翌日は大納言家に泊まったが、二の姫を前にしても昨日のことが思い出されて、指一本触れられずに眠りについた。そのことを不安に思った姫が、夫の様子を注意深く観察し、一つの仮説を立てて中将に迫ったことを、桔梗は知らない。ほぼ真実と同じといえる説をまくし立てられ、困った中将は一つだけ助言した。

「様子のおかしな夜には、そっと殿方の体を観察してみると、何か証拠があるかもしれない」

 勿論、中将としては、秘密の関係なのだから、そんなものが残っているはずがないと思った上での発言だった。

 しかし、うら若い姫が助言の通りにして、夫の体にその証拠を発見してしまい、傷心のままに夫が外泊する場所まで調べ上げ、すべてを記した文を送っていたとは、さすがの中将も思わなかっただろう。

 たった十四歳の新妻には、この事実は耐えられなかった。文を出し終えてすぐに彼女は倒れ、しばらく床につくこととなってしまったのだった。


「おお、姫や……にわかに倒れたと聞いて様子を見に来たが、枕もあがらぬ容態とは!」

 枕元で騒ぐのは姫の父、大納言だ。可愛い娘が病に倒れたとなれば、なりふり構っていられないのだろう。医師くすしは大事ないといったが、心配で仕方ないといった様子だ。

「父上……私は平気ですから、ご出仕なさってくださりませ。皆がついておりますから……」

「こんなに若い娘が病など……まさか、呪詛などをしている者がおるのではあるまいな!陰陽師を呼べ!」

「……!」

 二の姫は目を見張った。呪詛などされる覚えは全く――いや、心当たりはあるが、あの方はそんなことをする人ではない。

「姫、儂は必ずそなたの病の元を突き止めるぞ。待っておれ」

「父上……まだ、そうと決まったわけでは――ああ、行ってしまわれた……」

 鼻息荒く出て行く父の後ろ姿が見えなくなってから、二の姫は無理矢理起き上がった。女房に止められたが、きつく命じて筆と紙を持ってこさせ、とある文への返事を書き始める。

「私は……負けるわけにはいきませぬ、桔梗様……」



 翌日、知らせを聞いた桔梗が姫の元へ飛んできて、手ずから看病を始めた。その甲斐甲斐しい様子に大納言家の女房たちも感心し、ともに病の快癒を願っている。昼過ぎ、姫が眠っているときに一通の文が届いた。

「姫様へお文が届きました」

 持ってきたのは二の姫付の若い女房だった。まだ独身で、蓮っ葉なところがあり、年嵩の女房によく注意されているのを桔梗も目にしたことがある。

「姫はよくお休みだ、私にみせておくれ。ご友人からか?」

「はい、近頃よく文を交わしておいでです」

「何処の姫君だろうか。お手蹟を拝見してみよう……ん?これは、男の文字ではないか、それに」

 桔梗は息をのんだ。見間違えるはずがない。これは何度も目にした、藤の手蹟だ。

「中はなんと……?」

 さっと目を通したところ、二の姫の文への返事、という感じだった。しかし、『貴女が仰るようなことはございませぬ。私の想いがどんなに貴女を怨んでいたとしても、お守りのあつい貴女に届くはずもない』とはどういうことなのか。怨みの理由は容易に想像がつくが、二の姫自身が知るはずはない。そもそもこの二人が文を交わしていること自体がおかしい。

「殿、どうなさいましたか?お知り合いのお文で?」

「……少し出かけてくる」

 文を女房に押しつけ、足早に室をでる。本当は行きたくないが、向かう先はただ一つだ。



 房親が止めるのも構わず、桔梗は邸内を闊歩し、文の送り主と対面した。藤はどことなく気怠そうな様子でくつろいでいる。

「これは兄上。どうなさいました、左様に切羽詰まったご様子で」

 藤の姿を見ると、反射的に手が震えた。まだこの間の狼藉に体が怯えているのだ。しかし、ここは妻のためと思い、感情を抑えて静かに話しかけた。

「お前と二の姫がやりとりしている文について聞きに来た。お前、あの方の病に何か関係があるのではないか?」

「……何だ、そのことですか。私は何もしておりませぬよ。きっと、疲れがたまって、お風邪を召されただけです。兄上こそ、こちらへいらっしゃっていて良いのですか?ご看病は」

「お前に言われなくとも、誠心誠意努めておる。余計なことを申すな」

 つい喧嘩腰になってしまったが、これでは文の内容が聞けないので、桔梗は、咳払いしてその場に座った。

「私は真のことが知りたいだけだ。接点のないお前と姫が、どんな言葉を交わしていたのか」

 真剣に問うが、依然として藤の視線は床に落とされたまま、交わることはない。

「――申し訳ありませぬが、兄上にはお教えできませぬ」

「何故だ!私は姫の夫で、お前の兄であるのだぞ」

「それ故に、です。貴方にだけは、お見せできませぬ。私のためだけではありませぬ、姫と兄上のためにも、知られぬ方がよろしい」

 静かに拒絶され、桔梗は狼狽した。いつもなら、声を荒らげていそうなものを。また、少し面やつれしたように見えるのは気のせいだろうか。この様子では、本当に姫にあだなすようなことはしていなさそうに思える。

「……そうか、わかった。急に訪ねてすまなかった。お前も調子が良くなさそうに見える。もし気分が悪いなら、今日は休むと良い」

 弟への気遣いとして優しい言葉をかけてから、桔梗は邸を出た。


 残された藤は、一度も兄の帰った方を見ないまま、両手で顔を覆う。

「……何故、まだ私にあのようなお言葉をかけてくださるのだ。私はあれほど酷いことをしたのに……!」

 藤の右手の親指の付け根には、痛々しい傷跡がある。つい先日、兄に噛まれた傷だ。母に気づかれないように口を塞いでいたら、いつのまにか噛まれていた。その傷がじくじくと痛む度に、虚ろな兄の瞳が、その端から流れ出る熱い涙の塩辛さが、鮮やかに蘇る。

「私は、一体何をしているのだ……?兄上の心身を傷つけ、あれほど私を気遣ってくれた女人を怨んで。私さえいなければ、お二人は何の障りもない仲睦まじい夫婦でいられるのに――」

「藤の君」

 不意に呼ばれて顔を上げると、房親が心配そうにこちらを覗いていた。

「ご気分がよろしくないのですか?帝がお召しですが、お断り申し上げた方が?」

「い、いや……すぐに参る」

 目の端に浮かんだ涙を拭い、乱れた衣を替えようと立ち上がると、房親に背を撫でられた。

「……御兄君のことで、お悩みでいらっしゃるのでしょう。私にできることなど微々たるものですが、私は何があっても貴方の乳母子でございます故、少しは頼ってくださりませ」

 房親の優しい声に、藤の胸がつまる。自分には、まだ味方がいるのだと、そう思えるだけで心がいくらか軽くなった。

「そう、だな……では、房親」

「はい」

 藤は、不器用に笑って言った。

「もし、私が姿を消すと言ったら、お前は手を貸してくれるか」

 房親は、冬だというのに、眼前に桜の花びらが舞ったような気がした。

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