母から衝撃の告白を受けてから数週後、桔梗は元服した。その働きぶりから彼は順調に昇進し、三年後には近衛中将 となっていた。十八になった桔梗は、殿上人として帝のお役に立たねばとあくせく働いていた。瑞々しい男盛りの自身に向けられる、さまざまな視線には気づかずに。

 そんなある日のこと、桔梗は宿直中に考えごとをしているうちに、うとうとしてしまったようで、昔の夢をみていた。目が覚めて真っ先に浮かんだのは小さい童が自分に追いすがるいじらしい姿だった。思えば、忙しくて、昨年に元服したはずの弟に近頃あまり会えていない。だからこんな夢を見たのだろう。たまにはこちらから文でも出してみるかと、ほんの軽い気持ちで、桔梗は文の内容を考え始めた。


 同じ頃、当の藤の君――今は少納言の地位にある――は父の邸の一角で寝転がりつつ、その日の昼のことを思い出していた。

 昼間、縁談を持ってきたと父が言ったときに、何か変だと思ったのだ。普通なら年齢的にも、兄の方が先に縁談話を持ちかけられるはずなのに、父は自分にばかり話を持ってくる。今回は特に気合いが入っていて、相手は父の弟である大納言の二番目の姫君で、藤から見ると従姉妹にあたる。

「父上は何をお考えなのか。本来であれば桔梗の兄上に薦めるお話だよな」

 口に出してから、考えが声に出てしまっていたことに気づく。慌てて口を塞ぎ、少し身を起こして周りの様子をうかがったが、女房たちが起きてくる気配はなく、安堵してまた枕へ頭を横たえる。

 ――そういえば、兄上に長らくお会いしていないが、今はどうしていらっしゃるのだろうか。

 考えると、途端に兄が恋しくなった。思い立ったが吉日、文でも出して兄の邸を訪ねようと決め、起き上がる。明日は東宮様の元へ参上しなくても良い日のはずだ。

 そうして、書き物をしているうちに朝が来て、なんと兄の方から文が届いた。嬉しくて、届けてくれた使いの男に褒美をあげようとしたが、女房に止められた。文の内容は、近いうちに挨拶がてら遊びに来ると良い、というものだった。

「ならばちょうど良い、今日行こうではないか。房親はいるか!」

「はい、お呼びですか」

 すぐに姿を現したのは、藤と同じ年頃の青年だ。彼は房親といって、藤の乳母子兼、腹心の家臣だ。

「今日は兄上の邸へ参ろうと思う故、俥を用意しておいてくれ」

「かしこまりました。ですが藤の君、お出かけは内大臣様にご挨拶なさってからですよ」

「わかったわかった」

 父は、勝手に出かけると後からうるさいのだ。昨日の今日で本当は会いたくないが、仕方あるまい。そして、半刻の後に藤は父の元へ参上し、早速縁談の話をされたのだった。

「此れはまこと良縁であるぞ。あちらの姫君は落ち着いた方である故、そなたのような若者でもお支えくださるはずじゃ」

「はぁ、しかし父上、何故末弟の私にお話が?桔梗の兄上はまだご正室をお迎えになっておられぬはず」

「大納言が、是非にと言うてな。そなたのような将来有望な若者の後ろ見となりたいと申しておる。なんじゃ、浮かぬ顔をして。不満でもあるのか?」

「いえ……。兎に角、お話はわかりました。ただ少し考えさせてはくれませぬか?まずは文でも送らねばあちらのお気持ちもはかりかねます故」

「気持ちなどは後からついてくるものだが……まあ、よいだろう」

「では失礼します、父上。私はこのまま桔梗の兄上の元に参ります故、今宵はあちらに」

「左様か、では私も出仕するとしよう。下がって良いぞ」

 藤は、笑顔を貼り付けたまま父の御前から退出した。作り笑いは得意な方なのだ。

 いそいそと房親が用意してくれた俥に乗り込み、父の言葉を反芻して顔をゆがめる。

「……なにが良縁だ、私の気持ちも聞かずに」

 上流貴族に生まれた以上、然るべき妻を娶るのは男の義務だ。そんなことはわかっているし、大納言の二の姫とやらは素晴らしい姫君なのだろう。

 しかし、長年、藤の心に棲みついているのは、たった一人なのだ。いつからこのような想いを抱いているのかはわからない。ただ、この片恋が決して許されざるものであるということだけは、痛いほど理解していた。行き場のない想いは凝り固まったまま、ぐるぐると藤の胎内を巡り続けている。

