第3話 大っ嫌いだ

『──あっ、なつくーん? 起きた? まごころ広場に集合!』


 スマホの着信音で叩き起こされる。


 寝ぼけ眼のまま通話ボタンに触れてしまい、ついつい「はい……今行きます……」と返事して電話を切ってしまった。


「ふあぁあ……まだ朝の七時じゃん……」


 大あくび。しぶとく残留する眠気が瞼まぶたを閉じさせようとするものの、電話の主は朝っぱらから陽気な先輩だったので、どうにか布団から這い出る。


 面倒な予感がするなあ……と思いつつ制服に着替え、すぐに家を出た。


 まごころ広場はつい最近も訪れたが、朝七時半の駐車場には後輩マネージャーのママチャリも停まっている。


「おーい、夏梅くーん! ちょっと遅いぞーっ!」


 駐車場で待ち構えていた春瑠先輩にさっそく発見され、手招きされてしまう。


「んっ? どうしたの? 後輩くんはまだオネムですか?」


「春瑠先輩が何か企たくらんでいそうなので警戒してます」


「い、いやぁ? 何も企んでないケドね?」


 春瑠先輩のくりっとした眼球が右往左往している。嘘が下手くそか。


 だいたい、この人の服装がTシャツとハーフパンツの時点で思惑が読めるんだよ。


 背後に回り込んだ春瑠先輩に背中を押され、バスケコートへ誘導される。


「おーっす! とうちゃん、連れてきたよーっ!」


 春瑠先輩が名前を呼ぶと同時に振り返ったのは、制服姿の冬莉だった。


「……夏梅センパイ、おはようございます」


 一方の冬莉は表情一つ変えずに会釈。クールに朝の挨拶をしてくれる。


「……で、これはどういう狙いなんですか?」


 となりに立っていた春瑠先輩を横目に、呆れを含んだ声色で問いかけてみる。


「大学生になって身体からだが鈍ってるからバスケしたいな~と。三人で朝練しようぜ!」


 ……だと思った。よし、帰ろう。


 踵を返した途端に肩を掴つかまれ、先輩にあつなく捕まってしまった。


「遠慮せずにゆっくりしていきたまえ、後輩くうん」


 純白の歯を見せて笑んだ春瑠先輩は念入りに屈伸したり腕や足を伸ばしたりと、怪我しないよう身体をほぐし始める。


「アシスタントの夏梅くん、写真を撮っておいて! 爽やかにバスケしてるところ!」


 そのままスマホを僕に手渡し、意気揚々とコートに入っていった。


 いいだろう。春瑠先輩を魅力的に写す情熱に関しては右に出る者はいないはずだが、雑念が邪魔をしてきた。


 ここだ……! ベストショット!


 バスケしているところを撮れと言われたのに、先輩がヘアゴムで後ろ髪をまとめ、動きやすいポニテにしているシーンを激写してしまう。真夏の太陽よりも眩しいな……。


「夏梅くーん? 変な写真は撮らなくていいからね?」


 シャッター音が響いたので速攻バレる。


 カメラ越しの先輩にじっとりとした眼差しを送られたが……国宝級の一枚をどうやって僕のスマホに移動させようかという煩悩を張り巡らせた。


 不敵に笑む春瑠先輩がドリブルを始め、朝の陽射しが観客代わりのウォーミングアップが幕を開けた。対峙する相手などいないのに、先輩の動きや目線は重心を低く構えた相手がいるかのような錯覚を与えてくる。


