母さん、おれたち、ここにいるよ 🌌

上月くるを

母さん、おれたち、ここにいるよ 🌌



 

 今回は、おれたちの母さんの話をさせてもらうね。ヾ(@⌒ー⌒@)ノ

 生き方上手ではなかったけど、情だけはたっぷりのおれたちの母さん。

 

      *

 

 イメージが湧きやすいように、3葉の写真に添って話を進めていくね。

 最初の1葉は、30冊ほどある古いアルバムの、3冊目に貼ってある。

 2葉目と3葉目は、スマホのなかで、プリントアウトはされていない。

 いずれも、それぞれのエピソードの象徴として選んであるつもりだよ。

 



 

……………………………… vol.1 『子守歌』 👶 ………………………………



 この写真は、おそらく1970年代の終わりごろだろうね。

 下の妹をねんねこでおんぶし、上の妹の手を引いている。⛄


 とても30歳とは思えない翳のある顔をしているのは、真冬の寒い日だったからというだけでなく、このころの母さん、身心ともに疲れきっていたからだろうね。


 そんな母さんの様子を気にも留めずカメラを向けているのは、おれのオヤジさ。

 あの時代の男は大方がそうだったろうけど、ご多分に漏れず、というより究極の亭主関白で、家事も育児も仕事も、あげくには雪かきや地域の川掃除などの力仕事まで母さんにやらせ、会社では社長、家では家長然としてふんぞり返っていた。


 言いそびれたけど、うちは小さな編集プロダクションを経営していたんだ。 

 当然ながら、納期が迫っていると徹夜してでも間に合わせないといけない。

 なのにオヤジときたら、妹たちが熱を出そうが、母さんの体調がわるかろうが、日が暮れると、酒好きの気の合った社員を引き連れて飲みに行ってしまうんだ。


 もし、おれたちがそばにいたら、ただではおかなかったんだけどね……。(怒)

 写真の母さんが年齢より老けこんで見えるのは、そういう背景があったんだよ。

 

      *

 

 とうに容量オーバーだった母さんだけど、おれのふたりの妹を舐めるように可愛がってね、家ではもちろん、扉ひとつで繋がっている会社の事務所のデスクの下でままごとや人形遊びをさせたりして、いつも自分の目の届くところに置いていた。


 オヤジがそんなふうだったから、ふたりとも未満児から保育園に通わせていたんだけど、元気な上の妹はともかく、登園をいやがって、カーテンに隠れて忍び泣く下の妹を見たふたまわりも年嵩のスタッフに「大きくなってから仕返しをされる」なんてひどいことを言われたときは、さすがにショックを受けたようだったよ。


 生まれた瞬間から大きな声で泣き、乳も離乳食も飲んで食べて、ぐんぐん大きくなった上の妹と違い、へその緒が絡まっていたとかで、お尻を叩かれて弱い産声をあげた下の妹は、食が細く体重が増えなかったので、母さんをとても心配させた。


 多分にストレスの影響もあったと思うんだけど、下の妹を妊娠中の母さんはとりわけ悪阻つわりがひどくて、小さな塩むすびを口にするのがやっとの状態だったんだ。

 しかも、ふつうは4か月ごろで収まるはずの悪阻がなぜか出産直前までつづき、朝、目覚めた瞬間から、夜、眠りに就くその瞬間まで、四六時中、胃液を吐きつづけていたので、胎児にも母さんの身体にも、まったく栄養が足りていなかった。


 これは言おうか言うまいか迷ったんだが、やはり正直に話しておこうと思う。

 そんな母さんに「ゲエゲエうるせえな。こっちまで食欲がなくなるじゃねえか」罵声を浴びせたオヤジは、洗面器を手放せない母さんを疎ましがって、小突いたり叩いたりしたあげく、虫の居所がわるいときはお腹を蹴ったりまでした……。(泣)


 オヤジだけじゃない、あのころの男は、みんなそんなものだったけどね。

 いやいや、いやいや、まさかまさか、オヤジを庇ってなどいやしないさ。

 それどころか、出来ることならこの手で殴り返してやりたかったよ……。


 健康でエネルギッシュな上の妹にくらべ、華奢で小柄な下の妹が病気ばかりしているのは、妊娠中に栄養を摂れなかったせいだと母さんはずっと気に病んでいて、下の妹が高熱を出したりお腹をこわしたりするたびに、自分を責めつづけていた。


