エドワードが去って数週間。ヴィオノは司書としての務めに追われていた。何を勘違いしたのかアガシア第一皇子が王に即位した日から、この王宮図書館【マロニエ・コマン】を訪れる者がポツポツと現れ始めた。日の出とともに扉を叩く音が聞こえ、夜遅くになっても帰らない者も出る始末で、ヴィオノはその度に攻撃系の呪文を用いて退去を命じなければならなかった。訪問者を1階から各階へ橋渡しをするゴルグの生きた樹で作られた自動移動装置はここ数週間で昔のように青々とした葉を取り戻していた。ヴィオノの心が休まるのはいつも閉館時間を過ぎてからだった。そして思うのだった。たった一人死んだからといってどうだというのだ。それに踊らされて皆何を考えているのか。まあ、時期に収まるだろう。もう少しの辛抱だ。この数週間訪れるのは魔術のイロハも分からない者ばかり。自らを知らない者ばかりではないか。せいぜい一時のにすがっていればいい。肉体的な疲れなど感じるはずもないのだからこれは心の疲れからか。彼女の頭の中ではダークファンタジーの小説に出てくる悪役のセリフめいたモノローグが流れるのであった。


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その数日後、ヴィオノは今日も閉館時間までなんとか司書としてこなすと、ドカッと司書席に座った。司書席に置いてあるこの図書館内にある本の中でも一番のお気に入りの本である【スカビュウズ】に視線が留まる。しかし、どうにも読む気になれない。彼女はうんざりした気持ちではるか頭上の天井を見つめた。そうしていると、ドンドンと扉を叩く音が聞こえた。ヴィオノは何も答える必要もないだろうと考えた。そして、この図書館全体に入る音を遮断することを思いついた。音は空気の振動によって伝わる。そうであれば、この建物全体に一種の膜のようなものを覆ってしまえば。流石に自らの耳に遮断の魔術を施す気にはなれなかったのでちょうどいい。試してみよう。閉館時間の間だけである。何も職務を放棄したわけではない。そう思いながら、その呪文を唱えようとした。そこで、扉の奥から声が響いた。


「すみませーん。」


エドワードの声だった。


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渋々といった様子でヴィオノはエドワードを招き入れた。閉館時間は過ぎていますという嫌味を言うのを彼女は忘れなかった。しかし、それを言われたエドワードは大して気にする素振りもなく、氷の呪文について聞いてきた。彼女は多少イラっとしながら、


「氷の呪文を一口に言っても色々用途によって変わります。どのような目的でそれを使用なさるおつもりですか?」


「実は魔王討伐に向かう最中に炎が舞う溶岩地帯をどうしても渡る必要がありまして。どうにか出来ないかと思ってですね。」


ヴィオノは必死に笑いを堪えた。魔王討伐の最初の関門のズール溶岩地帯のことを言っているのであろう。ズール溶岩地帯は魔王の魔力によって異常に強化された溶岩が絶えず循環していてエドワードの魔力をもってしても自らが知る低級魔術では歯が立たなかったのだろう。しかし、問題はそこではないのだ。そもそも渡る方法が違うのである。あそこは、自らの周りに内向きのマナを纏わせ、溶岩との間に一種の膜を発生させて渡らなくてはならない。


「はぁ。そうなのですか。では、氷結魔法の最上級のものが記載されたこちらはいかがですか?」


ヴィオノは魔法を使って、エドワードの手元に1冊の魔導書を差し向けた。彼女は真実を告げる気はなかった。司書は求められたことを答えればいいのである。本人が納得すればいいのだ。エドワードは渡された魔導書をサーっと読むと前回と同様軽く謝辞を述べて図書館を出て行った。ヴィオノはそのあと、


「ふふふっ。」


とずっと堪えていた笑いを吐き出した。


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それから数日後の昼頃、ヴィオノは二人のテンセイシャらしきローブを纏った男たちの会話を聞いた。


「おい、聞いたか?ズール溶岩地帯のこと。」


「あぁ。一晩で氷の橋が出来てたって話だろ?まさかそんなことが起こるなんて誰も想像しないよな。これでまた一歩、魔王討伐への道が開けたってことだよな。」


「アガシア王が近々、討伐軍の再編のお触れを出すって話だし。面白くなってきたな。でも、いったい誰があんなことしたんだろうなー。」


それを聞きながら彼女は自身の表情が苦虫を嚙み潰したようになるのを必死で抑え込んだ。


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それから数か月の間、ヴィオノはその苦虫を食い尽くすのではないかという勢いで不愉快な感情に苛まれた。エドワードがふらりと閉館時間に訪れ、魔王討伐での問題点の解決策を探る、そして、その数日後、その問題が解決されたことを別の訪問者たちの会話で知る。


どの内容も納得のいくものではなかったが、一番彼女が納得いかなかったのは、エドワードが迷いの森の抜け方を探っていた時だった。その時、エドワードは珍しく真の解答である鳥獣の声を聴く魔法を聞いてきた。あの森にはポロンという鳥がいる。そのポロンはいくつかの樹々毎に縄張りを持っていて、そこに行くと次のポロンの場所までの方角を何故か教えてくれる。そして、そのまた次、次と。そこに向かうことで迷いの森を抜けることが出来るのだが、エドワードはあろうことか、迷いの森全域を包むように鳥獣の声を聴く呪文を唱え、それを固定化させてしまった。するとどうだ。その事実を知らぬ者もそこを渡れるようになってしまったのだ。真の解答から彼女の納得のいかない答えを出したのである。


