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増田朋美

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朝から雨が降って、昼間だというのに、蛍光灯が必要な、そんな日だった。ただでさえ雨の日は憂鬱だと思うのに、何だか外へ出るのもおっくうになってしまいそうな、そういう感じのする日であった。

その日、いつもと変わらず大渕に建っている製鉄所には、水穂さんの診察のため、影浦千代吉が来訪していたのであった。

「どうもご苦労様です。影浦先生。お忙しい中、俺たちのところへ往診に来てくださって、申しわけないくらいですよ。」

ブッチャーこと須藤聰は、影浦先生を四畳半へ招き入れながら、申し訳なさそうに言った。

「いえ、形式的な挨拶は結構ですよ。水穂さんだって、どんな立場であっても、患者であることは、変わりありませんから。それで、様子はどうですか?前回の診察から、少し食欲を出してくれましたでしょうか?」

と、影浦がそういうと、ブッチャーは、それがですねと言った。

「ああ、まだですか。」

影浦も一寸ため息をついた。

「す、すみません。俺たち、水穂さんの事を放置しているとか、見捨てているとか、そんな事はしていません。其れじゃなくて、水穂さんがとにかくご飯を食べてくれないんです。俺たちは、いろんな物を作って食べさせましたけど、全部要らない要らないって、食べようとしないんですよ。俺たちの管理不行き届きとか、そういうことではありませんから!」

ブッチャーが急いでそういうと、影浦先生は、にこやかに笑って、

「ええ、大丈夫です。須藤さんを責めることは絶対にありません。それはちゃんとしっていますから、謝らなくて結構です。須藤さんも、そのことで自分をせめてはいけませんよ。もう食べないのは仕方ないと思ってください。どうしても、当たり前にできていた事が、できなくなるのが、心の病気というものですから。」

と、ブッチャーに言った。

「はい、ありがとうございます。俺、どうしたらいいのか悩んだくらいでした。水穂さんが、どうしても、食べてくれないものですから。俺がやっていることは、みんな水穂さんには通じないのかなと思って。」

「いいえ、患者さんに尽くしつづける必要はありません。患者さんは周りの刺激でうごいてくれますから。周りの人は、おとなしく、それを待つことです。それが希望です。」

ブッチャーがそう話をつづけると、影浦はブッチャーの言葉に、そう返したのであった。これでやっとブッチャーは、自分が楽になったような気がするのだ。影浦先生のような人でないと、自分の気持ちをわかってくれる人はいないのだろう。

「じゃあ、影浦先生、御願いします。」

と、ブッチャーは、水穂さんの部屋のふすまを開けた。水穂さんは、布団で眠っていた。ブッチャーが、影浦先生が見えましたよと言って、水穂さんの肩をゆすぶると、目を覚まして、布団に起きようとしたが、体力が無くて、それはできなかった。ブッチャーは、ご飯を食べないからそういうことになるんだと言いたかったが、影浦にそれはとめられてしまった。

「こんにちは、水穂さん。前回の診察から、かなり間が開いてしまったようですが、今のご気分はいかがですか?」

と、影浦が聞くと、

「変わりありません。以前も現在も。」

と、水穂さんは、素直に答えた。

「そうですか。では、食べようという気にはなれないですか?」

と、影浦が聞くと、

「はい、ありません。」

と、水穂さんは答える。

「そうですか。相変わらず食べようという気持ちがしないんですね。それでは、今回のお誘いはほかの人に頼もうかな。水穂さんのようなピアニストなら、演奏できると思ったんですが、それは無理かな。」

影浦は、一寸ため息をついた。

「え?お誘いって何ですか!」

ブッチャーが思わずいうと、

「ええ。うちの病院で、演奏してくれる人を探しているんです。長期入院していて、もう生きる気力もなくなっている人達を、音楽で慰めてあげたいなという企画が持ち上がっていましてね。それで、誰か演奏してくださる人を探しているんです。水穂さんなら、やってくださるかなと思ったんですけど、それは無理ですね。」