 まるで白熱した1on1の対決。僕は違和感を覚えながらも被写体の春瑠先輩をスマホのレンズで追い、静止画として写し取っていく。


「……春瑠センパイのお尻ばかり撮るのはやめてください」


「撮ってないよね!」


 サイドラインの外に並び立つ冬莉がイジってきた。


 僕は大声で潔白を主張したが、冬莉も口元を押さえながら慎ましく笑っている。


「……春瑠センパイとの1on1をやらないんですか?」


「昨日のシュート練で筋肉痛だ。それでなくとも運動不足でまともに動ける気がしない」


 我ながら、情けないことを言う。


「それに、今の春瑠先輩はめちゃくちゃ楽しそうだから……邪魔したくない」


 縦横無尽に駆けながらボールを操る先輩の滴る汗と爽快な笑顔。


 シャッターを切る手が止まる。見惚みとれてしまっていたからだ。今の先輩は僕なんかが気軽に声をかけられないくらい、自らの世界に入り込んでいる。


 おかしい。言葉では言い表せない不自然な感覚が蔓延はびこるも、その正体が掴めない。


 今、あなたは誰とバスケを楽しんでいるのだろうか。


 その恋するような眼差しの先には、何が見えているのだろうか。


 春瑠先輩の瞳に映る景色には──


「……んぱい……せんぱい……夏梅センパイ!」


 となりにいた冬莉に呼びかけられていたらしい。


「……もしかして、春瑠センパイに見惚れてたんですか?」


「可愛すぎて見惚れてたな……いでっ」


 容赦のない後輩に脇腹を肘で軽く小突かれる。


「……夏梅センパイは本当に春瑠センパイが大好きなんですね」


「告白する勇気もないくせに……諦めだけは悪いからな」


「……センパイらしいです。大好きになってしまったら、簡単に諦められないですよ」


 困ったような微笑みを垣間見せる冬莉に、親近感が湧くのはなぜだろう。


 僕たちは性格こそ違うけど、どこか似ているのかもしれない。


「……夏梅センパイの選択を責める人なんていません」


 数秒の環境音を会話の潤滑油として挟み、冬莉が呟つぶやく。


「一年前の春瑠センパイは一人にしていい状態じゃなかった。バスケ部をやめて春瑠センパイに寄り添うことを選択したあなたを尊敬します」


「僕は……間違ってなかったかな」


「目の前で春瑠センパイが笑っているのが、その証拠じゃないですか」


 冬莉の視線が春瑠先輩を見据えた。


 レイアップを決めて「やった!」と子供っぽく歓喜する春瑠先輩が今ここにいる。


 この瞬間を激写しようと急いだせいでタップするところを間違えてしまい、春瑠先輩の写真フォルダを開いてしまった。


 プライベートを覗のぞき見るような罪悪感があり、すぐにカメラへ戻そうとしたが……最近の写真が表示されたサムネイルに目を奪われる。


 ほぼ木更津の写真。先輩が帰省した一週間前から始まり、つい最近の江川海岸を撮った風景まで毎日、毎日、毎日──春瑠先輩は思い出の地を巡っては撮っていたのだ。


「ちょっとー! 夏梅くん、ちゃんと撮ってるー?」


 少し遠くにいた春瑠先輩の透き通る声で我に返る。即座に写真フォルダを閉じ、アシスタントくんの撮影業務へ戻った。


「……今の夏梅センパイは……正直言うと好きじゃありません」


「どうして……?」


「……だらだらと中途半端な偽者を演じ続けているので」


 冬莉の言葉が核心をえぐり、心臓に太い杭が打ち込まれた感覚に陥る。


「……白濱夏梅では愛されないから、白濱せいろうの代役に甘んじているんですか?」


 何も答えられない。脳が回答を拒絶し、ただ押し黙るしかなかった。


「……本当に不器用な人ですね、センパイは」


 たぶん、怖がっているんだ。


 春瑠先輩にとって不要な人間になってしまう瞬間を。


 もはや用済みな人間になってしまったことを自覚したくない一心で。


「とっくに立ち直った春瑠センパイには、もう代役なんて必要ないのに……夏梅センパイは哀れなバカです」


 冬莉の声音は穏やか。悲観的な僕を包み込んでくれるように諭す。


「──けれど、覚えておいてください。白濱夏梅という人を必要として、好きでいてくれる物好きな人もどこかにいるってことを」


 心の靄もやが晴れていく……冬莉の言葉は僕にとって暖かい陽射しになっていく。


「あっ! ワタシが見てないところで夏梅くんが冬莉ちゃんを口説いてる!」


「いやいや、口説いてないですから!」


 からかう春瑠先輩に詰め寄られ、僕はたじたじの苦笑いで応対するしかできない。


「……夏梅センパイがささやく愛の言葉は情熱的でした」


「やるじゃん、夏梅くーん。ワタシはお邪魔だったかなぁ?」


 冬莉も悪ノリに加担されると僕が困るんだよ。


「……春瑠センパイ、お疲れさまです。これ使ってください」


「ありがとっ! さすが現役マネージャーっ!」


 ハンドタオルを冬莉が手渡す。さほど暑くはない時間帯とはいえ全力で動き回った先輩は息が荒く、額や首筋には大粒の汗が光っていた。


 用意周到な冬莉は専用ボトルに水やスポーツドリンクまで準備しており、春瑠先輩に渡す姿は現役のマネージャーの貫禄だった。


「ねえねえ、夏梅くんも……やる?」


 濡れた前髪が艶やかな春瑠先輩に謎の誘い文句をもらい、生唾を飲み込む。


「ワタシと1on1♪」


「やりません」


「えーっ? なんでー?」


 1on1の誘いを食い気味で即断ると、春瑠先輩がブーイングをかましてきた。


「まあ、少しくらいならやってもいいですよ?」


 すぐに気が変わる。


 年頃の青少年なので、好きな人の前だとかっこつけたくなるのだ。


 ゴールの逆サイドへ歩み寄った僕はボールを拾い上げ、前傾姿勢で対峙する春瑠先輩と視線を交錯させながらドリブルを開始した。


 経過する時間をも忘れ、一年ぶりに与えられた気まぐれな青春に身を委ねてしまえ。


「……夏梅センパイ、そろそろ撤収しないと遅刻しますよ」


「えっ、もうそんな時間か……!?」


 冬莉の一言を受け、プレイを中断した僕はスマホで時刻を確認する。


 始業まで残り十分少々という状況では、自転車でも遅刻を回避するのは難しい。


「冬莉、もう少し早く教えてくれよー」


「……すみません、お二人が楽しそうにバスケしていたから……声をかけづらくて」


 変なところで気を遣う後輩である。


「……夏梅センパイはどうするんですか?」


「体調不良と筋肉痛で欠席しようかな……」


「……ズル休みは許しません。一緒に連れていきますよ」


 だったら『どうするんですか』なんて聞くなよう。


「仕方がない。バイクで行くか……」


「……ウチの高校、バイク通学禁止ですから」


 校則を順守する後輩の指摘はごもっともだ。


「……制服なのでこのまま登校できるんですけど、自転車では間違いなく遅刻です」


「僕は少しくらい遅刻しても気にしないけど、冬莉は?」


「……皆勤賞なので困りますね。夏梅センパイのせいで途切れるのは残念ですよ」


 なぜか僕のせいにされるが、ここに呼び出したのは春瑠先輩と冬莉なんだよなあ。


「それじゃあ、夏梅くんがバイクで冬莉ちゃんを学校まで送ってあげたら? ワタシは冬莉ちゃんの自転車を借りて実家に戻るから」


「……でも、見つかったら先生に怒られるんじゃ……」


「真面目っ子だなあ、冬莉ちゃんは。バイクを置いても学校にバレない秘密の場所を教えてあげよう」


 校則違反のために渋っていた冬莉だったが、春瑠先輩の後押しのせいか提案を受け入れたように頷うなずく。


「……皆勤賞のために仕方なくセンパイの後ろに乗ってあげましょう」


「遅刻しそうなやつがずいぶんと偉そうだな」


「……誰のせいだと思ってるんですか」


「春瑠先輩と結託した冬莉が朝練に呼び出したせいだろ?」


「……調子に乗った夏梅センパイがデレデレと遊びすぎたからですよ?」


「遊んではいたけどデレデレはしてねーよ」


「……してました」


 突きつけられたスマホ画面には、春瑠先輩とバスケをしている僕の姿が写っていた。


「ちゃっかり撮るなよ。恥ずかしいから消せ」


