soup【スープ】

@hachisalon

soup【スープ】

『あなたを待っています。って意味なんだよ』


都心から少し離れた静かな場所にあるアンティーク調の店の前で

エプロン姿に髪を後ろに束ねた女性が少女に話す。

少女はへぇーと頷く。

『この花はね。お姉さんにとってすごく大事な花なの。

だからね、ここのお店の名前も花の名前なんだよ』

『ここってお花屋さんなの?』

『うぅん、違うよ。美味しいものを食べるところ。

今度パパとママと一緒に食べにきてね』

うん。と少女は女性に手を振って笑顔で何処かへ走っていく。

そしてその女性はエプロンのポケットから小さいメモ帳を取り出す。

そこには今日の予約の名簿らしき名前が書かれていた。

『いちじ…かお…17時…いし…まい…17時半……

今日も予約たくさんだなー。頑張ろっ』





ーーしたい事が何も見つからない日々。

そんな日々を変えたくて求人誌でお洒落そうなレストランにバイトで働きたいと電話した。

落ち着いた優しい男性が電話に出て

『学生のかたですか?』

『はい、大学に通っている二年の吉岡よしおかユイというものです』

『よければ今日履歴書を持って面接にこれますか?』とのことだったので学校帰りにバイトの面接を受けにいつもより早めに準備を済ませて電車に乗って面接へ向かった。


帰宅時間って事もあって車内の中は割と混んでいて騒がしかった。

ユイは入り口付近の吊革に掴まって奥の方へ目をやると

そこには老人が立っていて、そしてそのすぐ前にはヘッドホンで音楽を聴きながら目を瞑っている青年がいた。


私と同じくらいかな。


老人は沢山荷物を持って辛そうにしていたのを見てユイは堪らなくなってその青年に近付いた。

『ちょっと!すみません!』

席を譲らないかと注意しようとするが

ヘッドホンで私の声が聞こえなかったのか無反応の青年。

ちょっとムッたしたユイは青年のヘッドホンを両手で広げ

『おじいちゃんに席譲ってあげたらどうですか?』と声を荒げて言った。

そんなユイをなだめる老人。

『この男の子がさっき席を譲ろうとしてくれたんだが、私は次で降りるから大丈夫だよ。と断ったんだよ』

そして、電車が次の駅で停車すると老人がありがとう。と言ってすぐ降りてしまう。

『お節介なヤツ……』

青年はズレたヘッドホンを元に戻しながら呟く。

何も言い返せないユイは顔を赤くしながら、逃げるようにして移動した。

てか、お節介なヤツって何!?と独り言を言いながら隣の車両の小窓からヘッドホンをつけた青年を睨んだ。



ーーこれから面接のあるレストランは私の家から歩いて十分くらいのところにあった。

学校へはいつも電車通学で駅を二つまたいだ所にある。

目的の駅に到着した後、そのまま改札を出てユイはスマホを見ながら少し早い時間ではあったが面接のある場所へと向かった。

その後ろに先ほど電車の中でトラブルとなった青年が居るのに気づいたユイは後ろを振り返り。

『さっきはごめんなさい』と言った。

その時もヘッドホンで私の声が聞こえていないようだった。

謝ろうと思ったのに…何なのこいつ……

そのユイに気付く青年。

『なんなの?まだ言いたいことある?』

呆れた顔をする青年。

『はぁ?ってか、何なんですか?つけてこないでください。嫌がらせですか?』

『あのさぁ……まぁいいや。ただ行く方向が同じなだけ別につけてるわけじゃないし』とその青年は言った。

二人とも早歩きであたかも競うように目的の場所へ距離をとりながらお互い向かった。


駅近辺のお洒落なブティックやショッピングモールにからは少し離れた落ち着いた場所にあるイタリアンのレストラン。ここが今日の面接場所だ。

よしっ!がんばれ私!と意気込むユイ。


まだオープン前なのか正面の玄関は開いていなかった。

今日の昼もここの店へ電話した時裏口から入るように言われてたとユイは思い出し、そうだった。と独り言を言いながらそのまま裏口へと向かった。

先にレストランの裏口に立っていたのはさっきの青年だった。

『もしかして……お前もここに用あったの?』

『そうだけど、だから何?ってかお前ってなんなの?』

初対面で名前も知らない相手にお前なんて言われる筋合いはない。

私が言われて一番嫌な言葉だ。

ってか従業員か何かなのかなぁ……嫌だなぁ。


言い合いをしながら青年の後に続いて裏口から入ると。

中には長身で端正な顔立ちをした男性が一人立っていた。

その長身の従業員らしき人はユイを見て

『あれ?今日面接予定の吉岡さん?』と言った。

さっきの電話の声の人だ。

そして言い合いをする二人を見ながらその男性は

『はじめまして店長の一条です。……というか吉岡さん、優一郎と知り合いだったの??』と不思議な顔をした。

すると二人は大きく首を横に振り、わざとらしく大きく距離をとった。



ーー『吉岡さん大学二年生って言っていたよね。バイト経験はある?』と準備室らしきところで椅子に座りながら一条が聞いた。

『いえ、バイトの経験はありません』とユイがそういうと

ユイの真後ろの準備室の入り口のドア枠の所にもたれながら優一郎というらしきこの生意気な男は

『こんな強気なやつウェイターだったら客がびっくりして帰っちゃいますよ店長』と皮肉たっぷりに言った。

『んー、優一郎? 女性はちょっとぐらい強気な方がいいんだよ』と笑う一条。

後ろを振り返ってあっち行ってよ!とユイは小声で優一郎を怒った。

ユイの履歴書に大体目を通して一条は業務内容の説明を始めた。

でもユイは一条の声に聞き惚れるばかりで説明が全然頭に入ってこない様子だった。


一条さんは余裕がある魅力的な大人の男性。

聞き惚れてしまうようなその低い声がとても落ち着く。

きっとこの人はとてもモテるだろう。多分。いや絶対。

女性がほっとくはずがない。


一条はユイの履歴書をファイルにしまいながら続ける。

『うちの店は試用期間を設けるつもりはないんだ。制服を着てお客様に接客をするってことは、もう入社したてだからとかはお客様には関係ない事だから。お客様にとって最高の1日となるような接客してほしい。 一週間でうちのメニューとその特徴を覚えてもらいたい。これが条件なんだけど…吉岡さんできるかな?』


『はい!頑張ります!』と元気に返事をした。

一条はまた優しい笑顔に戻り、ユイと握手をした。

『頑張ってね。一週間一緒に働けるのを楽しみにしているよ』


今思うとここが私のいわゆる人生のターニングポイントだったんじゃないかな?と思う。

でもそれは偶然。とかじゃなくきっと初めからそうなることがもう決まっていたかのような気がしていたんだ。


とっても辛くて、とっても切なくて。


沢山泣いて。


でもきっともう一度やり直せることができるとしても


私はまたこの道をきっと選ぶ。きっとあなたを選ぶ。





ーー『料理の勉強?』そう尋ねるのは、ユイと同級生の舞だだ。

舞は大学に入学した時に一番初めに声をかけてくれた。

私の大切な……いわば親友だ。

『うぅん、違うよ! これは…ほら!この間言ってた私のバイト先の覚えなきゃいけないメニューのマニュアル!』

そう少し厚めの情報誌ほどのマニュアルをまじまじと見ながら答えるユイ。

『へぇー、すごく熱心だね。ってか、このミ•ピアーチェってレストランこの間テレビでやってたの見た! イケメンのシェフがいるとこじゃん!』

舞が言っているのはきっと店長の一条さんのことだ。

というか……テレビに出てたんだ。有名なところだったんだな。

そして確かに背が高くて、女性受けが良さそう店長さんだったなぁ。

『ユイ、店長さんと働きたいから頑張ってるんでしょ??』

と舞はユイの頭をポンポンと軽く叩いた。

『違う違う!親からの仕送りだけじゃ正直ちょっと生活がきつくてちょうど情報誌に求人が載っててそれで面接に行ったんだよ』

舞は口ではへぇーそうなんだ。

とは言うもののきっとこの顔は私のことを信じていない目だ。


私は自分で言うのもなんだが暗記は得意だ。

ほとんどのメニューを覚えた。

でもスープの部分だけまるっきりない……写真も。


今日学校帰りにお店に行ってみよう。


ユイは学校帰りにレストランへ寄ることにした。





ーー学校が終わると駅で舞と別れて店の方へ向かった。

入り口には定休日の札が貼られている。


今日は休みか…そう思い帰ろうとしたが裏の厨房の窓が少し空いていて中からとてもいい香りがしてくる。

誰かいるのかな?そう思い裏口に向かうと鍵はかかっておらず、ユイは小さい声で失礼しまーす。と言いながら中へ入る。

少し悪いことをしている気分だなと思いながら、

いい香りのする厨房の方へそろりそろりと向かうユイ。

そこには一人でキッチンで何やら作業をしている優一郎の姿があった。

面接の日に見た彼とは違い真剣な顔で何やらスープのようなものを作る姿。

あの時とはまるで別人のような姿に少し見惚れるユイ。


ガタン!ユイは見惚れるあまりゴミ箱を倒す。


優一郎は突然の物音に少しビクッとしながらこちらに気付く。


『びっくりしたー。電車女じゃん。なに?』

とまた無愛想な対応。

『誰が電車女だよ。店長に貸してもらったメニューのマニュアル。スープのところだけ全くなかったから聞きにきたの。それだけ!』とカバンからマニュアルを出し優一郎に見せびらかした。