 そんな母さんの贖罪の思いは40年後のいまも少しも薄れていない。健康な身体に産んでやれなかった下の妹と、その妹を妻としてこよなく愛しんでくれる義弟(大学のサークル活動で知り合った彼は比類ないほど生真面目でやさしい男でね、兄として感謝してもしきれないよ)に母さんは一生あやまりつづけるのだと思う。


 話が少し前後するけど、さっきの写真にもどると、このころ同年代の男女はみな1966年に初来日して以来、絶大な人気を誇っていたビートルズに夢中だったみたいだけど、忙し過ぎて眠る暇もない母さんは、音楽にはまったく縁がなかった。


 だから、ずっと後年になって、仕事仲間とカラオケに行ったときだれかが歌った『Let it Be』を母さんだけ知らなくて、みんなに呆れられたのも無理なかったんだ。

 

      *

 

 ――♪ ねんねんころりよ おころりよ

     ぼうやはよい子だ ねんねしな

 

 妹たちをあやしながら、元歌に忠実に「ぼうやはよい子だ」と歌っていたのは、あやしてやれなかったぼくたちへ、という意味もこめていたんだろうね、きっと。


 手軽なネット情報で恐縮だけど、いわゆる「子守歌」の実態は「守り子歌」で、本来は、自分の子どもを寝かせるために母親が歌ったものではなかったらしいね。


 貧しい小作人の年端もいかない少女が村の庄屋や町の商店に子守奉公に出され、背中でぐずる主の子への困惑や願いを哀調を帯びた調べに託したものとか……。


 だからこそ、「守りが憎いとて 破れ傘きせて かわいがる子に 雨やかかる」(竹田の子守歌)「ねんねいっぺんゆうて 眠らぬ奴は 頭たたいて 尻ねずむ」(五木の子守唄)「まな板のせて 青菜のように ジョキジョキと」(中国地方の子守唄)といった怖い歌詞が、さりげなく混じっていたりするんだろうね。


 その点、子どもには少々刺激が強すぎるのでは……と思われる残酷なエピソードが散りばめられたイソップ童話にも通底する心情が、日本の子守歌にはこめられているんだろうね。


 むろん、おれの母さんの場合は、純粋な愛の歌だったことは言うまでもないよ。

 オヤジに邪険にされた分だけ、母さんの情愛は子どもに向けられたんだろうな。


  


 

……………………………… vol.2 『秋のささやき』 🍃…………………………

 

 

 さて、2葉目の写真に移るね。

 これは中学生になった下の妹が、リビングでピアノを弾いている場面だよ。🎹

 椅子のそばで小首を傾げているのは、当時6歳ぐらいだった犬のタンタンだね。


 妹たちは生後3か月で引き取った犬を、じつの弟のように可愛がっていたけど、とくに上の妹が東京の大学へ進んでからの下の妹の密着ぶりったらなかったよ。 


 冬の夜など、どうしても帰りが遅くなりがちな母さんを、下の妹と犬のタンタンが1枚の毛布にくるまって玄関先で待っているすがた、涙ぐましかったなあ……。

 

 母さんが仕事で忙しかった分だけ、下の妹は上の妹を頼りにしたんだろうね。

 勉強は理系も文系も得意で、児童・生徒会の役員で、バスケ部のエースで、学校対抗リレーの選手でもあり、絵を描けば美術教師に褒められて壁に貼り出される。いわば文武両道の姉に憬れて、一から十まで姉を真似ることに一所懸命だったよ。


 もっとも、モラルハラスメント意識が行き渡った現在と違い、この当時は教師も無神経で、なにかにつけ「姉ちゃんはもっとがんばったぞ」とハッパをかけられたこともまた、下の妹の、姉への憧れや焦りをあおり立てたこともたしかだろうね。


 中三の三者懇談で受験する高校を検討するとき、担任の教師に「きみの内向的な性格に、自主性と積極性を尊ぶ校風は合わないと思うよ」と止められたのに、それを押しきって姉と同じ高校に進んだのも、姉を信頼していた証しだったと思う。


