断片-2 (その2)
右も左も分からない新入社員に、いきなり一億円の預金獲得などありえない。
午前中に商店街を回って売上を預かるときに、それぞれの店主に預金をお願いしたが、けんもほろろだった。
午後は得意客を回って、預金をお願いしたが、こちらも鼻先で冷たくあしらわれるだけだった。
これを一ヶ月の間毎日繰り返したが、預金は一円たりとも獲得できなかった。
折から東京も梅雨入りした。
傘が差せないので、カッパの上下を着て雨に打たれながら得意先を回った。
猛暑日が続いたので、カッパの下のスーツは下着ごとびしょ濡れになった。
絞れば、おそらくペットボトル一本分ぐらいの汗が取れたろう。
顧客の家にカッパを着ては入れないので、家の前に止めた自転車のサドルに被せておくと、帰るときには雨に降り込められたカッパはびしょ濡れになっていた。
銀行の裏門に自転車を置き、社員通用口から入ってカッパを脱いだところで、タオルを差し出した制服姿の女がいた。
窓口係主任の大坪誉子だった。
「雨の中おつかれさま」
上着を脱いで、ワイシャツをはだけた胸と首をタオルで拭うのを、誉子はまぶしそうに見上げながら言った。
誉子は高校を出てからこの本店でカウンター接客一筋の三十代後半とおぼしき独身のお局さまだった。
タオルは洗ってお返ししますと言うと、あらそんなこといいのよ、と濡れたタオルをさっと取り上げて奥へ入った。
翌日も雨だったが、誉子は待っていたように、通用口でタオルを差し出した。
「いつもありがとうございます。何かお礼でも」
と心にもないお世辞を口にすると、
「あらっ、そんなこと・・・」
と頬を赤くしたが、胸ポケットから名刺を取り出して、裏にボールペンで携帯の番号を書いて両手で差し出した。
「時間が取れたらでいいのよ」
誉子は早口で言うと、タオルを奪って扉のむこうへ素早く消えた。
遅くなって退社して駅へ向かって歩きながら、誉子の携帯に電話した。
すでに家に帰っていたのか、誉子はすぐに電話に出た。
明日は金曜日なので、遅い時間でも大丈夫よ、と言うので、ターミナル駅のカフェでとりあえず会うことにした。
デートということをしたことがないので、どこへ行ってどんな手順で何をしたらいいのか、予算はどの程度なのか見当もつかない。
誉子の食べ物の好みはどうだろう?
すべて任せてついて行って勘定だけ持つのがよいと思ったが、財布の中身がこころもとない。
というのも、両親の葬儀と全焼した家の取り壊しで大金を使ったと伯父は言い、伯母はこれまでの食費と部屋代も分割で払えと言い張ったので、安月給からそれらの月割りの返済分を差し引くと、さほど手元には残らなかった。
運転手として働いたアルバイト代は、払ってもらったことがなかった。
どうにも自信というものがないので、いつもひとの言いなりで、交渉ということがまるでできない。
とりあえず今までいちども使ったことのないカードを頼りにすることにした。
定時で先に帰った誉子は、ターミナル駅のカフェで待っていた。
制服姿の誉子は地味な銀行員の印象しかなかったが、家で着替えてきたのか、胸ぐりが大きく開いた白地に水玉のワンピースを着て華やかだった。
一張羅の安物の紺のスーツに紺のネクタイ、厚いレンズの黒縁メガネの地味なじぶんとはどうにもつり合いがとれなかった。
誉子が、ここの駅ビルの屋上にイタリアンがあるというので、そこで食事をすることにした。
「仕事には慣れたの?」
組んだ手の上に細い顎を載せた誉子は、顔を寄せた。
腕の間に豊かな胸の谷間が見えた。
「えっ、ええ」
声が上ずっている。
「どう、一億円ゲットできそう?」
これはまったく自信がないので、首を振った。
デザートのチョコレートパフェとエスプレッソを前に、誉子は細いメンソレの煙草に火をつけた。
メンソレの煙の匂いを嗅いで、川崎のソープ嬢のサキを思い出した。
「協力してもよいわよ」
細い指の間にはさんだ煙草の吸い口についた赤いルージュの跡を目を細めて見やった誉子は、謎めいた微笑みを唇に浮かべた。
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