大きな金庫

常陸乃ひかる

それが世のため

 場末の小さな研究室。どんな風邪でもたちまち治してしまう夢のような新薬を、数十年越しで完成させた天才が居た。

「やはり、この薬は人間に有効だ。あとは承認さえされれば……」

 臨床試験では翌日に完治する者、ほぼほぼ完治する者、中には数時間で完治する者まで居た。個人差はあったが、風邪を引いたすべての被験者に効能が見られたのだ。

 天才は感極まり、狂ったように研究室を飛び回った。

 数分後には、疲れてぐったりした。


 明くる日。

 承認の申請を行う前に、前祝と称して知人の研究者とともに、居酒屋でひっそりと祝賀会を開いた。その研究者とは、過去に同じ研究室で実験に勤しんだ仲間で、今でこそ同じだけシワの数が増えた仲間でもあり、独身貴族という境遇が一致した仲間でもある。

「素晴らしい功績です! あとは承認、ゆくゆくは発売されれば、たくさんの人が救われますね!」

「はっはっは、風邪を引いて出勤・登校する無能が居なくなるな!」

 何杯もあおっていたせいか、研究者の笑い声や、安っぽい居酒屋の騒がしさが心地良く、すべての雑音が天才を祝福しているように感じ、目頭が熱くなってきた。

 天才はジョッキを傾け、満面の笑みと対面しながら、ふと邪推してしまった。ほんの少しだけ、ほんの一瞬だけ。それが、金庫破り特集の始まりとも知らずに。

 特効薬を開発したのは自分であり、この研究者はなにも関わっていないではないかと。それなのに研究者は、どうして仲間のような口ぶりで一緒に笑い、酌をし、祝ってくれるのだろうか、と。


 考えてみれば、彼とこうして一杯やるのはいつ以来だ?

 いや、初めてかもしれない。言うほど仲が良かったわけではない。


 そもそも今日、飲みに誘ったのはどっちだ?

 突然、彼から電話がかかってきたような――気がする。


 ではどうして、わざわざ呼び出したりしたのだろうか?

 もしかすると、彼は手柄を狙っているのかもしれない。


 疑い始めたら、あとは簡単だ。目に映る世界は転変し、全人類が敵のような錯覚を起こしていた。――錯覚? いや、みんなこの功績をねたむに違いない!

 ひとりだけ良い生活をして! なんて風に、後ろ指をさされるのだ。

「ど、どういうことだ……キミ! 欲しいのは、金か! 名誉か!」

「急にどうしたんですか? 飲みすぎですよ、ハハハ」

「馬鹿にするな! 今日は帰らせてもらう! お勘定はここに!」

 天才は癇癪かんしゃくを起こし、くしゃくしゃの紙幣をテーブルに叩きつけると、逃げるように家路を走った。たまたま、目の前を横切った野良猫にすら怯えながら。


 天才は翌日、大きな金庫を買った。

 性能はいたって普通だが、とにかく丈夫で、耐熱性も兼ね、軍事兵器――までは無理だとしても、象が踏んだ程度ではびくともしない代物である。

 さっそく金庫を設置し、新薬と一緒に、開発に必要なデータをしまうと、十ケタの暗証番号を設定した。

 設定した暗証番号をメモし、タンスの小引出こひきだしにしまい、施錠した。

 また、小引出の鍵は肌身離さず持ち歩くことにした。

「これで一安心、なのか?」

 が、次の呼吸をすると、また新たな不安が湧き上がってくる。自らを脅かす存在は、きっとあの研究者のみならず――

「いや、まだだ! まだ誰かが私を狙っている!」

 天才は怯えるまま、世間とのつながりを断絶した。一ヶ月、二ヶ月――そのうち、カレンダーが半分以上めくられていた。日付の感覚がなくなった天才が、血走った眼をあらわにし、四方をキョロキョロしながら、小売店で食糧をまとめ買いしている姿が近所の住人に目撃されるようになった。

 あまりの異様さから、小学生たちからは、『妖怪』というストレートなネーミングで馬鹿にされ、大人たちからは残念な目で見られるようになり、とうとう町の有名人にまでなり下がった冬の日。


 前祝を行った研究者が、天才の家を訪ねてきたのだ。

 何用か、怪訝な様子で天才は尋ねた。

「なにって……ここのところ奇行が目立つみたいなので、気になって……」

 天才は門前払いしようとしたが、研究者があまりにも引き下がらないため、不承不承に家へ上げた。茶でも出して、適当に言葉を繕っておけば諦めるだろう。

「あれから数ヶ月……。なぜ承認の申請をしないんですか」

 リビングのソファに落ち着いてすぐ、研究者が本題を持ち出してきた。相手の出方を予想していた天才に、動揺は少なかった。成果を奪いに来たところで、何重にもセキュリティを固めた金庫は破れるはずがないのだ!