 まさかその高校の、しかも選りによって同じクラスに、オヤジの宿敵だった男の娘が在籍していようとは……下の妹にとって、なんと残酷な運命だったろうか。


 担任教師が案じたとおり、入学式当日から我先に自分をアピールするような校風に気圧された下の妹は、オヤジと不仲の男の娘をボスとするクラスの女子から無視や孤立など陰湿ないたぶり(小賢しいやつらは教師にバレるようなヘマをしない)を受けたことを母さんにはいっさい告げず、2年の夏休みまでは我慢して通学していたけど、明日から2学期という夜、入学以来の出来事を初めて打ち明けたんだ。


 仕事にかまけて娘の悩みに気づかなかった母さんは自分の不見識を悔い、責め、市内の書店をまわって不登校やフリースクール、大検などに関する本を片っ端から買い集めて来た。そして、それを熟読すると「無理して高校へ通わなくて大丈夫。大学に進む道はいくつもあるから」と断言し、絶望している下の妹を安心させた。


 ただ、仕事でも私生活でも数えきれない修羅場をくぐって来た母さんは、大事な娘を一方的に疎外されて黙っているほど、人の好い母親ではなくなっていたんだ。


 で、あくる日、単身で高校へ乗りこみ、生徒の自主性を尊重するという大義名分のもと本来の監督責任を怠っていた担任教師に直談判するという挙に打って出た。「まだほんの子どもに過ぎない生徒の自主性? いい大人が本気で言ってんの?」進学校のエリートを自認していた物理の教師をボコボコに論破してやったんだよ。


 むろん、その程度のことで女子の陰湿ないたぶりが改善するはずもなかったよ。

 でも、瓢箪から駒というのはこういうときに使うんだろうか、アポなしで研究室に乗りこんで、あれこれ弁解を試みる担任教師に一歩も譲らなかった母親の気迫はほかならぬ下の妹の気持ちを動かしたようで、「わたし、学校へ行く。退学はいつでもできるから」と言って復帰を果たした。そして、無事に卒業に至ったんだ。


 3つ違いの上の妹とは在校が重ならなかったが、たとえ1年でも重なっていたらまた別の展開になり、あんな辛い思いをせずに済んだろうに……。(´;ω;`)ウゥゥ

 

      *


 一方、幼いころからの憧れであり、頼りでもあった姉が東京の大学へ進んでから母さんと犬だけになった家庭で(後述するが、オヤジはとうに居つかなかった)、毎晩、母さんの愚痴を聞かされ、高校生の身で資金繰りや人事の相談相手までさせられているうちに、思春期の心には重すぎる負荷がのしかかっていったのだろう(その点では、担任教師の「学校よりも家庭に問題があるのでは?」という反駁がまんざら見当違いだったわけではないことを、残念ながら、認めざるを得ない)。


 自分の意思をはっきり口にできる上の妹は、中学に入るころから、よく母さんと衝突していたが、内向的な下の妹に思春期は訪れなかった。というより、人並みの反抗期が許される状況にはなかった、というほうが正鵠を射ているだろうか。


 いい子に過ぎたツケは、ある日とつぜん、やって来た。

 相思相愛の義弟と家庭を持った妹は「しばらく実家と距離を置きたいので、電話もメールも夫を通してほしい」と申し出たんだ。同時に、あんなに憧れていた姉とその家族にも連絡を取らなくなったのだから、下の妹のキャパは極限に達していたのだろう。重い偏頭痛や頻繁な腹痛も、華奢な身体をさらに細くさせていたしね。


 自分の命より大事にして来た娘のひとりに連絡を拒否された母さんは、たまたま会社解散の時期と重なったこともあり、ある真夏の夜、パニック障害を発症した。


 どうしたことか生物としての呼吸の仕方を忘れてしまった母さんは、深夜の緊急外来に5晩連続で駆けこんだが、そのたび「気のせい」で片付けられた。息が出来ない苦痛から逃れるために本気で死を願いながら、全医療機関が休みになる盆休みをやり過ごし、ネットで調べた心療内科で、ようやく治療の糸をつかんだ……。


