同じ枝で鳴いた鳥
悠々
一
――それは小さな約束だった。
『あにうえ、あにうえはずぅっと私と一緒にいてくださりますか?』
『当たり前ではないか、私達は兄弟なのだから』
兄は、こんな昔のことなど、もう覚えていないだろう。あの麗らかな春の日に、幼い自分の手を引いてくれた、淡い思い出のことも、鬱陶しいほどに舞う、桜の花びらも。
そして、小さな約束のことも。
ただ、瞼の裏に浮かぶのは、貴方との思い出ばかりだった。きっと貴方はそのことすらわかってくださらないだろうが。
後ろで泣いている青年の肩に手を置いて、彼は微笑んだ。お前にはすまないことをした、後は頼むと。
鴨川の水面は、その日もきらきらと輝いていた。
……時は数年前に遡る。
§§§
しんと静まる邸内で、
肩に垂れる長い髪が、彼がまだ元服前の男子であることを示している。彼が今、月を見上げている、この
ふと、桔梗は、昼間の母の言葉を思い出した。
『皆が寝静まってから私のところへおいでなさい』というのが母からの命令だった。そのために、こんなところでそっと息を潜めて、邸内が静かになるのを待っていたのだった。
「皆寝たか。では、そろそろ行くとしよう」
ゆっくりと立ち上がり、広廂(ひろひさし)へ足を踏み入れる。趣味よく誂えられたこの
「母上、桔梗が参りました。起きておいでですか?」
「桔梗、待っておりました。ほれ、もっと近う……」
柔らかな、しかし緊張を孕んだ母の声を不思議に思いながら、桔梗は几帳を押しやって母のすぐ目の前に腰を下ろした。
「……あぁ、よう大きくなったこと。そなたももう元服です。そこで伝えておかねばならぬことがあります。しかし、このことはゆめゆめ誰にも申してはならぬ。無論、この私も誰にも申しませぬ。おわかりか」
普段ははっきりとものを言う母が、ここまで勿体ぶるのは珍しいことなので、桔梗もなんだか緊張してきた。
「わ、わかりました。して、その伝えねばならぬこととは?」
なんとか返事をすると、ふぅ、と母が息を吐き、耳を貸せと手振りで示す。おとなしくそれに従って近づくと、潜めた声で囁かれた。
「そなたの父君は、内大臣の殿ではござりませぬ。そなたは、私が殿の妻として迎えられる前、上の女房であった折に、今上の帝がお手をつけられて生まれた子なのです」
想像もしていなかった突拍子もない話に、桔梗は大声を上げかけたが、袖で口を塞いでなんとか押しとどめた。
「母上、なんという……」
うまく言葉が出てこない。若い頃はその美貌を内裏中が褒めそやしていたという母ならば、そのようなこともあり得るのかもしれないと、桔梗は変に納得してしまった。
「知らぬ方が幸いやもしれぬとも思うたけれど……父を知らずに生きてゆくのは罪深きこと。故にそなたに伝えたのです」
「左様……でござりましたか」
まだまともに言葉を紡げずにいる桔梗の頭を、母の白い手が優しく撫でる。
「ほれ、もうお休みなさい。女房に怪しまれるといけませぬ」
「はい、母上。失礼いたします」
桔梗は母の寝所を出て、そっと自分の閨に入ったが、今宵は眠れそうもなかった。自分が、今上帝の落し胤であるなど――信じられるはずもなかった。すっかり混乱した桔梗の目に、すぐ近くに立っていた人影が入っているはずもなかった……。
翌朝、顔を洗って衣を換えている桔梗に飛びつきそうな勢いで声をかけたのは、すぐ下の弟だった。
「兄上、今日は漢学を教えてくださりませ!」
「あぁ、藤。約束だったな。少し待っていておくれ、すぐ用意をするから」
「はい!お待ち申しております」
子供特有の甲高い声に思わず笑みが溢れる。三つ年下の同腹の弟は藤の君と呼ばれている。藤は母に似てとても愛らしく、幼いながらに頭の回転も速い。父の溺愛ぶりは並大抵ではなく、童殿上をさせて、東宮の覚えもめでたいらしい。きっと弟は元服してすぐに昇進できるだろう。桔梗は、良い弟を持ったこと、その弟に誰よりも慕われていることを幸せに思っていた。
