四
それから季節は流れ、盛夏となった。橘が花開き、蒸し暑さが京を襲う。
その頃、東宮が元服なさったのにあわせて、帝が御位をお譲りになり、右大臣の一の姫が新帝へ入内した。桔梗たちの父内大臣は、五節の舞姫をつとめた、桔梗たちの腹違いの妹を入内させようと画策していたために、出遅れたことを歯がゆく思ったようだった。
そのせいか、右大臣家とのつながりを作るために、桔梗に縁談を持ってきた。相手は右大臣の三の姫だという。一方の藤は、叔父大納言の二の姫との文通を続けていたのだが、何故か、なかなか成婚とは相成らない。
そんな中、父は、息子たちを兄弟そろって急ぎで呼び出した。
「ああ、一体どういうことなのじゃ、そろいもそろって我が家に逆風がふいておる」
「父上、何が起こったのですか」
「帝が、そなたと話を進めておる右大臣の三の姫を、どうしても后にしたいと仰せなのだ。桔梗、そなた、なにか帝の不興を買ったのではあるまいな」
「恐れながら父上、新帝はまだ帝となられてから日も浅く、私はお言葉を賜ったことすらござりませぬ。左様なことはあり得ませぬ」
「では何故横から…ああ、藤も参ったか。そなたにも知らせがある」
「遅れて申し訳ございませぬ、父上。……兄上もお久しぶりです」
遅れて父の元へ参上した藤が、桔梗の横に座った。二人はあの悪夢のような夜以降、何度か今は使っていない別邸で逢瀬を重ねている――桔梗は全く納得していないが――ために、久しぶりに会うわけではないのだが、父の手前、そんなことはおくびにも出さない。
「藤、そなたもなにか粗相をしでかしたのではないか?我が弟大納言が、二の姫がそなたとの縁談を破棄したいと言っていると相談してきたのじゃ」
「それは……二の姫と直截お話しして決めたことでござります。父上」
藤の予想外の言葉に驚いたのは父だけではなかった。はじかれたように、桔梗も弟の表情を窺った。
「何を勝手なことを申しておる!」
「お許しくださりませ、私などはあの方に相応しくありませぬ」
「藤!そなたという奴は――」
二人の口論が激化する。どうしたら止められるか、桔梗は考えていた。そして、両方の問題を解決する策を思いついた。
「お待ちください、私に考えが」
「何じゃ桔梗、申してみよ」
桔梗は、息を大きく吸って、はっきりと話し出した。
「二の姫を私の正妻にいたします。そして、藤に、帝に此度のことの理由を伺ってこさせるのです。それならよろしいでしょう父上」
一瞬の沈黙の後、父の表情が明るく輝いたように見えた。
秋になる頃、結論から言えば桔梗の策は成功した。破談に憤慨していた叔父大納言も納得してくれたし、藤も帝に拝謁する約束を取り付けることができたそうだ。晴れて桔梗は妻を迎えることとなり、あっという間にその日がやってきた。
大納言邸に招かれた桔梗は、初めて正式な妻を迎えることに緊張していた。どのような方なのだろう。藤の話では、とても気の利く方だというが。
「――月見れば……千々にものこそ、悲しけれ――」
風に乗って涼やかな女人の声が聞こえてくる。声の主が気になって御簾の中をそっと覗くと、廂に座って月を眺めている女人の後ろ姿があった。月明かりに照らされて、豊かな髪が光を孕む。吸い寄せられるように、息を潜めてあるいていくうちに、女房の声が聞こえた。
「二の姫様、こちらへお入りくださりませ。人が見たらどうなさるのです」
「わかっています。でも、もう少しだけ、秋の月を眺めさせておくれ」
歌をそらんじていたのは、二の姫だったようだ。女房が下がった気配を感じ、桔梗は姫の近くへと迫った。
「……我が身一つの」
「――秋にはあらねど」
知らない男の声に、姫が振り返る。その手を捉えて引き寄せ、腕の中に収める。
「誰か……」
「いけません。どうか静かに。お分かりになりませぬか?」
「!」
男が誰か理解した姫は、安堵したのか小さく笑い出した。
「ふふ、貴方様の花は夏が盛りですのに。秋の月の前でも美しく咲いておられるなんて、考えもしませんでしたわ」
姫は少し変わった女人のようだ。しかし、月光に照らし出された面差しは華やかで若々しく、桔梗は自分の心が彼女に惹かれているのを感じた。
暁の空が白みはじめる頃、少し早く目を覚ました桔梗は、腕の中で眠る二の姫のあどけない寝顔をしばし楽しんだ。裳着をすませたとはいえ、姫の齢はまだ十四。これからどんなに美しく育っていくか、楽しみだ。
「ぅ、ん……桔梗様……?まあ、我が君は朝の光の中でもお美しいのですね」
「姫、お起こししてしまいましたか」
「いえ、私、申し上げなければならないことがございますから、去られる前に起きようと思っていましたの」
「え?」
「貴方様の弟君のお話です。何故婚姻を取りやめようと決めたのか。此は、私の我が儘だったのです」
「どうして……まさか、弟が、貴方に良くないことをしましたか?」
「いいえ、誠実な方でした。ですが、私は気づいてしまいました。あの方には、真に想うお相手がおられると。どちらの女人かは存じ上げませんけれど……あぁ、でも、兄である貴方様はご存知かもしれませんわね。仲のよろしいご兄弟だと伺っております」