 ここだけの話だが、窮状を助けてやれずに、やきもきしているおれから見れば、母さんもふたりの妹たちも、3人が3人とも懸命に生きて来たし、その場その場、あのように対処するしかなかったのだろうとは思うが、幼かったふたりの妹たちはともかくとして、3人のうちで唯一の大人だった母さんには、もう少し賢い選択の余地があってもよかったんじゃないかなと、正直、思ったりもしたよ。


 新型ウィルス感染真っ最中の東京でオリンピック&パラリンピックが開かれようとしている年の初夏の午後、母さんはスマホの着信画面に、下の妹の名前を見た。


 一生会えない覚悟もしなければ……娘を深く傷つけてしまった母親なのだから。

 ずっと自分を責めていた母さんは、4年ぶりの電話を奇跡だと思ったようだよ。

 

      *

 

 ところで――。

 ポジティブシンキングの上の妹と対照的に、内向的で、ネガティブなベクトルに思考が向かいがちな下の妹は、クラスメイトの知らない特技の持ち主だったんだ。


 既成の楽譜を即興でアレンジして華麗に弾きこなす熟達のピアノ演奏や、抜群の記憶力によるドラマの台詞の丸暗誦など、母にも上の妹にも備わっていない才能。


 わが妹ながら如何なる頭脳の構造になっているのか不思議だが、当時人気だった『高校教師』『家なき子』などの全台詞を一度観ただけで完全マスターし、夕食時にスラスラと澱みなく諳んじてみせ、記憶の苦手な母さんをびっくりさせていた。


 一方、ピアノでは、お決まりのソナチネやソナタなどの練習曲では飽き足らず、街の楽器屋さんで楽譜を購入して来たリチャード・クレイダーマンの人気曲を情感たっぷりに弾きこなし、夕餉の支度をする母さんやタンタンの耳を喜ばせていた。

 

 とくに母さんが好んだのは哀愁を帯びた曲調が心に染み入る『秋のささやき』。

 ほかに『渚のアデリーヌ』『星空のピアニスト』『愛のコンチェルト』『母への手紙』などが、小中学校の卒業式でピアノ伴奏を担当した下の妹の十八番だった。


 家でピアノを弾いているときはもちろん、中学の吹奏楽部で街頭行進時の指揮を任された大太鼓や、大学の軽音楽サークルでドラムを叩いているとき、華奢で小柄な下の妹の肢体は、伸びのびと躍動し、ひとまわりもふたまわりも大きく見えた。


 夫婦そろってMr.Childrenの桜井和寿さんのファンで、体調を崩す前はよくライブに出かけていたし、結婚式でバンド仲間と演奏したのもミスチルの『糸』だった。



  

 

……………………………… vol.3 『涙そうそう』 💦…………………………

 

 

 3葉目の写真は、会社解散の最後の日、愛用のアコスティックギター持参で駆けつけ、事務所でミニライブを開いてくれた元社員Yさんを囲んでの思い出の一景。会社のスタッフという関係性を越えた、強いきずながうかがわれる写真だよね。🎸


 とここで、いささか気をもたせた「後述」の話に入るね。


 子育て中の母さんに仕事の大半を任せ、自分はせっせと接待ゴルフやバー通いに勤しむ典型的な駄目オヤジだったけど、どういうものか、商売の勘だけは備わっていたらしい。それに持ち前の「行け行けGOGO!」の性格も手伝い、次々に事業の枠を広げていき、一時は周辺の6県に支社を進出させるまでに拡大させたんだ。


 ひと山当てるというか、たぶんに山師的なところがあるオヤジとは正反対の性格の母さんは、止め処もない拡張に反対だったけど、とてもそんなことを言い出せる雰囲気の夫婦ではなかったから、ハラハラドキドキしながらも従うしかなかった。


 といっても、広げた大風呂敷を、オヤジが自分でまとめられるはずもないから、銀行に頭を下げてまわるのは、もっぱら母さんだったことは言うまでもないよね。


 息子のような若造にひたすら笑顔をつくり「お宅は当行の顧客ランクで最低のFに当たる」だの「全国の同業社の経営指数のグラフにお宅の財務諸表を当てはめると端っこに位置する」だの「だいたいからして経営のノウハウを心得ているのか」だのと、さんざんな言われようで……。


