果てぬ桜に人はちる

aciaクキ

第1話

 こんな噂があった。

 古今東西、春夏秋冬、ありとあらゆるところで見れる『桜』がある、と。その桜はそれはもう形容しがたいほど見事で美しく、見る人全ての目と心を奪う。

 それは条件を満たせれば誰にでも、いつでも如何なる場面でも見られるのだという。

 そんな代物、どんな人間であっても人生で一度はお目にかかりたいと思うはず。それであるにも関わらず、噂程度にしか広まっていない理由は―――条件を誰も知らないから、その一点に行きつく。

 その桜を見た人は皆、


「あの桜を見た!」


とだけ、写真も見せずに言いふらす。


 人々はいつしかその桜を『不可逆桜《ふかぎゃくざくら》』と呼ぶようになった。


◆◇◆◇◆◇


『なあ、霧島が不可逆桜を見たってよ』

『マジ?』

『マジマジ。やっぱ噂通り見た前後は覚えてないと』

『またあいつ嘘ついたんじゃねーの?』

『けどあいつなんか様子おかしいぜ?』


 スポン、スポン、と気の抜けるような音を立てて三人グループのメッセージがノンストップで流れる。『どんな様子?』と文字を打って送信ボタンを押す。


『なんつーか、いつもと何か違うんだよな』

『何か?』

『そ。何が変わったかわかんないけどちょっと変わった気がする、いい意味でな』

『なんだそれ』

『ま、自分の目で確認するこったな』


 と、そこで会話が初めて途切れる。以降も言葉が更新されることはなかった。ふぅ、と小さくため息をつくとスマホの画面を切り替える。

 今流行の、世界中の人が自由に言葉や写真などを投稿できるSNSアプリを開く。ここでは絶え間なく色んな人が様々なことを投稿しており、それに多くの人が反応している。


 今では不可逆桜はここ数週間の検索ワード第1位を独占している。それほどまでに広まっているにも関わらずその正体を誰も知らないのはどう考えてもおかしい。


「あった」


 何となく予想はできていたが、やはり霧島が不可逆桜について投稿していた。その言葉は噂通りに


『あの桜を見た!』


だった。

 しかし投稿しているのはその一言だけで、何人かがコメントしているが、返事しているわけでも、補足コメントがあるわけでもない。

 他のも全く同じ形式で投稿していてそれ以上の情報が得られそうになかった。



 次の日、始業チャイムギリギリに学校についた。駆け足で廊下を走っていると、教室の方から何やら騒がしい音が聞こえてきた。

 教室に入ると、一人を中心にクラスメイトが取り囲んでいる状態だった。


「あれ、何やってんだ?」


 みんなの輪から少し外れたところで立っている笹井悠ささいゆうに話しかけた。


「ああ、みのるか、おはよ。昨日チャットで霧島が不可逆桜見たって言ったろ?その話を聞きたがってああやって皆が話を聞いてるんだ。大したものは聞けてないみたいだけど」


 悠の視線を向けたほうを見て話に耳を傾ける。聞いている限り同じような話を繰り返しているようで、騒いでいたのはそれに対する不平のようだった。


「おいおいまたその話かよ。もっとなんかないのかよ」


「もうすぐチャイムなるじゃん!他の話ないのー?」


「そればっかじゃん!」


「おいおい、落ちついてくれよ。本当にこれしかわからないんだよ。俺にだってわかんねーし!」


 文句ばかり言われている霧島が少し不憫に見えてきた。けど、不可逆桜には謎しかないのだから、実際に見た人が身近にいたら聞きたくもなる。


「何話してたんだ?」


 霧島の話を聞き逃していた俺は話の内容を全く知らなかったから、悠に尋ねた。


「噂と大差ないよ。『めちゃくちゃキレイな桜を見た』『場所は近くの大通りを逸れたT字路』『なんか用事があってそこにいた気がするけどその前後が何も思い出せない』、とまあこんな感じだ」