「……センパイの記録を残すのもマネージャーの仕事なので」


 冬莉のスマホをかすめ取ろうとしたが引っ込められ、断固として抵抗された。


 この後輩、意外と頑固で譲らない一面もあるのが微笑ましい。


「はいはい、仲良し仲良し。兄妹きょうだいげんかはそこまでにしなさい。ホントに遅刻するよ?」


 見かねた春瑠先輩が仲裁に入り、僕たちは「誰が兄妹ですか!」と同時にツッコんだ。


「冬莉ちゃんが面倒を見れば後輩くんは大丈夫だな~と思ったから、ワタシは安心して木更津を離れたのだよ。この調子なら心配ないみたいだねー」


「……私ではダメなんです。夏梅センパイは……救いようのないバカなので」


 冬莉はぽつりと呟き、バツが悪そうに目を伏せた。


「ワタシはちょっと散歩していく。高校生たちはさっさと学校に行きたまえ」


 上機嫌の先輩にそう言われ、高校生組は荷物をまとめてバスケコートから退散。小さく手を振りながら見送ってくれる先輩を残し、ラビットを停めた駐車場へ移動した。


 遠目から眺める春瑠先輩は一人きり──


 散歩する気配などなく、ただ周囲を見渡しながら立ち尽くしているだけだった。


 まるで誰かを待っているかのように。


「……お兄さんのお下がり……まだ乗っていたんですね」


「わざわざ新しいのを買う金がないだけだって」


 セルに触れると小刻みな振動と共にラビットのエンジンがうなる。冬莉もヘルメットを頭に載せ、遠慮がちながらも後部座席をちょこんと跨いだ。


「……そのほうがお兄さんに似ると思ってるから、じゃないんですか? 春瑠センパイの前でいいカッコばかりしようとして……本当にどうしようもない人ですね、あなたは」


 ハンドルを握ったところで背中越しの冬莉が語り掛けてきた。こじらせ男の心中を見透かす後輩は辛辣な言葉を凶器に変え、無防備な背中を滅多刺しにしてくる。


「……苦しそうに偽者を演じているセンパイを見ていると……苛々します」


「見苦しい先輩でごめん。これから先も……苛々させてしまうと思う」


「……告白しなければフラれもしないので……片思いは終わりませんからね。勝ちもしなければ負けもない。ずっと、恋をしていられる」


「僕の心を完全に読むのはやめてくれ」


「……心なんて読まなくても、痛いくらいにわかりますから」


 顕著に声量が下がっていく冬莉の表情は窺えない。不甲斐ない先輩への文句を言い終えると口を噤つぐみ、僕の腰にそっと手を回してきた。


 発進して、という無言の意思表示なのだろう。緩やかに発進したラビットは海浜公園手前の交差点へ合流し、富士見通りの方角へ右折する。


「……センパイが運転するバイクの後ろに一度は乗ってみたかったんです」


「ほう、実際に乗ってみた感想は?」


「……思ったよりも乗り心地はいいですね」


「そりゃどうも」


「……後輩に褒められて嬉うれしいですか? 嬉しいならそう言ってください」


「お前に褒められるのは嫌いじゃないよ。正直、めっちゃ嬉しい」


「……素直なセンパイも気持ち悪いですね」


「お前に褒められてもまったく嬉しくないな」


「……それはそれで腹立ちますね。私が褒めたら嬉しがってください」


「どっちだよ」


 夏の高温とは異なった人肌の熱。走行中に振り落とされないよう、冬莉が腕に力を込めるたびに自分の背中とも密着していく。


「……センパイ!」


 前後に並ぶ二人の熱が混ざり合ったとき、背後から耳元に声を吹きかけてくる冬莉。


「……私は応援なんかしません! さっさと告ってフラれてください!」


 そして、風切り音を上書きするような大声で叫ばれる。


「さっさと告って、もし両思いになったらどうするんだよ!」


「……それはないです! 夏梅センパイのことを好きになってくれる人なんて相当な変わり者だけですから!」


 朝の射光がまばゆい海が横目を流れる木更津港線の左車線上。


 お互いに自分の意思を届けたいから、うるさい走行音に負けじと大声を放ち続ける。


「……もし両思いになってものろは聞いてあげません! 予想通りフラれたら愚痴でもなんでも聞いてあげます! センパイが早く次の恋へ進めるように!」


「今さら知ったけど、冬莉は先輩思いのいい後輩だったんだな!」


「……今さら知ったんですか? 先輩思いのいい後輩だったんですよ!」


 そっと寄り添ってきた冬莉。


 暖かい向かい風を気持ちよさそうに迎え入れ、片思いの終わりを願われた。


 通学路外の抜け道を駆使し、春瑠先輩に教えてもらったひろ家の畑にラビットを置く。


 チャイムが鳴る前に校内へ駆け込んだ僕と冬莉は昇降口で上履きに履き替え、どうにか遅刻は回避できた。


「……夏梅センパイは気づいてましたか?」


 各々の教室へと向かう階段の途中、神妙な面持ちの冬莉が足を止める。


「……一週間前に木更津へ戻ってきてから、ずっと『何かを探している』みたいに町を散策してるみたいなんですよ。春瑠センパイのSNSが地元の風景写真だけで更新され続けるのも初めてのことなので……」


「SNSの更新は気づいてたけど、大学生になったし多少の変化はあるだろ。久しぶりに帰ってきたから懐かしんでいるだけ……とか」


「……もちろん杞憂だったらいいんですが。今日の朝練でも夏梅センパイが来る直前まで海のほうへなぜか歩み寄ったり、誰かが横を通り過ぎたみたいに振り返ったり……」


 一つだけ、思い当たるかすかな可能性があった。


 しかし、現実離れした突飛な話を僕自身も未だに受け入れられていない。


「……さっきの春瑠センパイは、誰の面影とバスケをしていたんでしょうか」


 すぐには答えられない。


 1on1で僕と対峙する直前までの先輩は、僕に撮影を任せて一人でのウォーミングアップをしていた……はずだ。


 しかし、漠然とした違和感を思い返す。彼女の眼差しは常に誰かを追い求め、好奇心に溢あふれた瞳は『ここにはいない誰か』を映しているかのようで。


「……現状維持の片思いを動かす幸運のイルカの話。高校生にもなって信じるのもバカバカしいですが、噂されている不思議な季節の一つに興味深いものがあるんです──」


 冬莉が紡ぐであろう言葉。


 鼓膜が拾いあげるのを待たずして、僕は言葉の先を知っている。


「……いなくなった大切な人が現れる夏です」


 うみの台詞が脳裏を過よぎった。


 自称、幸運のイルカ。生意気な近所の中学生にしか見えないあいつが、冬莉と同じようなことを言い残していたのだ。


 両者の困惑による沈黙は予鈴によって強制的に遮断される。


「……所詮は子供騙しの噂ですし、精神的な不調による幻覚や幻聴が誇張されているだけかもしれません。もし類似した症例が過去にあるなら、センパイのお母さんのほうが詳しいと思いますよ」


 こちらに背を向けた冬莉は、そそくさと二年の教室へ。


 騒がしかった校内が次第に静まり返っていき、僕も三年の教室へ急いだ。


*  *  *


 その日の放課後。


 広瀬家の畑に隠していたラビットに乗り、十分足らずで五階建てのビルに着く。


 二階の窓には『木更津駅前メンタルクリニック』という文字が大きく書かれ、一階には薬局が入っている。


 階段で二階へ。ソファが規則正しく並ぶ待合室には片手で数えられる程度の通院者が座り、診療や会計の順番を静かに待っている。


 カウンターの前で受付の職員に要件を伝えると「白濱先生は屋上で休憩してますね」と笑顔で言われ、いちおう許可を頂き、飾り気のない階段の頂へと上った。


 五階の屋上。


 関係者以外立ち入り禁止の貼り紙を気にも留めずにドアを開けると、フェンスに囲まれたコンクリートの床が足元に敷かれていた。


 たかが五階とはいえ、高い建造物が少ない地方の景観。


 木更津に覆い被かぶさる曇り空と駅周辺の地味な街並みが一望できた。


「ここは……患者さん……立ち入り禁止ですよ……」


 シミ一つない白衣を羽織った女性が気怠そうに忠告を発し、身体の重心をフェンスへ預けている。コーヒーががれたマグカップを指先で摘まみ、まさしく医者の休憩中といった様子で。


