五
一連の騒動が収束し、桔梗が二の姫との結婚生活にも慣れた頃。藤とは、互いに忙しく、なかなか逢えずにいたせいで、届く文は増え、隠し場所に困り始めていた。そしてついに、腹心の女房である中将に見つかってしまったのだ。
それは、いろいろな人から届いた文を読んでいるときだった。桔梗は、別の箱に入れてあった藤からの文を、中将が取り出していることに気がつかなかった。
「桔梗様、なにやら隅から数多の文がでて参りましたけれど、どなたの文でござりますか?」
「ん、どれだ?」
「熱烈な恋の文に見えますが、奥様がみつけられたらどうなさるおつもりで……こ、れは……え……?」
「どうした?」
他の文に集中していた桔梗が顔を上げ、中将が手にしているものが何なのかを知った。
「中、将」
文に目を落としたまま黙り込んでしまった彼女は、震える声で呟いた。
「桔梗様、私にお任せくださりませぬか」
「何を……」
「これらの文は、私がお隠しいたします。他の女房や奥様に触れぬように。私は貴方様の乳母子です、貴方様をお守りするのが私の役目ではござりませぬか」
依然として声はか細かったが、その瞳には確固たる意志が宿っていた。
「っ……すまぬ、私が迂闊であったばかりに、お前にまで……左様なことを背負わせて――」
あふれてきた涙を袖で拭いながら、桔梗は良い乳母子をもったとしみじみと感じ入った。
「――さ、今日は内大臣様のところへお出ででござりましたね。お支度のお手伝いをいたします」
「あ、あぁ。頼む」
そうだ、今日は妹の入内を祝う宴の日だ。中将に倣い、気持ちを切り替えて、父に怪しまれぬようにしなくては。久しぶりに母に会えることを楽しみにしながら、桔梗は身支度をして自邸を出た。
その日、父はいたく上機嫌で、母も歓迎してくれたため、桔梗は良い気分で夜を迎えることができた。秋も終わりに近く、冷たい風が体にこたえるが、澄んだ空はまだ月が美しく輝くのを助けている。眺めながら酒を飲むのも一興だろう。気づけば、昔よく空を見上げた場所にいた。ここにいると、母から突拍子もない話を聞いた日のことを思い出す。
「兄上、お隣よろしいですか?良い月だと聞きましたので」
「ん、藤か。構わぬぞ」
「失礼いたします」
藤が隣に腰を下ろしたことで、肩と肩がぶつかった。些か近すぎる気がするが、気にしないでおこう。
「わあ、これは素晴らしいですね」
「そうであろう?私も昔はよくここから月を眺めたものだった」
「存じております。よく、兄上の隣でお話ししましたから」
ありふれた兄弟の会話であったが、桔梗にとっては懐かしく愛しいものだった。そうだ、本当はこういう関係を続けていきたかったのだ。
「ずいぶんと前のことのように感ずる……」
そう呟いた桔梗の横顔に、仄かな光が降りる。通った鼻が、長い睫毛が、薄い頬と唇へと影を落とす。そして、ゆっくりと藤の方を向いて、微笑みかけた。あまりに神秘邸なその光景を、藤は息をすることも忘れて凝視していた。
「どうかしたのか?」
声をかけられて、藤はようやく現へと引き戻されたようだった。月に見入っていたのかと桔梗は勘違いをした。
「いえ、何でも。……っくしゅん」
「おっと、冷えてきたな。風邪を引いてはいけない。そろそろ休むか、私の寝所はどこだったか――」
伸びをして立ち上がろうとした桔梗の腕を藤が引き、再度その場に座らせた。
「お待ちください」
「何だ、何か話でもあるのか」
「いえ、最近あまりお逢いできておりませんでしたから、もう少しお側にいてくださりませ」
甘えた声で懇願され、桔梗は驚いた。まるで幼い頃のようだ。
「……拗ねているのか?」
ここが生まれ育った西対ということもあって、桔梗は完全に油断していた。顔をよく見ようと額に伸ばした指先が、藤の指に捉えられる。
「……兄上」
気がつけば、抱きしめられていた。逃れようともがくうちに引き倒され、顔が近づく。
「待て、ここをどこだと」
「私達の生まれ育った西対ですが」
「母上が近くにいらっしゃるのだ、やめよ」
「では接吻だけ」
制止の声は宙に消え、押さえつけられた腕に段々と力が入らなくなる。互いの影が何度も重なるうちに、つい、藤の背中に手を回していた。もう、慣れてしまっているのだ。
「……は、っ」
「……このまま、お休みになりますか?」
「お、前っ……」
急激に引き上げられた体の熱が、その先を求めている。しかし、それに従うわけにはいかないのだ。
「もう離せ、このまま休む」
「左様に紅いお顔では、お離しできませぬ」
「煩い、お前に指図されるいわれはないであろう」
「兄上は私の情人でしょう?」
「今はお前より優先すべき妻がいる。お前より愛らしい女人がな」
きっぱりと言い放つと、ひどく傷ついたような顔で、藤は唇をかんだ。
「真に、あの姫を愛していると仰るのですか?一番に?」
「当たり前であろう」
「……あの女。」
その呟きは、心底憎々しげに吐き捨てられた。気持ちはわからなくもないが、そもそもこの結婚は藤のせいで成ったものだ。文句を言われる筋合いはないだろう。
「わかったならそこを退くのだ、私はもう休む」
「……本当に、私のことはただの弟とお思いなのですか」
「あぁ、ずっとそうであったろう」
「では何故、私を抱きしめておられるのですか?」
「……あ」
間抜けな息が漏れる。無意識に背中に回した腕が、そのままになっていることに桔梗はやっと気がついた。慌てて腕を外したが、もう遅かった。
「ご自分ではお気づきでないかもしれませぬが。貴方は私を求めておられるのです」
「違う」
「いいえ、違いませぬ。貴方はもう私を受け入れておられる」
「受け入れてなど――」
――本当に?
「おら、ぬ……」
――では何故、腕をひかれたとき、振り払わなかったのか。触れられることが、嫌で、嫌で、仕方なかったはずなのに、何故、こちらから触れようと手を伸ばしたのか。
そう考えた瞬間頭によぎったのは一人の童子。
「……昔からお前が可愛くて仕方なかった。今のお前の中に昔のお前を探して、他でもない、お前が望むなら、と、きっと心のどこかで許していた」
「あにう……」
「だが、私達は兄弟だ!同じ女人を母に持つ、兄弟なのだぞ……!」
とめどなく溢れる罪の意識と後悔を、幾度涙に変えただろう。弟でさえなければ、とっくに受け入れてしまっていたかもしれない。それぐらい、愛された。
「私は、今のお前は愛さぬ。それでも構わぬと、そう思うたから私を脅したのだろう?」
これ以上踏み込ませてはならない。拒絶するつもりで、言葉を投げつけた。しかし。
「……ええ、そのつもりでした。ですが兄上、貴方は酷いお方だ。そのように、言われては……諦めることもできないではありませぬか」
ぽたりと頬に雫が落ちてくる。まるで、雨のようだ。わかってもらえたかと、安堵した桔梗の体は、突如強力に床に押しつけられ、痛みにうめく口を手で塞がれた。そのまま、初めての日よりもさらに、荒々しく進められた行為は、泣いて縋っても止まることはなかった。
しかし、本当に心が泣いていたのはどちらだったのだろうか。
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