それを見た優一郎は

『店長……一番大事なスープ忘れるなんて抜けてるな』とブツブツと文句を言いながら奥のキッチンへ戻る。


『店長いないなら私帰るね』そう言って帰ろうとした時。


『スープは俺担当なんだ。そんなマニュアル見ただけじゃわかんないだろ。そこ座ってろ』そう言って作業をまた始めた。


口は悪いけど……悔しいけど…とても手際が良い。

一人暮らしの自分よりも俄然うまい包丁捌きに見惚れる。

そしてそして料理をする男性ってなんかいい。

これは私のフェチか……


『なんかすごいね。私と同い年で。こんなオシャレなレストランで仕事してるんだもん。私なんて将来自分がやりたい事も見つかってないのに』

『それでもいいんじゃない?それ見つけるために大学に入ったんじゃないの? 俺は高校時代に自分やりたい事が見つかったからここで働こうって決めたし。

今はしっかり考えれば良いんじゃない?』


優一郎の言葉に何も返す言葉が見つからなかった。


『でも、少し見直した』と優一郎は言った。

思いがけない言葉にユイはへっ?と驚いた。

『このマニュアル見たらさ、しっかり頑張ったんだなってわかるから』

要点をマーカーで線を引いていたり、付箋でメモを書いたり

お世辞にもあまり綺麗とはいえない状態のマニュアル。

それはテスト前など暗記する時のユイのくせになっていた。


『うちがテレビに出てからさ、ほんと多いんだ。ただ店長目当てのやる気のない奴が応募に来たりとか』


よし。と優一郎はキッチンの火を止め慣れた手つきで綺麗な真っ白い皿を何枚か持ってきて、それぞれに違うスープを注いだ。


あまりの良い香りにユイはお腹の音が鳴りそうになるのを必死で堪えた

『うわぁ。美味しそう…お店のやつみたい…』

『いや、店のやつだから』と少し笑いながら突っ込む優一郎

『食べてもいい?』

『もちろん』

ユイがスープの用意されたテーブルに座ると

優一郎は真正面の椅子にちょこんと座り

頬杖をしながらユイを見つめる。

『美味しい……』あまりの美味しさに目をまん丸くするユイ

『今食べたのが…ミネストローネのスープ』

『えっ…ミネストローネってトマトの?これ全然赤くないけど……』

『うん。トマトは入ってるけどね。色々な野菜の味が楽しめるようにしてるんだ。本場でもミネストローネは日本みたいにトマトベースではないみたい』

『へぇーそうなんだ』

それぞれの料理に合うスープ。そのスープの特徴を一つ一つ丁寧に話す優一郎。

ユイは忘れてはいけないと思いながらスープを味わいながら時折優一郎の話す内容をメモしたりした。


気づけば夕日は沈んで辺りは暗くなり窓から街灯の光が見えた。


『悪い。話長くなっちゃった』と、謝る優一郎。

『うぅん、すごくわかりやすかった。ありがとう。てか、本当に料理の話してる時楽しそう。料理が好きなんだね』

そして制服のアルファベットで書いているネームを見てユイは佐藤くんありがとう。と少し照れながら言った。

『佐藤くんってこの店きてから初めて言われたわ。同い年なんだし優でいいよ』

『うん、じゃあ優。今日はほんとにありがと。私はユイでいいよ』

『ユイ頑張れよ。来週からよろしくな』


初対面の印象は最悪だった。こんな奴と一緒に働くことになるなんて…って思ってた。

正直なところ面接なんてくるんじゃなかった。とまで思ってた。

でも今日ここへ来てよかった。

スープのことに詳しくなった……

うぅん、それだけではなくて優の意外な一面を見られる事ができたから。





ーーそれから何日かすぎ、とうとう初出勤の日となった。

あれから店長に一度店に呼ばれどこまで覚えたかの確認があった。私にとっての入社テストのようなもの。

優が丁寧に教えてくれた甲斐もあって、しっかり覚えていると店長に褒められた。


…でも後日談は一週間で全部覚えさせるつもりはなく。

ただ私のやる気を試したかっただけらしい。

けど意外なことに私が暗記が得意なこともあってほとんどのメニューを覚えていたことに一条さんはびっくりしたらしい。


初出勤の今日も平日だからもちろん学校はあって

それどころか最近バイトのことに熱中し過ぎて学校の課題が溜まったりしていた。

私の勤務時間は基本ディナーの予約で忙しくなる夕方からだった。


でも、ばっちり暗記しても…私にとって初めての仕事だし

そのはじめての出勤ともなると緊張する。


『学校帰りにカフェ寄ってかない?』ととぼけた顔で聞いてくる舞の頭にユイは軽くチョップした。

『だーからー、何回も言ってるじゃん。

今日からバイトなの!』

『そうだったそうだった。でもバイト始まったら一緒に帰る事も少なくなっちゃうね』


確かに。と私は思った。毎日のように一緒に帰って一緒に買い物に行ったり、異性の話をしてキャーキャー二人で盛り上がったり。

周りから見ればくだらないと思うかもしれないけれど

私にとってはとっても自分でいられる大切な時間だから。

『会える回数は減るけど、この気持ちは変わらないよ』

教室で抱き合う二人。恋人か!って感じだけど…

でも私にとっては恋人よりも大切な友達。まぁ、恋人なんていないけど


学校が終わり同級生にまた明日ねと別れ告げて

急足でバイト先へ向かった。





ーー店へ着き、裏口から入ると厨房では大忙しで作業する人たち、その中に優もいた。

一条はユイの姿に気付くとおつかれ!と爽やかスマイルで近づいてくる。

『あ、お疲れ様です。今日からよろしくお願いします』

それから一条は制服を渡すからといいながらユイを奥の方へ案内した。

奥にはユイの渡された制服と同じものを着て髪を縛る一人の女性がいた。

自分と同じくらいか少し上かなと感じた。

明るめの髪に、少し濃いめの化粧。ちょっと遊んでいそうな雰囲気は私とは真逆なイメージだなぁって、感じた。

『この子ユイちゃんと同じ接客業務の小田桐 沙耶おだきり さやちゃんだよ。

半年くらい先輩かな。沙耶ちゃん色々と教えてあげてね』

そう言って一条は厨房の方へと戻っていった。

『よろしくね』と沙耶は笑って言った。

『はい、よろしくお願いします』少し緊張しながらユイが答えた。

更衣室で着替えを済ませてホールに出ると

何名かのお客様が食事をしていた。

『まずは今日のディナーの予約の確認ね。

あとお客さんの注文を聞いてキッチンに伝えて運んだり…

あと、初めてのお客さんはおすすめを聞いてきたりするからそれに答えたりかなぁ』

今日1日の流れと一通りの作業を教えてもらい、キッチンへ入る沙耶とユイ。


『お疲れ様でーす』沙耶香の声に

厨房の人たちが作業をしながら挨拶を返す。

キッチンこ一番離れた場所にいる優一郎はユイの姿に気付き手を前に出して親指を上にあげグットサインをする。

頑張るね。と気持ちを込めながら両手でグットサインを返すユイ。

『ん?優一郎くんの知り合い??』と沙耶香は不思議そうな顔をする。

『まぁ……いろいろとありまして』と照れながら返すユイに

ふーん。と沙耶は少し不満げな顔をした。


そうしてバイトの初日が始まった。


初日のことは今でも覚えてる。沙耶について回るのだけで本当に精一杯で、接客も初めてだったから緊張でただただ必死で時間はあっという間だったな。





ーー働き始めてから一週間ほどが経った。

仕事にもほんの少しだけ慣れてきて、

そして自分なりに楽しさも見出していたりした。

自分がお客さんに勧めた料理を注文してくれて、そしてそれを美味しいって食べてくれる瞬間が最高に嬉しいってやりがいを感じていた。


沙耶とも仲良くなってきて仕事中も私語が多すぎて、

