第2話 夏のプールと水着と体育館

 お前は〝偽物〟になるな。それが父親の口癖だった。


 僕が小学校に入るころには家庭環境は冷え切っており、両親は日常会話どころか目線すら交わしていなかった。


 母さんは放任主義で子供の意思を尊重する。父親は子供を自分の理想通りに教育しようとする。どうして結婚に至ったのか不思議な対極の二人だったけど、たぶん僕たちが生まれてから徐々に歯車が噛み合わなくなったんだろう。


 不安定な状態だった夫婦関係に深い亀裂を生じさせたのは、五つ年上の兄さんが〝地元の中学でバスケをやりたい〟と申し出たこと。


 前々から兄さんは勉学を疎そかにし、友達と遊びに行っては父親と衝突していた。


 教育方針を巡って両親の口論も絶えなくなり、過干渉を嫌う兄さんも父親へ反抗するようになっていった。


「オレは親父の操り人形じゃねーんだよ。自分のやりたいことは自分で決める」


 兄さんと父親は冷戦状態になり、親子の縁すら事実上は消滅していた。


 そのせいで父親から僕への捻じ曲がった期待感が高まり、学校以外の不要な外出は制限され、母さんや兄さんと言葉を交わすだけで怒鳴られた。


 あいつらはもう家族じゃないから、関わるなと。


 母さんや兄さんは喋りかけてくれたけど、父親を恐れた僕は口をつぐむことが多くなり、部屋に閉じこもっては勉強に没頭せざるを得なかった。


 そうしていれば、リビングで家族が口論する怒声が遠のく気がしたから。


 


