでいく。
腰紐を外して着物を脱ぎ始める。
「わーーっ。僕がいる前で服の脱ぎ着をしないでくれ」
「あ。大丈夫ですよー。どうせすぐ脱ぐつもりでしたから、ひっそり下に別に着てます」
ありすの言葉に思わず視線を向けると、着物の下の白い肌着が目についた。いわゆる肌襦袢という奴だろうか。ただ襟や袖の部分には何か少し柄の入った別の生地が貼り付けてある。
「それ……が、そうなの?」
「これはただのうそつき襦袢です。着物ってほんとは肌襦袢の上に長襦袢を着るんですけど、それを着ているみたいに見えるものです。そしてー」
ありすは言いながら、そのうそつき襦袢もほどいていく。
「じゃーん。下にTシャツとショートパンツはいてましたー!」
ありすは楽しそうに僕の前で腰に手を当てていた。確かに長めの白いシャツとその下にかなり短めのショートパンツをつけているようだった。
白い素足がシャツの下から覗かせていて、それはそれで視線のやりどころには困る。
「……着物の常識が三百六十度入れ替わりそうだ……」
「それ元に戻ってますよ」
僕のつぶやきにありすが律儀につっこみを入れてくる。
別にぼけたつもりではなかったけれど。一回転して別の物になっていると思う。
「だって仕方ないんですよー。春渡しが始まったら、終わるまではこの部屋でちゃだめなんです。別に着替え用意して着替えるのは禁止されていないですけど、いくらなんでも謙人さんの前では着替えられないじゃないですか。だから最初から下に着ておくくらいしかやりようないんですよー」
ありすは言いながらも、脱いだ着物を丁寧に畳んでいく。
「ちゃんと畳んでおかないと後でしわになっちゃいますからね。ちょっと待っててくださいね」
いいながら着物を綺麗に畳んでしまうと、それから部屋のすみの方へ丁寧においていく。
「出ちゃだめって……トイレとかどうするの?」
「あ、そこの扉の向こうが厠になっていますよ。そこまでは出ても大丈夫です。あとのどが渇いたら、そこのポットにお湯入っていますから、お茶くらいなら入れられます。お茶菓子も少しならありますよ」
見ると隅の方におぼんの上に急須と湯飲みが置かれていた。
それからさらにその奥には畳まれているけれど、布団がひと組ほど重ねられた状態で置かれているのがわかる。
「あ、布団もありますから、眠くなったら眠ってしまってもいいですよ。それも禁じられていないです。でも春と夏の二人。つまり私と謙人さんの事ですけど、二人が離れるのと部屋から外に出るのは禁止されています。一晩一緒にすごして、春を渡してしまわなければいけないんです」
ありすはとても楽しそうに告げて、それから僕の方をじっと見つめていた。
照れくさくなって少しだけ視線を下へとそらす。ただそうすると逆にありすの素足が目に入って、慌ててさらに外側へと向けた。
「お茶でも入れましょうか。しばらくの間、ずっと私と二人っきりですから。のんびり過ごしましょう」
ありすは言いながらすでに急須に茶葉を入れていた。
「僕の役目はこれだけでいいの? 特に何もしなくても」
「はい。謙人さんは特に何もしていただかなくていいです。ただ私から春を受け取ってください」
「春を受け取るって……どうすれば」
ありすの言いぶりに困ってしまって、少しだけ困惑した声を漏らした。
だけどありすは全く気にとめていない様子で、にこやかに答えていた。
「特に何も。一晩一緒に過ごしてくれればそれで受け取った事になります」
ありすは言いながら、それから少しだけ声のトーンを落としてゆっくりと告げた。
「でも一晩こうして過ごす訳ですから、その、当時はいろんな事があったそうです。その、だから儀式も元から恋人同士だったり、実質的にはお見合いみたいな形に近かったりする事が多かったそうです。えっと。そのだから『春渡し』なんだって、お母さんが言ってました。私、四月一日のばあさまとしかしたことなかったので、そういう意味を含んだ儀式だって、ぜんぜん知りませんでしたけどっ」
ありすがかぁっと頬を紅く染めながら告げていた。
つまり恐らくはそういう事なのだろう。ありすがあの時言った「一夜を共にしてください」があながち間違いではなかったという事だ。
布団が用意されているのも夜間の行事だからという事もあるだろうけれど、そういう意味もたぶん含まれているのだろう。一組しかないし。
妙に照れくさくなって頬を指先でかいてみる。どうしたものかわからなかった。
「べ、別にそれが必須って訳じゃないですからっ。しなくたっていいんですよっ。今までだってした事無いですしっ。今までは相手もばあさまでしたしっ。いつもはさっさと眠っちゃってました」
ありすは少し早口で話すと、それから少しだけ顔を背けていた。
少しの間、沈黙が続く。僕も何と言っていいかわからなかったけれど、それ以上にありすはどう言えばいいのかわからないようだった。
長い時間が過ぎる。いや過ぎたように思えただけかもしれない。ふと時計に目をやれば、それほど時間としては進んでいない。
沈黙がどこかむずがゆくて、でも口を発してしまえば変な事を言ってしまいそうで、だから僕は何も言えなかった。
ありすにしても同じ気持ちだったのかもしれない。どこか照れた様子で、頬を赤らめたまま少しだけ俯いていた。
こんな時間がずっと続くのかと思ったけれど、だけど再び口を開いたのは、ありすの方からだった。
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