「もう行っても良いか」
身支度を手伝ってくれている女房に声をかけると、仕方ないという顔で頷かれた。
「ご兄弟で仲がよろしいのは結構ですけれども、ご自分のこともしっかりなさってくださりませ」
「わかっておる。……お前はいつも私の母であるかの如き物言いをするのだな」
「桔梗様のご幼少のみぎりより、お仕えいたしております故。勿体のうお言葉ですわ」
「そうであったな、中将。もう筒井筒のようなものだろう。お前の母君……乳母は健勝か?」
中将と呼ばれているこの女房は、桔梗にとって家族以外で最も信頼できる存在だ。彼女は桔梗の乳母の娘で、一緒に姉弟のように育ってきたのだった。
「はい、健やかに過ごしております」
「それならばよかった。では、藤のところへ行ってくる、ついてこなくてよいからな」
「いってらっしゃいませ」
頭を下げる中将を一瞥し、桔梗は上機嫌で歩きはじめた。
やってきた桔梗の顔を見た途端、藤は蕾が開いたかのように笑顔を綻ばせる。全身から向けられる好意というのは心地よいものだ。桔梗は、きちんと姿勢を正した藤の、すぐ隣に腰を下ろした。
「待たせたな。今日はどこからだったか」
「昨日教えていただきましたところを、もう一度読んでみたのですが……此れがわからなくて。昨晩、兄上にお伺いしに参ったのですけれど、お会いできなかったので」
「ああ、ここか。私も昔苦労したところだな。ゆっくり覚えると良い」
「はいっ」
子供らしいが、よく見るとはっとさせられる線が混じるようになってきた藤の手蹟には、いつも驚かされる。だんだんと上達するのを一番間近で見ることができているのは、間違いなく兄の桔梗であろう。いつか、藤の子供ができたら、お前の父上はかようにして学を身につけたのだ、と語り聞かせてやりたいものだ――なんて気の早い想像をしていると、藤に不思議そうな顔で覗き込まれた。
「兄上?どうかされましたか?」
「え?あ、いや……お前の上達の早さに驚いておるのだ。将来が楽しみだな」
「ありがとうござります!」
華やかに微笑むと、藤はいっそう母そっくりになる。母自身は、前に、「藤の顔立ちは父上とよく似ている」と話していた。「父上」とは則ち、私達の祖父に当たる故左大臣のことだが、私達兄弟はお目にかかったことがないのでわからない。
「できました、兄上」
「どれ、見せてみろ。……よくできているな。偉いぞ」
くしゃりと頭を撫でてやると、それまで藤の目尻に浮かんでいた笑みがすっと引き、表情に翳りが見られた。いつもなら喜ぶのに、どうしたのだろうか。
「藤?どうしたのだ、そのような顔をして。」
「あの……私はもう小さな子供ではありませぬ。かようなことは、もうおやめください」
「何を申しておる、お前はまだ童なのだから、これくらい構わんだろう」
「ではいつになれば、私を一人前のおのこと認めてくださりますか?」
「うーん、お前が元服して、共に宮中を歩けるようになったら……であろうか」
桔梗としては、常識的な答えを返したつもりだった。しかし、藤の瞳は真剣にその言葉を受け止めたようだった。そして、刹那、伏せられた目の昏さに桔梗は違和感を覚えた。
「わかりました。では兄上、私がりっぱな男になるまで、お待ちくださいね」
「ん?あぁ、わかった……?」
よくわからないまま二つ返事をしてしまったが、藤は返答に満足したようだった。その瞳に、それまで浮かんでいた底冷えするような不穏な光はもう見られなかった。
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