と、影浦先生は淡々といった。

「そうですか!じゃあ、是非やってもらいましょうよ。ほら、水穂さん、水穂さんは必要のない人間でありませんよ。こうして演奏してくれといっている人がいるんですから。それにしっかり答えられるように、もう少し体力付けて頑張りましょうよ!」

ブッチャーはそういって、水穂さんの尻を叩いてみたが、水穂さんは、そういう気持ちも起こらないようだった。

「何ですか。それではまずいですか。水穂さんのような人が、又演奏をしてくれる事になったら、皆さんもね、喜びますよ。影浦先生、曲はなんでもいいのでしょうか。たとえば、何をやってはいけないとか、そういうことはありますか?」

「ええ、そうですね。取り合えず、精神関係は、理由もなく落ち込んでいる人たちがくるのですから、短調の作品は遠慮して貰えないかと。」

影浦先生は、とりあえずブッチャーの質問に答えた。

「ほら、短調の作品でないものっていうと、どういう物がありますかね。俺、音楽の事はわからないですけど、長調は明るくて、短調はくらい、それくらいはしってますよ。それでは明るい曲がいいんですね。えーとそれでは、、、。」

「もう、須藤さんが演奏するわけではないですから、そんなに興奮しないでください。演奏の件は、ほかにやってくれそうな患者さんなど探します。」

影浦先生は、興奮しているブッチャーを鎮静化させるように言った。

「ええー?それでは、せっかくのチャンスが無駄になっちゃうじゃないですか。こうして演奏を又依頼されれば、ご飯を食べようという気持ちも湧いてきてくれるんじゃないんですか?精神疾患は、ちょっとした刺激で変われるといったのは、影浦先生でしょ?」

「そうですけど、須藤さん。それは、病状を考えないと。仮に水穂さんが今日から一日三食食べてくれるようになっても、ここまで痩せてしまっては、無理だと思いますよ。確かに変われるとは言いましたけど、それは、病状によりけりということもあります。」

「あーあ、それではせっかくのチャンスだったのに、、、。」

ブッチャーは、大きなため息をついた。其れと同時に水穂さんがせき込み始めたので、影浦先生は急いで背中をさすってやり、口もとを紙で拭き取ってやった。こういうことをすぐにやってくれるのは、やっぱり医療関係者である影浦先生ならではであった。

「まあ仕方ありませんね。だれか、できそうな人を探すしかないでしょう。変える事ができるものとできないものは、はっきりしておかないといけませんからね。水穂さんは確かに、演奏技術もある方だとは思うんですが、このような体では、まず演奏舞台にたつのはできないですよね。」

影浦先生が、水穂さんの背中をさすってやりながら、ピアノの近くに置かれている本箱に目をやったので、ブッチャーも同じ事をやった。そこには、サンサーンスとか、ラフマニノフ、ましてや世界で一番難しいと言われている作曲家である、ゴドフスキーの楽譜まで置かれている。こんなに難しい曲を今までよくやってたなと思われるほど大曲難曲ばかりである。そんな曲をよくやりこなして来たなとブッチャーは、水穂さんに自分自身をほめて欲しいと思うのだが、水穂さんにはそれはできなさそうだった。

「水穂さん薬飲みましょうか。大変だと思いますけど、頑張って飲んでみてください。」

影浦先生は、水穂さんに吸い飲みを渡した。水穂さんはせき込みながら、それを受け取って、何とか中身を飲み込んだ。そして、吸い飲みを影浦先生に返して、数分後にやっとせき込むのをやめてくれたのだが、その代わり、薬には眠らせる成分もあるので、水穂さんは、布団に倒れこむように眠ってしまうのだ。

「じゃあ、また、診察に来ますから。とりあえず、精神安定剤だけ処方しましょうか。水穂さんがまた、自分の事を卑下し始めたら、薬を飲ませて落ち着かせてあげてください。一時しのぎしかできないかもしれないけど、その積み重ねで回復のチャンスを得られるかもしれないです。」