たまーに店長に大きい咳払いをされたもする。


そして、今日は学校は休みだけれど夕方からバイトが入っていた。

昨晩バイト帰りに沙耶にバイト前に一緒にご飯に食べに行かない?と誘われて、

待ち合わせたファミレスにユイは向かっていた。


ファミレスの前で沙耶と待ち合わせて、二人で店の中へ入った。

ドリンクバーを頼んでポテトを食べながら

学校のことや将来どんな仕事につきたいか、バイトの事話は尽きなかった。

『ユイって彼氏いるの?』沙耶の突然の質問にユイはコーラを吹き出しそうになる。

最後に付き合ったのはいつだろう。

高校二年の時?だいぶ前のこと過ぎて元カレの顔もうる覚えになっているくらいだった

『へぇー、モテそうなのにね。私も恋人いないけど』とジュースを飲みながら沙耶が話す

『好きな人とかは?』とユイが聞く。

『高校生の頃からずっと片思いなんだー』と少し寂しそうに沙耶が言った。


話を聞くと少し年上かと思っていた沙耶はユイの一つ下だった。そして何より驚いたのが言い方は悪いけど少し遊んでいそうな雰囲気なのにとても一途なところだった。


『でも、私の好きな人ユイも知ってる人だよ』と沙耶

『えっ!?』とユイが驚いたのと同時に


後ろの席で、どうなってるんだ!!と店員に怒鳴る中年の男性がいた。

その声に驚くユイと沙耶。

男性の料理の中にビニール袋の切れ端が入っていたようだった。

それを男性は指でそれをつまみあげ、奥から社員らしき人が何人かテーブルに集まり中年の男性に頭を下げていた。

皿を見ると男性はほとんど料理は食べているようだった。

平謝りする社員に見送られ会計をせず出て行く中年の男性。

店から出て行く一瞬中年の男性がニヤッと笑ったようにユイには見えて何やら違和感を覚えた。

『そんなに怒ることかね?私なら気付かないで食べちゃうけどなー』と沙耶は言った。

スマホを開き時間を確認すると思っていたより長くいてしまったことに二人は気付き

急いで会計を済まし駆け足でバイトへ向かった。


今日はいつもより少し早い時間からの出勤でまだオープンまでには時間があった。

店に着くと優一郎と店長がホールのテーブルに花を飾っていた。

『綺麗な花だね』と突然のユイの声に少し驚く優一郎。

『クロッカスって花らしい』

へぇー、綺麗だねと花に見惚れるユイ。

『この白いクロッカスにはあなたを待ち続けるって花言葉があるらしいよ』と花瓶を触りながら優一郎は言った。

真顔で話す優一郎に吹き出すユイ。

花言葉とか似合わないと涙が出るほど笑うユイに

店長が言ってたんだと照れながら優一郎は言い訳をした。


この花はここの店を経営するオーナーが花屋の方も経営していてそこから仕入れていると聞いた。

そのオーナーは香織さんという店長と同じ位の年齢の若い女性で、たまにバックヤードで一条と話している黒髪でスーツのとってもよく似合う大人の女性だった。

一条とそのオーナーが並ぶ姿にいつも少し見惚れる程お似合いのようにユイには見えてた。


その日はディナーの予約もほとんどなくいつもよりも空いていた。

そしてラストオーダー間近になって一人の中年の男性のお客さんが店へと入ってきた。

どこかで見覚えのある人……でもユイは思い出せなかった。

注文を聞くと一人分には少し多いかな?と思う程頼んでいた。

他にお客さんもいなかったので料理が出来上がるまでホールのテーブルを拭きながらユイはあの中年の男性が誰だったか考えていた。


しばらくして料理が出来上がり、その中年男性のテーブルに運ぶと、ありがとう。気さくな感じで会釈をしてくれた。


食事をほとんど食べ終わり何杯か頼んだワインを飲み干しそうになる頃、男性が何やらポケットに手を入れてコソコソしているのにユイは気付いた。


はっとする。この人、昼にファミレスで怒鳴り声をあげていた人だ……

周りを気にしながらポケットから何かを取り出し皿の中に何かを入れたことにユイは気付く。


そして『なんなんだこれは!』と大声をあげる中年の男性。

その声に気付き裏から一条や優一郎たちが飛び出してきた。

料理の中にゴミが入ってたと怒鳴る男。

そしてそれに反論するユイ。

『今私ポケットから何か出して料理に入れるとこ見たよ!?』と怒鳴るユイ

『なんなんだ!この店員は!責任者を呼んでこい!』

一条は言い返そうとするユイの前に立ちその男性に申し訳ありませんと深々と頭を下げた。

それでも食い下がらないユイ。


『あんたがゴミを入れたその料理作るために……

みんながどれだけ頑張ってると思ってるんだよ!』


休みの日もスープを準備する優一郎の姿が目に浮かび、怒りよりもただただ悔しくて涙を流すユイ。

もういいからと後ろからユイの肩を押さえる優一郎。

『誠に申し訳ございませんでした。お会計は結構ですので』頭を下げる一条に並び優一郎も帽子を取り頭を下げた。

悔しくて、それよりも悲しくてユイは涙を拭きながら頭を下げずにいた。


その男性が帰ってからユイは一条に

沙耶と出勤前にファミレスであの男性がここの店と同じことをしていたのを見たこと、そしてポケットから何かを取り出して料理に入れたことを話した。

それでも、こっちに全く非がなかったとしても感情的になるのはいいとじゃないとユイは一条に注意された。

そして最後に一条は、みんなの気持ちを代弁してくれてありがとう。そしてユイはやっぱり少しオーナーに似ていると笑った。

私があのクールに見える大人の女性のオーナーに似ているとはどういうことだろうと思いながらロッカーで帰る支度をして店を出た。

店の外には優が待っていた。

ユイに気付くと『よっ』と手を挙げた。

『一緒に帰ろ』

『う、うん』


閉店した商店街の前を二人で歩く。

優一郎は自転車に乗らず手で押しながら歩いていた。

『でね、さっき一条さんがね、私がオーナーに似てるとか言うんだよ?』

確かに強気なところが似ていると笑う優一郎。

『俺、オープンしたばかりの頃からこの店で働いててさ、その頃はよく店員とオーナーが言い合いしてたんだ。メニューがどうだ!?とかさ。今は軌道に乗ってそんな事もなくなったけどさ、オーナーも他の店だしてるから忙しくてほとんどこれなくなったし』

意外だった。あんな優しい一条さんとクールなオーナーが言い合いをするなんて…

そんな話をしながら歩いているとユイのアパートの前に着く。

じゃあまた明日ね!とユイは手を振った。

すると優一郎あのさとユイを呼び止める。


『今日はありがとう。その……嬉しかったよ』と目線をずらして照れ臭そうに話す優一郎。


ユイは優一郎のその言葉が何より嬉しかった。


みんなが帰ってからも一人で残り明日の準備をする優一郎を見ていたし、食器を下げた時に綺麗に食べられた食器を見て誰にも気付かれないように嬉しそうにガッツポーズをする優一郎に気付いていたから。


私も優の力になりたい。日に日にその気持ちが強くなっていった。





ーー強い日差しが照りつけアスファルトもとても熱い。

手で顔を仰ぎながらあぢーーと額に汗をじんわり滲ませながら舞とユイは長い列に並んでいた。

『snsで隠れ家的なアイス屋さんって書いたの誰だよ。まじで』と列の前の方を見ながら舞は少し怒ってる。

『ねー』と相槌を打ちながらスマホを見るユイ。

『ってか、明日夏祭りあるんだね』

『でもユイ、バイトじゃん。』

『いや、店長が出店に駆り出されるから明日バイト休みだって』

『まじ!?店長さん出店だすの!?絶対行く』と張り切る舞。

ユイはバイト先のグループチャットを見ながら話す。


沙耶香:明日休みだからみんなで店長の出店見に行こ!