「サボってる飲んだくれのヤブ医者を叱りに来た者です」


「サボってない……休憩のお時間なのです……ホワイトな職場……」


 ぼそぼそと答弁する眠そうな瞳の女医。


「それで……ウチの息子が職場に何の用……? 頭を良くする治療なんて……いくら天才の母さんでもできない……」


「母さんがアルコール中毒の治療をするほうが先でしょ」


「うう……反抗期だからか素直じゃない……。そういうところまで……晴太郎に似なくてもいいのに……」


 下手な泣き真似をかます女医は紛れもなくウチの母さん。これでも木更津駅近くの小規模なメンタルクリニックに雇われている精神科医の端くれだ。


「うふふ……愛いとしいママの帰りが待ちきれなくて……会いに来ちゃったの……? それとも……美人なママの白衣姿を拝みに来たとか……? 夏梅はマザコンだ……」


 守りたくない調子に乗ったウザい顔。


「ひょっとして酔っぱらってる? まさか職務中に酒とか飲んでないよな?」


「えっ……? これが素面しらふなんですがー……?」


「それが素面だと恥さらしだから酔っぱらっていてくれよ」


「どっち!?」


 素面でこれとか呆れを通り越す。


「母さんに聞きたいことがあるんだ。今日はそのために来た」


 アイドリングトークもそこそこに、浮ついた空気を真剣な声音で引き締める。


「なんだか……真面目な話っぽい……家に帰ってからじゃダメなのかしら……?」


「母さんは家に帰った瞬間にべろべろだし、そのままソファに寝るでしょ。職場じゃないとまともな話ができそうにないからさ」


「さすが息子……私のこと……よくわかっていらっしゃる……」


 まるで反省の素振りは見られないが、とりあえずは納得したらしい。


かげろうと共に死んだ人の幻が見えることってあるのかな」


 いざ、抽象的な話を切り出す。


 並の感覚なら怪奇現象などの話題を連想しそうなものだが、母さんは眠そうだった瞼を大きめに開き、常に緩んでいた頬も心なしか強張こわばる。


 ふざけた笑顔が一時的に冷たく塗り替わった。


 これは母親ではなく、精神科医・白濱さめとしての顔だと──あらためて知る。


「その話……どこで聞いたの……?」


「近所の中学生とか後輩から聞いた噂話だよ。最近の春瑠先輩の様子が少し気になったというか、噂話と似たような言動があったから……」


 正確にはずいぶん前に誰かから聞いた話だが、はっきりとは覚えていない。


 海果や冬莉の名前を出したところで母さんとは面識がないだろうけど、なんとなく名前を伏せてしまった。もし深刻な事案だったら……と本能が警戒し、出どころを曖昧にしてしまったのかもしれない。


「わざわざ……私に聞くってことは……心霊の類だとは思ってないんでしょ……?」


「精神の不安定が引き起こす精神病みたいな結論かな、と思ってる。母さんなら同じような症例の患者さんを診察したかもしれないと思ったんだ」


 ただの思い過ごしとして早く安堵したい。


 そんな意識が自分の行動をつかさどり、母さんの元へ赴くに至ったのだろう。


「……午前中も一人だけ……似たような現象を話す患者さんが……診察に来た……」


「もしかして、春瑠先輩……?」


「……守秘義務……内緒です……」


 口を噤む母さん。いちおう、医者としての常識はわきまえているらしい。


「死んだ人の幻が見えると訴えた患者さんは……ここ数年でも僅か数人くらい……」


 母さんは深く息を吐き、そう断言する。


「……今日来た患者さんの話を聞いた限りでも……周囲の風景が陽炎のように揺らいだときに大切な人の幻が現れて……すぐに美しく消えるのが特徴……。私たちみたいな専門家でさえ……不確かなことが多いのが現状なの……」


「それは何ていう病名なの?」


「現時点では正式な病名なんてない……全国的にも症例の報告は少ないうえに……精神病との区別も難しい……未知の部分が多すぎる……」


「僕も詳しくないけど、現状維持で行き場を失った想いは『七つの季節』が訪れる条件って……近所の中学生が言ってたんだ」


「ずいぶんと……物知りな中学生ね……」


「ただのオカルト好きなんだよ。僕も素直に信じてはいないけど、その中の一つが〝陽炎の夏〟っていう現象らしい。幸運のイルカの噂話もそこから派生したものだと思う」


 言葉を濁した。僕と春瑠先輩にしか見えない謎の中学生、なんて言っても、精神科の受診を勧められるだけだろう。海果のほうから絡んでくる機会はあっても、あいつは所在不明。僕のほうから接触するすべはないのが今は歯痒かった。


「今日来た患者さんを含めて……数少ない共通点は……恋人や家族、好きな人……心から大切だった相手を……唐突に亡くしていること……。夏梅の言う〝陽炎の夏〟とやらが発生するトリガーの可能性は……否定できない……」


 物静かに耳を傾ける僕へ向けて、腕組みをした母さんは言葉を続けようとしていた。


 そのときの僕は〝陽炎の夏〟というものを甘く捉え、考え方によっては幻想的でドラマチックかもしれないなどと楽観視していたが──


「兆候としては……大切な人との思い入れのある場所を追い求めて……無意識に引き寄せられてしまう。そんな衝動に駆られて身体を突き動かされるのは……ほとんどの患者が体感している……みたい……」


 悪い予感が悪寒となって背筋を駆け巡った。


 あの人の姿が思い当たり、最近の言動を母さんの推測に重ねてしまう。


「……次第に陽炎と現実の区別ができなくなるらしいの……渇望が満たされたと勘違いして……『現れた幻は生きている人間』と本気で思い込み……最後は……」


「そうなると……最後はどうなってしまうんだよ……? 季節の終わりは……母さんの患者はどうなったんだ!?」


 衝動的に声を荒らげてしまった僕に対し、母さんは戸惑いの表情を返すしかない。


 脆い心が焦燥に絡め取られ、想定される結末を激しく欲した。


「好きだった人の幻が見えていたらしい患者は……思い出の場所で……写真を撮っていた……誰も写っていないのに……誰かがいるかのような景色を……」


 ポケットに入れていたスマホが震える。咄嗟に握ったスマホは絶えず揺れていたが、震えているのは僕の腕だった。


 待ち受け画面に表示されていたのは、春瑠先輩がSNSを更新した通知。


 震えが収まらない指先を動かし、先輩のアカウントへ飛んだ。


【あの人がいたような気がしたんだけどな】


 そんな一文に添えられた写真の場所に見覚えがありすぎる。


 鳥居崎海浜公園と中の島を結ぶ赤い歩道橋の上だった。


 写ってない。そこには誰も。


 あなたの初恋相手なんて写ってないんだよ。


 好きな人のSNS更新。いつもなら嬉しいはずなのに、胸が躍るのに、心臓がきりきりと締め付けられるような鈍痛を振り払えない。


 瞬きすらせず立ちすくむしかない息子へ、やがて起こりうる結末を母さんが述べた。


「〝陽炎の夏〟が訪れた患者は、ほとんど……病院に来なくなった……。大切だった人の幻と陽炎が現れる夏、最後は亡き人のあとを追ってしまうのよ……」


 