影浦は、処方箋を書いてある紙に、薬の名前を書き込んで、ブッチャーに渡した。薬は、ドラッグストアとかそういうところで出して貰える。影浦は、その薬の名前を紙に書いて、この薬を出すようにと指示をだせる。自分はなにができるだろう。何もできないじゃないか。ブッチャーは、大きなため息をついた。

「仕方ないじゃないですか。今は水穂さんは、そういう事があったしても、受け入れられない体なんです。もしかして、安定剤を服用し続けていれば、もう少しご自身の事で、考え直す事ができるかもしれません。その時を待ちましょう。」

「影浦先生。何回もそういわれてますが、水穂さんにとって、音楽は何だったんでしょうね。俺、あんまり学歴無いから、音楽の事詳しくないけど、ゴドフスキーと言ったら、だれでも弾けるもんじゃないっていう事はしってますよ。だって、ゴドフスキーの練習曲に挑戦したのは、世界でも三人しかいないんでしょ。それと同じ曲が水穂さんのところにあります。俺はそこに、もうちょっと自信をもって貰いたいな。水穂さんは、ものすごい演奏技術があるということになるのに。」

影浦先生がそういうと、ブッチャーは、影浦先生にそういう事を聞いた。

「確かにそうかもしれませんが、僕が思うに、水穂さんにとって音楽というのは、単なる生活していくための武器としか考えていなかったのではないでしょうか。愛着があったとか、そういうことでは無かったと思います。同和地区の貧しかった家庭に生まれた水穂さんは、音楽業界でやっていくために、ゴドフスキーを弾いて、いわば道化人のような感じで演奏活動していたんでしょう。それだから、もういきたくないとかそういうことをいうんですよ。普通の人にとって、音楽は素晴らしい物かもしれないけど、水穂さんにとっては、ただ、生活していくための道具。」

少し考えて影浦先生は答える。

「道具?ツールですか?俺、音楽ってそれ以上のものになると思うけど、、、。」

ブッチャーがそういうと、

「うーん、そうですね。まあ、詳しいことは、本人に聞いてみないとわからないですよ。やっぱり幾ら医者であっても、予言者ではありませんからね。本人の口から出た言葉と、態度から判断するしかできないですよ。」

と、影浦先生は、申し訳なさそうに言った。ブッチャーは、医者というのは、こういう風に逃げることも可能なんだろうなと思ってしまったのであった。

「それでは、僕はこれで失礼いたしますが、須藤さんも何か困ったことが在りましたら、おっしゃってくださいね。」

影浦先生は、鞄を持って、座布団から立ち上がった。ブッチャーはとりあえず影浦先生が製鉄所から出ていくのを見送ったが、どうしても、水穂さんが音楽を生活のための道具としか思っていないという発言は、受け入れることはできないのだった。だってあれだけ演奏技術をえるというのは、単に生活しなければならないということでは無いはずだ。それは、ピアノが好きだからという一番大きな理由でなければえられないと思う。なんでも、生活していく道具にしていても、好きこそものの上手慣なれというが、打ち込んでやれるほど好きだったはずだ。

水穂さんは、静かに眠っている。

そんな水穂さんを眺めて、ブッチャーはため息をついた。水穂さんは確かに何日もご飯を食べてないせいでげっそり痩せてしまっているが、今でも、人目を引くほど美しい顔をしている。美男子という言葉がぴったりなのだ。ピアニストというのは、演奏技術だけではなく、今であったら、容姿も重要視されるから、水穂さんは十分にその素性を満たしているような気がした。それだからこそ、何も食べないとか、せき込んで赤い液体を吐く症状が止まってくれれば、またピアニストとしてやれるのではないかとブッチャーは思うのであるが。

その診察の日から数日後のことであった。製鉄所と言っても、この建物は八幡製鉄所のような鉄をつくる場所ではなく、誰でも好きな時間に来訪して、書き物の仕事をしたり、学校の勉強をしたりしている施設として機能していた。利用するのは、八割が女性である。女性たちは、ここで同じように居場所をなくした仲間を見つけて、同じような境遇の仲間と言葉を交すことによって、辛い日常生活をやり過ごしていけるのだった。未婚の女性もいれば既婚の女性もいる。大学生の女性もいれば、通信制の高校のような支援学校に通って勉強している女性もいる。会社勤めをしている利用者もいるが、そういうひとは、雑誌編集とか、書き物の仕事をしている人ばかりだった。水穂さんはその製鉄所に間借りして、暮らしていた。一応、雑用係ということになっているが、今は前述した症状のせいで、ほとんど動けなくなっている。