「へえ…」


 本当に大したことなかったけど、本当に噂通りの現象だった。嘘をついているようにも見えない。それにしてもあそこのT路地に特別なにかがあったのだろうか。


ガラガラ


「座れー」


 教室の扉が開き、担任が入ってきたことで集まりは一瞬で霧散する。


「せんせー!」


 全員が着席した直後、一人の生徒が切り出した。


「席一つ開いてるけど、もしかして転校生来ちゃう?」


 指差す方向に顔を向けると中途半端な場所に確かに席が一つ空いていた。


「いや、そんな予定はないが」


 先生はそれ以上言うことはない、というふうに朝礼を進めた。


 時は巡り放課後、俺は悠と、そしてチャットで話していたもう一人、誠也まさやとT路地に行った。


「来てみたはいいものの」


「……何もないな」


 二人共そう言っているが、本当にこれといって何か特別なものがあるというわけではなかった。

 特徴といえば、人通りの多い道ではないということだけ。時折車が姿を現すだけで、人の姿も時折見せる程度だ。


「ここらへんは住宅街だから人目にはつきやすい……か?」


 いつの間にか離れていってしまった誠也をおいて、とりあえず悠と意見交換することにした。


「けど不可逆桜って他の人に見えないんだろ?」


「その前後は見てるかも」


「どうだろ。聞いてみる?」


「うーん、別にいいかな。暴きたいわけじゃないし」


 本当に、この一瞬の好奇心でしかない。もしかするともう少し経てば気にしなくなるかもしれない。


「もし見てたなら桜も一緒に見てるはずだけど」


「だよな」


「もしも不可逆桜ほどのものを見たなら、ある程度は話題になってここらへんに人だかりができててもおかしくないんだけど」


 確かにその通りだった。これほど話題になっている不可逆桜を見たならネットにも出回っているだろう。それがこんなコンクリートしかない場所であるなら尚更。


「うおっと」


 帰ろうかと思って誠也を呼びに動き出したその瞬間、突然何かが足をかすめて飛んできた。したことのない奇妙なステップを刻んでそれを避ける。


「大丈夫か?」

「ああ」


 悠にあいまいな返事をしながら何かが飛んでいったほうを見ると、小さなスズメが一羽、行く宛もなく地面をチョンチョンと小さく飛び跳ねながら何かを探しているようだった。


「スズメ?」


「なんでこんなところに……」


「知ってるか?スズメとかって、桜の咲く時期になると桜に来るらしいぜ」


 いつの間にか周囲の探索から切り上げていた悠が近づいてきていた。


「桜の咲く時期って……」


 今の季節は高二の秋に差し掛かろうとしているような時期だ。季節で見てもスズメが飛んでくるなんてあまり考えられない。


「この時期にスズメっておかしいだろ」


 同じ考えにたどり着いたのか、誠也が当然の疑問を投げかける。


「だから桜が咲く時期、桜が咲いたあとでも来るじゃん」


「まさか…」


「霧島が見た不可逆桜がそうなんじゃないか?」


 一瞬その考えがよぎった。けど実態のない桜に反応なんてするんだろうか。それともスズメやそういった生き物には実態のないものを感じ取る何かがあるとでも言うのだろうか。

 ちらりとスズメの方に目をやると、探しているものが何もないと悟ったスズメが、ちょうど飛んでいってしまうところだった。


 俺たちは不完全燃焼のまま、スズメが飛んでくるという疑問を抱きながらその日は解散することにした。



 その日の夕方、俺は自分の部屋でパソコンを立ち上げた。もちろん、不可逆桜について調べるためだ。

 これまで不可逆桜の情報と言ったら、『いつでもどこでも誰でも見れる』『見るには条件がある』『美しい』、そんなものだけだった。けど今日実際の現場に行くと、スズメが飛んでくるなんてこともあった。


「え?」


 検索ワードは『不可逆桜 スズメ』

 検索して出てきたのは桜やスズメに関係するものの、俺が見たいものを知れるサイトではなかった。つまり、ヒットするものが一つもなかったのだ。


「なんで」


 可能性としては、たまたまその場に丁度良くスズメが現れた説。不可逆桜を見たという現場でスズメを見た人が俺たちにいなかったという説。

 けど、正直後者に関しては可能性は低いと思える。これだけ話題が上がっていて季節外れなスズメを見たことがある人が全くいないというのは不自然にも程がある。

 とはいえ前者だとしても、この時期にあまり見ないスズメを見た、しかも不可逆桜を見たという場所に現れたというのは、偶然で片付けるのも不自然な話だ。


 しばらくその検索結果の画面から離れずになにかないか探していると、気になるものが目についた。


救木きゅうぼくの会?」


 メインサイト名の横には『〜不可逆桜〜』というサブタイトルまでついていた。なんとも怪しいサイトで、入るのを少し躊躇ってしまう。

 意を決してカーソルを動かしそのサイトに飛ぼうとした瞬間


 バンッ!


 と耳をつんざく大きな音で扉が開いた。心臓が止まるかと思うほどの驚きで、ビクッと肩が上に大きく上がった。


「何してるの?」


「ちょっ、ちょちょ」


 隠すほどのものでもないが、何となく咄嗟にパソコンを閉じてしまった。

 入ってきたのは俺の姉、桃井ななだった。


「入るときはノックぐらいしろよ!いっつも言ってるだろ」


「なにぃ?いかがわしいものでも見てたわけ?」


「み、見てないけど!」


「うわぁ、あやしー」


「う、うるさい!」


 口をニヤけさせて疑るように細めた目で見てくる。控えめとは言えない身体的特徴をしているのに、その性格上大胆な行動をすることが多い。

 今も部屋着で過ごしているのか完全に無防備な姿で部屋に入ろうとしている。こちらとしては目のやり場に困って落ち着かない。

 それに本当に見てないのだからやめてほしい。こういう意地悪なところはなな姉の悪いところだ。


「で、何しに来たの?」


 サイトに入ろうとして阻まれてしまったが、もう少し考える時間をくれたと考えたら一概に悪いとも言い切れないか。


「ご飯よ。早くこないとあんたの分なくなるわよ」

「う、うん……わかった」


 早々に部屋から退出したなな姉を追うようにいそいそと部屋を出る。あのサイトのことは今は忘れよう、とそう思うことにした。



 夕食も食べ終わり食器の片付けもそこそこに、部屋に戻ってパソコンを開く。当然ながらさっき検索した検索結果が並び、画面の真ん中にはさっき入ろうとして止められた『救木の会〜不可逆桜〜』というサイトがあった。


「……」


 このままクリックして入るのは簡単だが、もしこのサイトが危険なものだとしたらあまり気乗りしない。どんな目に遭うのか想像ができないのが恐ろしい。

 ただどういうわけか不可逆桜についての興味が絶えない。きっとこの部屋に入れば一般に噂されていない情報が転がってるかもしれない。

 知りたいけれども怖くて踏み出せない。そんな相反する気持ちが拮抗して動けないでいる。


「不可逆桜……」

「――ッ!」


 不意に聞こえた声に驚いて後ろを振り向くと、先に部屋に戻っていたなな姉がいつの間にか俺の背後に立っていた。


「ちょ…」

「ノックはしたわよ。気づかないあんたが悪いの」


 全然気づかなかった。それほどまでにこれに釘付けになっていたのだろうか。


「な、何しに来たんだよ」

「……救木の会、ねぇ」


 どういう感情で見ているのか、少し声のトーンが下がったような気がした。このサイトのことで思うことがあるかのような、そんな雰囲気を漂わせていた。


「知ってるの?」

「ちょっとね。友達がそのサイトを読んでたんだけど、ちょっとのめり込みすぎててさ……」


 のめり込みすぎて、怖かったのだろうか。中毒性のあサイトなのか、それとももっと別の要因があるのか。


「だからどうってわけじゃないんだけど、あんたにはあの子みたいになってほしくないの。やっぱり弟だし、心配に思うじゃん」


 時折見せるその優しさを見ると、やっぱり姉なんだと感じさせられる。


「友達がどうかなったの?」


 あの子みたいになってほしくない。それは紛れもなくなな姉の友達が悪い方に変わってしまったということだろう。

 それを知れば、ここに入るか入らないか決められるかもしれない。


「……あの子は、このサイトに入ってからちょっとずつおかしくなっていったの。最初は噂に没頭してるだけだったんだけど、ある日突然桜を見たって言い出して……そのあと数日後には部屋から出なくなったんだって」


