動物の掟

MenuetSE

 

 薄暗くなって来た上に霧も出てきた。山道に迷ったのかもしれない。ただ、俺の心は落ち着いていた。そんな事もあろうかとビバーグ道具を持ってきているからだ。一晩くらいの野宿は大丈夫だ。そんな思いを巡らしていると、霧の中からキコキコという音がかすかに聞こえてきた。ゆっくりと近づいてくる。

「ああ、誰か居るのだろうか。登山者だろうか」

 すると、霧の中から自転車に乗った熊、いや小さいから小熊、が現れた。俺は論理的な思考回路がショートして妙に据わった心になっていた。小熊は自転車を止めると俺の方を見て言った。

「やあ、こんばんは」

 既にショートしてしまっている俺の思考回路は素直にその挨拶を受け入れ、返事をした。

「こんばんは」

 小熊が山中で自転車に乗って言葉をしゃべっている。尋常ではないが、何故か普通に会話は続いた。小熊は自分が「異端者」であると言った。理由を聞くと、分かるようで分からない答えが返った来た。

「おいらが言葉や道具の作り方を覚えたからさ」

 確かにこいつは言葉を使い、自転車を自作したようだ。

「本当は動物はこんな事しちゃいけないんだ。『動物の掟』違反だよ」

「動物の掟?」

 おれは始めて聞く言葉に思わず聞き返した。小熊は説明を始めた。

「知らないのかい? 動物の世界では言語の習得や道具の作成は禁止されているんだ。どんな動物だって、そういう能力はあるんだよ。でも、学んじゃいけないんだ。だけど、おいらはどうしても自分の興味に勝てなくて、人里に通って見よう見まねで勉強したんだ。掟破りさ。だからこうしてのけ者扱いされているんだ。といっても、まあ軽い村八分、といったところかな」

 小熊は続けた。

「でも、実際に言葉や道具の作り方を学んで人間の社会を見ているうちに、何故、古の昔から『動物の掟』が受け継がれてきたのか分かったよ」

 俺の興味心が蘇えってきた。ふと思った。

 ――人間は言葉や道具がある故に人間であり、優れているとされているのに、何故『動物の掟』はこれらを禁止しているんだろう

 小熊はまるで俺の疑問を待っていたかのように言葉を続けた。

「言葉があると、いろいろ考えたり評価したり競争したりするから、動物同士の関係がややこしくなってギクシャクするでしょ、好き嫌いするでしょ、差別・区別するでしょ、いじめも起きる。まあ、それが人間の言うところの『文学』や『芸術』、あるいは『平等』『博愛』なんかを生み出しているのかも知れないけど、いたる所でいがみ合いや揉め事だらけだよね。喜怒哀楽が人生、なんて受け入れているようだけど」

 ――こいつ、かなり達観している。小熊のくせして、おれより精神年齢高いかも

 小熊は妙に落ち着いた感じで、さらに続けた。

「言葉が無くて ギャーギャー、ガオガオ の鳴き声だけだったら、いがみ合っても知れてる。大抵は一時的な事に終わって、またすぐ普通の関係に戻る。よく考えると生きていくにはそれで十分さ」

 ――確かに

 俺は、しっくりと納得して頷いている自分に気付いた。やけに饒舌になった小熊は、続けた。

「道具だってろくなことは無い。この自転車は便利だけど、普通に生きていくのには歩けりゃ十分さ。それに、だんだんと道具が高度化していくと、とんでもないものを作り出す。人間は1発で10万匹を殺せる装置を作ったんだよね。動物はそんな事はしない。群れ同士の争いで死んじゃうこともあるけど、1匹か2匹くらいだよ」

 そこまで言うと、小熊は俺に背を向けて自転車を漕ぎ始めた。そして言った。

「ああ、こっちの道をまっすぐ行けば人里に出るよ。山で野宿は寒いからね。それにしても家や道具がなくっちゃ生きていけないなんて人間は不便だね。でも人間はどこかでその道を選んだんだよね。だから動物の世界から見たら、おいらも人間も『掟破り』さ」

 小熊はキコキコという音を残して霧の中に消えていった。俺は教えてもらった道を急いで下り始めた。曲がりくねった山道はどんどんと下って行った。いいかげん疲れてきた俺は、街の明かりが見えてくる頃には、もうすっかり小熊の事を忘れていた。

 ――とにかく家に帰って、お風呂に入って、おいしいものを食べて、メールをチェックしよう。ああ、コンサートのチケットも取らなくっちゃ。

 俺は家路を急いだ。そう、「動物の掟」を捨てた世界へ。

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