 そんな結末が──あってたまるか。


 誇張された噂話と心神耗弱による自殺の症例をこじつけた憶測だと思いたいのに、母さんの真摯な表情による胸騒ぎがそれを許してはくれなかった。


 居ても立っても居られない。身体が勝手に反転し、クリニックの階段を駆け下りた僕の前に一人の少女が現れた。


「やあ、少年くん! わたしに会えなくて寂しかったかなぁ?」


 八重歯を晒した陽気なあどけない笑顔の裏に見え隠れする思惑。


 このタイミングで現れた海果は、僕に伝えたいことがあるのだろう。


「急いで行かなくとも、春瑠姉さんはまだ大丈夫ですよ。〝陽炎の夏〟が訪れた兆候が見え隠れしている初期段階なので」


 こいつの軽い口調を鵜呑みにしていいものか迷ったが、ひとずは乱れた呼吸を整える。


「今までお前の姿が見えた人……その中でも〝陽炎の夏〟が訪れた人はどうなった?」


 中学生特有のあどけない笑顔の仮面は、すっと消えた。


「この町にわたしが突如として現れてからは結構経たちますが〝陽炎の夏〟が訪れた人は極端に少ないです。そして……ほとんどがもう会えません」


「……やっぱり、死んだのか」


「ええ、亡くなりました。幻のあとを追うように自死してしまうんです」


「母さんも同じことを言っていたよ。そんな症状を訴える患者は僅かで、そのほとんどが幻のあとを追いかけたって……」


「現状維持で行き場を失った想いが引き金となる七つの季節の中でも〝陽炎の夏〟だけは発生条件に『大切な相手との死別』を含みますからねぇ。もう永遠に動き出すことがない関係を再燃させる唯一の機会が、死別した人の幻と陽炎現象というわけです」


「ふざけんな……死別したやつとの恋が動き出すわけないだろ……!!」


 思わず声を荒らげてしまい、クリニックの前を通る人に奇怪なものを見るような目を浴びせられた。


 他の人には海果が本当に見えていない。


 非現実的だと笑い飛ばせない現状が、僕一人で叫んでいる滑稽な姿に表れていた。


「死んだ人は絶対に生き返りませんが、生きている人が死んだ人の元へ行くのは現実に起こりうることです。単純に、死ねばいいだけの話ですから」


「……バカげてる。それが……春瑠先輩にとっての両思いなわけがない」


「本当にバカげてますよねぇ。でも……わたしにはどうすることもできません」


「お前がいなくなれば……七つの季節は一つも訪れないんじゃないのか」


 我ながら酷いことを口走っている自覚はある。


 しかし、無力感や憤りのぶつけ先が目の前の小柄な少女以外にないのだ。


 何を思ったのか……海果は少しずつ後ろに下がり、車が迫っていた道路の中央に立つ。


 接近する車は減速する素振りさえなく、駆け寄ろうと手を伸ばした僕も間に合わず、海果も避けようとしないまま──


「海果っ……!!」


 車と人間が衝突……しなかった。


 明らかに衝突する進路だった。事故の光景が予想できたのに、車が通り過ぎた走行音と排気ガスの匂いが残るだけ。通行人が騒ぐ気配もなければ、警察にも通報しない。


 当然だ。海果は涼しい顔のまま道路の中央に健在なのだから。


「これまで何度も消えようと試みたんですよ? 結論としては簡単に消えられないし、この町から完全に去ることもできないみたいですねぇ」


 軽快な様子で話す海果だったが、僕と同じように……いや、僕以上に抱え込み続けた無力感を瞳の奥に覗かせる。


「だから、ごめんなさい。邪魔者のわたしは、ひたすら謝ることしかできません」


 こいつは何度も、何度も、強制的に動き出した片思いの結末を見届けてきたのだろう。


 自分自身ではどうしようもないから、せめて最も近くで。


「再燃させる機会ということは、もちろん恋を終わらせる道もあるんですよ。どっちつかずの現状維持が許されないだけで、胸に燻くすぶる未練を断ち切るチャンスでもあるわけです」