桔梗は、自身の胸に愛しそうに頬を寄せる少女が、とても鋭い女人であることを知った。
知らないはずがない。弟の真の思い人は、きっと兄である自分だ。藤は軽率に恋人を作ったりはせず、内裏の女たちからは真面目すぎると言われているのにも関わらず、桔梗にだけは執心し、あさましいまでに求めるのだから。
「愛されぬとわかっていて、妻となるのは嫌だった、ただそれだけです。子供のような我が儘でしょう?」
儚く笑う二の姫に、かける言葉がみつからなかった。ただ、もう一度強く抱きしめて、貴方は悪くない、とつぶやいた。思えば、昨夜二の姫がそらんじていた歌は、物思いにふけるものではなかったか。自分のせいでこの女(ひと)を悲しませたという事実が、桔梗の心を苛んだ。
§§§
父の命ということにしてお頼みしていた、藤の帝との面会の日となった。ごく私的なこととしてお願いしたため、清涼殿での拝謁、ということになっている。
「少納言様、こちらへ」
女房に案内され、帝のもとへ向かう。日が暮れ始める時間を指定されたのは些か不可解だったが、帝の仰せとあらば、仕方ない。
「……ここからはお一人で。人払いをせよと仰せつかっております故」
「人払い?」
「はい、夜が明けるまで、他に誰も入れるなとの仰せ」
「左様か、案内ご苦労だった」
そこまで人に聞かれたくないことをお話になるおつもりなのかと思うと、少し怖くなってきた。数歩歩いたところで聞き慣れた声がした。
「こちらだ、少納言。今宵ここに通されたことは誰にも申すな」
「これは、挨拶も申し上げず失礼いたしました……え?」
反射的に跪いた後に顔を上げ、室内の様子を見て、藤は驚いた。帝がくつろいでいたのは御寝所――夜の御殿だったのだ。后でもないのに、どうしてこのようなところに呼ばれたのか、藤にはわからなかった。
「そなた、朕に何やら話があるとか。申してみよ」
「はっ……恐れながら、帝は何故に右大臣の三の姫を后にご所望になられたのでござりますか。一の姫が既に入内なされ、三の姫には縁談があったことはご存知だったはず」
「なんだ、そのことか。何、単純な理由だ、そなたの兄が縁談の相手だった故よ」
「では何故!」
「――そなたが、わからぬと申すか?」
冷ややかな声色に、藤は肩をふるわせた。帝は怒っておられるのかもしれない。ただ、その原因がわからない。
「申し訳、ございません」
「まぁ、良い。朕はそなたのことをようわかっておる故な」
「……?」
帝は、言うべき言葉が見つからない藤の頬を、両手で挟み込んでじっと目を合わせた。
「そなたは朕にとって何者にも代えがたい男だ。『私』は、帝になった。そなたは朕の臣下だ。そなたは朕のものになったのだ!」
「は、はい、仰せの通りにて」
「それなのにそなたは、朕のもとへ参らぬ。兄のことばかりだ。朕はそなたの兄が憎い、そなたの心を独り占めしておる」
涙を流して縋る帝は、小さい子供のようだった。しかし、藤の胸中は穏やかではなかった。帝が、自分と兄との関係を疑っているように聞こえたのだ。
「たしかに、兄と私は仲の良い兄弟とは思いますが、帝がお気になさるようなことは何も」
「嘘を、申すな!」
強く肩をつかまれ、藤は痛みに顔をゆがめた。爪がぐっと食い込んで、直に肌に傷をつけているように感じた。
「お、お離しをっ……」
「そなたが別邸に出入りしていることは知っておる。そなたの兄もだ。ただの兄弟が左様に人目を避けて会うと思うか?」
「――!」
藤の顔から血の気が引く。帝はご存知なのだ、私達の異常な関係を。
「どうか、お責めになるなら私だけを!私が兄を脅して、無理矢理付き合わせているだけなのです」
きょうだいの姦通は古来より大罪とされている。明るみに出れば、どうなるか。考えるだけで恐ろしい。
「どうか、帝――」
こつん、と額が合わされた。肩にあった手は、再度頬に寄せられる。
「責めぬ。朕の胸の内に留めておいてやる。朕はそなたを失いとうない故」
「帝……!」
優しい微笑みに、安堵したのもつかの間。
「その代わり、そなたの全てを朕に捧げよ」
「……え?」
にぃっと帝の口が弧を描く。
「そなたの想いも、身体も、朕のものだ。絶対に離してやらぬ。死ぬまで、朕に仕えよ」
「そ、れは、どういう」
混乱しきった藤の唇に、帝のそれが重ねられ、言葉が途切れる。……兄よりも柔らかい。
「愛しているぞ、少納言……いや、藤。『私』の想いに答えぬなどとは言わせぬ」
その言葉でやっと、何故ここに通されたのかわかった。まさか、そんな。刹那、思い悩んだ後に、藤は覚悟を決めて、愛しげに微笑んだ。
「わかりました。仰せの通りに、『我が君』」
――兄上を守るためだ。これぐらい、たいしたことではない。私はいくらでもこの身体を明け渡そう。ただし、心までは、渡すまい。嗚呼、それにしても、何故この方は私などを愛されたのか。
満足そうにこちらを見下ろし、懸命に接吻を落としている帝を、藤は哀れに思った。
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