優一郎:うん


『あ、優も…いや、バイト先の人達も行くって!舞も一緒に行こうよ!』と誘うユイ。


『私、一人だけみんなと初対面でめっちゃ気まずいじゃん』とちょっと乗り気じゃない舞。

『大丈夫だよ、みんな私たちと同じ歳くらいだからさ』と少し強引に誘うユイ。

『うーん…ってか浴衣どこにしまったっけ…』

その同級生の一言に固まるユイ。

……浴衣こっちに持ってきてたっけ? いや、実家だ。郵送してもらおうか…いや、絶対間に合わない。。


『買いに行こう』と真剣な眼差しで舞を見つめるユイ。

へっ?と訳が分からず変な声を出す舞の腕を掴みショッピングモールの方向へ向かうユイ。

『アイスは!?』

『そんな時間ないよ!』と早足で二人は歩いて行った。


……ほんと簡単にお祭り行こう?なんて言わないでほしい。

準備も山ほどあるんだし。


……でも、明日楽しみだなぁ。





ーー日が暮れて少し薄暗くなった街。カランカラン。下駄を鳴らしながらみんなと待ち合わせした場所に向かうユイと舞。


昨日何件も回って選んだ紺色の花柄の浴衣。

舞はアイス食べたかったと文句を言いながらちゃっかり自分の浴衣もばっちり選んでいた。

その浴衣は水色のユイに似た花柄だった。

早めに待ち合わせてユイの家でお互いに浴衣を着付けて、髪を結ってきた。


待ち合わせ場所に着くと優一郎と沙耶ともう一人いつも皿洗いをしているバイトの石田君という男の人がいた。

沙耶は黄色の浴衣を着て髪をハーフアップにしていてとても眩しかった。

優はいつも通りの白いTシャツにジーパン。カジュアルだ。

こういう時に男の人ってほんと羨ましいなって思う。


『はじめまして……』と少し緊張しながら舞が言った。

『よろしくね!』と急に腕を組む沙耶に舞は一瞬ギョッとするがこの二人が仲良くなるのに時間はかからなかった。


『すごく人多くなってきたね』と驚くユイ。

『うん、7時から花火上がるからみんな早めに場所取りしにいくんじゃないかな』と優一郎が話す。


みんなで人混みに紛れながら一条の働く出店を探しながら歩いた。


『あ、店長!!』と大声を出しながら出店に向かう沙耶。

そこには忙しそうに浴衣でビールを注いでいる一条がいた。

お客さんにビールを渡しながら浴衣姿がとっても綺麗だったから一瞬わからなかったよ。と笑顔の一条。


やっぱり女性慣れしている男性は違うなと思うユイだった。

浴衣がいいね。じゃなくって浴衣姿がいいと褒めてくれるのがやっぱりすごい。

それに比べて優は浴衣には何も触れないどころか

キレイだね。の一言もない。ほんと女心がわからないヤツだ。そう思いながら優一郎を睨むユイ。

『え……な、何!?』と困る優一郎。


『いや、やっぱりめっちゃイケメンじゃん』と一条を見て興奮しながらユイの背中を叩く舞。


店の中には焼き鳥を焼いている他の社員の人やオーナーの香織さんの姿もあった。

黒い浴衣を着て腕まくりをして他のお客さんのお会計をしている。

香織さんってほんと綺麗だ。自分の浴衣姿が七五三のように思えて少しへこむくらいだ……


『花火まで時間あるから出店回ろうよ』と元気いっぱいの沙耶。

さっき一条から内緒だよ。と言いながら貰ったカップに入った大量の焼き鳥とジュースを片手にみんなで人混みの中を歩く。


『あっ』と足を止める優一郎。

『どうしたの?』とユイも足を止めた。

『あ、いや。綺麗なブレスレットだなと思って』と天然石のブレスレットに見入っている。

『ほんとだ。キレイだね』と優一郎の隣でユイは言った。

『一つ買おうかな』

『えーいいなぁ。私もほしい』

『いつも頑張ってるからプレゼントするよ』

『ほんと!?やった』とブレスレットを選ぶユイ。

『あんま高いのは無しね』と笑う優一郎

『えー、ケチじゃん。どれでも好きなのいいよ。って言ってほしかった!』

『よく見てよ。高いの十何万って値札ついてるから』

『えー、じゃあこれがいい』とその高いブレスレットを指さすユイ。

『俺が自分の店持ったら買ってあげるよ』と優一郎は笑った。

優は水色のブレスレット。そしてユイはピンクの半透明な天然石のブレスレットを買ってもらった。


そのブレスレットを手首につけ、手を伸ばしキレイと見惚れるユイ。

『あ、やっば』と優一郎。

ん?どうしたの?と優一郎の顔を覗き込んだ。

『みんなとはぐれたかも…』

二人がスマホを取り出すとみんなから何件もの着信がきていた。



『ごめんごめん』と謝りながら両手を合わせてみんなに駆け寄る優一郎。

『花火始まっちゃうよー』と怒る沙耶。

『どこ行ってたの?』と舞がユイに聞いた。

『天然石のお店があってね。可愛くて買ってもらっちゃった』とブレスレット喜びながら見せびらかすユイ。

『へー、そういう関係なんだー』とコノコノッと舞は軽く肘でユイを押した。

『違うから』と照れるユイ。


ドーンっという大きい音とともに夏の夜空に大きい花火が上がった。

『うわー綺麗!』花火を見上げるユイ。

間に合ったー。と少し遅れて一条とバイトの石田君が隣にくる。

二人は人数分のビールを買ってきたようでそれをみんなに渡す。

『あ、沙耶ちゃんは未成年だからジュースね!』とジュースを手渡す一条。

『はーい』と少し不満気な沙耶。


『はい、優もビール』と優一郎にビールを手渡すユイ。

ありがと。とビールを受け取ろうとした時に二人の手が少し触れあった。

あ、ごめんと焦る優一郎。つられてビールを一瞬こぼしそうになるユイ。

それを見ていた舞はまた少し悪い顔をしながら青春かっ!と笑う。

『違うから』と赤くなった顔を仰いだ。


暗くてよかった。だってあの時顔が赤くなったのを優に見られなくて済んだから。


『そうなんだね。舞ちゃんってユイちゃんの同級生なんだね』ビールを飲みながら舞と話す一条。

『はい、そうなんです。そういえばこの間一条さんテレビ出ているの見ました』と舞。

『あー、うちの店テレビで紹介された時のかな』と少し照れ臭そうに一条は答えた。

俺も出てたんだぜ!と身を乗り出す石田君。

そうだったかな?と首を傾げる舞を見て

なんだよ!と言いながらオーバーに倒れて見せる石田。

それを見てユイ達は堪えきれず吹き出した。

『店で何回も見たけど石田君映ってたのほんと一瞬だったじゃん。チラッとだけ』と笑う沙耶。


しばらくすると最後のフィナーレの花火が打ち上がり、

会場にはまた来年!とアナウンスが鳴り響き

帰り始める人混みと一緒にユイ達も駅へ向かいはじめた。


『また来年もみんなで来たいね』とユイが呟く。

『うん、来年もこよう』とユイを見つめる優一郎。


その時二人の手首についたブレスレットに気付く沙耶。

『ユイ?ちょっと待って』とユイの手を引っ張る。そして

『あ、みんなは先に行ってて!』と笑う沙耶

『ん?どうしたの?』

『そのブレスレット優一郎君とお揃い?』

『あ、これね。さっき買ってもらっちゃって』と大事そうにユイはブレスレット握りしめた。

『そうなんだ……』少し悲しい顔をする沙耶。


どうして気付かなかったんだろう。

あの時気付いていれば

こんなに傷つけずにいられたのに。

でも、もし気付いていても結果は変わらなかったのかもしれない。

ごめんね、そしてありがとう。





ーーその日店に着くと、オーナーと優が二人で店のホールの奥の端の一席で話し込んでいた。

真剣な眼差しで優を見つめるオーナーと何かを考える様に窓の外を見つめる優。

何の話だろ……そう思っているユイの前を横切る沙耶。

『あ、おつかれ!』とユイの挨拶に無愛想にうん。と返す沙耶。

『ん?どうしたんだろう……』と考え込むユイ。

そんなユイに近づいてくる一条。

『優一郎。新しい店舗の店長をしないかってオーナーに勧められてるんだ。でもなー。条件がなー』と言いながら奥に歩いていく店長。


しばらくすると、優一郎はオーナーにペコリと頭を下げ席を立ちキッチンの方へ戻って行った。

オーナーはユイに気付きこちらに向かって歩いてきた。

『ユイちゃん。あなたのことは一条から色々と聞いているわ』

あっ、どうもとユイは軽く会釈する。

『優……優一郎君他の店舗に行っちゃうんですか?』

『うーん、あの子にとってもすごくいい話だとは思うんだけどね…すごくセンスがある子だけれどまだまだ経験が足りない。だから私の知り合いの海外の店舗に研修に行かないって話したんだけどね。3年くらい』