 ある日、母さんと兄さんは家に戻って来なくなった。


 別居する直前の母さんは、数滴の涙を零しながら手を握ってくれた。


なつ、ごめん……。母親らしいことができなくて……本当にごめん……」


 何度も謝り、玄関のドアを閉じる。


 僕は連れて行ってもらえないのだ。


 家庭を壊し、僕と母さんと引き離したのは自分勝手な兄さんのせいだ……と父親に言われ続け、幼かった僕は子供心ながら憤った。


 せいろうはもう息子じゃない。夏梅だけが本物だ。


 そう父親に告げられた日から僕が〝本物〟になり、兄さんが〝偽物〟になった。


 それから五年間……僕の人生は常に一人だった。


 娯楽が一切排除された環境。柔肌を小麦色にあぶる真夏なのに、内向的な小学六年生は冷房の効いた部屋で机に向かう。


 それが当たり前だと信じていた。自分の家庭だけじゃなく、他所の家も同じような環境なんだと懸命に思い込もうとしていた。


 同級生が遊ぶ約束をしていても、僕には声がかからないのは知っている。


「友達なんて作る必要はない。そんなヒマがあるなら勉強しなさい」


 僕が誰かと交流を持とうとすれば、相手の家に赴いて保護者に執拗に苦言を呈す。


 今後は息子と関わらせないでください、と。


 林間学校も強制的に欠席させられ、クラスメイトが作ったパンフレットも勝手に捨てられた。


 同級生にとって僕は面倒の種でしかなく、班を作って授業するときも僕は少し離れた位置にいた。幽霊のように誰にも見えていないのではないかと、本気で思うこともあった。


 しらはま夏梅は本物のはずなのに、何のために存在しているのだろう。


 父親が不在の間に自宅の小銭をかき集め、家を抜け出したことがあった。


 アイスを買う同年代の姿を羨うらやましく思い、魔が差したのだろう。


 夕暮れの木更津を徘徊してみると、初夏の小雨が肌を濡ぬらして熱を冷ます。


 小学六年生は想像もしていなかった。


 いずれ好きになってしまうあの人に、出会うことになるなんて。


 駅近くのコンビニで雨宿り。ジュースとアイスで迷い、店内をしばらく彷徨った結果、母親と食べた覚えのあるピノを掴んでレジへと持っていった。


 金額を支払おうとするが……小銭を数えている途中で気づく。


 かき集めた小銭では足りず、アイスは一つも買えないことに。


 五年以上も食べていないアイス……瞬きをすれば涙が零れそうなほど落胆し、冷凍ケースへアイスを戻した僕の隣に見知らぬ誰かが並び立つ。


 中学の制服を着ている女性。


 容姿が大人びており、長い黒髪が艶やかに揺れていた。自分より身長も高く、日焼けした小麦色の肌が健康的で爽やかな制汗剤の香りが鼻をくすぐる。


 大人びた中学生は僕が戻したピノを手に取り、飲み物が陳列されたケースから缶ジュースも拾い上げ、そのままレジへ。


 他人の僕は気に留めることもなく、コンビニの自動ドアが開いた先に一歩踏み出し、待ち受ける夜の街へ再び身を投じようとした瞬間──


「ねえ、そこの少年くん」


 唐突に呼び止められる。


 背後に立っていたのは女子中学生だった。


「はいこれ、ワタシからの差し入れ!」


 右手に持っていたコンビニのビニール袋を差し出し、陽気に微笑んでくれる。


「僕……お金をあまり持ってないです。なので……あの……」


「お金なんていらないって。お姉さんの奢おごり♪」


「は、はあ……」


 コミュ力が著しく欠ける僕は戸惑い、会話も円滑に繋げられない。


 目線も合わせられず、どうにか絞り出した声も不明瞭にくぐもってしまう。


 女子中学生はビニール袋から自らの缶ジュースを抜き取り、もう一本のジュースとピノが残った袋の持ち手を僕の指に優しく握らせた。


「あっ……あり……」


 お礼の言葉をぼそぼそと呟やいても、煩い雨音に掻き消された。濡れたアスファルトは車のライトを反射して妖しく輝き、灯りだした街灯は雨の粒を控えめに照らす。


「うわぁ、めっちゃ雨降ってきたなぁ……」


 中学生は嘆きながらもコンビニの傘立てに差していたビニール傘を引き抜き、開く。


「キミは傘、持ってきたの?」


 僕は首を小さく振った。


「それじゃあ、キミのことを家まで送ってあげよう」


「い、いや……! 大丈夫……ですから……!」


「えー? 雨すごいよー? 遠慮しなくていいのに」


 夜空へ向けて傘を掲げた中学生。地面を叩いていた雨が透明なビニールに遮られ、弾けるような雨音に変化した。


 傘を持つ中学生の右隣は意図的に空けられている。僕はやや遠慮をしながらも彼女の右隣に並び立ち、一つの傘に収まった二人は足を交互に踏み出した。


 改めて肩を並べてみると、身長差がそれなりに際立つ。小学校でも女子のほうが背は高いので、僕がまだまだ発展途上なんだろうけど。


「あ、あの……」


「ん? なーに?」


 歩いたまま話しかけるが、彼女と目が合うだけで緊張してしまう。


「どうして……その……アイスとジュースを……買ってくれたんですか……?」


「おやつを買えない小学生が目の前にいたら、先輩風を吹かせて奢りたくなっちゃった。お節介も大概にしろってたまに言われちゃうけどねー」


「あとで莫大なお金を請求されたり……変な宗教に勧誘されたり……しませんか?」


「怪しい人に見えるー? ワタシはフツーの中学一年生だけどなぁ」


「えっ……中学一年生……なんですか?」