 それでもどうしても金を貸してほしい一心で、本といえば出世の役に立ちそうなハウツー本しか読んだことがない、当然、限りなく不見識にして小生意気なマンボズボンの若造に作り笑顔で媚びへつらうしかない母さんを、おれはまともに見ていられなかったよ。(泣)

 

      *

 

 自転車操業の歯車が軋みながらでも回転しているうちはまだよかったんだ。

 インターネットの台頭で急速に活字離れが進み、目に見えない不況がジワジワと押し寄せて来ていた。そのことに苛立ったオヤジの酒癖はわるくなる一方で、気に入りの社員を連れ出し、浴びるような深酒を毎晩のように繰り返すようになった。


 あげくが、酩酊状態で入った温泉で倒れ、救急車で運ばれて十数時間の大手術。

 術後の意識がもどらず、ICUに1か月も入っているという最悪の事態だった。


 緊急入院した病院は、凍結した高速道路を飛ばして1時間の遠隔地だったので、看病と仕事を並行させなければならない母さんに、どかんと重荷がのしかかった。


 いま振り返っても恐ろしくなるが、無鉄砲な拡大路線の結果として、その時点の負債は4億に達していたし、その前に、翌月の不足分3,000万円の目処が立たない。


 病院を往復しながら資金繰りに駆けまわる母さんは急激に痩せてゆき、しまいには病院の看護師さんたちに「奥さんが倒れたらもっと大変ですから、そんなに毎日通って来られなくていいですよ」と案じられるほどのガリガリになってしまった。


 試練はそれだけでは済まなかった。

 会社危うしと見た古参スタッフのひとりが、オヤジのパソコンから無断で企画ファイルを持ち出し、数人の社員に声をかけてライバル会社を起ち上げたのだ。


 重なる苦難に堪えられたのは残ったスタッフの献身的な支えがあったからだが、会社存続のためには支社を整理するしかないことは、だれの目にも明らかだった。反発は母さんに集中した。日ごろ近くにいない支社のスタッフには、専務の母さんがオヤジを病気にさせて社長の座を奪おうとしたかのように言い募る者までいた。


 一段落したとき、40名のスタッフは半減していたが、その員数で母さんが試行錯誤して生み出した新路線(版元からの受注一辺倒から積極的な売込路線に変更、さらに自ら版元となり、結果としての負債ゼロ経営の達成)をスタートさせた。


 負債ゼロという、ヒマラヤのように高い目標の礎になったのは、オヤジが倒れる前から母さんが独学で勉強して試験的に運用していた社内DTPシステムだった。


 それまで印刷会社に任せていた文字入力、画像取り込み、レイアウト、校正などの作業を社内で済ませ、完全版下を出稿すれば従来の経費の1/3に削減できる。高齢者の多い上層部の腰が重い大手版元では出遅れていた最新技術をいち早く取り入れていたことが、ボクシングのボディブローのような効果を発揮し始めていた。


 デジタルには関心がなく、学ぶ気すらないオヤジには「そんなままごとみたいなもの」と馬鹿にされながらも、時間を見てはコツコツと独学を積んで来た過去が、いまこそモノを言ってくれたのだ。新社長の母さん自らが先頭に立ってDTP編集を本格化させることで、不可能に見えたゼロ負債への道が少しずつ開けていった。

 

      *

 

 せっかく持ち直しつつあった事業の行く手を阻んだのが、またしても駄目オヤジだった事実は、息子としてまことに面目至極もないのだが、本人曰く「奇跡的な」快復を見て退院して来たオヤジは、母さんの新路線のすべてにケチを付け始めた。

 入院中、馴染みになった看護師に「早く退院しないと、やり手の奥さんに会社を乗っ取られちゃうわよ」と軽口を叩かれたことをどうやら本気にしていたらしい。


 またしてもひと悶着もふた悶着もあったあげく、あろうことか、4億円の負債(オヤジと母さんが連帯保証人)付きの会社も家庭も捨て去り、来月の資金繰りも覚束ない古巣から多額の退職金まで持ち出し、同県内に同業他社を起こしたのだ。