 どこか悲哀を感じさせるような、そんな掴みどころのない表情はあまり見たことがない。

 そういうときはいつも、気持ちが整理できていないときだけなのだ。


「だから……だから、実にはそうなってほしくない」


 そんな言い方は卑怯だ。いつもは、あんたあんたって言ってるのに、こういうときだけ名前で呼ぶなんて――


「断れないじゃんか」


 二人共じっと黙って、何とも言いようのない空気が淡々と広がる。

 なな姉にそんな話を聞かされた。このサイトにまつわる少し怖い話を。だから、俺はこのサイトに入るのを止めて、パソコンをパタンと閉じた。


「わかってるよ」


 小さく呟くなな姉の顔は悲しそうで、少し諦めも感じられた。


「わかってる。不可逆桜のことは諦めきれないんでしょ?」


 全部見透かされていたようだ。サイトに入ることはやめても、不可逆桜については知りたいことばかり。

 この目で見るまでは諦めるつもりはない。


「うん」


「……わかった。助けになるか分かんないけど、私も協力してあげる」


「え?」


「けど、危ないって判断したら無理矢理にでも止めるから」


 そう言ってくれるだけでもありがたい。まして協力してくれるなんて願ってもないことだ。

 

「ありがとう!」


 俺は久々に渾身の笑顔を浮かべ、そう感謝を述べた。


「でさ、早速なんだけど」


 いつもの調子に戻ったなな姉が優美な笑みを浮かべ切り出した。


「明後日土曜日でしょ?その日おじいちゃん家行くってお母さん言ってたんだけど、なにかわかるんじゃない?」


「おじいちゃん家……!」


 おじいちゃんの家は木造建築の豪邸だ。おじいちゃんはそこの地域を束ねる長を務めている。

 ここ数十年おじいちゃんがずっと代表を務めているが、不思議なことにそれに反発する人は誰ひとりとしていない。それはおじいちゃんが持つカリスマ性ゆえなのだろうか。


「おじいちゃん家って家でかいじゃん?それに倉庫とかあるじゃんか。倉庫って今までちょっと不気味で行ったことがなかったけど、不可逆桜についてなにかあるんじゃない?」


「そうかも……探してみる価値はあるかな」


「私も手伝ってあげる」


「ありがと」


「けどおじいちゃんには説明しないと」


「わかってる」


「今おじいちゃん寝込んでるからあんまり長くは話してもらえないかもしれないけど」


 流石に身体にがたが来たのか、いつからかおじいちゃんは今ベッドに寝たっきりになっている。おばあちゃんは少し前にいなくなってしまったから、おじいちゃんが雇った使用人が基本生活の手助けをしているらしい。

 ここ数年間おじいちゃん家に行っていないから、小耳に挟む程度しかあっちのことがわからない。けどおじいちゃんが寝たきりになってから、行かないといけないと、という話は前々から出ていた。それが明後日になったのだろう。


 なな姉が言っていた倉庫、そこには何百年も前からあると言われている本や物品が無数にある。一度だけ見たことがあるけど、ちゃんと中を探索したことは一度もない。

 けどそれだけの情報が眠っているなら不可逆桜についてなにかわかるかもしれない。

 最近噂を聞き始めたからもしかしたらここ数年で生まれたものなのかもしれないが、なんとなく昔からあるような気がしてならない。


 次の日はずっと明日のことばかり考えていて、悠や誠也か話しかけていたが、微妙な返事しかしていない気がした。



「どうぞいらっしゃいました。是非、お寛ぎくださいませ」


 完成されているような綺麗なお辞儀をした使用人――竪山かたやまさんに出迎えられて、おじいちゃん家での生活が始まった。

 気圧されるほどの圧迫感を感じながら開かれた玄関に吸い込まれるようにして家族四人全員が入っていった。


「お父さん、帰ったよ」


「ん、ああさきか。よく来たな」


 案内された部屋に入ると、目眩が起こりそうなほど広い空間が広がっていた。その広い部屋の真ん中に、一人の男性――おじいちゃんが様々な機械に囲まれてベッドに横たわっていた。

 ベッドに横たえるおじいちゃんの姿は想像よりも遥かに酷く、声も出せず啞然としてしまった。

 身体の状態は悪そうに見えず、顔色もよく筋肉も適度についているようで、寝たきりになっている御老人の姿とは到底似ても似つかない。


「そこに立ってないで座ってくつろいだらどうだ」


 太さを問わず多種多様な線に繋がれたおじいちゃんは身体のどの部分も少しも動かせずにいた。辛うじて顔、目以外は動かすことは可能のようだ。

 お父さんもお母さんもこの状態は想像していなかったようで、開いた口が塞がっていない。


「ふむ、堅山よ」


「はい」


「椅子を用意しろ。なぜそこにない」


「申し訳ございません。只今ご用意いたします」


 俺たちに一礼したあと、音も立てず部屋から出ていき、一分も満たない時間で椅子を四つ持ってきた。そして素早い動作で椅子を用意する。その動きはまさに、できる使用人そのものだった。