製鉄所の利用者の中で、福山華代さんという女性がいた。彼女は、音楽学校で教えている先生にピアノを師事している事でも知られていた。製鉄所ないでも有名なうまさだった。その先生のメンツのためか、華代さんは音楽学校に行っているわけでもないけれど、毎年音楽コンクールに出場することになっていた。

その日は、華代さんのコンクールの本選が行われる日だった。その日は、製鉄所を利用する日ではなく、又日を改めて来訪することになっていたが、なぜか、午後遅くなって、いきなり製鉄所に華代さんが現れたので、利用者たちは、思わず驚いてしまう。

「あれ、華代さんどうしたの?」

利用者が聞くと、彼女は涙をこぼして泣き始めた。

「どうしたの?何かあったんならいってよ。」

別の利用者が優しく彼女に聞いた。利用者たちは、悩んでいることを成文化させるのがどんなに難しいか知っている。そんなこともできないで、甘えているといわれることもあるけれど、できないものはできないということも知っているので、決して華代さんを責めることなく待っている事ができた。

「いえないなら、言わなくていいわ。でも、華代さんがピアノを弾いているのを又聞きたいから、どうか、無茶だけはしないでね。」

利用者は優しくそういうことをいって、華代さんにお茶でも飲んでいったらと言ったが、

「もう、ピアノなんて弾きたくもない!」

と彼女は、さらに涙をこぼした。ということは、つまりこういうことだ。コンクールで負けてしまったのだろう。それで、ピアノなんていうものは、弾きたくないと思ってしまったのだ。

「そうなのね。でも、華代さんが、ピアノ弾くのやめたら、あたしたちはつまらなくなっちゃうな。華代さんのピアノの話を聞くのも、楽しかったんだけど。」

利用者はそういって、彼女にとりあえず、建物の中に入ってもらって、食堂へ案内した。製鉄所の食堂は、小さなカフェのような作りになっていて、割と、お話しするのにも不自由は無い作りになっている。

「とりあえず椅子に座りなよ。」

と、利用者は彼女を椅子に座らせた。

「で、一体何があったの?どうもその顔から見ると、よっぽど悲しい顔をしているように見えるんだけど。」

二人の利用者はとりあえず彼女にお茶を出して、それを飲んでもらうように促した。華代さんは、やけ酒を飲むようにそれを飲み干した。

「どうしたの?誰かに、何か言われたんでしょう。あたしたちで良ければ話を聞くわよ。なんでも言ってよ。」

利用者が華代にそう聞くと、

「ええ。コンクールに出て、最下位だった事を、ピアノの先生に叱られて。」

と、華代さんは泣きながら答えた。

「其れだけで叱られたの?ひどい先生ね。華代さんが一生懸命弾いたことを、認めてくれなかったんだ。」

「ええ、それどころか、私は一生懸命教えてきたのに、そんな結果しか残せないのなら、もう来なくていいって。」

「そうか、でも其れ、本気でいっているんじゃ無いと思うわ。先生だって人間ですもの、思わず口を序出てしまっただけかもしれないわよ。だから、気にしないで、いつも通りピアノ教室にいけば其れでいいわよ。」

華代さんがそういうと、優しい利用者は、そういって彼女を慰めた。丁度そのころ、庭を掃除していたブッチャーは、利用者と華代さんがそう言い合っているのを立ち聞きしてしまった。どうしても放置できなかったので、急いで食堂に駆け寄って、華代さんに言った。