 こうしてひたすら悶々と考えていると、外から声をかけられた。

「藤の君、兄上様のお邸に着かれましたよ。今使いを行かせましたから、何もなければ、すぐに入れてくださるでしょう」

「わかった」

 房親の言った通り、使いはすぐに兄のところの下男とともに戻ってきた。兄からの言伝ては、『少し邸内が荒れているがそれでも構わないなら』とのことだった。勿論、そんなことは気にしないので、お言葉に甘えて上がらせていただくことにした。

 兄はすぐに出迎えてくれた。優しげな面差しは記憶と寸分も違わない。まだ背丈は追いつけそうにないが、以前よりは目線が近くなったように感じ、藤は密かに嬉しく思った。

 そして、藤が何よりも驚いたのは、兄の優美な容姿だった。兄は幼い頃から、自分と同じく母に似ていて、昔、女房たちが「今ですら、これほどお美しいのですもの、大人になられたらどんなに皆を魅了なさることか」と噂していたのを思い出した。それにしてもこれほどとは――。

 藤が思わず見とれていると、それに気づいていなさそうな兄が、不思議そうな顔で弟を見つめつつ、口を開いた。

「文を出してすぐに来るとは思わなくてな、たいしたもてなしもできず」

「構いませぬ、兄上。突然訪ねた私が悪うございましたから。それより、手土産に酒を持って参りました故、お召し上がりくださりませ」

「それは有り難い、すぐに夕餉を用意させよう。今日は泊まっていくと良い、今宵は二人で飲み明かそうではないか」

「はい、兄上。……お手柔らかに」

 冗談めかして言葉を付け足すと、兄は口の端に微かな笑みを浮かべた。


 それから数刻、昔話に花を咲かせている内に、心地よく酒が回った。兄はあまり酒に強くないのか、段々と動きが鈍くなってきている。そしてついに、あの話題となった。

「……そういえば、お前のところに縁談を持ってきたと父上が……叔父上の二番目の姫君だったか」

「兄上もご存知でしたか。私はまだ早いように思うておるのですけれど」

「父上はお前をお可愛がりになっているからな。二の姫というと、たしか十四におなりか、似合いではないか」

「お言葉ですが、兄上を差し置いて話を進めるなんて、私は父上のお考えを良いとは思いませぬ」

「――……」

 不意に話が途切れた。正直にものを言いすぎたかと思ったが、そういうわけではなさそうだ。兄の手から杯が滑り落ちる。急に酔いが回ったのだろうか、兄はうとうとと船を漕いでいる。仕方ない、今日はもうお開きにして、寝所に運んで差し上げよう。女房を呼んで運ばせても良かったが、なんとなく自分が介抱したい気分だった。