「ねえお父さん、一つ聞いてもいい?」


 椅子に座ってなんとも言えない空気が漂っていた中口を開いたのは咲――お母さんだった。


「なんだ?」


「それ、目見えてるの?」


 終始目を閉じている状態でいるおじいちゃんには何も見えてないはずだ。けど椅子を用意する指示をしたりとまるで見えてるかのように話していた。


「肉体からは見えておらんさ。けど、画面越しなら見える」


「画面越し?」


「部屋を見渡してみなさい」


 言われたとおり部屋中に視線を送ると、かすかにキラリと光る何かが見えた気がした。


「あれ?」


「見つけたか。あれはカメラだ。そして今の私の目の代わりでもある」


「目の代わり!?」


「この部屋だけだが、このカメラのおかげで何も見えないというのは避けられている」


 確かにこの部屋のあらゆるところにカメラが設置されていた。言われなければ気が付かないレベルに同化していた。


 それからは、身の回りの話、世間話などで多少の盛り上がりを見せた。話す内容が少しずつ消化されていき、会話が途切れたことで客室に案内される流れになった。

 部屋に入り少し荷物を整理すると出かけようかという話になった。けど俺となな姉は疲れたという体で外へ行くのを断った。もちろん疲れたわけではない。


「いってらっしゃい」


 お母さんとお父さんを出迎えたその足でさっき出たばかりの部屋に足を運ぶ。襖をスライドさせ広い部屋へと足を踏みいれる。

 さっきは感じられなかった重苦しい雰囲気が漂い、息苦しくなるような気がした。いつもは笑っているなな姉も、真剣な面持ちで横を歩いている。


「来ることはわかっていたよ二人共。何が聞きたいんだ?」


 おじいちゃんの真横に立ったときそう言ってきた。周りには護衛も使用人も誰もおらず、静寂な部屋の中に本当にたった三人だけしかいない状態だった。


「この家の外にある倉庫、あそこで探したいものがあるんだけど……入っていい?」


 失敗が許されない試合のときのような緊張感に、軽く汗が垂れてくるのを感じる。


「好きに使っていい。何を探すんだ」


「……不可逆桜について」


「――!」


 初めておじいちゃんの表情がピクリと動いたような気がした。しかしそれは一瞬の出来事で、すぐ真顔になるとじっと黙ってしまった。


「……不可逆桜、懐かしい名だ」


「懐かしい?」


 知っている可能性は考えてはいたが、懐かしいなんて言葉が出るのは想定していなかった。それはつまり、おじいちゃんが懐かしいと思う年代から不可逆桜は存在していたということ。

 俺が何を言えばいいか思いつかず黙っていると、なな姉がおずおずと口を開いた。


「おじいちゃんは、不可逆桜についてなにか知ってるの?」


「不可逆桜、昔はそのような名では出回っていなかった。私から少し話してあげよう」


 そう言うと、おじいちゃんは昔のことを思い出すように話しだした。


◇◆◇◆


 今、不可逆桜と呼ばれているそれは、私が若い頃は『明来みょうらいの木』と呼ばれていた。他にもいくつか別の呼称があったはずだが……すまない、今は思い出せない。

 明来の木、その名の由来は『未来を明るく照らす木』という意味の造語だ。どうしてその名ができたのか理由は知らないが、おそらくその木を見て未来が明るくなった人がいたからだろうな。

 木、と言っているがこれは桜のことを表している。実際私も何度も見たことがある。

 明来の木はそれはたいそう美しいもので、生きてきた人生で一番感動したものだった。残念ながら、どうやって見たのかは全く覚えていないが。

 だが、その桜を見てからは私の人生は一気に華やかになった。人がいたであろう形跡があるのに誰もいない、といった事件は幾度かはあったものの、気がつけば私はこの地域の代表になっていた。

 明来の木が私の人生の転換点だったのやもしれん。

 そういった点できっと、未来を明るく照らす木、という意味で言葉が造られたのだろうな。

 

 不可逆桜、その名が出回ったのはいつ頃だったか。私の知らないうちに広がっていた。ただ、数年前というのは確かだ。明来の木という名は廃れ、その名が広まった頃には誰もこの名を呼ばなくなった。

 おそらく不可逆桜というのは遠くの地域での言われ方だと思われる。 この地域に住んでいるあいつらが遠くの知り合いやらから聞いてそれが浸透したと考えている。残念ながら発祥はわからない。


 私はあの倉庫で明来の木、もとい不可逆桜が記述されている書物は探そうとは思わなかった。呼び名なんて地域それぞれで気にすることもなし、そこまで興味があるわけでもなかった。

 どういう条件で見ることが可能なのか、その興味は多少あったものの、いつかは見れるだろうと思い行動してこなかった。

 しかし、そうこうしているうちにこんな身体になって、自由に動くこともできんくなった。今ではもう、あの倉庫から書物を探すことなどできんだろう。

 

 私はこの人生で何度その桜を見ただろうか。それもニ回や三回じゃなく、十数回かそれ以上は見ている。素晴らしく美しいものもあれば、花びらすら咲いていない蕾だけの木のときもあった。

 その原因はなんもわからん。だが知りたいともそこまで思わん。思ってしえば、そこから抜け出せなくなるような気がしてな。


 お前たちが不可逆桜の名を口にしたとき少しばかり驚いた。この現象は、私達の世代だけではなく、お前たちのような若い世代でも広まっていたのかと思って。

 それと同時に怖くもあった。


 綺麗なものには棘がある。この言葉を一度は聞いたことがあるやもしれん。

 私はあの桜を長年見てきた中で、唯一記憶に残っている事がある。これはきっと、何度も見てきた私だからこそ残っているものではないだろうか。

 私が記憶に残っているのは、という感情。しかしそれに反し、という気持ちも存在している。


 相反するその二つの感情が今せめぎ合っている。なぜそう思うのかわからない。だが何となく、という感情を優先しなければいけないような気がしている。

 これを聞いて尚、お前たちは不可逆桜の真実に迫りたいか?その答えを聞かせてくれ。


◆◇◆◇


 ここまでおじいちゃんの話をじっと聞いて、答えを聞かせてほしいという言葉に返事をできないでいる。

 ちらりとなな姉を盗み見ると、口が半開き状態で信じられないと言わんばかりのおり、言葉がでて来ないようだった。

 おじいちゃんはじっと天井を瞼越しに見つめたまま、こちらの答えを待っているようだった。

 

