なぜ愛の無い性は穢れてるのか?

セクシャルという問題点について、私は一言表題のように思うことがあるのです。
他人は自分の鏡像。ヤリ捨て女もヤれない女もまた自分の写し鏡。
快楽に溺れる者をギリシア、キリスト思想は忌み嫌う。それはそうだ快楽に溺れる者は『社会』を乱す禁欲こそが合理化であると人は本能理解している。主人公は世界には不満を持っているように見えるが実は快楽に溺れる自分に不満を持っている。故にまた快楽に溺れる『汚れた(あるいは罪深き)女』を傷付ける。だがそれは主人公自身を傷付けることになる。なぜなら他人は自身の鏡像なのだから。
主人公は穢れなき乙女と偽りの世界をつくる彼女は主人公の穢れを知らない。故に主人公はその穢れを知らぬ乙女を一つの本質にしたいと思っている。しかし主人公はまた忌み嫌うものと本質的に同じ。故に穢れなき彼女との仮面の舞踏を楽しむ。
理想の自分と自分の理想(この二つの差異はあくまでも主体が理想か自分かの違い)この二つに分裂する主人公は統合の希望を最後の『白』すなわち無垢、逆を言えばいくらでも塗り替えられる色。(故に縁故ある人物を切ったでしょうね)に託したのです。

追記。本能で理解しているを本能の愉快で死んでいると書き損じました。フロイト曰く錯誤には無意識があるとか。