「うん、そだよー」


 あっさり肯定された。


 僕と一歳しか変わらない年齢差ということに驚き。


「なんで微妙そうな反応するの? そんなに老けて見える……?」


「い、いえ……! なんというか……大人っぽかったので、三年生あたりかなって……」


「大人っぽい? えへへー、マジで? 最近の小学生はお世辞が上手うまいなー」


 褒められて気分が高揚したらしく、とろけた笑顔が眩しい。


「そういうキミは小学何年生?」


「六年生……です」


「えっ、ワタシと一学年しか変わらないの!? 小三くらいかなーと思ったから無駄にお姉さんぶってたなぁ……恥ずかしいー」


 頬を紅潮させる彼女もまた違う魅力の味わいがあった。


「遠慮せずに食べていいよ。それとも、お姉さんが食べさせてあげようか?」


「じ、自分で食べられますので……」


「小学生が遠慮なんかするなー。ほれほれー」


 ピノの箱を開けた中学生は一口サイズのアイスを付属の串に刺し、僕のほうへ差し出してくる。あーん、という誘い文句つきで。


 お姉さんの奢りという雰囲気に酔い、断るという選択肢を消滅させられ、背伸びした僕は……目を瞑つぶりながらアイスに噛じりついた。


 溶けていく。満ち溢あふれるチョコの甘さとバニラの風味により神経が蕩け、中学生のお姉さんに食べさせてもらった幸せの快感がじわりと押し寄せた。


「初対面の中学生に奢られたアイスの味、どうだった?」


「……すごく美味しいです」


「だよねー♪」


 得意げに笑んだ中学生は再びピノを串に刺し、今度は自らの口内へ運ぶ。


「はああ……部活が終わったあとのピノはサイコーだなぁ」


 串から唇が離れ、女子中学生は気持ちよさそうに息を吐く。


 僕は誰とも遊んだことがないうえに、クラブ活動どころか休み時間に校庭で走り回ったこともなく、教科書が友達だから……純粋に羨ましい。


 この人が過ごす充実の日常が目に浮かび、生まれて初めて〝羨み〟の感情が芽生えた。


「……あなたは……楽しそうで羨ましいです」


 鬱屈した気持ちを口に出してしまい、心が沈む。


「キミは……楽しくないの?」


「……楽しいって何なのか知りません。普通に生きていれば楽しいんですかね……? なら、僕は普通じゃない……」


 最悪だ。この人に訴えかけたところで、意味はないのに。


 女子中学生は暫しばらく黙り込んでしまい、絶えず降り注ぐ雨音が強調された。


「それじゃあ、ワタシと楽しい夏の思い出を作ろう」


「夏の思い出……?」


「うーん、そうだなあ。泳げるような海に連れて行ってあげよう」


 沈黙を切り裂いたのは、予想外の提案。


「夏休み中にキミを連れて行ってあげる。部活はあるけどオフの日は結構あるからさ」


「ぼ、僕は……勉強があるので……無理です……」


「こっそりズルしちゃえば? なんならワタシが勉強を手伝ってあげよう」


「えっ……ええ……?」


 この人、冗談とは言い切れない目をしている。僕は戸惑いの感情こそ抱いたものの、密ひそかに胸は高鳴り、体温は上昇し続けていた。


初心うぶな少年くんに……これからワタシがいろいろ教えてあげてもいいよ?」


 雨露の音に混ぜた囁ささやきが耳を擽り、顔を上げざるを得ない。


「なーんてね。もう少し大人になってから出直してらっしゃい」


 悪戯にからかわれ、ちょっぴり悔しかった。


「い、一歳しか年齢は変わらないじゃないですか……!」


「まずはワタシの身長を追い抜いてくれないと、大人とは認められないなぁ」


「……絶対に抜きますから、身長」


「おうおう。いっぱい牛乳飲んで頑張れよ、少年くーん」


 肘で軽く肩を小突かれる。子供扱いされた僕はムキになっていたが、怒りとは異なる正体不明のもどかしさを抱いたのは今日を除いて記憶にない。


「まだ時間あるかな? キミさえよければ、大人の階段……ちょっとだけ上ってみる?」


 どくん。なまめかしいお誘いをもらい、心臓が跳ねる。僕は抗えなかった。


「ここ閉店しちゃうかもって噂があるから、その前に思いっきり遊びたかったんだよね」


 初対面のお姉さんと寄り道したのは、富士見二丁目にあった複合型の娯楽施設。


「こういうところは……父さんに禁止されていて……」


「勉強とか家庭のルールも大切だけどさ、子供は遊んでなんぼでしょ! 今日だけでもいいから、ワタシと一緒に悪い子になっちゃおう?」


 魅力的なお姉さんの誘い文句を拒めるわけがない。


 廃業の噂があった木更津セントラルで体験した初めてのボウリング、初めてのビリヤード、初めてのゲーセン、初めての卓球。


 様々な人生初を年上の中学生に教えてもらい、心の底から初めて『楽しい』と思い、二人で子供っぽく遊びながら笑い合えたんだ。


 遊んでいる最中もこの人は様々な話題を提供してくれる。


 中学生活や部活の話題、最近流行はやっている話題、恋愛の話題……どれも興味深く、外部と遮断された籠の鳥な自分には新鮮すぎて、何時間でも聞いていられそうな気がした。


 木更津セントラルで僕は、初恋の芽を植えつけられたのだ。


「僕の家……ここなので……」


 幸せな時間は過ぎ去るのも一瞬。自分が閉じ込められている一軒家に到着してしまい、僕の心境は落胆でしかなかった。わざと遠回りすればもっとお話できたのに……とか、普段なら考えない悪知恵が思考を巡る。