 二度と見てはいけない桜

 見なければいけない桜


 何度もあの桜を見たおじいちゃんだからこそその二つの感情に悩むことができる。

 しかし一度や二度見た程度なら、感情にとらわれる。もし不可逆桜を見たとして、その感情に囚われて、自分を見失ったりしないだろうか。

 それだけの自分を持つことができるか。正直今の俺にそれだけの自信はあるか。答えは否だ。何が起こるかわからない、本当に自分が自分でいられるのか、自身がない。


「……俺は」


 気がつけば俺は口を開いていた。なな姉が驚いたようにこちらを見ているのを感じた。俺の答えはもう決まっている。


「俺は―――知るよ、おじいちゃん」


 俺はたとえ不可逆桜を見ても自分が自分でいられる自身はあまりない。もしかしたら感情にとらわれる可能性だってある。

 不可逆桜なんてただの噂に過ぎない。けど、実際に見た人が身近にいる。それに、なんとなく自分にも無関係じゃないことのような気がする。


「実、あんた……―――わかった、私も知る。その覚悟が、今できた」


 驚いたように見ていたなな姉の目が、真っ直ぐおじいちゃんを見ていた。普段は見せない覚悟を決めた目で。


「……わかった、自由に倉庫は使っていい。片付けることもする必要はない。もし真実を見つけたとしても、私に教えるようなこともしなくていい」


 ただ、とおじいちゃんは変わらない口調で付け足した。


「――無事でなさい」


 今までで一番やさしい声色だったような気がした。俺たちはその言葉に、当然二つ返事で答えた。

 俺たちは結局、最後の最後までおじいちゃんと目を合わせることなく、その場を出ていった。


 部屋から出たその足で倉庫まで向かうと、まるで来ることがわかっていたかのように堅山さんが、倉庫の扉を開けて立っていた。


「倉庫の準備はできております。いつでもお入りください。倉庫を出たとき、又は何かご入用のときは私めをお呼びください。それでは」


 それだけを言うと、先程も見た洗礼されたお辞儀をすると、スタスタとその場をあとにしてしまった。


「行こ」


「うん」


 堅山さんの背中が見えなくなる前に、俺達は後ろにあった倉庫に足を踏みいれた。


◆◇◆◇◆◇


 次の日、俺は一冊の本を手にベッドで横になっていた。


 あの日おじいちゃん家の倉庫を調べたとき、この一冊の本だけが木箱に丁寧に綺麗に保存されていた。

 元の持ち主以外誰も手につけてないように見えるほど、汚れが一つも見当たらなかった。


 その場で本を開いてパラパラと無造作にめくってみると、誰かが書いた日記のようだった。最初見たとき少し違和感を感じていた。日記は基本その日の出来事や思い出を忘れないように書くものだ。

 けどこれに書かれているのはある一つの目的を達成するための過程を記したのようにも見えた。

 俺はそのときある日の日記がふと目に止まった。


 俺は体を起こし、そのページを開いた。その日記の内容はこうだった。


『ようやく桜を見つけた。今桜を見ながらこの日記に記している。これで三度目の邂逅だが、記憶が完全に戻っている。

 一度目、二度目に何をしてこの桜を見たのか、そして私の近くには何があるのか、私はそれを全て思い出した。何年も何年も追い求めた可憐なる姿をまたこうして拝めるのは、奇跡と言って差し支えないほどだ。私はまたこの素晴らしい桜を再び見るために、その見る方法をここに書き記そう。

 まず私は人から好かれるような人間ではなかった。相手から恨まれることは当然、自分から相手を恨むこともよくあった。その……………………を……………………だけでこの桜を見ることができる。

 私のすぐそこには…………………が転がっている。罪悪感がないわけではないが、やはりこの『桜を見たい感情』には逆らい難い何かがある。私はこれからも…………し続けるだろう。誰も私を責めることはできない。

 だって、誰の記憶にも残らないのだから。これからも私の好きにさせてもう。私しか知らない、私だけにしかわからない、私だけの快感を得るために』


 ところどころ不自然に文字が潰れていたり汚れていたりして読めなかったりしたが、いくつか引っかかる点を見つけることができた。


 一つ目は『これで三度目の邂逅だが、記憶が完全戻っている』という部分。桜を見ている間はどうやって見たのかその消された――否、封印された記憶を思い出すことができるようだ。

 二つ目は『相手から恨まれることは当然、自分から相手を恨むこともよくあった』という一文。もしこの感情が桜を見る条件の一つなのだとしたら、不可逆桜の秘密に迫る重要な情報だ。

 ただその次の文の殆どが潰れていて読めない。きっとこの潰れている部分が、不可逆桜を見る決定的条件なのだろう。

 潰れているのがこれを書いた人の意思なのか、それとも不可逆桜の記憶が残らない性質によるものなのか、それは定かではない。


 実はもう一つある。それは『…が転がっている』というところだ。その言葉を見た瞬間、妙に身体がざわつくような感覚になった。

 『転がっている』が何を意味しているのか、その想像をしてはいけないようなそんな曖昧でいて、どこか確信めいた何かを頭をよぎっていた。


コンコン


 そんな考えをしていると、扉からノックする音が聞こえてきて、扉の先から一人の人物が顔を出した。


「実、何かわかった?」


「なな姉。いや、あれからなにも」


 さっきの考えも、もうなな姉には言ってあった。なな姉もなな姉であのあと自分で調べてみると言っていた。


「なな姉は?」


「こっちも何も」


「やっぱりあのサイト……」


「あれは……ダメ…」


 それはやっぱりダメらしい。けどこれ以上は何をしても進まないような気がする。なな姉が見てないところでサイトを開こうか悩む。


「明日友達のところに行くの」


「友達って…」


 友達というのはまさかあの、あのサイトを見たという……


「そう、救木の会のサイトを開いたあの友達。しばらく連絡もつかなかったんだけど、明日会っていくれることになったの。その時、話聞いてみる。だから少なくともそれまではあのサイトを開かないで」


 必死そうに訴えるなな姉には、やはりわかったとしか言えなかった。



 次の日、友達との交流もそこそこに家に帰ると、なな姉は家にはいなかった。あの友達の家に行っているのだろう。

 最近よく開いているパソコンを今日もまた開く。


「……は?」


 最初目に留まったのは一際大きく派手に黒色で書かれた文字だった。しかしそれだけならば何も問題はない。最後の開いたサイトを閉じ忘れていただけなのだから。

 