『3年…』その言葉を聞いて固まるユイ。


『優一郎君もね、ユイちゃんと同じリアクションだったよ』

『優一郎君はなんて言ったんですか?』

『考えたい。って』

『そうなんですね』ホッとするユイ。


正直複雑だった。

優が他の店舗で店長になるのはすごく嬉しい事だし一番に応援したい。嘘じゃない。

でも、でも……3年は長すぎる。

三年間も優に会えないなんて考えられない。


『うん。でも色んな意味で若い時の一年はすごく掛け替えのないものだからね。どう使うかは優一郎君次第だから。

それを大切な人に使うのか、それとも自分が目指してる事に精一杯注ぐのか。色々吸収しやすい時期だから、なにもせずにいてほしくはないな』


そうだ。優一郎が悩んで決めた答えがどうであれ1番に応援しなきゃ。そう思った。



『優一郎まだ帰らないのか?』と他の社員が言った。

『はい、もう少し明日の下準備してから帰ります』

ほどほどにな。と言いながら他の社員達はキッチンを出て行った。

ホールの清掃が終わったユイは優一郎が一人作業のするキッチンの方へ入った。

『優、おつかれ』

『ん? あ、ユイお疲れ』


少しの沈黙の後


『あのさ』と優一郎が話そうとする。


『もしさ、もし大切な物を二つ天秤にかけられたら……ユイならどうする?』


『何?急に』と少しなんとも言えない表情をするユイ。

少し考えた後。

『私ならどっちも守るよ』


作業の手を止めてユイを見つめる優一郎。

優一郎は深い深い深呼吸のあとエプロンで手を拭きながら

ユイに近づいた。


『俺さ……』

『うん』と優一郎を見つめるユイ。


『おつかれ〜』頭を搔き、あくびをしながらキッチンへ入ってくる一条。


一条に驚き、離れる二人。

驚いて急に後ろを向こうとした時に膝を台の角にぶつけ

痛っーと悶絶する優一郎。

『あ、えっ!?大丈夫』と心配するユイに

う、うん。と悶絶しながら答える優一郎。

『ど、どした?優一郎大丈夫?』と心配する一条。

『だ、大丈夫っす』


タイミングの悪い店長が優に話があるからって事で

先に帰っててと言われ、すっごくモヤモヤしながらユイは一人で帰った。

きっと昼にオーナーと話してた事だろう。

帰ってから優からのメールを待っていたが全く来なかった。

例えていうならドラマの最終回の最後のシーンで急に停電して続きが見れなくなった様な感じ。


あのあと私になんて言おうとしたんだよ。

ってかメールくらい送ってよ…… 

結局布団に入っても全然寝られず

その日ユイは眠れない夜を過ごした。





ーー『おっはよ、ユイ!』と舞。

『あ、おはよう』と振り向くユイの疲れた顔に驚く舞。

『ど、どうしたの?目の下クマすごいけど』

『昨日全然寝れなかったんだよ』とブツブツ文句を言うユイ。

『なんか舞、朝から元気じゃん』

『そう?いい事あったからかなー』

えっ、何?気になる!とユイが聞くと

『実はね、翔太君と今日デートなんだ!』と嬉しそうに話す

『え?ええ??翔太くんって誰!?』

『お祭りの時にいたじゃん!ユイの同僚の石田君だよ!』

『あ、石田の名前って翔太君っていうんだね!ってかいつの間に!?』

『お祭りの帰りに連絡先聞かれてさ、あれからずーっと連絡とってたんだー。で、昨日ご飯に誘われて』

『その積極性分けてあげてほしいよ』と嘆くユイ。

『ユイも待ってるだけじゃだめだよ!自分からドンドン自分を売り込んでいかないと!』

『はい』とユイは肩を落とした。



今日もいつものように学校が終わってからそのままバイト先へ向かった。

今日は早めについてしまった。

昨日色々あったしなによりも優に早く会いたかったからだった?

裏口から入ると沙耶がもう出勤していた。

ユイはお疲れ様と言おうとするが沙耶はそそくさと奥の方へ歩いて行ってしまう。


そういえば最近沙耶がそっけない。

何かあったのだろうかと考えるユイ。

奥の方から食材の入ったダンボールを運ぶ優一郎がきた。

『おっユイ!おつかれ』と爽やかに挨拶をするがユイの内心はお疲れじゃねーよ!お陰で昨日一睡も出来なかったよ!という気分だった。

『昨日話したい事あったみたいだけど?』と切り出すユイ。

散々くる前に同級生に積極的にね。と言われたから自分なりに頑張ってみた。

『昨日のね!今日仕事終わったら少し話そう』と少し周りを気にしながら優一郎小声で言った。

『えー、早く帰らないといけないんだけど……しょうがないなぁ』とあたかもほんの少ししょうがないようにユイは答えた。これも同級生からの受け売りだった。

良い女性はそのままホイホイ了承してはいけない。私はどうでもいいけどあなたが言うなら…的な余裕が男性の狩猟本能を掻き立てるだとかなんとか。

『よしっ、じゃあ今日も仕事頑張ろう』ダンボールを運びながらキッチンへ戻っていく優一郎。

その後ろ姿を見て頑張ろう!とガッツポーズをするユイ。


仕事終わり間近になると沙耶の姿が見当たらなくなった。

しばらくすると一条が優に

『沙耶ちゃんの調子が悪いから駅まで送って行ってくれないか?』と話してるのが聞こえた。

ラストオーダーの時間が終わる頃になると窓から優と沙耶が駅の方へ歩いていくのが見えた。


『沙耶大丈夫かな……』


最近ずっと元気がなかったし、それは体調が悪いのが原因だったんだろうな。


ユイは仕事を終えると帰る準備をして店の外へ出るが

家に帰ろうかまだ優がいるかも知れない駅の方へ向かおうか少し悩んだ。


このまま家に帰っても昨日みたいに眠れない夜を過ごしてしまいそうだったし、何より優と話したい。


決めた。


駅に向かおう。そう決心して駅に向かい始めた。


駅に着くと丁度電車が駅に到着していた。

その駅は外からもホームが見える作りになっていてホームの最寄駅の看板やベンチも見えた。


その時電車に乗り込む沙耶の姿が見えた。

ホームで手を振る優の姿も。

電車の出発のブザーが鳴り響きドアが閉まる瞬間に沙耶は電車を降りて優に抱きついた。


それを見た瞬間時間が止まった様な感覚だった。

びっくりした。そんな単純な感覚ではなくって何が起きたのかわからないような。


その時遠くの方で少し顔を上げた沙耶と目が合った。


ハッとする沙耶の異変に気付き、振り向く優一郎。


どうしていいのか分からず走り出すユイ。

一体何があったのか。頭の中は真っ白で。

けれど無意識に涙は溢れ出す。

拭っても拭っても止まらない涙。

そのうち涙で前が見えなくなって、何かにつまずいてうつ伏せに倒れた。

その衝撃で優に買ってもらった天然石のブレスレットの紐が切れその辺に石が散らばった。

ハッとして足が痛いことも忘れて散乱した石を一つ一つ拾うユイ。

遠くの石を拾おうと手を伸ばしたその時。

石を拾う腕が急に視界に入ってきた。


『大丈夫?』


その落ち着いた優しい声にユイは顔を上げる前に誰なのか気付いた。

何も聞かずに散乱した残りの石を拾い集める一条。

自分が惨めでカッコ悪くて涙が止まらない。

そんなユイの頭をポンポンと叩いて一条は何も聞かずにただ私に寄り添ってくれた。


少し落ち着きを取り戻し始めると一条はユイを家まで送ってあげると言って車をとりに行った。


ここ店の前だったのか。夢中で走ってたから気づかなかった。


ーーすごくいい香りのする車内。少しタバコの香りもした。


『何にも聞かないんですね』


『人には聞かれたくない事だってあるよ。無理に言わなくっていいよ』

と言いながら一条は切れた紐に天然石を入れて器用に紐を縛ってくれた。そして、出来たと言いながら手渡してくれた。


『私の勘違いだったみたいです』


『勘違いは誰にでもあるさ。今日も熟睡できなそう?』

なんでそれを知ってるの?と少し驚き一条の顔を見た。

『そりゃ毎日見てればわかるよ。今日疲れた顔してたからさ』と笑う一条。

『よければドライブ行こうか?俺も嫌なことがあったらよく行くんだドライブ』

はい。と少し微笑むユイ。


家には帰りたくなかった。

一人になってしまったらきっと現実に引き戻されてどうにかなってしまいそうだったから。

涙が止まらなくなってしまいそうだったから。


それからも一条は何かを探ろうとしたりせずに、特別気を使って話したりもせずに車を走らせた。

けれどその沈黙は居心地が悪い物では決して無く

むしろ今のユイには心地よかった。

静かな車のエンジンの音。

そしてオーディオから流れるどこかで聞いたことのある曲が聞き取れるか聞き取れないか位の小さい音量で流れている。

気付いたらユイは助手席で泣き疲れて寝ていた。


ーー目を覚ますと辺りは明るくなっていた。


『ごめんなさい。私寝ちゃったみたいで……』

『うん、爆睡してたよ。相当疲れてたんだね』と一条は笑った。

『一晩中起きててくれたのに私だけ寝ちゃってほんとごめんなさい』

気にしないで気にしないでと一条は小さく手を振った。

そして、帰ろっか。と一条はユイのアパートの前まで送ってくれた。

『家まで送ってもらっちゃって……今日もお仕事ですよね。頑張ってください』

『お店の子を無事に家に送り届けるのも仕事だから。じゃあ、今日も学校頑張って』

ユイが車を降りて車が走り出そうとした時助手席側の窓が空いた。

『何があったのかは分からないけど、でも一つ言えるのは悲しいのは、辛いのはきっとユイちゃんにとってすごく大切な物だったからじゃないかな。自分の気持ちに嘘ついちゃダメだよ』


