三
そうして、悪夢のような一夜が明けた。
「お目覚めですか、桔梗様」
朝の光が寝足りない体に染みる。身を起こすと、中将が側に控えていた。
「中将、今は何刻か……藤は?」
「もうお帰りになりました。また、こちらをお渡しするように、と」
中将が差し出したのは一片の
「――っ!」
紙を持つ手が震える。これはまるで
「ご気分が優れないとお伺いしておりましたが、やはりお疲れのご様子でござりますね」
「何?藤がそう言ったのか」
「はい、『酒をたくさんお勧めしてしまった、私に付き合わせてご無理をさせてしまったから、無理にお起こしするな』と。今日は内大臣様の元へお出でになると仰っておられましたが、どうなさいますか?」
藤が、言葉のはじめは良いとして、真ん中に含みをもたせているのにも腹が立った。勿論、中将が気づかぬような。
「……父上の邸へは参上する。お前は左様なことを考えなくて良い」
「っ……申し訳ありませぬ。差し出がましいことを申しました。では、湯を持って参ります」
つい、中将に八つ当たりしてしまったことに気がついたのは、彼女が下がった後だった。
とにかくしっかり起きようと体を伸ばすと、節々が変に痛んだ。その痛みに、昨夜のことが夢ではないのだと思い知らされる。そういえば、単を着た覚えがないのに、目が覚めたときには、普通に眠っていたかのように綺麗に整えられていた。女房に怪しまれないように、桔梗が眠っている間に藤がやったのだろうか。
「つっ……何故、私なのだ」
上流貴族の男として生まれ、望めば金も権力も恣にできるというのに。何故、唯一求めたのが実の兄であるのか。弟の異常性に恐怖すると同時に、流されて関係を持ってしまった自分にも嫌気がさす。
「もう考えるのはよそう」
考えるほど、頭がおかしくなっていきそうで、桔梗は思考を振り払って立ち上がった。
同日、藤は昭陽舎に参上した。
眼前に座すのは、上等の衣服に身を包んだ齢たった十三の童子――今上帝の一の宮、東宮である。昔、藤が童殿上していたときから、東宮は彼をお気に入りの遊び相手とするようになった。右大臣を外祖父にもつ東宮は、きっと近いうちに皇位を継承するだろう。内大臣家の子息である藤と仲良くすることを、右大臣が快く思うはずもないのだが。
「ほれ、面を上げよ。もっと近うよれ。お前に見てほしいものがある」
顔を上げると、切れ長の瞳にまっすぐ捉えられる。どことなく兄に似ているように思うのは、昨日あんなことがあったからだろう。
「失礼いたします。此は、絵にござりますか?此はまた、見事な……」
「うむ、私が描いた」
「東宮様が?なんと、これほどまでお描きになるとは」
「世辞はいらぬ。何度も筆を取り落としかけたのだぞ」
「いえ、世辞などではありませぬ。真に心に染みる絵とはこういうことでござりますよ」
これは紛れもなく本音だった。本当に、子供が描いたとは思えぬほど情緒あふれる絵だったのだ。
「ふ、そなたも言うようになったではないか。私に遊ばれて泣いていた童と同じ奴だとは思えぬ」
「……そ、その折は大変失礼いたしました。どうか、お忘れください」
年下の東宮に子犬をけしかけられて、泣きながら逃げ惑ったのは、我ながら恥ずかしい思い出だ。
「忘れぬ、私が帝になってもな。さ、絵はもう終いだ。そこな女房、片付けておけ。庭に出るぞ」
「庭ですか」
「何を呆けておる。行くぞ!」
ぐいぐいと袖を引かれ、なんという子供らしいなさりようかと内心呆れていると、額を檜扇で叩かれた。
「二つしか違わぬのに、子供を見るような目で見るでないわ」
「そのようなことは――東宮様?そのままお降りになるのはおやめくださりませ!誰か、履き物を!」
走り出た東宮を慌てて追いかけると、裸足のまま庭に降りようとしたところを女房たちに窘(たしな)められていた。これでは母君であられる中宮様も頭の痛いことだろう。
「土は軟らかいのだから裸足でも良いであろう。私は待つのは嫌いだ」
むくれる東宮にやっと追いついた藤は、その横顔を眺めながら口を開いた。
「我慢なさりませ。御身はいつか帝におなりあそばす御方」
「わかっておる。だからこそ、地にこの手で触れてみたいのだ。昔の帝は、その足で国中を駈け回られたというからな」
「東宮様、唐国の書物だけでなく、日の本の成り立ちについてもお読みに?」
「ああ、そなたがあまりに兄のことばかり申す故、私も学を身につけねばと思うて」
言われてみればたしかに、昔は尊敬する兄の話をどこにいってもしていた気がする。今思うと気恥ずかしいほどに。
「よう覚えておられる」
「忘れぬといっただろう。そなたとしたことは全て覚えておるよ」
歩き出した東宮のみずらが、風でふわふわ揺れる。昔、兄から見た自分はこのように小さかったのだろうか。そう思うと、ぎゅっと胸が締め付けられる。
「かように風があっては砂が邪魔だな。だが遣水の音は心地よい。そう思わぬか」
「ええ」
返事をしながらも、やはり兄のことを考えてしまう。上の空な藤の体に、どんと衝撃が加わった。我に返った藤が見たのは、自分に抱きつく東宮のつむじだった。
「何を考えている?私のことでなかったら許さぬぞ」
「はっ、申し訳ありません」
「ふん、そろそろ戻るぞ」
「はい……あの、このままですと戻れませぬ」
抱きつかれたままでは動けないので、どうしようかと思った途端、東宮が藤の胸に埋めていた顔を上げた。
「そなた、いつもと香りが違う。香を変えたのか?そなたらしくない、深みのある香りだな。内大臣のつくらせたものか?それならば内大臣はそなたのことをわかっておらぬ、そなたには爽やかな薫りが似合うというのに」
「香……ですか?特に変えてはおりませぬが」
すん、と袖を嗅ぐと、覚えのある香りがした。これは、兄の邸のものだ。兄の女房が用意してくれた袍に焚きしめられていた。
「昨日、兄の邸に泊まりました故、そちらの薫りかと。お気に召しませんか」
「いつもの方が良い」
「では、変えて参ります故、お離しくださりませ」
そっと東宮の腕を外し、歩き出す。兄の薫りを消してしまうのは名残惜しいが、仕方あるまい。
「待て。まだ話は終わっておらぬ」
藤が振り返るのと、東宮が手を伸ばしたのは同時のことだった。両手で頬を挟み込まれ、藤は困惑した。
「藤、そなたは私に仕える臣下であろう?ならばそなたは私のものだ。忘れるでないぞ」
その瞬間、互いの瞳に映るのは互いの姿だけだった。そして、刹那の束縛から先に逃げたのは、藤の方だった。東宮の手から逃れ、その場で跪く。
「はい、東宮様。この世の全ては帝のもの。いつか全てが貴方様のものになります」
「っ……あぁ、そうだ。引きとめて、すまなんだ。戻ろう」
「はい」
くるりと踵を返した東宮の顔が歪んでいたことに、藤は気づかなかった。
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