「兄上、かようなところでお休みにならないでください、私の肩につかまって……」

「ん……?」

 体を揺らされて、少し目を覚ました兄だったが、目の焦点が定まっていない。藤は溜息をついて、そのまま帳台へむかった。

 やっとの思いで兄の体を横たえ、衣服をくつろげてやる。自分も適当なところで休もうと手を離すと、何故か袖を引かれた。

「まだ話はできるぞ」

「寝そうになっていた方が何を仰ります。私のことを散々子供扱いなさってきたのに、今度は兄上が子供のようなことを申されるのですか?」

「もう子供扱いはしない。お前は一人前の男だ。昔約束しただろう?」

「……よく覚えておいででしたね」

「当たり前だ。お前との約束は忘れぬよ」

 ――兄上は嘘つきだ。一番大切な約束はおぼえていらっしゃらないのに。

「……そうだ、話の途中だったではないか。父上がお前に縁談を回したのは、おまえが優秀だからだと、そう返したかったのだ」

「兄上の方が優秀であられます!私などよりずっと……」

 それは紛れもない事実だった。学も、音楽も、兄に敵うものなんてないのだ。それなのに兄が父から軽く扱われているのは、何故か。思い当たる理由は一つしかない。

「藤?どうした?」

 伸ばされた手が、頬に触れる。落としていた視線をあげると、帳台に寝かされた兄の、酒に浮かされて涙を孕んだ瞳と目が合う。あまりに無防備な姿に、胸がどきりと騒いだ。

 そして、最悪の思いつきと共に、一生言うつもりのなかったことが口からまろびでた。

「――父上が、兄上を遠ざけられるのは、やはり、父上が、兄上がご自分のお子でないと疑っておいでだからか」

「……な」

 頬に触れたままだった兄の手が、突如強ばった。離れようとしたそれを掴み、兄の枕元に顔を近づける。

「何を……言っておるのだ」

「まさか、ご存知ないとは仰いますまい。三年前、貴方が母上から直接お聞きになったはずです」

 手の震えがこちらまで伝わってくる。言葉を紡ごうとして微かに動く兄の唇を、藤は指先でそっとなぞった。

「あのとき、私は漢学を教えていただいておりました。わからぬところがありました故、兄上に伺おうとして、近くにいたのです」

「っ……!」

「きっと父上は、兄上の本当の父が誰なのかまではご存知ないのでしょう。しかし、もし、私が言いふらしたら?兄上はいったいどうなってしまわれるのか。私にもわかりませぬ」

「お、前……私を脅すのか」

「いいえ」

 藤は、半身を起こした兄の肩を押さえつけ、上に覆い被さった。

「当分は黙っておりますよ。――その見返りを兄上がくださる限りは」

「見返り?」

「何、たいしたことではござりませぬ。お聞き入れくださりますか?」

 藤には、絶対に断られない自信があった。今上の御落胤ともなれば、宮中にどんな騒動が引き起こされるかわからない。兄だけではなく、母にも危害が及ぶかもしれないのだ。それが、兄一人が努力するだけで防げるのだから。

「わかった。私にできることなら、その見返りとやらをしよう。何をすれば良い?」

 その言葉を聞いた途端、藤の全身に歓喜が走った。それと共に罪悪感で胸がいっぱいになりかけたが、無理矢理ねじ伏せた。

「では、まず、私とこれからも会ってくださりませ。この数年、なかなかお目にかかれなくて寂しゅうござりましたから」

「あ、あぁ、勿論だ」

 まずは一つ目のお願いがうまくいった。兄はそんなことでいいのかと気を抜いているだろう。

「では、もう一つだけ」

 本当のお願いは二つ目だ。思い切り息を吸って、そっと耳元で囁いた。

「兄上、私の情人(いろ)になってくださりませ」

「……は?」

 あきれてものも言えないといった様子の兄に、冗談ではないことをわからせなくては、と思い、藤は動いた。

「聞こえませんでしたか?それともお分かりにならぬと?」

「そういうことではない。お前、ふざけるのも大概にせよ。私はお前の兄だぞ?しかも母を同じくした」

「ええ、解っておりまする。ですが、兄上こそ、ご自分の立場を理解しておいでか。貴方は私に見返りをくださると仰ったはずです」

 兄の目が見開かれる。そして、弟の腕から逃れようとかけられた手から力が抜けた。兄とて大人の男なのだから、ぎらぎらと自身を狙う眼光の意味に気づかぬはずがない。

「……物わかりの良いお方で、私は嬉しゅう思いますよ、兄上」

「かようなことをして……どんな報いを受けるやもしれぬというのに。……愚かな弟をもったものだ」

「ええ、この身がどうなっても構いませぬ。ともに地獄へ参りましょう、兄上――」

 完全に抵抗をやめた兄の唇に噛みつこうと、藤は大きく口を開いた。

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