「大変だと思いますけど、次に気を付ければいいやくらいに思って、またピアノをつづけてください。」

「で、でも、あたしどうしよう。だってもう先生には、来ないでくれって、言われてしまいました。実質上あたしは、ダメな生徒なのでは?」

ここで初めて、感情というより理論が役に立つこともある。というか、感情を整理して、なにが起きたのかしっかり把握しないと、理論は役立たない。

「其れだったら、先生の態度を振り返ってみてみましょうよ。華代さんに確かにそういったかもしれないけど、本当に、破門するという血判のような物を送ってきたりしましたか?お宅のご家族に、もう来ないでいいと電話があったりしましたか?」

ブッチャーは、華代さんに聞いた。こういう時、男性はこのような理論的な物をいえるのが強みだ。

「いえ、、、其れはありません。でも、あの時の先生の顔は本当にこわかったです。だから、もう私の事は、レッスンしてくださらないんじゃないかと。」

つまり、破門するという通知は来ていないようだ。ブッチャーは、それを聞き出したかったが、華代さんは、先生の顔がこわかったとひたすらにいう。

「でも、そういう、破門を言い渡す書類も何も無いのなら、そのまま先生のお宅へいけばいいんですよ。俺は、そう思いますね。それに、そういうことを言われてびくともしない生徒であれば、お、こいつは、やる気があるって、見てくれるんじゃないかな。」

と、ブッチャーは男らしく言った。

「だからそれで大丈夫ですよ。華代さん。結構しぶとい精神を見せてしまう方が、先生だって、感心してくれるはずです。先生だって、そのことを後悔しているかもしれないし、人の気持ちなんてね。わかりませんから、結構のんきな人のほうが、かえって得をするという事もあります。」

ブッチャーは、そういって彼女を励ました。

「でも、結局のところ、私、精神疾患患者で、手帖持っているじゃないですか。それで、先生も私の事、障碍者には教えたくないと思っているんじゃないかな。」

と、華代さんはいう。ブッチャーはこれを聞いて、水穂さんならなんていうんだろうかとおもった。そこで、彼女の話を水穂さんに聞かせてみることにした。ブッチャーは一寸来てくれと言って、華代さんに椅子から立ち上がらせ、彼女を手を引っ張って、四畳半に連れて行った。水穂さんは眠っていたが。ブッチャーが勢いよくふすまを開けたので、急いで目を覚まして、よろよろと布団から起き上る。

「水穂さん、水穂さんがどう思ってるか意見を聞かせてください。水穂さんだって、若いころ先生に

ついたりしてましたよね。彼女は、ピアノのコンクールに出て、敗北して、それでピアノの先生にもう来ないでくれと言われてしまったそうです。水穂さんだったら、どう解釈しますか。俺は、音楽の事はよくわからないし、其れならわかる人に聞いてもらった方が良いなと思いまして。」

ブッチャーは急いで状況を説明した。

「ええ、そうですね。」

水穂さんは弱弱しく答える。

「こういう身分ですと、一発勝負しかできないので、落ちたらもう生活できなくなってしまうから。」

と、水穂さんは答えるのだ。

「コンクールで負けた事はありませんでした。負けたら、生活できなくなるからです。それをマスコミは、負けたことが無いと評価しましたけど、それは、逆をいえば負けたら、二度と返り咲きはできないので。」

「そうですか。つまり水穂さんは、負けたことが無いので、わからないと言いたいのですかね?それは、彼女に取って答えじゃないんじゃありませんか?水穂さんの事じゃなくて、今話をしているのは彼女の事なんですよ?」

と、ブッチャーは言った。

「いえ、それはわかります。でも、僕がだした答えは其れしかありません。生活のために負けられなかったし、ゴドフスキーを弾いて、すごいことができる人間を演じなければならなかった、それだけの事です。」

水穂さんがそういうのを聞いて、ブッチャーはやっぱり水穂さんは、生活の道具のためにピアノをやっていて、音楽から学んだことは一切なかったのだろうかと思った。それではやっぱり、音楽をしようという気持ちは無かったのであろうか。