 海果の発言には希望をほのめかす含みが持たされていた。


「春瑠姉さんが過去の片思いを完全に吹っ切れば〝陽炎の夏〟は何事もなかったかのように終わりを迎えるでしょうねぇ。まあ、夏梅少年の頑張り次第です」


「兄さんの真似することしかできない僕に何ができるんだよ……」


「わたしの姿が見えるということは、夏梅少年も〝陽炎の夏〟に巻き込まれているでしょうし、キミの片思いも強制的に動き始めているとしたら?」


 戸惑う僕を見かねた海果は疑問符への返事を待たず、続けざまに口を開く。


「キミの片思いが動き出せば、春瑠姉さんの未来は続いていきます。でも、想い人を模した幻の誘いを春瑠姉さんが受け入れたときは、キミの片思いは完全に終わります」


「つまり春瑠先輩に兄さんを忘れさせて、僕のほうに振り向いてもらえれば──」


「春瑠姉さんの片思いは綺麗に終わって、キミの片思いは少しずつでも前に進む。それが現状の最善策であり、誰も不幸にはならない結末です」


 それがハッピーエンドへ導き出された唯一無二の手段。


 もし逆になってしまった場合……春瑠先輩の思い残した片思いが成就し、その最悪な結末によって僕の片思いは永遠に失われてしまう。


 兄を模した幻を後追いした春瑠先輩の死によって、だ。


「まだ、わたしを噓つき美少女中学生だと思ってますか?」


「噓つきはともかく美少女だとは最初から思ってないな」


「はぁ? 噓つき呼ばわりしてもいいですから美少女だとは思ってください」


「冗談も程々にしてくれよタヌキちゃん」


 腹立たしいけれど、海果の舐めた態度が張り詰めた空気を若干緩和させる。


「すべての元凶が言うのも変な感じですが、もう現状維持は許されませんからね」


「ほんとに……ありがた迷惑なやつだ」


「ありがた迷惑な謎の中学生は他人の人生を勝手に翻弄ほんろうするしかできませんけどぉ、幸運のイルカと呼ばれている身として言わせてください」


 海果は大きく息を吸い込み、


「がんばれ、夏梅少年。キミがずっと大好きな女の子に振り向いてもらえるように!」


 恋を応援する後輩のような雰囲気で、せめてもの声援を送ってくれた。


 ここまで舞台が整わないと、僕の恋は凍りついたままだったのだろうか。


 崖っぷちに立たされるまで追い込まれないと、重い足を踏み出せなかったのだろうか。


 ほんとに、ありがた迷惑なんだよ。


*  *  *


 春瑠先輩がSNSを更新したであろう赤い歩道橋が印象的な海浜公園を捜し回る。先ほどから電話には出てくれず、水平線への日没だけが近づいていく。


 ほんのり汗ばむほど暑い。


 恋人の聖地なのに恋人ではない人を捜し続ける。


 地上二十七メートルの歩道橋はタンカーも潜くぐれる日本一の高さ。折り返しのある緩やかな上り勾配のスロープを急ぎ足で進んでいく。


 肩で息をしながらスロープを上り切り、海で囲まれた中の島と地上の海浜公園を繋つなぐために架けられた道を踏み締めた。


 ほんの三十分ほど前に春瑠先輩がアップした写真は、この場所で撮られたもの。


 だから、まだ……あなたがいると思った。


「一年前、この赤い歩道橋で晴太郎先輩と待ち合わせていたんだよ」


 歩み寄った僕に勘付いたであろう春瑠先輩が静かに口を開く。


 こちらに視線は向けない。真下に海が広がる歩道橋の欄干に手を置きながら、火力発電所や製鉄所などの工場群が遠方に並ぶ方角を眺めていた。


 もうじき日が暮れる。


 そうなれば、海辺の工場群にオレンジの光が淡く灯ともるだろう。


「晴太郎先輩が初恋の人でさ、本人も薄々だけど気づいてたと思う。でも……中学生だったワタシは告白すらしなかったの」


「どうして……ですか?」


「だって、もしフラれたら恋が終わっちゃうじゃん。だったら……告白しなければ両思いの可能性は残ったままでいられるし、仲良しな先輩後輩の関係も変わらずに済むから」


 今までの僕と……同じだ。


 自分の中で無理だと決めつけ、告白すらせずに現状維持を惰性で続けようとした。


「そうすれば傷つかずに済む。ワタシは片思いの初々しい距離感を続けられる。お互いにラクだったんだよ、そのほうが」


 兄さんも気づかないふりをしていたのかもしれない。


 春瑠先輩が傷ついてしまい、今の関係がぎこちなくなって壊れてしまうのを危惧して。


「今思えば、中学のころにワタシの初恋は終わっていたんだろうけどね。往生際の悪い未練をずるずると長引かせて、心のどこかではまだ諦めきれなくて、次の恋に進めないまま無駄に時間だけが過ぎていったよねー」


 先輩の優しい声は好きだけど、この瞬間は耳を塞ぎたい。


 自分の人生にそっくりで、痛いから。


「話す機会もどんどん減っちゃったし、晴太郎先輩は東京の美容専門学校に行っちゃってさ。もし美容師になったらワタシの髪を切ってくださいって……卒業式の日にそんな約束をするだけで精いっぱいだったなー」


「僕の前ではやたらお姉さんぶるのに、兄さんの前では相当なヘタレですよね」


「ひどーい。これでも自分の中では勇気を振り絞ったほうなんだからねー?」


 当時を振り返りながら、春瑠先輩は穏やかな笑みを浮かべる。


「去年の夏休み、ワタシから電話をして……美容師になった晴太郎先輩とこの場所で待ち合わせすることになったの。区切りをつけるために告白して、叶わない初恋を終わらせようと思った。新しい青春に進むために、僅かな未練を吹っ切ろうと決意したのに……」


