先生、先生のこと、好きでした。
綾上すみ
第1話
試験に落ちつづけて、それでも次の試験に立ち向かい続ける地獄の日々だった。
この絶望感をどう紛らわせばいいだろう、頭を抱えながら、下宿のアパートにまで帰る足取りは重かった。
先生はせっかく丁寧に教えてくれたのに、これまでいい結果が残せていない。
夏場のうだるような暑さで、額から汗が噴き出しっぱなしだ。
遠くのほうに、かげろうが見える。
「あ――」
その中に先生――佐藤先生がいた。先生は柔らかなベージュのワンピースに、日傘をさして、まさに休日の装いだった。今日は木曜日だが、学校は夏休みにはいっていて休みがとりやすいと聞いたことがある。
これから出かけるらしい先生が、こちらに気づいた。
「あら、今日はお出かけしていたの?」
「あ、図書館で勉強していました」
本当は、全然やる気が出ないのでカフェでぼんやりと時間を過ごしていた。嘘をつく後ろめたさから、少しだけどもってしまった。
「えらいわね」
こちらに先生は歩いてきた。近づくにつれ、先生のまわりからかげろうが消えていく。
けれど僕の中ではいまだに、ある想いがゆらゆらと存在を主張していた。
誰にも相談していない、佐藤先生への想いだ。
「先生、教採の結果なんですけど」
「言わなくても、顔を見ればわかるわ。不合格続きなんでしょう?」
唖然としてうなずいた。佐藤先生に嘘はつけなさそうだった。もしかすると、僕の秘めた気持ちにも気づいているんじゃないか、なんて恐ろしくなる。
「くよくよしたやつは、先生嫌いよ。失敗が続いても、最後に一つ受かったらそれで気分は晴れるから。将来振り返った時に後悔がなければ、それでいいんじゃない?」
「……すごく、胸に響きました」
「当り前よ。受験指導で発破をかけるのには慣れてんの」
ふふん、と鼻を鳴らす先生。
「ま、頑張んなさいよ……じゃあ、出かけてくるわね」
「あ、いってらっしゃ」
僕は言いかけて、思わずうっとりしてしまう。踵を返した先生からは、さわやかな柑橘系のにおいがした。これまで匂ったことがないけれど、香水だろうか、素敵な香りだった。
ついこの前の春、僕は大学4年生になった。いよいよ教員採用試験が始まる、と気を引き締めていきたかったが、勉強はあまり手についていなかった。
アパートの隣に先生が引っ越してきた。両手の大きな手荷物が気の毒で、僕は引っ越しを手伝ってあげた。もともとラグビー部で、体も大きかったので、力仕事はお手の物だった。
後日届いた段ボールの荷解きや、家具の配置なども手伝ってあげたのだった。
次の日、何かお礼をしたい、というのを丁重に断っているとき、
――あ! 教職教養、懐かしー。
片手に持っていたテキストに興味が出たらしく、先生は言った。
――近くの教育大学の学生さん?
素直にうなずくと、僕のことに興味が出たらしく、たくさん質問をしてきた。都会で育ち、少し離れた地方の教育大学にやってきて下宿をしていること。体育の教員になろうとしていること。
そうしてやりとりをする過程で、僕は佐藤先生が学校の先生をしているのだと知ったのだった。
お礼代わりにと、日を決めて先生に特別講座をしてもらうことになった。
その日の僕は舞い上がっていて、今でも鮮明にその光景を思い出せた。下宿に女性を招き入れるどころか、女性と二人で遊ぶことも初めてだったので、無理もないだろう。
参考書をのぞきながら耳にかけられるサラサラの髪。きりりとした目つきでテキストの文字を読み、
――しっかり講義聴いてたらわかるはずでしょ、まったく。
寝てました、と正直に答えて、思い切りにらまれ、ひるんでしまった。それは今年の春のことで、アパートの裏の公園の桜がきれいだったのを覚えている。テキストを指し示す先生の肌つやだって、負けてはいないし、――むしろそちらのほうが、きれいだと思った。
実際教え方も厳しく、たまにいやになるけれど、確実に僕の力になってくれている先生に感謝しきりだ。
それからしばらく、佐藤先生とのかかわりはなかった。朝挨拶をする程度だった。
そうしてある日の、夜の駅前でのことだ。今時珍しいようなナンパをしている二人組に出くわした。
僕もこちらの地方に越してくるまで、古風なナンパなどなくなったものと思ったが、田舎では夜道を歩く女性に声をかけるものなのだろうか。
「すみません、彼女、僕の友達なんで」
僕のガタイの良さを見て、ヒョロヒョロした明るい髪色の二人組は案外簡単に去っていった。