 しかしそれは―――『救木の会』と書かれていなければの話だった。


「き、救木の会……!」


 その下にサブタイトルとして『〜不可逆桜まとめ〜』と書かれていた。背景の色はシンプルな白色で、灰色のテキストで長い文章が書かれていた。


「なんで…」


 なな姉が帰ってくるまでは開かないように気をつけていたし、昨日に開いたりもしていない。

 よく見てみればページを消すバッテンのボタンも見当たらなくなっていた。こんなのはまるで、


「呪われてるみたいな……」


 実際そんなことはあるはずがない。けどどのボタンを押しても、電源ボタンを押しても何の反応も示さない。唯一マウスのホイールを動かすことで画面の移動だけはできた。

 俺は恐る恐る文章に目を通してみた。



ピリリリッ ピリリリッ ピリリリッ ピリリリッ


 どれだけ読み進めていたのだろうか。唐突に鳴り響いたスマホの着信に意識は完全にサイトから外れた。

 どこまで見ていたのか確認してみると、全体の7割は読み終わっていた。


 スマホを手に取り見てみると、見覚えのない電話番号から電話がかかってきていた。いつもなら無視をしているが、気がつけば青色のボタンを押していた。


『……………………………』


「……も、もしもし」


『メール』


「え?」


 電話主はそれだけを伝えるとすぐに通話を切ってしまった。スマホからは淡々と機械音がなっているだけだった。


「メール…」


 女性と思われる声の主はそれだけを言って通話を切った。俺はすぐにスマホの画面をメールに切り替えた。

 するとちょうど同じタイミングで見覚えのないアドレスからメールが一通届いた。俺は震える手を抑え、そのメールを開いた。

 目に飛び込んできたのは簡潔な言葉と、一つの画像URLだった。


『桃井なな 殺害報告』


 殺害報告。その一言を見たとき、息が詰まるような感覚に襲われた。

 目は眩み、身体は段々と熱くなっていき、嘘だと思ってもそう思いきれていない心が、心臓を五月蝿く鳴らしていた。


「―――ッ!?」


 それはあまりにも刺激が強すぎた。今の俺には――否、誰がいつ見ても衝撃が強すぎる。

 画像を反射的に閉じ、その勢いでスマホの電源も落とした。

 無意識に全身は震え、身体を軽く抱くように腕を交差する。

 嘘であって欲しい。嘘であって欲しかった。


 姿


「う、うそだ……うそだ…」


ピロン


 今の気分とは相対的に、明るく陽気な通知音が鳴った。

 ゆっくりとしたモーションでスマホの画面を開く。そこには先程と同じアドレスから一通のメールが届いていた。

 確認してみると、それはどこかの住所のような文字列がだけがあった。マップを開き検索してみるとある一軒家にヒットした。ここに来いというメッセージなのだろうか。


 俺は確かめるためにも荷物をまとめて家から出た。万一に備え、ポケットの中にはスマホとは別にカッターナイフを忍ばせていた。

 

「ここって……」


 スマホのマップを頼りに目的地に行くと、そこはなな姉が行っていたあの友達の家だった。

 玄関を見ると、不自然に、そして不気味に扉が半開きになっていた。扉の隙間から覗く暗闇からはその先が何も見えなかった。


 音を立てないように門を開け、玄関まで足を運ぶ。隙間に体を滑り込ませ中に入る。


「………」


 どこかどんよりとした空気に息が詰まるのを感じた。物音一つせず、人気のない家は今まで感じてきた何よりも気味が悪かった。

 不気味と思うのはきっと空気だけじゃない。一階の部屋の扉全てが閉じられており、強い黄色の警告テープがバッテンに張られているのもその要因の一つに違いない。


 まるで二階に誘われているような印象を持ったまま、俺の足は階段へと運ばれた。


「……っ」


 二階もやはり扉は閉じられており、上から警告テープがバッテンに張られていた。しかし一階と違っていたのは、一つの部屋だけが玄関のとき同様半開きになっていたことだった。

 ポケットからカッターを取り出して万一に備え、ゆっくりとその部屋の扉を開いた。


「―――ッ!!」


 部屋の中の凄惨さに声すら出すことができなかった。思わず顔を歪め、口と鼻を押さえるように手を口に添えた。棚という棚は倒れ、物は大小問わず床に転がっており、まともに歩けるスペースが無い状態だった。

 それだけなら多少驚くがそこまでじゃない。きっと、文字とも判別できない何かが壁全面に書かれているからだろう。

 赤、青、緑、黄、紫と多種多様な色で雑な文字を何重にも重ねて書かれてあった。


 壁の読めない文字を見ながらゆっくり前に進んでいると、べチャリと水のようなものを踏んだ感触があった。

 

「――っ!」


 突然の感触に驚き後ろに後ずさった拍子に、落ちていた物に引っかかって大きな音を立てて尻もちをついてしまった。


「痛ぇ」


 緊張感の欠けた感想をこぼしながら前を向くと、机の上に奇妙な形の物がぽつんと置いてあった。


「――――――」


 


「はっ、はぁ、ははっ、は」


 カーテンの奥から光が淡く差し、その首が黒いシルエットとなって不気味さを一層引き立たせる。瞬間的恐怖に呼吸がうまくいかず、可呼吸のように不自然な息を出していた。

 短時間、その物体を見て、脳裏にメールの写真が浮かび上がった。もしあれと同じなら、今目の前にあるのは―――


「ガハッ…おぇ、グ……あ”あ”あ”」


 そう想像しただけでお腹に溜まっていたモノが逆流し外に吐き出されていく。焼けるような喉の痛みと、ツンとした刺激臭を感じながら止まらない嗚咽に思わず顔を歪める。


「はぁ…はぁ…はぁ…」


 一段落ついても胸に残るこの気持ち悪さは永遠に取れないような気がした。


「おうおう、汚えもんだな」


「――ッ!」


 突然後ろに聞こえた声で反射的に振り返る。そこには大柄な男が一人ナイフを右手で弄びながら立っていた。


「なんだ話せねえのか?聞いてたより情けねえな」


 一人でなにか喋っているようだが、正直男に返事ができるほど余裕があるわけじゃない。


「はぁ、おもんねー。もういいや。さっさとやるか」


 男はそう言うと、床に転がった物を踏んづけながらこちらに近づいてきた。そしてしゃがみこんだと思ったら、髪を乱雑につかみ無理やり視線を合わせられる。


「おい、聞け、桃井実」


 男は元々凶悪な顔を更に悪人面に歪め、ずいと顔を至近距離まで近づける。少し動くだけで眼球同士がぶつかりそうな距離で視線が交錯する。


「オレが―――」


「――――!!」


 その言葉の先を聞いた瞬間、男は俺の目の前ではなく少し後方で転がっていた。俺は、男を突き飛ばしていた。


「お?いいねえ。その目、その恨み、痺れるぜ」


 男はそう言うと、立ち上がって服についたホコリを叩く。その手にはナイフは持っていなかった。


「まあそう怒るなよ。からってよ」


 俺は足を床に擦らせながら男に近づいていく。


「カカッ!いいねぇ!その殺意、良い!殺すか?殺すか?」


「……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」


 俺は無我夢中で右手でナイフを男めがけて力任せに振り下ろした。


「これがエキストラの最後の仕事か!ははッ!………大変満足だ」


 自分や部屋中が赤黒く染まっていくのを感じながら男の最後の言葉を聞いていた。男はそのまま後ろに、粘着感のある水音を立てて倒れた。

 俺の全身の力が抜けたようにその場にべチャリと座り込んだ。


「…………ぇ」


 一度瞬きをしただけだった。

 周りが明るくなったように感じ、顔を上げた。するとそこには、天井まではいかない小さなものであるものの、今まで見てきたものと比べるのもおこがましいほどの、美しい桜が、目の前で満開で咲いていた。