 このスキャンダラスな事態に下世話好きなマスコミが飛びつかないわけがない。

 そういうことには至って鼻の利くオヤジは、飲み仲間だった新聞記者に「すべては悪妻が仕組んだ罠だった」と偽の情報を流し、ちゃっかり新会社設立の宣伝効果を狙い、夫婦間のプライベートにまで踏み入った悪質なパブリシティを画策した。


 呑兵衛記者は部下に命じて母さんに「不況業界の現状の取材」と偽る裏取り取材を行わせ、ある朝とつぜん、太い罫囲みの、ひときわ目立つ暴露記事を発表した。おかげで母さんは外を歩けなくなったし、勇気を出して外部の会議に出席すると、「病気の夫の会社を乗っ取った」などと、公然たる辱めを受けることになった。


 もっとも、このえげつない発言の裏には、市の医師会長をつとめる男の持ち込み原稿(自分が経営する病院の看護師たちとの登山譚を長々と綴った、じつにくだらない駄文中の駄文)を母さんが断ったことへの意趣返しもあったようだが……。

 

 だが、何事にも陰と陽がある。

 この「ペンの暴力事件」をきっかけに、かえって社内の結束が強まり、「社長を守ろう」という機運が高まったことは、おれたちとしてもありがたいことだった。


 例の記事が出てから半年後、担当の記者から分厚い手書きの手紙が届いた。そこには騙し討ち取材への謝罪と、上司と良心の間で揺れ動く苦悩が認められていた。


      *


 母さんが社長になってから、社内の空気は一変した。

 母さんはまず、1日の初めの朝礼の仕方から変えた。


 従来の社長の訓示は撤廃し、代わりに当番のスタッフが3分スピーチを行う。

 内容はなるべく仕事に関連しないこと、趣味や社会情勢のことをお願いした。


 それが終わると、みんなで筋力トレーニングを行い(若いころの無理がたたって腰痛持ちの母さんはスポーツジム歴が長かった)、最後にみんなで歌を斉唱する。


 選曲も指揮も当番まかせで、社長の母さんは口を挟まない。

 いつしかそれが朗らかな会社の社風として定着していった。

 

 ポップス、ロック、演歌、唱歌、なんでもOKと言いながら、メロディ、リズム、音階などが絡み合って歌いやすく、みんなが好む曲は自然に固まっていった。


 アットランダムにあげてみれば、『少年時代』『卒業写真』『なごり雪』『青春時代』『若者よ』『ルビーの指輪』『アイラブユー』『空も飛べるはず』『ロビンソン』『涙のリクエスト』『五番街のマリー』『故郷』『あざみの唄』『早春賦』『別れても好きな人』『コンドルは飛んで行く』『僕たちの失敗』『糸』……。


 東日本大震災の直後、無二の親友を津波に奪われた寡黙な漁師が訥々と歌う場面をテレビで観た母さんが心を打たれ、以降、決まって泣きながら歌うことになった『涙そうそう』(作詞:森山良子 作曲:BEGIN)もそのひとつで、母さんの涙に誘われたスタッフの人たちもまた、鼻の頭を赤くして1日が始まるのだった。


 ギターが得意なスタッフの演奏付きという豪華版朝礼もたびたび行われた。

 週末は地元のライブハウスでハモニカ&アコスティックギターの弾き語りをしている(母さんは「どうせ高給は出せないんだから」(笑)と自ら副業を奨励していた)Yさんの演奏は卓抜で、そういう日は全員の意気がいっそう盛り上がるのだった。

 

      *

 

 ときは流れた。

 インターネットの普及に反比例する活字離れは加速する一方で、出版や編集プロダクション、印刷、製本など紙の本に関わる仕事は成り立ちにくくなっていった。


 念願の負債ゼロを達成し、つぎなるステップに踏み出そうとしていた母さんは、ある朝、古手のスタッフ連に会議室に呼ばれた。「事業承継を勧めてくださる社長の気持ちはありがたいが、現状では先が見えない。申し訳ないが辞退したい」と。