「じゃあ、彼女、華代さんに対して、何か励ましてやることはできないでしょうかね。」

ブッチャーがそう聞くと、

「ええ、申しわけありませんが、僕が演奏をしたのは生活のためで、音楽をどうのこうのというのはすべて生活のためでした。その結果が、こういう体です。医療費だって、満足にできるものではありません。医者も、影浦先生だけしか頼めないですしね。結局のところ、人間は身分というものがあって、それで職業が固定されていて、それを越えて別の商業につこうとすると、こういう失敗を犯す物ですよ。だから、僕は責任をとって、もうこれで良いと思っているんです。僕は、もう人生をやり直そうとか、そういうことは、毛頭、思いたくないんです。」

「水穂さん、、、。」

ブッチャーは、水穂さんの言葉を聞いて、水穂さんがご飯を食べなくなった理由が分かった気がした。水穂さんはもう死にたいと思っているに違いない。それでは、水穂さんの事を必要としている利用者が寂しがるに決まっている。それでは、水穂さんは自分の事しか考えていない、冷たい男ということになる。

「水穂さん、もう一回考え直してください。今まで水穂さんのそばに来た人たちが、水穂さんに話を聞いてもらって、どれだけ楽になったと思っているんですか。水穂さんはそれができる人です。だから、それをもう一回考え直してくださいよ!」

ブッチャーが思わずむきになっていうと、

「そうですよ。私もその一人です。水穂さん、私が落ち込んでここに来たとき、私に焼き芋くれたの覚えてないんですか?私が泣きながらそれを食べた時にも、水穂さんは、そばにいて待っててくれました。それがどれだけありがたかったか。それなのに、人生おわりにしたいだなんて、私を置いていかないでください!」

華代さんも泣きながらそういうことを言った。確かに水穂さんが華代さんだけではなくほかの利用者たちにも、石焼き芋を渡したのはよくある光景である。それは障害が重くて、大暴れして、製鉄所の物を壊すような人にも同じような態度を取っている。水穂さんは、そういうことをしてきた人であった。

「私はあの石焼き芋を貰った時、ああ、まだ人生捨てたもんじゃないって、思い直したんですよ。それは、水穂さんにとって、猿芝居のような物だったんですか!」

華代さんは激して言い続けた。

「ええ、そう見えるかもしれませんね。そうしなければ生活できなかったから。」

水穂さんは、小さい声でそういうことを言った。

「生活できなかったって、、、。なんでそういうことばっかりいうんですか。水穂さんは、優しくて、綺麗な人で、私の理想の男性だと思っていたのに、ただ、生活のためにそういうことをやっていただけなんて、、、。」

ブッチャーはそう泣いている彼女を、抱きしめてやれたらとおもった。でも、20代そこそこの自分が、同じ年の女性を抱きしめたりしたら、なにか誤解されるかもしれない。だから、それはできなかった。でも、水穂さんにだまされたとおもって泣いている女性と、自分は同じ気持ちであるということは、伝えておきたかった。

「水穂さんにとっては、生活するために、いい人を演じたり、すごいピアニストを演じたりしなければならなかっただけかもしれないんでしょうが、水穂さんの演奏に感動したり、水穂さんから焼き芋貰ってそばについていてもらって、癒された人は、いっぱいいると思いますよ!それは単なる道具だったら、できることでしょうか?俺は違うと思いますね。俺は、水穂さんが本当に優しかったからできるのではないかと思うんですけど。どうなのかなあ?」

ブッチャーはできるだけ感情を押さえて言ったつもりだったが、水穂さんに伝わったかどうか不詳だった。水穂さんが返事を返してくれるかと期待したが、かえってきた物は咳。華代さんは大丈夫うですかと、背中をさすってやっている。ブッチャーは手伝う気にもなれなかったが、その光景を見ていたブッチャーは、もしかしたら、咳で返事をすることが、水穂さんのだした答えなのではないかと思った。それが多分きっと、同和問題という物が、解決しないんだろうなということでもあると思った。これからも、ずっと同和問題は日本の社会に根付いているんだろうな。そんな事を考えさせられながら、ブッチャーは水穂さんに薬を飲ませて、せき込むのをやめるように促した。



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