「………不可逆、桜」


 あの日記に書かれていた内容がフラッシュバックする。日記の人物はある一つの感情を相手から抱かれ、自分から相手へにも抱いていた。

 それは―――


「恨み…」


 俺は今恨みを持って男にナイフを突き立てた。そしてもう一つ、明らかになっていなかった条件があった。


「それは………人を殺すこと」


 日記のあの人物も、近くに『――が転がっていた』と言っていた。それはきっと、自分が殺した人間だったのだ。

 そう思うと、悲しみも、恨みも、怒りも桜の前では全ての負の感情がなくなっていくような感じがした。全てが腑に落ち、その美しさに目を奪われ、思わず笑みを浮かべるほどだった。


「なんだ……これ」


 ふと、自分の頭に違和感を感じた。正確には、自分の記憶の中だった。


「そんな……そんなわけ、ない」


 そう。この記憶は認めていはいけない。これを認めてしまっては、自分が自分でなくなってしまうかもしれない。


「それは本物の記憶だよ」


 ふと、真後ろからそんな言葉が聞こえた。目はずっと桜に釘付けになっているが、目の端で後ろからそっと腕を回してくるのを見た。


「それは認めないといけない、実が忘れていた記憶…」


 もう聞くことのできない、そこにいるはずがない人物の声が聞こえた。


「私は実にその記憶を思い出してほしかった。だからここまで準備したんだよ?」


 すぐ耳元で、女性―――なな姉の声が甘く囁いてくる。


「なん……で」


 かろうじて出た言葉がそれだけだった。その言葉が、記憶に対してなのか、なぜ生きているのかに対してなのか、自分でもわかっていなかった。


「なんで、かぁ。これ全部私が準備したの。を用意するのも、のも、私がやったの」


 少しずつなな姉が告白していく。その最中も桜は、爛々と咲き誇っている。


「ねえ、実」


 うんん、と実と呼んだ言葉を否定する。


「実くん。君が思い出した記憶を言ってみて?」


 なな姉はさっきよりも胃もたれしそうな程甘く、脳に響くような声で囁きかけてくる。


「お、俺は………昔、不可逆桜を見ている」


 なな姉の言葉に従うようにぽつりぽつりと言葉を紡いでいた。


「ずっとずっと昔に」


 それほどまで小さい頃に、俺は人を殺めていた。不可逆桜を見たという記憶が残っていなかった程小さなころに、今回のような憎しみを持って。

 だから俺は、ずっと不可逆桜に対していた。噂ごときにおじいちゃんの倉庫を探す程まで。

 しかもその上――――


「俺に………両親は、いない」


 俺に本当の両親はいなかった。俺の両親を殺めた犯人を、俺は殺ったのだ。その時、俺は初めて不可逆桜に出会った。


「俺は、桃井家に引き取られた」


 お母さんの妹にあたる叔母さんに引き取られた。そんなことも覚えていないのはなぜか。それを意味するのは―――


「君のお母さんとお父さんの遺体は存在しない」


 なな姉が言葉を代弁した。それを意味するのはたった一つ。犯人も、恨みを持って俺の家族を殺めたからに他ならない。

 だから両親のことは、俺だけじゃなく、両親を知っていたはずの人物全員が覚えていないのだ。誰かがいた痕跡を残したまま。


「不可逆桜は、その美しさからずっと昔からそれを見たいと依存して多くの人が殺された歴史があるの」


 俺が抱いた一つの疑問に答えるようになな姉はそういった。なぜ、という疑問に。


「その歴史を断ち切るために、不可逆桜という現実に起こる実際の事象を都市伝説として格下げさせた。それからはずっと、ずっと今の時代まで代を重ねながら噂として成り立たせ続けた」


 桃井家はそういう家系よ、となな姉は言葉を続けた。


「それだけじゃない。噂を作り、広め、事実とする。それも桃井家の存在意義。やっぱり謎の多い噂ほど興味をそそられるモノはないのよ」


 桃井家は、そうやって何百年も前から噂を作り続けていたのだ。


「噂として広めている本人が記憶がなくなっちゃったら本末転倒じゃない」


 桃井ななが忘れないことの答え合わせだった。


 蓋をされていた記憶が蘇った。その記憶に俺の思考は止められていた。そして俺は一つの事実に気がついて、静かに戦慄した。

 クラスの一人が不可逆桜を見たと言っていた。クラスの席に不自然な席の空きがあった。―――彼はクラスメイトを一人、憎しみを持ってこの世から消したのだ、あのT路地で。


 他にも、おじいちゃんは自分に仇なす人を何人も消した。だからこそ彼はあの地域の代表に成り上がった。

 それは決して彼自身のカリスマ性でもなんでもない。ただ邪魔な人間を排除した果ての当然の結果だった。


 不可逆桜を見た人間は、ということの証明だった。


「さあ、おやすみ。今寝たら全てを忘れられる。人を殺めてしまったことも、桃井家の秘密も、本当の両親を亡くしていたことも。だから……おやすみ」


 全ての事実に気がついた直後のなな姉の言葉に従うように、俺の瞼は徐々に落ちていった。きっと残る記憶は、『あの桜を見た』というだけ。

 俺の意識は段々と遠のいっていった。





「おやすみ、実」


 私はそう言って実を抱いて立ち上がった。床を見れば、乱雑にぶちまけられた小物ばかりが目に入った。あの凄惨な男の姿も、部屋中を汚していた鮮血も何処にもなかった。


「帰らないと」


 外はもう夜だろう。今の時間は誰も外を出歩いていない。唯一残った友達の遺体はが見つかるのは時間の問題だろうが、匂いもしないのだから多分当分は見つからない。

 彼女はここ数日一歩も外を出歩いていないのだから、誰も彼女を意識してなんかないだろう。


「そういえば、私が開いてたあのサイト、実は見てくれたかな?」


 『救木の会』というサイトは、私の先代が作ったものだ。情報的には間違ってないが、私的にはあまり読んでほしくない代物だ。

 ただあれを読むと、無意識下で不可逆桜を見たいという欲求は高まり、そのために人を殺めるタイミングがあれば理性のタガが外れるようになる。

 つまりあのサイトは、不可逆桜を見る最後のひと押しになってくれる。


「だから消すも消せないのよね……」


 不本意だけど使えるものはやっぱり使ったほうがいい。


「ま、それはそうと、不可逆桜って割といいネーミングよね」


 おじいちゃんは、その名前は別の地域の名称だろうと言っていたが、厳密には違う。私が名付けたのだから――私が名付け、広めた。

 