 軽快だった先輩の声が脆く掠れていく。


「あの人は来なかった。いくら待っても」


 かける言葉が、何一つとしてない。


 指先を震わせた先輩の横顔が、あまりにも悲ひ愴そうすぎて。


「あの日は……大雨だったはずです。でも春瑠先輩は……帰ろうとしなかった」


「大雨だろうと待たざるを得なかったよね、こんなメッセージを残されたらさ」


 ポケットからスマホを取り出し、指先で画面に触れた春瑠先輩。


【広瀬、ごめん! 仕事が長引いた! ちょっと遅れるかもしれねーけど絶対に行くから……ちゃんと待ってろよ】


 スピーカーで再生された音声は、聞き覚えのある声音だった。


 そんじゃあ、またあとでな──留守電に残された兄さんの声はそう締め括られていた。


「兄さんは……先輩に告白されるのを悟ってたんですかね……?」


「いきなり恋人の聖地に呼び出されたら、さすがに気づくんじゃないかなー」


 電話やメッセージで伝えず、わざわざ恋人の聖地で待ち合わせる。


 告白される覚悟はしないといけない流れだろう。


「心を落ち着かせるにはちょうどいいと思った。晴太郎先輩が遅れてくる間に、告白の台詞を何度も何度も……何度も胸の中で復唱したけど、彼は一向に現れなかったなー」


 こうして話していると、記憶の映像が鮮明に蘇よみがえってくる。


 去年の七月下旬。


 遠方の工場群がオレンジ色の光を放っていた大雨の夜、赤い歩道橋の上で傘を差しながら待ちぼうけていた春瑠先輩の姿を、はっきりと。


「あのときと同じだね」


「えっ……?」


「今日みたいに晴太郎先輩を待っていたら夏梅くんがやって来たこと。一年前もそうだったじゃん」


 当たり前の口調で「今日みたいに」と言われても、違和感は誤ご魔ま化かせない。


 死んだ人をいくら待っても来るわけがないのに。


「そして、ワタシに教えてくれたよね。ここに向かっていた晴太郎先輩が……バイクの転倒事故で亡くなったことを」


「そうです……その留守電を残したあとに、兄さんは死んだ……」


「わかってる。わかってるから」


「じゃあ、どうしてここに来るんですか! あなたは誰を待ってるんですか!」


 思わず吐き出した大声の言葉尻が震えてしまう。


「僕の兄さんは……あなたの初恋の人はもういないんですよ! いくら待っていても、どこを捜しても……告白なんてできないのに!」


「そうだね。一年前のキミも……はっきりと現実を教えてくれた」


「ここまでキツい口調じゃなかったです……たぶん」


「そうだったかなー? ワタシもめちゃくちゃ動揺してたから曖昧かも」


 忘れられない。


 雨が降りしきる視界も黒く湿った路面の不気味な光沢も、ずぶ濡れになって水分を吸った衣服の重みも。


 現実を受け入れられずに取り乱したあなたの顔と声も、よく覚えている。


「さっき、すれ違った気がしたんだ。すぐ消えちゃったんだけどさ」


 ……違う。それは、本物じゃないから。


「ずっと待ってたら、晴太郎先輩は来てくれるのかな? ワタシの告白を……断りに来てくれるかな……?」


 春瑠先輩の目尻から零れる大粒の涙が一滴ずつ海へ落ちていく。


「ワタシが好きになってしまったせいで……ワタシが初恋の終わりを長引かせてしまったせいで……晴太郎先輩の未来を奪ってしまってごめんなさい……」


 僕は……兄さんが嫌いだ。


「次に会えたら謝りたいな。好きになってごめんって……謝れるかな……?」


 僕の好きな人を悲しませて、恋したことを謝罪させて、一人で苦しませる自分勝手な兄さんが心の底から大嫌いだ。


 そんな兄さんの偽者を演じているこすい自分自身が、最も嫌いだ。


「今日の午前中にね、夏梅くんのお母さんがいる病院を受診してきたの」


「春瑠先輩の言動が気になったので……僕も学校帰りに行きました。やっぱり受診したのは春瑠先輩だったんですね……」


「ワタシの目に映る晴太郎先輩は偽者で、その手を取ったら死んでしまうかもしれないって言われても……どうすればいいのかわかんないなあ……」


 失った人の面影を吹っ切り、それ以上の大切な存在を見つけること。


 それしか解決策がないという現実が重く伸のし掛かり、脆く穴が開いた彼女の心をさらに削り取っていく。


「終わった初恋を忘れさせてよ……後輩くん……」


 咄嗟に身体が動いてしまう。


 泣いている春瑠先輩を背後から抱き締めていたのだ。


「もう帰りましょう。僕の家でゲームしたり映画見たり、どうでもいいことを話しながらご飯食べたりしましょうよ……」


 しかし、告白なんてできやしない。


 春瑠先輩の華奢な背中を弱い腕力で覆い隠す半端な行動しかできず、勢い任せで甘い台詞を囁く勇気が未だに振り絞れない。


 もし断られたらその時点で〝陽炎の夏〟は春瑠先輩をさらってしまいそうな気がして……幼稚な泣き言を漏らすのが精いっぱいの意気地なしの自分が死ぬほど嫌いだ。


 兄さんならどう言うんだろう。


 兄さんなら……どうやって春瑠先輩を笑顔にするんだろう。


 わからないんだよ。


 僕はあいつのまがい物でしかないから。


「……優しいよね、夏梅くんって。ワタシが立ち直るまでそばにいてくれて、今も一人ぼっちにはさせてくれないね」


「一人だった僕は春瑠先輩に救われたので……僕も一人にさせたくなかっただけです」


「そっかそっか……ほんとに可愛い後輩だな、キミは」


 少しだけ笑った春瑠先輩は涙を拭い、


「……帰ろっか!」


 そう言いながらくるりと踵を返したものだから、抱き締めていた僕と正面から向かい合う形になった。


 お互いの顔と顔が、かなり近い。


 どちらかが半歩踏み出せば、唇同士が重なり合うくらいに。


「……先輩、近いっす」


「えへへ、キミもだねー。顔が真っ赤になってるよ」


「……すみません、こういったイベントに乏しいもので」


「ワタシと似たようなもんだな? お互いにいい恋愛をしていこうよ、これから」


 後輩からの好意に気づく気配すらないな、この人は。


 出会ったころから不変だった。春瑠先輩にとっての僕は気を遣わない後輩で、さらに言えば弟のような距離感。それは家族のように近いけど、恋愛対象としては遠い。


 痛いほど伝わるんだ。


 僕に向けられた瞳と兄さんを追っていた瞳が、まったく異なるから。


「動かないで」


 そう囁いた春瑠先輩は僕の胸に顔を埋うずめ、身動きをやめた。


「もう少し……このままでいさせてほしいな」


「……わかりました」


「ありがとう。未練がましい先輩に……ちょっとだけ胸を貸してください」


 涙混じりの小声を滲にじませ、顔を伏せた春瑠先輩が身を寄せてくる。


 僕はそっと手を広げ、正面から春瑠先輩を包み込む。


 心が不安定になった先輩が安心し、普段通りの笑顔を見せてくれるように。


 兄さんの劣化版である僕は、兄さんの代わりにはなれないから。


 恋人にはなれない僕は、この人の側にいてあげることしかできないから。


 五分くらい経っただろうか。


 自然に離れた僕たちは肩を並べ、海浜公園側へ下りられるスロープのほうへ歩き出す。


「ねえ、そろそろお腹なか減らない? どこかで食べていこうよ」


「おっ、いいですね。それなら久しぶりに森田屋に行きません?」


「よし、そこにしよう! 蕎麦屋のカレーってめちゃくちゃ美味しいよね!」


 失いたくない。


 となりで無垢に笑ってくれるこの人を、ずっと見守っていたい。


 でも、それだけじゃ駄目なんだ。


 春瑠先輩の終わらない初恋を終わらせて、やがて訪れるかもしれない不条理な運命を覆す。そのために僕は、どっちつかずの現状維持をやめなきゃいけない。


「今週末、二人でどこかに行きませんか?」


 こうやって後輩のほうからデートに誘ってみよう。


 今の自分が声にして渡すことができる最大限の愛情表現だ。


「それって……春瑠お姉さんを遊びに誘ってる? 生意気だな?」


「さあ、どうでしょう? ただ勉強をサボる口実が欲しいだけかも?」


 生意気な口を叩いて平常心を装ってはいるが、内心は心臓が口から飛び出そう。


「ごめんねー、ちょっと無理かなー」


「ですよね……いきなり言われても困りますよね……」


「七月下旬からは期末テストだから、もうそろそろテスト勉強を始めないと。八月までは木更津に帰らないつもりだし、ホームシックで地元を恋しがるのはいったん終わり」


 かなり落胆はしたものの、先輩が東京に居続けてくれるのは安心に繋がるのではないだろうか。兄さんの面影が色濃い地元に近づかないのであれば……。


 しょんぼりする後輩を見かねたのか、優しい先輩は会話を繋げる。


「テスト期間後の八月でもよければ、どこかに行こうか?」


「えっ……? マジですか? ほんとに?」


