第19話 かなたのお迎え

謙人けんとさん。まだこちらにいらしたのですね」


 ありすの声が響いて、僕は顔を上げた。

 夏の日差しを受けて少しぐったりとしてきたところだった。


「こんなにずっと日に当たっていたら熱中症になっちゃいますよ。あ、麦茶入れてきたので飲んでください」


 ありすは大きな水筒をたすき掛けにして腰から下げていた。

 その水筒から注いだ冷たい麦茶を僕に差し出してくる。

 ありがたく受け取って、それから一気に飲み干す。


「よっぽどのどが渇いていたんですね。もういっぱいいかがですか?」

「ありがとう」


 差し出しされた麦茶を今度はゆっくりと味わいながらのどに通す。

 ひんやりとしていて火照った体を癒やしてくれるようにも感じられた。

 ミーシャはいつの間にかいなくなっていた。どこかに隠れてしまったのか、それとも一人で家に戻ったのかはわからない。ひまわりだらけのこの畑の中だ。ミーシャがひまわりの中に入ってしまえば、もうどこにいるかはわからない。


「春渡しは今日の夜で決まりましたよ。楽しみですね」

「ありす。春渡しって結局何をするんだ」


 ありすの言葉に応じて、もういちど問いかけてみる。


「んー。私と一緒に夜通し神社の部屋の中で過ごして。おしゃべりして。笑って。そして未来について話す。ただそれだけの儀式ですよ。そうして春を渡すんです」


 ありすはにこやかに笑いかける。

 嘘をついているようには見えなかった。そもそもありすはあまり隠し事が得意そうには思えない。だからきっとこの言葉は嘘ではないのだろう。

 麦わら帽子の下にのぞかせている笑顔は、まっすぐ僕へと向かっていて、それがまぶしくて僕は思わず目をそらす。


「そろそろおうちに帰りましょうか。夜は長いですから、少し仮眠をとっておいた方がいいと思います」


 ありすは言いながら、僕へと背を向ける。

 ジャンパースカートが風に揺れていた。

 麦わら帽子の赤いリボンが何よりも目についていた。

 ありすの長い三つ編みも夏の香りと共に揺れる。

 吹いてきた風に、麦わら帽子が飛んでいかないようにその手で押さえる。

 ただなぜかその帽子と共に、何もかもが飛んでいきそうな。そんな気がしていた。


「謙人さんと会えてよかったです」


 背を向けたままありすは呟いていた。






 日が暮れて、そして沈んでいく。

 あんなに強かった日差しは消えて、今は暗闇の中だ。家の明かりだけが、あたりを照らしていた。

 げこげことカエルの鳴く声が聞こえてくる。

 ありすはこの後迎えに来るという。だから僕は部屋の中で待っていた。

 ミーシャもこの部屋の畳の上に箱のようになって座っている。


「落ち着かないのかい」


 ミーシャは僕をつまらなさそうに見つめていた。大きくあくびを漏らしている。


「うーん。まぁそうかな。結局何をするんだか分からないし」

「春渡しは特に何もない儀式だからね。本当にただ一緒にいるだけさ」


 ミーシャはそれから背筋を伸ばすと、しっぽをぴんと立ててそのまま部屋の隅の方へと向かっていた。


「ありすの方は事前にいろいろ準備があるがね。今頃はみそぎを行っている頃だろう」

「みそぎ?」

「要するにお風呂に入って体を磨いているのさ」


 ミーシャは端的に物事を告げる。


「……なるほど」


 少し間を置いて言葉を返す。

 ちょっとばかりお風呂の様子を想像してしまったけれど、すぐに頭をふるって雑念を振り払う。


『おにーちゃん。いるかな。あけてもいいかな』


 同時にふすまの向こう側から声をかけられる。恐らくかなたの声だろう。


「いるよ。どうぞ」


 僕が答えるが早いか、ふすまが開く。予想通りかなたがそこに立っていた。


「ありすちゃんの準備が出来たから迎えにきたよ。かなたはおにーちゃんの迎えが役割なんだよー」

「そうか。かなたちゃんも儀式の関係者なんだ」

「うん。あとあかねさんやこずえさんもそれぞれ役割があるよ。でも主役はあくまでありすちゃんとおにーちゃんだけどね」


 かなたは口を抑えながら、にこやかに笑う。

 ついでにあかねさんやこずえはさんづけなんだなと思う。ありすだけはちゃんづけなあたり、ありすの扱われようがよくわかる。

 もっともありすはあかねもこずえもちゃんづけだっただけに、ありす自身の呼び方でそうなっているのかもしれないが。


「まぁもうこの村にはあんまり人がいないからね。みんな何かしら役割を与えられてるよ」


 かなたは楽しそうに笑う。


「じゃあいこう。ありすちゃん、もう待っていると思うから」


 かなたは僕の返事も待たずに振り返る。

 それからすぐに元来た方へと戻っていく。

 特に異論もなかったから、その後を続いて歩き出していた。

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