 正直、明来の木よりは的を射た名前だと思う。実際あの桜を見て、おじいちゃんみたいに人生が一転して良くなった、なんて話もあるから先代はそう名付けたみたいだけど。けどやはり、人を殺めるなんて、まともな人間を捨てているのと同じ。

 人を殺せば、もう二度と普通の人間には戻れない。


「だから不可逆っ……なんてね」


 私が死ぬまではこの名を通す。私が死んで次の人がこの噂を担当したら、どんな名前にするのだろうか。

 あまりにもいいネーミングだから変えないだろうか。


「ふふ、楽しみ」


 私は、玄関に飛んできたスズメ―――先代の成れ果てを一瞥すると、そのまま淡く照らされた夜道を静かに歩いて帰っていった。





ピピピッ ピピピッ ピピピッ ピピピッ


 やけにうるさく聞こえる目覚ましを乱雑に止める。ベッドの上でゴロゴロと、起きるのをためらいながら思い瞼を無理やり開けていく。


「………あれ?」


 昨日の夜のことを何も思い出せない。もし仮に、ベッドの横に誰か女の子が横になっていたとしたら、昨夜を覚えていないのは大変な事案だろう。


「知ってた」


 そんなことも起こるわけもなく、俺はゆっくりと上体を起こした。

 それはそうと、何も覚えていないというのはやはり不安が付きまとう。いつ寝たのか、昨日の夜に何をしたのか、夜ご飯は何を食べたのかすらも覚えていない。

 ただ覚えていることが一つだけあった。


「夢にめっちゃきれいな桜見た。あれは……」


 あれは不可逆桜なのだろうか。けど、夢で見たという噂は聞いたことがない。しかしなんとなくあれが不可逆桜なんじゃないかと思う。

 どこか暗い場所で見た夢を見た。あの場所が何処かわからないが、もしかしたらその場所に行けばなにか不可逆桜についてわかるかもしれない。


「お腹すいた」


 異様に空いたお腹を抑えながらだるい体を前に進める。


「あ」


「あ」


 部屋を出るとばったり、隣の部屋から出てきたなな姉と声がかぶる。


「なな姉おはよ」


「おはよ」


 なな姉はどこか疲れたように気怠げに朝の挨拶を返す。寝不足なのか若干フラフラとした足取りで危なっかしく見える。


「なな姉大丈夫?」


「ん、大丈夫」


 それだけ言うと、そのままリビングに行ってしまった。昨日夜更しでもしたのか、とにかくとても疲れているように見えて少し心配に思いながらも、俺もリビングへと入っていった。


◆◇◆◇◆◇


 学校から帰ると、リビングでテレビを見ながらアイスを食べているなな姉がいた。今日は学校を休んだらしい。


「なな姉、もう大丈夫?」


「ん?ああもう大丈夫。ずっと寝てたから」


 なな姉はそう言うとテレビに視線を戻してしまった。こっちとしては正直もっと別んの話をしたいところだが、正直切り出せる雰囲気ではない。


「あ、そういえば」


 口からアイスを離し、こっちを見る。


「不可逆桜について何かわかったことあった?」


 その話がしたいんでしょ?とでも言いたいような顔をこちらに向けながら聞いてくる。

 正直俺は今、その話をしたかった。けど特にわかったことなんてなかった。無論夢のことは、わかった内に入るはずもない。


「いや、なんもない」


 俺は夢のことは言う必要はないと判断し、そう答えた。


「この前、おじいちゃんの所の倉庫探したけど何も見つからなかったでしょ?」


 そう、なな姉が言っている通りあの倉庫を探してみたが、結局不可逆桜についてわかるような資料は何一つ見つからなかった。

 唯一おじちゃんからの話だけが今の所の最大の手がかりだ。

 それで、となな姉は言葉を続けた。 


「今度、お父さんの方のおばあちゃん家に行くらしいの。だからそこで探してみようかなって。どう?」


 こんなに短いスパンで両方の家に行くこともそうそうないが、確かにチャンスなのは間違いない。

 あの家も正直謎だらけでよくわかっていない。あの家には確か書庫があったはず。資料探しにはうってつけかもしれない。


「いいよ。今度こそ見つかればいいね」

「そうね」


 それだけを言うと、またテレビに顔を戻してしまった。それからはお互いに話すことなく淡々と時間が過ぎていった。


◆◇◆◇◆◇


 アイスを食べ終わった私は自分の部屋に戻っていた。


「まだまだね」


 自分の計画の完遂にはまだ先が長いらしい。

 随分昔は、不可逆桜も噂じゃなかった。噂じゃないから、憎む人を殺害することで見れるということも、皆知っていた。


「だからこそ噂にしたんだけど」


 けど、なるべく早いうちから実にも私達の役目を担ってもらわないといけない。同じ桃井家の一員として。

 だからこそ実の記憶は戻さないといけない。そのために私は───


 それが私の目的

 それが桃井家と実のため


 そのためならば、私は―――


「鬼にでも、悪魔にでも、死神にでも……………にだってなってやるわ」


 私は目的の先にある惨禍を知っている。それでも私は、実に記憶を完全に思い出させる目的を達成するまで、世界中の人に人を――させ続ける。


 実が見つけていた、を、今度は書庫へと隠すべくカバンに詰め込んだ。

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果てぬ桜に人はちる aciaクキ @41-29

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