彼女はその会話を聞いた時、愕然とした。その間、彼女の頭の中では、知識は自らの為にのみ使うべきであって、他人の為に使って何になるのだ。知恵無き者にそんなもの与えてもロクな事になるはずがないのだ。自らつかみ取ろうとしない者は吐き捨てられて当然なのだ。戦う努力もせずに何かを得るなんてこと出来るはずがないのだ。弱者への罵詈雑言がこだましていた。


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閉館時間を過ぎて、ドンドンと扉を叩く音が聞こえた。どうせ、エドワードだろう。ヴィオノは、嫌々扉の開錠呪文を唱える。しかし、開いた扉の先に現れたのはエドワードではなく、彼女にとって忘れたい過去を嫌でも思い出させる昔住んでいた街の長であった。


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一向に何も言わない長を前にして仕方なくヴィオノは司書席の前に切り株の椅子を出し座らせた。しかし、長はありがとうと言って、それからまた沈黙が続いた。ヴィオノの心の中は色々なことが駆け巡っていた。何故、私はエドワードだと思ったのだろう。そもそも、エドワードなら何故、閉館時間でも扉を開けていいと思っていたのだろう。そして、何故、長、今は王宮元老院で順位4位までのし上がったというこの男がここに来ているのだろうか。どうにも居心地の悪い気分になりながら、長が口を開くのを待った。


「すまなかったな。」


長がやっと口を開いたが、ヴィオノは混乱するばかりだった。いったい何についての謝罪なのか。さっぱりだった。あの人の事ならそもそも何故今なのかも分からない。


「リブロンは勇敢な戦士だった。あの知恵ある隻眼のドラゴン【ジュルヴ】に対しても果敢に戦った。しかし…」


長はそう言ってまた黙ってしまった。ヴィオノはたまらず、


「何をおっしゃってるんです?もし、あの日のことをおっしゃってるのでしたら、長は昔、私にこうおっしゃっていませんでしたか、""と。」


鼻声になりながら言葉を出す。長はその言葉を受けて口を動かし始めた。


「そうだ。私にはそれが最善の答えだと信じていた。君はあの時、絶望に打ちひしがれていた。だからこそ、憎む相手が必要だと。リブロンの雄姿という美談だけでは、君を生に繋ぎ止めることは出来ないと考えたのだ。生き残った自警団の皆も納得してくれていた。」


「いい加減にしてください。なんで今更、今更…」


ヴィオノは髪を手櫛でぐしゃぐしゃにしながら長の言葉を遮ろうとしたが、自分自身が涙で声が出なかった。


「すまない。ずっと考えてはいたのだが、行動に移す気はなかった。しかし、8日前だ、あの男とこの話をしたのは。その時、言われたのだ。"何故、彼女を信じてあげずに、安易に憎しみの心を育てるような真似をしたのですか。何故、あなたの判断で彼女の生き方を決めてしまったのですか。"とな。私はこの言葉を忘れることはないと思う。安易に自分の経験則で君の人生を奪ってしまっていたのだ。そして、思い出した、君がここの司書に入りたいと言ってきた時の君の表情を。強くあらねばと無理をした君の表情を。あの時は心が痛いと同時にそれでも生きていってほしいと願っていた。だが、それすらも誤りだったのだ。すまなかった。」


「出て行ってください!!早く!!」


ヴィオノは精一杯の声を張り上げると、長を図書館から追い出した。その間も、長は謝りながらこれからは人を信じてほしいとヴィオノに訴え続けていた。


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ヴィオノはこの図書館全体に入る音を遮断する魔法を唱え、あらゆる雑音を消した。司書席に座り、はるか頭上にある天井を眺めながら昔を思い出す。リブロンと結婚したのは17の時だった。彼は4つ上で彼女にとって大人であった。あの日は彼女が19になる半年前だった。子供でもいたのなら周りの目は変わっていたのだろうか。後追い自殺でもすると思われたのだろう。あの時の自分がどうだったかなんて彼女は最早思い出すことは出来ない。ただこの司書席に座る為に長の前に立った時のことは鮮明に思い起こされた。ダメというのなら脅し取ってでもと、心臓が張り裂けるほどドクンドクンと脈打っていた胸の内を悟られまいと必死にやった。それすらもいらない努力だったのである。


彼女は試しに消滅呪文【セクシフラージュ】を唱えた。彼女の胸の上にマナの光が集まり出した。そして、やがてそれは膨張を始め、彼女の身体を包み込もうとしてその光は消えた。やはりダメか。彼女は大して落胆した素振りも見せずに次の呪文を唱えた。彼女の周りに無数の光の剣が現れた。そして、それは彼女の指が鳴らした音を合図に彼女の身体に降り注いだ。舞い散る血しぶきを見ながら、彼女の意識は遠のいていった。

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