一連の騒動が収束し、桔梗が二の姫との結婚生活にも慣れた頃。藤とは、互いに忙しく、なかなか逢えずにいたせいで、届く文は増え、隠し場所に困り始めていた。そしてついに、腹心の女房である中将に見つかってしまったのだ。

 それは、いろいろな人から届いた文を読んでいるときだった。桔梗は、別の箱に入れてあった藤からの文を、中将が取り出していることに気がつかなかった。

「桔梗様、なにやら隅から数多の文がでて参りましたけれど、どなたの文でござりますか?」

「ん、どれだ?」

「熱烈な恋の文に見えますが、奥様がみつけられたらどうなさるおつもりで……こ、れは……え……?」

「どうした?」

 他の文に集中していた桔梗が顔を上げ、中将が手にしているものが何なのかを知った。

「中、将」

 文に目を落としたまま黙り込んでしまった彼女は、震える声で呟いた。

「桔梗様、私にお任せくださりませぬか」

「何を……」

「これらの文は、私がお隠しいたします。他の女房や奥様に触れぬように。私は貴方様の乳母子です、貴方様をお守りするのが私の役目ではござりませぬか」

 依然として声はか細かったが、その瞳には確固たる意志が宿っていた。

「っ……すまぬ、私が迂闊であったばかりに、お前にまで……左様なことを背負わせて――」

 あふれてきた涙を袖で拭いながら、桔梗は良い乳母子をもったとしみじみと感じ入った。

「――さ、今日は内大臣様のところへお出ででござりましたね。お支度のお手伝いをいたします」

「あ、あぁ。頼む」

 そうだ、今日は妹の入内を祝う宴の日だ。中将に倣い、気持ちを切り替えて、父に怪しまれぬようにしなくては。久しぶりに母に会えることを楽しみにしながら、桔梗は身支度をして自邸を出た。

 その日、父はいたく上機嫌で、母も歓迎してくれたため、桔梗は良い気分で夜を迎えることができた。秋も終わりに近く、冷たい風が体にこたえるが、澄んだ空はまだ月が美しく輝くのを助けている。眺めながら酒を飲むのも一興だろう。気づけば、昔よく空を見上げた場所にいた。ここにいると、母から突拍子もない話を聞いた日のことを思い出す。

「兄上、お隣よろしいですか?良い月だと聞きましたので」

「ん、藤か。構わぬぞ」

「失礼いたします」

 藤が隣に腰を下ろしたことで、肩と肩がぶつかった。些か近すぎる気がするが、気にしないでおこう。

「わあ、これは素晴らしいですね」

「そうであろう?私も昔はよくここから月を眺めたものだった」

「存じております。よく、兄上の隣でお話ししましたから」

 ありふれた兄弟の会話であったが、桔梗にとっては懐かしく愛しいものだった。そうだ、本当はこういう関係を続けていきたかったのだ。

「ずいぶんと前のことのように感ずる……」

 そう呟いた桔梗の横顔に、仄かな光が降りる。通った鼻が、長い睫毛が、薄い頬と唇へと影を落とす。そして、ゆっくりと藤の方を向いて、微笑みかけた。あまりに神秘邸なその光景を、藤は息をすることも忘れて凝視していた。

「どうかしたのか?」

 声をかけられて、藤はようやく現へと引き戻されたようだった。月に見入っていたのかと桔梗は勘違いをした。

「いえ、何でも。……っくしゅん」

「おっと、冷えてきたな。風邪を引いてはいけない。そろそろ休むか、私の寝所はどこだったか――」

 伸びをして立ち上がろうとした桔梗の腕を藤が引き、再度その場に座らせた。

「お待ちください」

「何だ、何か話でもあるのか」

「いえ、最近あまりお逢いできておりませんでしたから、もう少しお側にいてくださりませ」

 甘えた声で懇願され、桔梗は驚いた。まるで幼い頃のようだ。

「……拗ねているのか?」

 ここが生まれ育った西対ということもあって、桔梗は完全に油断していた。顔をよく見ようと額に伸ばした指先が、藤の指に捉えられる。

「……兄上」

 気がつけば、抱きしめられていた。逃れようともがくうちに引き倒され、顔が近づく。

「待て、ここをどこだと」

「私達の生まれ育った西対ですが」

「母上が近くにいらっしゃるのだ、やめよ」

「では接吻だけ」

 制止の声は宙に消え、押さえつけられた腕に段々と力が入らなくなる。互いの影が何度も重なるうちに、つい、藤の背中に手を回していた。もう、慣れてしまっているのだ。

「……は、っ」

「……このまま、お休みになりますか?」

「お、前っ……」

 急激に引き上げられた体の熱が、その先を求めている。しかし、それに従うわけにはいかないのだ。

「もう離せ、このまま休む」

「左様に紅いお顔では、お離しできませぬ」

「煩い、お前に指図されるいわれはないであろう」

「兄上は私の情人でしょう?」

「今はお前より優先すべき妻がいる。お前より愛らしい女人がな」

 きっぱりと言い放つと、ひどく傷ついたような顔で、藤は唇をかんだ。

「真に、あの姫を愛していると仰るのですか?一番に?」

「当たり前であろう」

「……あの女。」

 その呟きは、心底憎々しげに吐き捨てられた。気持ちはわからなくもないが、そもそもこの結婚は藤のせいで成ったものだ。文句を言われる筋合いはないだろう。

「わかったならそこを退くのだ、私はもう休む」

「……本当に、私のことはただの弟とお思いなのですか」

「あぁ、ずっとそうであったろう」

「では何故、私を抱きしめておられるのですか?」

「……あ」

 間抜けな息が漏れる。無意識に背中に回した腕が、そのままになっていることに桔梗はやっと気がついた。慌てて腕を外したが、もう遅かった。

「ご自分ではお気づきでないかもしれませぬが。貴方は私を求めておられるのです」

「違う」

「いいえ、違いませぬ。貴方はもう私を受け入れておられる」

「受け入れてなど――」

 ――本当に?

「おら、ぬ……」

 ――では何故、腕をひかれたとき、振り払わなかったのか。触れられることが、嫌で、嫌で、仕方なかったはずなのに、何故、こちらから触れようと手を伸ばしたのか。

 そう考えた瞬間頭によぎったのは一人の童子。

「……昔からお前が可愛くて仕方なかった。今のお前の中に昔のお前を探して、他でもない、お前が望むなら、と、きっと心のどこかで許していた」

「あにう……」

「だが、私達は兄弟だ!同じ女人を母に持つ、兄弟なのだぞ……!」

 とめどなく溢れる罪の意識と後悔を、幾度涙に変えただろう。弟でさえなければ、とっくに受け入れてしまっていたかもしれない。それぐらい、愛された。

「私は、今のお前は愛さぬ。それでも構わぬと、そう思うたから私を脅したのだろう?」

 これ以上踏み込ませてはならない。拒絶するつもりで、言葉を投げつけた。しかし。

「……ええ、そのつもりでした。ですが兄上、貴方は酷いお方だ。そのように、言われては……諦めることもできないではありませぬか」

 ぽたりと頬に雫が落ちてくる。まるで、雨のようだ。わかってもらえたかと、安堵した桔梗の体は、突如強力に床に押しつけられ、痛みにうめく口を手で塞がれた。そのまま、初めての日よりもさらに、荒々しく進められた行為は、泣いて縋っても止まることはなかった。

 しかし、本当に心が泣いていたのはどちらだったのだろうか。

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