――助かった。やっぱりあなた、体が大きくてたくましいわ。
――いちおう、ラグビーをやっていたので。
――ああ、それで体育教師目指してるの? かっこいいわね。
先生の目はとろりとしていて、呂律はうまく回っていなかった。
適当なことを言っているのだ。そうに違いない。これまで全く女性にもてなかった僕が。
しかし、酔っ払いのうわごとと聞き流せない自分がいた。
それから、特別講義は今の今まで定期的に続いていた。少し前、どうしてそこまで僕に時間を割いてくれるのか、と聞いてみた。
――そんなの暇だからに決まってるじゃない。それに、あの時助けてくれた恩、まだ返せてないと思うし――あなた、結構かっこいいところあるしね。
思わせぶりな言葉に、少しも期待をしないのも無理な話だ。
ともかく、この時僕は心に誓った。
先生の期待に応えよう。
教員採用試験に合格したら、先生に想いを告げよう、と。
けれど。
期待にこたえたい気持ちは空回りしてばかりだった。教員採用試験にはすでに三か所落ちている。試験日程的に残すは本命の○○県のみ。それで受からなかったら、大学院に進学することになるだろう。ある意味逃げの大学院進学だ。ただ社会に出るのを2年猶予してもらうだけの進学は、親にも負担をかけるし、何よりむなしい。
部屋に入って机に向かっても、もちろん勉強する気になれず、しばらくはやめようと誓っていたゲームを始めた。するとあっという間に時間がすぎて、部屋の明かりをつけた。蛍光灯が何度が点滅して、一人暮らしの男の汚い部屋を照らす。
寂しい想いを紛らそうと、冷蔵庫の缶ビールに手を出そうか迷う。だめだ、本当は勉強に集中しなくては。そうは言っても、どうせこんなに落ち込んだ気分では、身に入らないだろうと自分を納得させようとしたけれど、誘惑と絶望感に負けてしまう。
アパートの隣、202号室のほうをちらりと見る。まだ、明かりがついている様子がない。
今日は帰らないのだろうか。隣の部屋の女性の動向を考えるだなんて、自分が気持ち悪いけれど。
先生はとても素敵な人で、彼氏なんかもいたりするのだろうか。むしろ、先生に振り向かない男がいたら、見る目がないとすら思う。
やたら目がかゆく、何度かこすった。疲れがたまっているのだろうか、気が気でないうちに、ビールを開けていた。外に出した途端に結露していくらしく、手にしっとりと水気がある。冷房はしっかり聞いているはずだった。
違う。
これは、僕がぬぐった涙だ。
もう、限界だ。
先生に認めてほしかった。あわよくばお付き合いをしたい。
だから、だからこそ、甘えてはいけない。
先生は芯が優しいから、これまでの愚痴を吐き出せばきっと僕を優しく受け入れてくれる。けれど、それはダメだ。
それでももし、先生も僕に気があるとしたら――?
あまり酔っていないつもりだったが、すがるような思いをひとたび抱くと、それは呼び水のように甘えた考えを引き寄せていた。その場しのぎの幻想――
「先生、先生……」
「あっ、起きた?」
眠っていたらしい。はっとして時計を見ると午後10時だった。いつから意識がないのか――というか、なぜ、先生がうちに上がり込んでいるのか。
「玄関の鍵かけてなかったから、勝手に入ったわよ」
「えっ、あの……なんで先生が?」
「なんでって、今日は約束の木曜日でしょうが。勉強するわよ」
そうだ。曜日感覚もなくなるほど、試験結果に呆然としていたのか。
「あ、ごめんなさい! すっかり忘れていて」
あわてて勉強の用意をしようとするが、足元はおぼつかなかった。
「落ち着きなさいよ。こんなに飲んで、ダメじゃない」
ちゃぶ台を指さされて驚いた。僕は気が気でない間に、ビールを3缶も開けていたらしい。
「こんなに飲んでたら、今日は勉強は無理そうね」
「本当にごめんなさい……」
「……まあ、そういう日もあるわよ。台所借りるわよ」
飲み干したビールの缶を片付けようとする先生。
「あっ、僕がやりますって」
立ち上がろうとするのを制止される。
「酔っ払いは無理するなよ」
実際、かなり気分は悪かった。いわれるがままぼんやりしていたら、
「だいぶ散らかってるわねー」
そう呟きながら、掃除をしてくれ、挙句にはコーヒーなども淹れてもらってしまった。
「すいません」
二人分のコーヒーをちゃぶ台に置いて先生は、
「家事もおぼつかないくらい、悩んでいたのね。まったく意気地なしね」
その言葉とは裏腹に、佐藤先生のまなざしは優しくて、また涙を流してしまった。