「はっはっは! きなりその話か? 実に浅はかだ!」

「や、やっぱりおかしい。一体なんの話を……」

「無駄だと言っているんだよ。今あれは金庫の中、他人には絶対に開けられない」

「そんな……あなたの功績は人々を救うんですよ! 『風邪くらいで休むな』と、外出を強要する、馬鹿な上司や教育者だって居なくなるのに!」

 見てみろ、彼の顔を。成果を奪い取れないと悟った研究者は、どうにもこうにも手を出せなくなり、声を張り上げて意見を主張してきたではないか。

 実にお粗末! 実に短慮たんりょである! 

 天才は、勝ち誇ったように笑った。


「話はそれだけか。ふん、出口はわかるな? さあ、帰った帰った」

「い、いい加減にしてください! 以前はあんなに研究熱心だったのに!」

 天才のさげすんだ反応が気に障ったに違いない。研究者の青白いこめかみに血管が浮き上がったかと思うと、怒号を放ちながら飛びかかってきたのだ。急な乱暴に対応しきれず、胸倉を掴まれた天才の体は、左右に翻弄された。

「やめろ!」

「やめません!」

 天才は研究者と揉み合い、家具や置物を倒しながら部屋をぐるり一周した。

 絶叫と雑音が交錯する一室、荒い息が時間を埋め尽くす中、天才は隙を見つけると、研究者の体を力任せに払いのけた。するとどうだろう、彼の体は宙を舞うように天才から離れてゆき、部屋の中央に配置されていたテーブルの角に頭をぶつけ、床の上へ大の字に倒れてしまったのだ。

 大きな打音はしたが、見え見えの演技に決まっている。


「大げさなリアクションはやめろ! これで帰らないなら警察を呼ぶ!」

 天才の最終通告に対し、倒れた研究者は無言だった。呆れながら体をゆすり、ついでに体を叩いてみるが、彼はうんともすんとも言ってこなかった。

「見え透いた演技を。ちょっといい加減に――」

 息の届く距離まで近づいた時、返答がない理由が判明した。彼は、目を開けたまま呼吸していなかったのだ。打ちどころが悪かった、と捉えるしかあるまい。

 同時に、天才の頭の中が真っ白になった。めまいではない、気の遠くなるような長い街道に、ぽつり立たされてしまった感覚である。

「なんてことだ……」

 なぜだろう。

 病院とか警察とか、そういった機関が浮かぶ前に罪を逃れる方法ばかりが頭を回ってしまう。鏡がなくとも、青ざめる自分の顔がわかってしまう憎さ。そうだ、なんとしてもこの死体だけは人の目に触れさせてはならない。

 不意に、天才の横目に移った金庫は、死体を納めるだけの大きさがあった。


 ――数日が過ぎた。

 呪術なんて信じたくなかったが、すこぶる体がだるかった。不調が研究者の呪いだとしたら、天才の家がホラー屋敷や心霊スポットと呼ばれ、何十年後かに特番を組まれても、言い訳のしようがない。

 それよりも今は発熱、頭痛、悪寒、吐き気までも催す体をどうにかしなくてはならなかった。思い浮かぶ対処法は、たったひとつである。

「き、金庫……に、薬が……」

 治す方法を十二分じゅうにぶんに認識しながらも、金庫へ向かえない理由があった。

 どこに落としたのか、誰に盗まれたのか、なにかに食べられたのか、常に身につけていたタンスの鍵が見当たらないのだ。

「一体どこに……」

 おぼろげな意識では、処理しきれない難解な問題だった。

 天才にはタンスを壊すだけの腕力はないし、十ケタの暗証番号を思い出す記憶力もなければ、病院にゆくだけの力も残っていなかった。加えて、この家には死臭漂う物故者が置いてあるのだ、助けなど呼べるわけがない。

「どうして、こんなことに……」

 天才は自身を奮い立たせ、ぎしぎしと骨が軋む体を動かした。薬を服用できない以上、エネルギーを摂取しなくては話にならない。

 寝室を出て、廊下を這い、階段に差しかかり、喘息気味に手すりにしがみつき、階段を下り始めたところまでは記憶があった。その時、天才が居たのは二階だった。

 ――不思議である。天才が目を開くと、もう玄関の前で倒れていたのだ。加えて、かすれた声も出せず、指先も動かせず、ただただ冷たい床に体温を奪われていた。天才は暗くなってゆく視界の中で、あるべき因果を痛感した。

 生を求めた結果、死が訪れたのだと。


 ――しかし今、大きな金庫の中はちょっとしたパーティである。

 夢のような新薬。

 新薬のデータ。

 腐乱死体。

 気が動転した天才が、遺体を隠す際に一緒に入れてしまったタンスの鍵。

 それらが、無作為に絡み合っているのだから。


 ちなみに、この大きな金庫が開かれたのは、ずっとずっと――何年もあとの話である。悲しいかな、とっくに別の新薬が開発された時代なのである。

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