そうだ私、優のことが好きなんだ。


大切なのに……なのに全然辛くないよ。これ位平気だよってフリしちゃうから尚更辛いんだ。

そして、いつか沙耶と話した会話を思い出した。


『わたしの好きな人ユイも知っている人だよ』


優だったんだ。

沙耶が高校生の頃から思い続けてた人は優だったんだ。


一条と別れてから時間を確認するのにスマホを開いた。

優から何回も着信もメッセージもきていた。

けれどそのメッセージを見ることはできなかった。


私多分あの時優に嘘ついた。

天秤にかけられた二つの物を守ることなんてできない。

どっちも守るように見えてもそれは表面的なものであって、一番大切な物を守れなかったりするんだ。

それは優先順位はそう高くないと思ってしまったりするけれどきっと後悔が一番大きい選択。

でも自分が我慢すれば、我慢さえすれば2つのものは守れてしまうからきっと私も選ぶんだ。





ーー学校へ向かう途中、思いがけないところで舞に会った。

『あれ?おはよ舞。こんなところで会うと思わなかった』

『あー、今日ね彼氏のところ泊まってたからそのまま来たんだー』

『お熱いね』とからかうユイ。

『そんなユイはカレと最近どうなの?』


昨日の駅での光景が頭をよぎり一瞬真顔になるが、ハッと

我に返って何のこと?ととぼけた。

その後いつもの様になんてことのない会話をしなが、二人で学校へと向かった。


そしていつもより少し早めに学校へとつくと

学校の門の前には沙耶が立っていた。


『えっ?沙耶?』驚いた声を出す舞。


どうしたの?と舞は駆け寄った。

ユイは沙耶の目を見るとこができなかった。

二人の異様な空気に舞は首を傾げる。

『どうしたの?二人とも?』

真っ直ぐに沙耶はユイを見つめて口を開いた。


『私、優一郎くんに思い伝えた』


『そ、そうなんだ』と少しうつむきながらユイは答えた。

そういうことか……と舞も二人の状況にようやく気付いた。

『昨日は返事は聞きそびれちゃったからまだ聞けてないけど……』そう続ける沙耶。

『上手くいくといいね』とユイは今自分が出来る精一杯の笑顔で答えた。

『ありがとう。急に学校まで押し寄せちゃってごめんね。これだけ伝えたくって』

うぅんと笑って首を振るユイ。

じゃあまたお店でと言いながら沙耶は行ってしまった。

沙耶がいなくなってからユイは少しうつむいた。


『よかったの?これで』そっと近づく舞。

『良かったんだよこれで』とまたさっきのようにユイは笑ってみせた。

『ばか。』と舞はユイを抱きしめた。


精一杯笑ったつもりだったけれど舞にはお見通しみたいだ。

舞の胸の中で我慢していた涙がまた溢れた。

でもこんなの惨め過ぎるから、舞にバレないように声を出さずに泣いた。


これでよかったんだよ。私は大切な物を二つとも守る。





ーーいつもは授業が長いなぁって感じるのに、バイトに行きたくないなぁって思ってる時に限ってすごく時間の流れが早く感じる。

教室の窓から外を見るとザーっと音を立てて雨が降っていた。

朝バタバタしてて傘も持ってきてないや。

ほんと憂鬱。嫌なことって続くなぁ。


舞はすごく心配してくれてバイト先までついて来てくれた。

バイト帰りにも雨が降り続いてるかもしれないからって傘も貸してくれて。

ほんと舞には感謝しかない。


店の裏口から入ると入り口で一条と優一郎が仕事の話をしていた。

ユイはお疲れ様ですと言いながら頭を下げた。

優一郎の顔は見ることができなかった。

どんな顔していいかわかんなかったから。


その日は平日だったが予約がいっぱいでとても忙しかった。  地方の情報雑誌でうちの店が取り上げられたらしい。

そして、お客さんの割合も女性が多い感じだった。

多分店長効果? でも息つく暇もないくらい忙しいのは私にとってはむしろ好都合だった。

変なこと考えなくて済むし、優とも沙耶とも極力顔を合わせなくって済むから。

最後のお客さんが店を出るといつもより早めにユイは掃除を始めた。


キッチンの方から、舞の彼氏の石田君が最後のお客さんのグラスを片付けにきた。

『あ、忘れてた…ごめんね』

『ううん大丈夫。そういえば吉岡さん。俺、舞ちゃんと付き合ったんだ』

ユイは知ってるよとクスッと笑った。

『舞、とっても良い子だからさ大切にしてあげてね』

『もちろん。あとそういえばさ……』


来月。店長の誕生日らしい。

みんなでお祝いしないか?って事だった。

石田君には勢いで行くって言っちゃったけれど正直あんまり乗り気じゃない。

でも、石田君が舞も誘っていいかな?って言ってたから

私が行かないと変な感じになっちゃうよね。


それからいつものようにロッカーで着替えて、何の気無しにスマホを開いた。

優からメッセージがきていた。


優一郎 今日帰り少し話せる?


見る気はなかったけどついクセで勝手に開いちゃった。

一度開いてしまうと既読がついてしまうし仕方なく返信することにした。


ユイ 少しなら


優と近くの公園で待ち合わせをした。

店を出てそのまま公園に向かった。

夜の公園ってなんか少し不思議な感じがする。

昼間はあんなに騒がしいのに、嵐の後の静けさのような。

公園を入ってすぐ横にあるブランコに腰掛ける。

バックから飲みかけのミルクティーを取り出した。

バックを隣のブランコに置き、体を軽く揺らしながら待つ。


しばらくすると駆け足の足音がこちらに近づいてくる音が聞こえた。

少し息を切らしながら優は『おまたせ』といった。


優は私の後ろにいて顔は見えなかったけれど、その声ですぐ優だとわかった。


『昨日駅であった事なんだけどさ……』


『うん』ブランコを揺らし続けながら答えた。

『もしかしたら勘違いさせたかなと思ってさ……』

『沙耶ね?』

『ん?』

『沙耶がね? 優のこと好きなの私知ってた』

少し沈黙が流れた。そしてユイは続ける。


『あの日ね、あの後一条さんと予定入ってたから急いでたんだ私』


沈黙が続いた。


『そっか……』


『うん、あの日優が話あるって言っていたの沙耶とのことかな?って思ってたんだけど』


『違う…あれは急に小田桐が……』


また二人に沈黙が流れる。


『話ってなに?』

『…いや、やっぱなんでもない』


ユイがチラッと後ろを振り返るとそこには悲しそうな目をしている優一郎がいた。


『時間作ってくれてありがとう。じゃあ俺行くわ……』


たくさん嘘をついた。

でもどこかで聞いたんだ。

同じ嘘にも二通りあって一つは自分を守るための嘘。

もう一つは他人の為につく嘘。

言わなくても良いこと。

真実を隠した方がいい場合もあるということ。


去ってゆく優の後ろ姿を見て


待って。ほんとは違うんだよ?って言いたかった。

すごく辛かったんだよ?