 母さんに選択の余地はなかった。

 取引銀行には「せっかく業績を好転させたんだし、文化事業の伝統を絶やすのはもったいないから」とM&Aを強く勧められたが、我が子同然に育てて来た会社を見知らぬ他人の、それも文化と縁遠い手に委ねる気にはどうしてもなれなかった。


 いまなら、だれにも迷惑をかけずに会社を解散できる。

 あらためて振り返れば、あの四面楚歌の状況のなかで経営を引き継いだときに、倒産や自己破産で世間に顔向けできない事態に陥らなかっただけ幸いだったのだ。


 経営者として即断即決を身上として来た母さんの決断は早かった。

 翌日、解散の意向を伝えると、まずスタッフの再就職先を探した。

 ありがたいことに、どの社でも快く母さんの頼みを聞いてくれた。


 何人かの知人がいた、例の暴露記事を掲載した地元新聞社もそのひとつだった。

 あのときの借りを返してもらうつもりがなかったかと言えば……。(〃艸〃)ムフッ

 

 ひとつの事業を閉じることがこれほど大変だったとは……と痛感しながら、またしても骨と皮ばかりに痩せてみんなで後片付けを行い、ついに最後の日を迎えた。


 40余年の社史の、今日が最後となる事務所は、取引先や顧客、愛読者、著者、母さんの友人知人たちから届けられた花束の香でむせ返るようだった。✿❀🌸🌼


 地味が身上の母さんは大げさなセレモニーを好まない。

 飄々淡々といつもどおりの夕方を迎えるつもりだった。


 午後2時、飛びこんで来たのは、生家の事情で退職していたYさんだった。

 ギターを抱えたYさんをみんなで囲み、ときならぬ社内ライブが始まった。

 ご近所には許してもらうことにして、全員で声の限りに朝礼歌を熱唱した。


 そして、最後にYさんが選んだのは、あの懐かしい『涙そうそう』だった。

 母さんもスタッフもYさんも、全員がポロポロ泣きながらの大絶唱だった。

  

 またしても手軽なネット検索情報で恐縮だが、ウィキペディアによれば、歌手の森山良子さんは仲がよかった年子の兄を偲び『涙そうそう』を作詞したそうだが、逆のポジションのおれたちの側から見ても、心打たれずにいられない名曲である。

  

      *

 

 心療内科の主治医の「成人した子どもとは意識して距離を置くこと。助けを求められたときだけ行動し、親の側から積極的な働きかけはしないこと」という指導を忠実に守っている母さんは、いつでも何度でも繰り返し自分に言い聞かせている。


 ――まして、わたしは母親失格なのだから。


 気の合うスタッフはいなくなったけど、朝のトレーニングと朝礼歌はいまも家でつづけている。『Smile』とか『L.O.V.E』などジャズのレパートリーも増えたし、週に何度かは窓を閉めきり、PCのYouTubeの音量を上げての熱唱も欠かさない。


 波瀾万丈、有為転変、毀誉褒貶……四字熟語に事欠かない母さんの人生と音楽は1本の縄のような関係だから、もし認知症になっても歌だけは忘れないだろうね。(笑)


      *

 

 母さん、母さん、母さん……大好きな母さん。

 生まれられなかったおれと弟はここにいるよ。

 母さんと妹たちと家族の幸せを守っているよ。


 自分から別れを申し出たオヤジは、さっさとつぎのパートナーを見つけたけど、母さんは一度としてそういうことを考えたこともなく、だれかに頼ることもなく、仕事もプライベートも、すべてをひとりで負って来たよね。とくべつな才を持っているわけでもなく、本当はふつうの主婦でいたかったのに、それが許されず……。


 母さんはいま、日ごとに若返っていく自分を感じているよね。

 もちろん、見た目は老いる一方だけど、考えること、感じることはどんどん鋭敏になって来ているよね。資金繰りや人事や同業者の競争やから解き放たれた心は、草木染めの木綿のように貪欲に吸収したがっているんだよね。仕事ではなく、個人として書いたり読んだりして耕されることに、大きな喜びを感じているんだよね。


 そんな母さんがこっちへ来たとき胸を張って迎えられるように、おれたち兄弟、心ある星の仲間と共に「持続可能な宇宙づくり」に励んでおくからね。(笑)【完】

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