そういえば酔っぱらった状態で先生に会ったことはなかった。勢いに任せて、積もり積もった受験ストレス――を通り越して、これまでの学生生活の恨みつらみを、すべてぶちまけてしまった。
本当は勉強を教えるつもりではなく、体育大学に行って選手として活躍したかったこと。両親の反対で、せめて教員になりなさい、と、教育大学を勧められたこと。
これまで彼女の手前、僕は強がっていて、弱音を見せたことがなかった。情けない自分を見られたくなかった。
「そっか……頑張ってたんだね」
「ありがとうございます。でも僕なんか甘えてるほうですよ」
「そんなことはないわ。あなたの悩みは、あなたにしかわからない。似たような思いをする人はあれど、それは人と比べることはできないわ」
先生の含蓄ある言葉は、いつだって胸にしみる。僕は胸のあたりが、お酒のせいではなく、じんと温まるのを感じた。
恋心とか、そういう次元ともまた違う。
自分の中の位置づけとして、佐藤先生は本心から尊敬できる存在になったのを感じた。
「私もなんか昔悩んでたこと、思い出してきちゃったな……家事をやってあげたお礼、もらっていいかしら?」
「な、なにをすればいいですか?」
「また、その時になったら言うわね。今日は勉強はなし。ゆっくり休みなさい」
コーヒーを飲み終えると先生は帰っていった。最後の最後まで、僕は勢いで言いかけた言葉を飲み込んでおいた。
――佐藤先生、僕はあなたのことが好きです。
夜が明けてからすぐに、死にものぐるいの勉強が始まった。
これまでの勉強すべてが生ぬるいものだと感じるくらいには、苦しく、しかし充実した勉強をすることができた。大学受験の時よりも、質も量も高かったかもしれない。
そうして、大学のキャンパスで○○県教員採用試験、合格の知らせを聞いた。
大喜びで先生に連絡のメッセージを送ったら、先生も自分のことのように喜んでくれた。
僕はうれしさもありながら、反面緊張してもいた。想いを、彼女に告げるのだ。
しかし家に帰る足取りは、これまでと違いとても軽い。試験に合格したという事実が、こんなにも心の重荷を取り去ってくれるとは。
アパートが見えてくる。先生は二階の共用廊下で――荷造りをしていた。
「あっ、やっほー」
こちらに手を振ってくる先生。もう片手には、部屋に置かれていたであろう炊飯器を持っていた。
「君の愚痴を聞いた時の貸し、返してもらうわよ」
「えっと……」
「引っ越し、手伝って」
先生は引っ越すらしい。恋人の、住む家に。
そう、あのさわやかな香りがした時に気づくべきだった。佐藤先生はこれまで、柑橘系の香りはしなかった。香水をつけて会いたい相手、それは、先生が想う人なのだった。
僕はどうやら、少し遅かったらしい。先生をナンパから救った時など――チャンスはあったかもしれない。
けれど僕は前を向く。
先生の部屋に入ってベッドを解体した。
「やっぱり男手があったほうが助かるわ。ありがとうね」
「いえ、本当に、あの時のお礼なんで」
両親でも、大学の友達でもなく、真剣に僕の気持ちに向き合ってくれた相手に対し、僕は言った。
「先生、佐藤先生のこと、好きです」
「……うん、知ってたわ」
先生は申し訳なさそうに目を伏せる。
「あなたの気持ちには、気づいていたのに、今まで引き延ばして」
「それ以上は、言わないでください」
僕の言葉に、先生は少しハッとするように目を開いた。
「先生にとって、嬉しい引っ越しじゃないですか。寂しい感情は今日はなしです。僕も、振られるのわかってましたんで」
「あなた――本当にかっこいいこと言うようになったわね」
「教採受かって、自信がついたのかもしれません」
「きっとすぐ、彼女なんてできるわよ」
先生は終始幸せそうな表情で、引っ越しをしていた。恋人と一緒に暮らす生活とはどんな気持ちなのだろう。それには思いは至らないけれど、ともかく、この時間が最後となると思うと、幸せに送り出したかった。
お互いに。
しばらくして。
僕は先生の言葉を思い出していた。
『将来振り返った時に後悔がなければ、それでいいんじゃない?』
先生を好きになったことを、後悔なんてしているものか。
僕は前を向くのだ。佐藤先生のような、立派な先生になることが夢なのだから。
先生、先生のこと、好きでした。 綾上すみ @ayagamisumi
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