置いていかないでよ。

もっと引き留めてよ。って


この選択にきっと私は後悔する。何年後もきっと。


優が去ってからもブランコから腰を上げることができなかった。

なんか変な感覚。本当に終わっちゃうのかなって。

今のは夢だったじゃないかなって思うような。

もう一度優がきてくれるんじゃないかなって。



『ユイちゃん?』


突然の声にビックリして振り返るユイ。


あっ、間違えてなくてよかった。とそこには仕事帰りの一条が車の窓を開けて顔を出していた。


『よければ送ってく?今日は眠すぎてドライブは行けそうにはないけどさ』


ブランコから腰を上げて一条に近づくユイ。


『一条さんに一つ謝らないと行けない事があって』


なに?と首を傾げる一条。

『事情があって……一条さんといい感じだから。って匂わせるようなこと言ってしまって……』

なんだ?そんなことかと、笑う一条。

『でもそれ嘘じゃなくなるかもしれないじゃん』

目をまん丸くするユイ。

でもからかわれてるに違いないと思った。

『そんな事言ってると勘違いされますよ?』

フフッと一条は笑って車を出た。

そして助手席の方までわざわざ回ってドアを開け

『どうぞ』と私を乗せてゆっくりドアを閉めた。


車に乗ってからも一条さんは私に何があったか聞いてくることもなく。静かな車のエンジンの音だけが響いた。


窓の外を眺めながらユイは呟いた。

『私間違ってたのかな……』

『間違えない人なんていないよ』

『でも私要領悪くって間違えてばっかりなんです』

『間違えてもいいんだよ。たくさん間違えてもやり直せないわけじゃない。何度も何度もやり直せばいいよ悔いが残らなくなるまで』





ーー『ユイ、雰囲気変わった感じがする』

『そ、そうかな……』

ジーッとユイを見つめる舞。

『なんか、大人っぽくなったというか。さては恋か!?』

『どうだろうね』

『ってか、今日の夜一条さんの誕生日パーティーだね。一条さんこの事しらないんでしょ??』

『うん、マコトさんには誰も言ってないよ』

『ん?マコトさん?』首を傾げる舞。

『あ、いや店長が』

『もしかしてユイ、一条さんと……』

このリア充め!とユイの両頬をつねる舞。

しかも、割と痛い。これ本気じゃないの?ってくらい

『イケメンシェフの次はイケメン店長さんかい…… 私もそこで働きたい。ほんっと』

『そんなんじゃないよ』

『ん?じゃあ、どういう関係??』

『仲が良い…恋人未満的な……』

それもそれで羨ましいわ!と舞はユイの両脇をこちょばした。


今日は店長の誕生日だ。


ちょうど店が定休日の日で本人には何も伝えてない。

オーナーにもみんなから店長の誕生日をサプライズでしたいってことを伝えて了承を得てる。

今晩は店でみんなで食材費を出し合って優たちがディナーを作ってくれるらしい。

私と舞は向かう前に店長の誕生日プレゼントを買いに行く予定だ。

前々からずっとみんなで話し合った結果、店長にシルバーのzippoのオイルライターをプレゼントしようって事になった。

あと、個人的に誕生日プレゼントも事前に買った。

前に情報誌の撮影の時によくスーツを着て行くらしくネクタイのレパートリーが少ないって話をしてたから、何個かネクタイを買った。これはみんなには内緒。


学校が終わって舞と誕生日プレゼントを選んでいる時も、舞は恋人未満ってどういう関係と割としつこつ聞いてきた。


休みの日に二人で買い物に行ったり、映画を見に行ったりドライブしたりそんな関係。

一度ご飯に行った時にお酒を飲む機会があってマコトさんの家に泊まった。

でも何もなかった。

そういう事は何もない。手を繋いだりキスだとかも。

逆に清々しいくらいだった。

私に魅力が足りないからかもしれないけど。


ただ一つ気になることがあって。

その泊まった次の日の朝、マコトさんに何か悲しい夢でも見てたの?って聞かれた。

私自身は何の夢を見たのかも覚えていないし

なんか寝言とか言ったりしていなかったかなって気になってた。


プレゼントを選び終え、店に着くと沙耶も石田君もそしてまさかのオーナーの香織さんもいた。そしてキッチンの奥の方で料理を作る優。

『プレゼント買えたー?』と私と舞に沙耶が近づいてきた。

『うん、良いのあったよ。今日の会費いくらだっけ??』

『あ、今日の食材費とかなんだけどね。香織さんが全部出してくれるみたい!』

『そ、そうなんだ』

私と舞は香織さんに近づいてありがとうございます。とお礼を言った。

『いいのいいの!私の幼馴染の誕生日してくれるんだから』

ユイと舞は顔を合わせて驚く。

『オーナーと店長さんって幼馴染なんですか??』

『うん、小学生くらいの時から一緒だよ。腐れ縁だけどね。でもマコト、昔から器用だったからね。私がお店経営しようと思った時に私から声かけたんだー。店長やってよ!って』


そうだったんだ。そしてオーナーって綺麗だけど話してみると男勝りというか…店長よりも男らしい感じがする。


『優一郎も海外に行くからそれも兼ねて今日は楽しもうね!』


えっ……


時が止まった感じがした。


『優……海外に行く事になったんですか?』青ざめるユイ。


『もしかしてあいつ、みんなにまだ言ってないの?』


初耳だった。すごく自分勝手かもしれないけれど教えてほしかった。

もう会えなくなるかもしれないから心の準備がしたかった。


こらー!優一郎!とキッチンの方へオーナーは入っていった。


『ユイ、大丈夫?』


『何が?』


舞からハンカチを手渡された。

その時涙が流れている事に自分では全く気づかなかった。


『ごめん、私トイレ行ってくる』


私は何がしたいんだろう。


一体何がしたいんだろう。


バイト中も優と二人になる事は極力避けたり、見ないようにしたり

そして遠くへ行ってしまうとわかったら寂しくなって


矛盾してるんだ。している事と自分の気持ちが。


もう嫌だよ。


トイレの外から声が聞こえた。舞の声だ。


『無理しなくっていいから。沢山泣いていいんだよ』


……ありがとう。 私、舞の前では泣いてばっかりだ。


どんなに強がっても。

どれだけ嘘の言葉でメイクで自分を塗り固めても

私は私のままだ。私なんだ。

多分昔から中身なんてほとんど変わってない。

泣き虫の私のまま。


でも、優が遠くに行っちゃうその日まで。

もう少しだけ。もう少しだけ嘘で自分を塗り固めよう。

きっと。きっとずっと会えなくなれば忘れられるから。

バックの中からポーチを取り出して、涙で滲んだメイクを直した。


あと少し頑張ろう。


ユイがみんなのいるホールに戻るとホールは暗くなっていた。沙耶が小声でユイを呼ぶ。

『ユイ、何してるの? 優一郎君が店長呼びに行ったからもうそろそろ来ちゃうよ!早くクラッカー持ってスタンバイして!』

『あっ、うん!ごめんごめん!』


しばらくすると、優の声とマコトさんの声が聞こえてきた。

『優一郎が料理教えてほしい。なんて珍しいじゃん』

『コツとかあるのかなぁって』

ホールに近づいてくる足音が聞こえる。

ユイの隣で香織は笑いを堪えるのに必死のようだった。

ユイも釣られて笑ってしまいそうになる。


パチン。ホールの電気がつく。

『でも、実は今日誕生日なんだよなぁ…』


パーーーーんっっ!!突然のクラッカーに体をのけぞらせてビックリする一条。


『誕生日おめでとうー!!』


『あっ、えっ?えっ?』

状況が理解できない一条の挙動不審ぶりに手を叩きながら爆笑する香織。


『あー笑った。ふぅ……マコト、誕生日おめでとう!』

笑い涙を拭いながら香織は小さい花束を手渡す。


まだ状況が理解できずポカーンとする一条。


『俺、料理とってくる』と優がエプロンをつけながらキッチンの方へ向かっていった。


『ほら、店長座ってください!ほらみんなも座って座って! 私ドリンク用意してくるね!ユイも手伝って』と沙耶が手慣れた様子でグラスを配り始める。


みんなが席に座って少し経つと、どうぞ。と優が持ってきた料理は本当にどれも美味しそうで、プロが作ったみたいだった。まぁプロだけど……


みんながグラスを持ち乾杯をする前に

『ほらほら、主役の店長何か一言』と沙耶が言った。


『あ、うん。そうだな……今日は皆様私の為に……』


『堅いよ……』と横からチャチャを入れるユイ。

みんなが笑った。

『ごめんごめん。ちょっと固かったね。今日でとうとう30歳になっちゃったよ。 みんないつもいつもありがとう。すごく助けられてる事ばっかりで本当に感謝しきれないよ。 優一郎が作ってくれた料理が冷めちゃうから、みんなで食べちゃおう!じゃあ、乾杯!』


かんぱーい!みんなが一斉にグラスを合わせる。


楽しい時間を過ごした。


そして食事が始まってしばらく経った頃

『ユイちゃん、ほらググーっと!良い飲みっぷりだね』香織がユイの空いたグラスにワインをまた注ぐ。

『香織あんまり飲ませすぎるなよー』と一条が困った顔で注意する。


この頃くらいからだった。少し私の記憶がとんだのは……



『誰にも言わないで行くつもりだったのかよ!優!』


突然のユイの怒鳴り声に全員がシーンと静まり返った。

『ユイ?ちょっと大丈夫!?』ユイをなだめる舞。


『なんとか言えよ!』


なだめる舞を振り切り優一郎の目の前ににおうだちをするユイ。


何のこと?動揺する沙耶と石田達。

『言えなかった……辛くって……』

少しうつむきながら話す優一郎。


『自分だけ辛い顔するなよ!バカ!!』


『海外でもどこでもいっちゃえ!!』そう言いながらフラッと体勢を崩し倒れそうになるユイを受け止める舞と石田。


さっきまで賑やかだったのが嘘のように静まり返るホール。


『せっかくの一条さんの誕生日にすみません。俺、今週でここの店辞めます。そして来月から海外にあるオーナーの知り合いの店で勉強させてもらいます』


みんなが戸惑う中、一条が話し始めた。


『優一郎の事は責めたりしないでほしい。前々からこの話はあったんだけれど急に決まった事だったんだ。だからみんなには尚更言いづらかったりもあったんだと思う』


『優一郎すげぇよ。一人で海外行くなんてさ。絶対途中で諦めんなよ』石田が優一郎をまっすぐ見ていった。

『うん、ありがとう』


沙耶は少し離れた場所から優一郎を見つめていた。


『さぁさぁ、3年後まだこのメンバーで集まれたらいいね。優一郎君の新たな門出を祝って飲も飲も』と香織はキッチンからお酒を持ってきた。


『ユイ大丈夫…?』舞が椅子を何個か繋げてその上で寝るユイの前髪を撫でる。

そこに一条が近づいてきた。

『ユイちゃんかなり香織に飲まされてたからなぁ……』

少しため息をついた。そして


『優一郎?ユイちゃんのこと家まで送っていける?』

一条は振り向いてそう言った。


少し優一郎はその言葉に驚いて頷く。


『ユイ、ほら帰るぞ』

そう言いながらユイを背中に乗せる優一郎。





ーー夜風がとても気持ちいい。秋がすぐそこまで近づいていた。


『ユイ大丈夫か?』

『気持ち悪い……』優一郎の背中でユイは呟く。


『今日俺が海外に行くこと切り出してくれて良かった。多分俺言えなかったから』

『……』

返事をしないユイ。

『寝ちゃってるか……』

背中からは寝息が聞こえた。


『自分だけ辛い顔するなよ。って言葉すごく効いたよ』


『でもすごく辛い。何度も何度も考えて……やっぱ行くのやめようかなとも思った』


『ユイと会えなくなるの辛かったから……』


『でも、それじゃダメだなって思った。俺もっといい男になって帰ってくるから。そして絶対……』





ーー気付いたら私は自宅のリビングで寝ていた。


学校についてから昨日の事を聞いたけれど舞は言葉を濁しながら話した。


『ほんとに昨日のこと覚えてないの?』

『うん……途中から全く……』

『後悔しない?』

『うーん……やっぱり聞くのやめとく……こわいもんなんか』


『でも、帰りは一条さんが送ってくれてたよ』舞はそう言った。


昨日はマコトさんが送ってくれたのか。

あとで謝りのメールしておこう。


この時は舞なりの優しさだったんだよね。

忘れようとしてる私に言うことじゃないってついた嘘。

私の為についてくれた嘘だったんだ。

ありがとう。





ーー学校が終わりバイト先へ着くと店長が店の社員たちを集めた。

『知ってる人もいるかもしれないけど、優一郎は今週でここの店を辞めるんだ。そして海外でオーナーの知り合いが経営している店に行くことになります。シフトの関係で今日で最後の人もいるかもしれない。 優一郎?なにか一言良い?』