「うん、夏梅くんが行きたいところに連れてって」


 まさかの……OK! 橋を歩く足取りがさらに軽くなった。


 春瑠先輩は余裕っぽい横顔なのに、僕は感情がぐつぐつと沸騰している。


 はにかんだ顔を見られないよう、ちょっとうつむき加減の早歩きでスロープを下り、バイクのもとへ戻る。興奮冷めやらぬ心境が、日没前の風景を過剰にきらめかせた。


「その前にまずは森田屋まで乗せてってー」


「相変わらず後輩使いが荒いですね……」


「何か言った? ん?」


「いえ、素敵な先輩だと思ってまーす」


「生意気な後輩くんだなー? 誰がキミをここまで育てたと思ってるんだ?」


 先輩に髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でられると過度に高揚してしまう。


 顔はクールを演じてはいるがね、めちゃくちゃ嬉しいので。


 ヘルメットを被った春瑠先輩の可愛さに見惚れ、内心舞い上がった僕はバイクのキーを上手く挿し込めず、ぽろっと落としてしまう。究極にダサい。キモすぎる。


 ともあれ、八月になればデートに行ける。


 そこで僕は──春瑠先輩に自分の気持ちを伝えようと思うんだ。


 営業時間ぎりぎりで地元の蕎麦屋に滑り込んだ僕と先輩。


 中学の部活帰りによく食べていたカレーライスとチャーシューメンを堪能し、春瑠先輩を木更津駅の西口ロータリーまで送り届けた。


「ごめんねー、気まぐれで帰省した迷惑な先輩が可愛い後輩を年上パワーで連れ回す~みたいな一週間になっちゃって」


「いえいえ、全然迷惑とかじゃないですから。僕はいつでもヒマしてるんで、地元に帰ってきたらいつでも連絡を待ってます」


「夏梅くんも期末テストがあるでしょー? ワタシが見張ってなくても、ちゃんと勉強しておくこと、ね? もしサボってたら冬莉ちゃんに報告してもらおうかなー」


 申し訳なさそうに苦笑いしたり、お節介な先輩面した屈託のない笑顔が眩しかったり。


 春瑠先輩の豊かな表情は、いつも胸を高鳴らせてくれる魔法だ。


「最近はあまり勉強してないというか……大学以外の将来もあるのかなって。専門学校に進んで美容師になるのも選択肢としてはありかな~とか……ちょっと思ったりもして」


 歯切れの悪い冗談めかした言い草で様子を窺ってみる。


「それは、キミ自身が思い描いた将来の姿なの?」


「……どうでしょう。自分でもよくわかっていない……かもしれません」


 断言しようとする意思と隠れた本音が反発し、無意識に返事が小さくなる。


 美容師になりたいのは噓。


 でも……そのほうが春瑠先輩は喜んでくれると思った。兄さんと同じ進路なら、と。


 だけど──


「それは、キミのやりたいことじゃない。夏梅くんの夢じゃないよ」


 想像していた反応じゃなかった。


 ぎこちない作り笑いを浮かべた先輩は、手放しで喜んではくれなかった。


「ごめんね」


 潤んだ瞳の先輩が、ぽつりと謝った。謝らせてしまった。


「冬莉ちゃんと過ごす日常こそ、本来の夏梅くんがいるべき居場所だったんだよね。ワタシのせいで……本当にごめんなさい……」


 悲痛さが滲む先輩の涙声が、忙せわしない周囲の環境音に混ざって濁る。


「キミは晴太郎先輩の代わりじゃない。ワタシを救ってくれたのは夏梅くんなのに……晴太郎先輩と重ねてしまう……最低な女だよ」


「それなら、良かったです」


 予想外の返答に戸惑う先輩へ、僕は乾いた笑みを返す。


「……兄さんの代わりになれて、先輩の笑顔を取り戻すことができた。偽者なりに……役割を全うできたのなら本望です」


「キミは……不器用だね。ワタシが……不器用にさせてしまったね」


 彼女は涙を溜ためた瞳を伏せてしまい、こちらに背を向け……帰宅の人々が往来する駅の中へ足早に消えてしまう。


 


 ワタシはもう、誰も好きになれないと思う。


 恋するのが、怖いから。


 


 それだけを、去り際に言い残して──


 僕に人生の楽しみを与えてくれて、ちょっと過保護に甘えさせてくれる人だから僕は好きになった。


 青春なんてものを対価に差し出しても、この人の側にいたいと焦がれた。


 白濱夏梅に戻ってしまったら〝結ばれない片思い〟に戻ってしまうだけ。


 僕が持っていなかったものを持ち、遠目で羨み、大嫌いだった兄さんを模していれば、二人で傷の舐め合いをしていられると……そんな異常な関係だとしても、好きな人の隣にいられると思い込んでいたかった。


 そう、勘違いしていたかった。


「白濱夏梅に戻ろうとしないのは、僕が傷つきたくなかった──それだけなんですよ」


 街灯に照らし出された夜の木更津駅西口前。


 一人ぼっちで立ち尽くす男の拗らせた嘆きは、駅に停車する路線バスの音にすら掻かき消され、自分以外には届かなかった。


 そんな惨めでどうしようもないやつをあざ笑うかのように、生暖かい風が背後を流れていく。しかし、冷たい。風の行く先へ眼球が傾き、意識が引き寄せられてしまう。


 ロータリーを行き交う有象無象の通行人。するすると移動していく一つの人影は不規則に揺らぎ、常識では計り知れない異色の雰囲気を纏まとっていた。


 紛れもない。ほかの誰でも、ない。


 まさか、これが。


 視覚が風貌をはっきりと捉えようとした瞬間、揺らいでいた人影は消失。


 懐かしい夏の香りがする風だけが吹き抜けていった。


 路肩に停車させていたラビットに跨またがった僕は、風が流れたほうへ進路をとる。温かい風が通った道の景色は揺れ動き、制限速度いっぱいで走り抜けた肌がじりじりと暑い。


 こっちに来いと、挑発しているのか。


 お下がりのバイクを我が物顔で乗り回している弟をバカにしているのか。


 まだどこか信じられていない。


 しかし、ふつふつと煮え滾たぎる不快感を抑えられず、行き場のない憤りを進行方向に向けながら富士見通りを突っ切っていった。


 謎の揺らぎに導かれたのは、まごころ広場のバスケコート。


 駐車場でラビットから降りた僕を正面から待ち受ける人は、いない。


 しかし、なぜだろう。


 無表情の兄さんが正面に立っているような……そんな気がしてならないんだ。


「なあ、そこにいるんだろ……」


 僕が一人で語り掛けているのだから、当然のごとく返事はない。


 背後に気配を感じ、夏の香りがする熱気のほうを振り返ってみると……公園の風景が不鮮明になり、ゆらゆらとなびいた。


 凡人なりに研ぎ澄ました視覚が一瞬だけ、察知する。


 人の形を模した不可思議な幻の姿を。


 周囲の景色を揺らがせながら現れ、闇夜に同化しながら消える瞬間を。


「こうやって現れたり消えたりしながら……春瑠先輩を苦しめてさ……」


 妙に静まり返った公園内。


 不快感を隠さない僕の声音は十分に届く環境なのに、もはや向こうは人間ではないため独り言でしかない。


 兄さんの幻がこの場所にいる。そう考えるだけでコンプレックスが過剰に刺激されてしまい、苦渋が胸の奥に充満して吐きそうになる。


 どうしても思い出してしまうんだよ。


 甘酸っぱさをりょうしてしまう苦い記憶や、憧れと嫉妬が入り交じった当時の感覚を。


「春瑠先輩は立ち直りかけていたのに……今さら現れてんじゃねえ!! ずっと嫌いだったんだ……お前が死んでくれて感謝すらしてるよ!!」


 皮肉の一つでも言い返せよ。


 弟なんか眼中にないような顔で……何かを言い放ってくれ。


「兄さんに勝てるものなんて……勉強くらいしかなかった。でも、春瑠先輩が初めて惚ほれたのはバスケ部のエースで人気者だった白濱晴太郎だったから……僕は……」


 僕は、お前の偽者になろうとした。


 お前が、死んだから。勝手に死んでくれたから。


「どうして……春瑠先輩の気持ちをわかっていながら遠ざけようとしたんだ。生きていても、そして死んでからも……僕の好きな人を苦しめるお前が……嫌いだ……」


 導火線に着火した激情が抑えきれない。


 惨めな負け惜しみが届いているのか届いてないのかは知らない。知りたくもない。


 兄さんの幻には触れられないし物理的に痛めつけられないのなら、せめて。


 最大級の幼稚な一言を拳の代わりにして、ぶん殴らせてくれ。


「大っ嫌いだ!!」



【続きは6/10(木)発売の月刊ニュータイプ7月号、もしくは今夏スニーカー文庫より発売予定の文庫版で!】

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忘れさせてよ、後輩くん。【期間限定公開】 あまさきみりと/角川スニーカー文庫 @sneaker

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