 この人にとっての日常が、僕にとっての非日常。


 異世界に迷い込んだ少年の短い冒険が、もう終わってしまう。


「じゃあね、少年くん」


 傘を差した女子中学生は振り返りざまに小さく手を振り、歩を進めていくごとに降雨の夜へ姿が消えていく。僕は玄関先に棒立ちし、上半身が傘に隠れたあの人を見送るだけ。


 二度と会えないかもしれないと思うと、湧き上がる喪失感が涙になりそうだった。


「あの……待ってください!」


 人生の中で最大の声量を張り上げ、少し離れた位置にいた彼女を呼び止める。


 声変わりもしてない甲高い声が届き、振り返ってくれた。


「あなたの名前……教えてくれませんか」


 僕は、純粋に欲す。


 お姉さんぶったお節介な人の名前を。


「春は瑠る。ワタシはひろ春瑠です」


「広瀬……さん」


「うーん、なんか固いなぁ。中学ではまだ後輩がいなくて寂しいから『春瑠先輩』って呼んでくれてもいいんだぞ?」


 いきなり下の名前は馴れ馴れしいかなと恐縮しつつも、試しに。


「春瑠……先輩……」


「うん、なんかいいね! ワタシにも可愛かわいい後輩ができたかぁ!」


 嬉しさが声色にも表れているので、春瑠先輩と呼ぶことにしよう。


「キミの名前は?」


「夏梅……です」


「夏梅くんか。よし、覚えた! これも何かの縁だし、また会えたらもっと遊ぼうね」


 春瑠先輩はわざわざ僕のためにこちらへ戻り、小学生の身長を考慮した前屈みで頭を撫でてくれた。持続し続ける高揚が収まらず、僕は──


「今日はありがとうございました……!」


 ようやく言えた。ずっと秘めていた、お礼の言葉を。


「どういたしまして。いつでも先輩を頼ってくれたまえ」


 先輩は美白な歯を惜しげなく晒さらしながら、頼りになる微笑みを僕に返した。


「また……会えますか?」


「同じ街に住んでいるし、会えるんじゃないかなー。夏梅くんが家に閉じこもっていたら絶対に会えないけど、自分の意思で会いに来てくれたらワタシはいるから」


 僕の頭から手を離した先輩は今度こそ暗闇に紛れ、開いた傘が遠ざかっていく。足音も水溜りに攫さらわれ、すぐに雨音と一体化した。


 先輩が去ってから数分経たっても、心臓は過剰に血液を循環させる。顔面がじわりと火照り、深く吐いた息も蒸気みたいに熱い。撫でられた頭頂部を通じて伝わった柔らかい手の感触を思い出し、なおさら照れ臭くなって意味もなく感慨に浸ってしまう。


 小学六年の夏休み。ああ、ついに知ってしまった。


 授業では教えてくれない感情を。


 これが僕の──たった一回きりしかない初恋だと。


 