『はい』と優一郎は前へ出た。


私もシフトの関係で優と働けるのは今日で最後だった。

優が何か話してはいたけれど全然頭に入ってこなかった。


その日も予約がいっぱいで優と話せる時間なんて全然なかった。


最後に体に気をつけて頑張ってね。とだけ伝えることができた。





ーーその次の週バイト先に行くとやっぱり優はいなかった。


優がいなくなった店は灯りが消えたように寂しくなった。

そして優の代わりに石田君が優がしていた業務を任されていた。


いっつもキッチンの奥の方でスープの味見したりしてたんだけどな。


もうその姿を見ることもなくなるんだ。

そう思うと胸の奥がぎゅっと締め付けられた。





ーー『優一郎が海外行っちゃう日みんなで見送りに行かない?』石田君が提案した。

『そうだね。店もオープン前の時間だしみんなでいこう』

そう一条は言った。


私は……行けないよ。


きっと待ってしまうから。


それからも優とは会う事はなかった。連絡をとることもなくって。


でも、少しずつ。少しずつだけれど優がいない日常に慣れていく自分がいた。


これで良いんだよ。良かったんだよ。



そして優が海外へ行っちゃう日。

前の日に本当に見送りに行かなくて良いの?と一条からメールがきてた。

用事があるからごめんなさい。とだけ伝えた。


けれど優が旅立つ当日になると家にいても全然落ち着くことが出来なくって

いつもはあまり行かないオープン前の店の方に向かった。

何処にも行く気分にはなれなかったし、みんなは見送りで店の方には誰もいないだろうなって思ったから。


店の前に着くと窓から店のテーブルを拭く沙耶の姿が見えた。

沙耶もこちらに気付き手を止める。


ユイはいつものように裏口から店内へ入る。

『沙耶、見送りに行かなかったんだね……』


『うん、盛大に振られたから?好きな人がいるからって』


『そっか……』


『私ね、知ってた。優一郎くんがユイの事好きだって』


テーブルを拭きはじめ沙耶は続ける。


『だから、あの日仮病使って優一郎くんに駅に送ってもらって思い伝えた』


『そっか……』


手を止めて、ユイを見つめる沙耶。


『何平気そうな顔してるの?』


『私のこと怒りなよ。ふざけんなって。そこまでしてまで付き合いたかったのか?って。でも私はそれでもユイに取られるくらいならマシだなって思った』


『……』


何も言い返さなかった。何も言い返す気にもならなかったから。


『まだ好きなんでしょ?優一郎くんのこと』


『……』


『かっこつけるなよ! いつも私平気って顔して。大切なものも他人に譲って、周りにいい顔ばっかりして……好きなら追いかけなよ!』


『…好きに決まってるじゃん』小さく呟くユイ。


『好きだよ。辛いよ!』


『ユイの口からその言葉が聞けてよかった。まだ間に合うよ!優一郎くんにも自分の口で伝えなよ』


私行かないと…


『私行かないと…』


私は走った。


沢山の思い出の詰まった店を背にして。

あの日嘘ついてごめんね。

あの日本当のこと言えなくてごめんね。


大好き。大好きだよ。もう自分の気持ちに嘘つくのはやめた。


息が切れて立ち止まりそうになった。


でもこんな辛さ、今までの辛さに比べたら我慢できないほどじゃない。

立ち止まり少し底のある靴を脱いでそれを持ちまたユイは走り出す。


そして駅に着くと一条の車が止まっていた。


まだ、みんないる! 優もきっと!


駅の階段を全力で駆け上がる。


『ユイちゃん?』一条の声だった。


『優は!?』


『今改札出たところだけど、まだきっとホームにいるよ!』


『私、優に伝えないと。マコトさんごめんなさい私……』


『うん、わかってる。ほら急いで大切な人のところへ行って思い伝えておいで』


うん。とユイは頷き一条に背を向けて走り出す。


改札口に着くと大急ぎでバックから定期を取り出しホームへ向かった。

多分リップか何かが落ちたけれど気にしてはいられなかった。


改札を通りホームまでの間に花が飾られていた。


白いクロッカス……


これあの時の花だ…


電車が到着する音が聞こえる。

その音に気付きハッとして一本引き抜いてユイはまた走り出す。


ホームに着くとそこには電車から降りたばかりの人達で溢れていた。


『優……』


優は電車へ乗ってしまったみたいだ。


そのうち電車のドアが音を鳴らして閉まる。


諦めない。私絶対後悔するから。


それでも電車の外の窓から優の姿を探すユイ。

そして前の車両で立っている優一郎を見つける。


『優だ!!』


ドンドン!窓を叩くユイ!


その音でユイに気付く優一郎。


電車が走り出す中でユイは慌てながら白いクロッカスを優一郎に向けた。


優一郎も一条達からもらったであろう花束から白いクロッカスを引き抜き。ユイに向けた。


『私待ってる。ずっとずっと待ってるから!』


きっと私の声は聞こえなかっただろう。

けれど思いは通じ合ってる気がした。

そして最後、優が頷いたように見えた。





ーーそれから私は大学を卒業した。

そして香織さんの経営する花屋の社員として働くことになった。


『ユイさん?今日バイトの面接の子何時からでしたっけ?』店員の子が話す。

『たしか昼の2時だったような…』

時計を見てユイはもう過ぎてるじゃん…と少しふくれる。

『時間にルーズなのは良くないなぁ……』


そしていつものように手慣れた様子で仕事を終え、店の子達にお疲れ様ー。と挨拶しながら奥の更衣室へ向かうユイ。


ロッカーを開けると一枚の封筒が入っていた。


『何これ?』


その封筒を開けると


招待状と書いてあり、日付けが今日で時刻があと一時間後だった。


その時更衣室のドアが開く。


『沙耶と舞?』


『ほら、あと1時間しかないから急いで着替えるよ!』

着替えも持ってきたから。とキャリーケースを両手で持ち上げ舞は言った。


『なに急に……』と驚くユイ。


『優一郎くん今日帰ってきてるんだって。でね、今日店予約してたみたい』と舞。


『初耳だけど…いつのまに予約したの?』と笑うユイ。


『3年前だって』


『そんなん聞いてないよ』


嬉しくって涙が流れた。


『何歳になってもユイは泣き虫だなぁ。頑張ったねユイ』と髪を結いながら舞が笑った。


舞と沙耶は慣れた手つきでヘアセットをしながら準備してくれた。


『いいねー。ユイ綺麗だよ!ね?沙耶』


『うん。腹立つくらいキレイ。じゃあほら、いってらっしゃい』


ユイの後ろ姿を見送り沙耶は呟く。


『ほんとに3年間待っちゃうんだもんなぁ』


『ユイは信じて待つよ。何年でも。そういう子だから』と舞は言った。


タクシーで懐かしい店の前に着くとと入り口にはスーツ姿の優が立っていた。


『優……おかえりなさい』


優は3年前とちっとも変わっていなかった。


それがとってもとっても嬉しくて


『おまたせ!』と優一郎はユイに手を伸ばす。


『本当に待たせすぎだよ……』


そして二人で入り口のドアを開けると一条がこちらに気付き向かってきた。


『優一郎おかえり。ユイちゃんも久しぶりだね!こちらの席へどうぞ』


案内された席のテーブルには綺麗な白いクロッカスが咲いていた。


もしも大切なものが二つ天秤にかけられたとして。

どちらか選ばないといけない選択の時がきても

自分を犠牲にすればその大切なものを守れたとしても

自分には嘘をつかないように。

自分の気持ちだけには嘘だけはつかないように。


自分なりに精一杯の力で私は全部守りたい。

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soup【スープ】 @hachisalon

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