そうして、悪夢のような一夜が明けた。

「お目覚めですか、桔梗様」

 朝の光が寝足りない体に染みる。身を起こすと、中将が側に控えていた。

「中将、今は何刻か……藤は?」

「もうお帰りになりました。また、こちらをお渡しするように、と」

 中将が差し出したのは一片の畳紙たとうがみだった。不審に思って開くと、そこに記されていたのは一首の歌だった。その意味することは――。

「――っ!」

 紙を持つ手が震える。これはまるで後朝きぬぎぬの歌のようではないか。破り捨てたくなったが、中将の手前、変に思われることをするわけにはいかないので、怒りに震える指で紙を畳んだ。

「ご気分が優れないとお伺いしておりましたが、やはりお疲れのご様子でござりますね」

「何?藤がそう言ったのか」

「はい、『酒をたくさんお勧めしてしまった、私に付き合わせてご無理をさせてしまったから、無理にお起こしするな』と。今日は内大臣様の元へお出でになると仰っておられましたが、どうなさいますか?」

 藤が、言葉のはじめは良いとして、真ん中に含みをもたせているのにも腹が立った。勿論、中将が気づかぬような。

「……父上の邸へは参上する。お前は左様なことを考えなくて良い」

「っ……申し訳ありませぬ。差し出がましいことを申しました。では、湯を持って参ります」

 つい、中将に八つ当たりしてしまったことに気がついたのは、彼女が下がった後だった。

 とにかくしっかり起きようと体を伸ばすと、節々が変に痛んだ。その痛みに、昨夜のことが夢ではないのだと思い知らされる。そういえば、単を着た覚えがないのに、目が覚めたときには、普通に眠っていたかのように綺麗に整えられていた。女房に怪しまれないように、桔梗が眠っている間に藤がやったのだろうか。

「つっ……何故、私なのだ」

 上流貴族の男として生まれ、望めば金も権力も恣にできるというのに。何故、唯一求めたのが実の兄であるのか。弟の異常性に恐怖すると同時に、流されて関係を持ってしまった自分にも嫌気がさす。

「もう考えるのはよそう」

 考えるほど、頭がおかしくなっていきそうで、桔梗は思考を振り払って立ち上がった。



 同日、藤は昭陽舎に参上した。

 眼前に座すのは、上等の衣服に身を包んだ齢たった十三の童子――今上帝の一の宮、東宮である。昔、藤が童殿上していたときから、東宮は彼をお気に入りの遊び相手とするようになった。右大臣を外祖父にもつ東宮は、きっと近いうちに皇位を継承するだろう。内大臣家の子息である藤と仲良くすることを、右大臣が快く思うはずもないのだが。

「ほれ、面を上げよ。もっと近うよれ。お前に見てほしいものがある」

 顔を上げると、切れ長の瞳にまっすぐ捉えられる。どことなく兄に似ているように思うのは、昨日あんなことがあったからだろう。

「失礼いたします。此は、絵にござりますか?此はまた、見事な……」

「うむ、私が描いた」

「東宮様が?なんと、これほどまでお描きになるとは」

「世辞はいらぬ。何度も筆を取り落としかけたのだぞ」

「いえ、世辞などではありませぬ。真に心に染みる絵とはこういうことでござりますよ」

 これは紛れもなく本音だった。本当に、子供が描いたとは思えぬほど情緒あふれる絵だったのだ。

「ふ、そなたも言うようになったではないか。私に遊ばれて泣いていた童と同じ奴だとは思えぬ」

「……そ、その折は大変失礼いたしました。どうか、お忘れください」

 年下の東宮に子犬をけしかけられて、泣きながら逃げ惑ったのは、我ながら恥ずかしい思い出だ。

「忘れぬ、私が帝になってもな。さ、絵はもう終いだ。そこな女房、片付けておけ。庭に出るぞ」

「庭ですか」

「何を呆けておる。行くぞ!」

 ぐいぐいと袖を引かれ、なんという子供らしいなさりようかと内心呆れていると、額を檜扇で叩かれた。

「二つしか違わぬのに、子供を見るような目で見るでないわ」

「そのようなことは――東宮様?そのままお降りになるのはおやめくださりませ!誰か、履き物を!」

 走り出た東宮を慌てて追いかけると、裸足のまま庭に降りようとしたところを女房たちに窘(たしな)められていた。これでは母君であられる中宮様も頭の痛いことだろう。

「土は軟らかいのだから裸足でも良いであろう。私は待つのは嫌いだ」

 むくれる東宮にやっと追いついた藤は、その横顔を眺めながら口を開いた。

「我慢なさりませ。御身はいつか帝におなりあそばす御方」

「わかっておる。だからこそ、地にこの手で触れてみたいのだ。昔の帝は、その足で国中を駈け回られたというからな」

「東宮様、唐国の書物だけでなく、日の本の成り立ちについてもお読みに?」

「ああ、そなたがあまりに兄のことばかり申す故、私も学を身につけねばと思うて」

 言われてみればたしかに、昔は尊敬する兄の話をどこにいってもしていた気がする。今思うと気恥ずかしいほどに。

「よう覚えておられる」

「忘れぬといっただろう。そなたとしたことは全て覚えておるよ」

 歩き出した東宮のみずらが、風でふわふわ揺れる。昔、兄から見た自分はこのように小さかったのだろうか。そう思うと、ぎゅっと胸が締め付けられる。

「かように風があっては砂が邪魔だな。だが遣水の音は心地よい。そう思わぬか」

「ええ」

 返事をしながらも、やはり兄のことを考えてしまう。上の空な藤の体に、どんと衝撃が加わった。我に返った藤が見たのは、自分に抱きつく東宮のつむじだった。

「何を考えている?私のことでなかったら許さぬぞ」

「はっ、申し訳ありません」

「ふん、そろそろ戻るぞ」

「はい……あの、このままですと戻れませぬ」

 抱きつかれたままでは動けないので、どうしようかと思った途端、東宮が藤の胸に埋めていた顔を上げた。

「そなた、いつもと香りが違う。香を変えたのか?そなたらしくない、深みのある香りだな。内大臣のつくらせたものか?それならば内大臣はそなたのことをわかっておらぬ、そなたには爽やかな薫りが似合うというのに」

「香……ですか?特に変えてはおりませぬが」

 すん、と袖を嗅ぐと、覚えのある香りがした。これは、兄の邸のものだ。兄の女房が用意してくれた袍に焚きしめられていた。

「昨日、兄の邸に泊まりました故、そちらの薫りかと。お気に召しませんか」

「いつもの方が良い」

「では、変えて参ります故、お離しくださりませ」

 そっと東宮の腕を外し、歩き出す。兄の薫りを消してしまうのは名残惜しいが、仕方あるまい。

「待て。まだ話は終わっておらぬ」

 藤が振り返るのと、東宮が手を伸ばしたのは同時のことだった。両手で頬を挟み込まれ、藤は困惑した。

「藤、そなたは私に仕える臣下であろう?ならばそなたは私のものだ。忘れるでないぞ」

 その瞬間、互いの瞳に映るのは互いの姿だけだった。そして、刹那の束縛から先に逃げたのは、藤の方だった。東宮の手から逃れ、その場で跪く。

「はい、東宮様。この世の全ては帝のもの。いつか全てが貴方様のものになります」

「っ……あぁ、そうだ。引きとめて、すまなんだ。戻ろう」

「はい」

 くるりと踵を返した東宮の顔が歪んでいたことに、藤は気づかなかった。

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