「エンテー」の日

MenuetSE

 

「危ないと思ったら迷わず『エンテー』のスイッチを押すんだよ、じゃあね、行ってらっしゃい、気をつけて」

 その小学生はいつものように「エンテー」のリモコンを握り締めて家を出た。エンテーのお蔭で交通事故は激減した。子を持つ親としては安心だ。

 エンテーとは「遠隔式危険車両強制緊急停止装置」の略だ。元来歩行者は「交通弱者」であり、乱暴な車や危険な車が来ても、ただ我慢するか逃げるしかなかった。雨の日の水溜りだって、車が来たら歩行者は傘を盾にして、飛沫がかから無いことを祈りながら身を縮めるしかない。しかし、エンテーの開発と法制化で形勢は完全に逆転した。全ての車に装着が義務付けられたエンテーは、歩行者の立場を圧倒的に強くし、他方、車の方は大変だった。常に歩行者の顔色を伺いながら運転しなくてはならない。


 それでも強気の運転手はいた。エンテーなんてクソ喰らえだ、とばかりエンジンを唸らせて急加速した。ゆるいカーブを高速で走り抜けると、前方に小学生の列が見えた。もちろん、普通に避けることはできる。しかし、そういう問題ではなかった。小学生達は、エンテーのリモコンをまっすぐこちらに向けていた。

 タイヤが奏でる悲鳴と同時に衝撃を感じ、車はわずか数メートルで急停止した。小学生達がリモコンで、この車を急停止させたのだ。ショックで呆然とする運転手の脇を、小学生達は楽しげにはしゃぎながら通り過ぎていった。運転手はつぶやいた。


 ――小学生、恐るべし・・・・・・


 法律では、エンテーで当該車両を緊急停止させられるのは、車が違法な走行をしている場合、及び、身の危険を感じた場合だ。身の危険はとても主観的なものなので、特に子供の近くを通るときは、運転手達はとにかくゆっくりと走行した。

 また、前方を走る車が、いつ「エンテー」されてもいいように、常に十分な車間距離を空けるようになった。結果として車両同士の事故も大きく減少した。ちなみに車両から違法にエンテー装置を撤去したり、故障を放置すると、一発免許取り消しになる。


 エンテーには他にも良いことがある。街が安全になっただけでなく、静かになったのだ。これは思わぬ副次効果だった。どの車も、不用意にエンジンを吹かせたり、急加速をしなくなったからだ。これだけで、街全体の騒音がずいぶんと減る。これに伴って、排気ガスも減少するという嬉しいおまけも付いた。運転手達が息を抜けるのは、歩行者のいない高速道路だけだった。


 車両のエンテーが運用開始され、何年かが過ぎようとしていた。そんな時、駐留米軍関係者に良からぬ噂が流れてきた。一部の政治家が、このエンテーの航空機版を提唱したのだ。駐留米軍に適用するという。というのも、住民や自治体との合意事項に反して、学校の上を飛行したり夜間に低空飛行したりする事例が後を絶たないからだ。当初、米軍への適用は政治的に無理であろうとされていたが、全国的な運動の高まりに押されて航空機版のエンテー適用が実現した。あまりにあっけない事態の進展に、ある者は怯え、ある者は笑った。


 そのF-35のパイロットは住民との協定よりも50mほど低空を飛んでいた事に気がついた。しかし、遅かった。パイロットが機体を持ち上げる間もなく「エンテー信号受信」の警報が鳴った。あっ、と思った瞬間、二機のエンジンは同時に緊急停止した。パイロットは為す術もなく、脱出するしかなかった。幸い機体は海の方に落下するだろう。

 脱出直前に計器盤の警報表示を見たパイロットは、数え切れないくらい多くの市民がエンテーリモコンを上空に向けていた事を知った。

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