*  *  *


「……いつまで昔の思い出に浸ってるんだか」


 起床と同時に甘々しい夢も覚め、十八歳の鬱屈した独り言が零れた。


 カーテンの隙間より差し込む薄紫の射光は、静かに日の出を待つ夜明け空の色。いつもと変わりない平凡な日常の始まりを合図している。


 やけに頭が働かず、鈍りきった身体も重力が増したかのように怠だるい。


 枕元の目覚まし時計を確認すると、始発も動いていない時間帯。二度寝しようか迷ったが、夜中まで起きていたにしては妙に目が冴えていたため身体を起こした。


 強制的に動き出す片思い……か。


 昨夜のうみが発した信じがたい言葉が頭の中で延々と繰り返され、夢と現実の境目が曖昧になる。


 就寝中に渇いてしまった喉が気になって思考がまとまらず、布団から這い出た。


「まーたこの人はソファで寝たな……」


 リビングへ移動すると遺体が……いや、母さんがソファから落下しており、絨じ毯の上で寝息を立てている。床に転がる母さんを跨いで移動するのも上手くなった。


 あまりにも普段の日常。


 ここから不可思議な現象が起きる未来なんて想像できないし、現状維持の関係が強制的に動き出す兆候は感じられないが。


 春瑠先輩がご飯を作りに来てくれて、終電などお構いなしに遊び倒し、実家まで送り届けた一幕……僕が一方的に抱く楽しさを言い訳に感覚を麻痺させてはいけない。


 異常なのだ、この状況は。東京の大学生である春瑠先輩が夏休みを待たずに突如として帰省し、木更津に滞在するのは違和感のほうが勝る。


 悲観的に考えすぎだろうか。


 五月病が治らずに地元が恋しくなっているだけかもしれないし、不慣れな都会生活によるホームシックもあり得るけれど。


「うぅ……頭痛いぃいい……喉が渇いたぁあああ……」


 亡霊の呻うめき声かと驚いたが、寝そべっていた母さんの寝起き声だった。どうやら僕の生活音で起きてしまったらしく、恒例の二日酔いで寝ぐせ頭を抱えている。


「……なつめ……お水をおくれー……」


 僕がコップに汲くんできた水道水を具合が悪そうな顔で受け取る母さん。


「ちゃんと部屋のベッドで寝ろ。それと、たまには休肝日を設けることな」


「……ごめんね……ぐーたらな母親を許してくれー……」


 母さんは「えへへ~」と口角を上げ、ちょっと嬉しそうな素振りを見せる。


「……晴太郎には笑って見逃されてたんだけど……夏梅には怒られて心配されちゃってる……兄弟でも……色々と違うところはあるか……」


「兄さんみたいな息子のほうが良かった……のかな」


「いーや……夏梅は夏梅だから可愛い……夏梅の人生は……夏梅にしか演じられないの」


 僕の心情を見透かしたような台詞は躊躇いなく言い放たれた。


「……そういえば……ラビット……まだ動いてるの……? あれ……私の父ちゃんが若いころに乗って……私が高校への通学用に奪い取って……結婚後に実家の物置に眠らせていたら晴太郎に奪い取られたやつ……白濱家に受け継がれる……相当な年代物……」


「あのオンボロスクーターにそんな歴史があったなんて初めて知ったよ」


「……私が乗ってたときは……何度か壊れた……当時でも結構古い車種だったから……」


「毎日のように乗ってるけど、調子は悪くないって感じかな。何年か前に兄さんがメンテナンスしたり部品を交換したっぽいから長持ちしてるのかも」


「すごっ……さすがは私の元愛車……私のようにいつまでも若々しいのう……」


「定期的に手入れしないとボロボロになる、って意味では同じだよね」


「……ひーん……ひどい言われようじゃあ……泣けるんじゃあ……」


 四十代の大人が泣き真似しながら絨毯をごろごろ転がるなよ。


「あのラビットが……晴太郎の分身として……見守ってくれているのかもね……」


「急に真面目なことを言うなよ」


「うふふ……たまには真面目な……マザーです……」


 へらへらと突飛なことを抜かす母さんに呆れつつ、無む下げに否定するのは躊躇われた。


 座敷の仏壇にある兄さんの小さな遺影は笑顔のまま、何も語ってはくれない。


「はあ……ねむっ……シジミのお味み噌そ汁しる……飲みたい……」


 早朝に起こされて思考が鈍いためか、母さんの言動から力が抜けていく。


 放置するのもかわいそうなので、インスタントの味噌汁をお椀へ準備しているところにスマホの通知音が鳴った。


 春瑠先輩のSNS更新を知らせてくれたのだ。


「ちょっと……母さんのシジミより……SNSが優先なの……?」


「ごめん、母さんのシジミより春瑠先輩のSNSのほうが興味あるから」


「うわ……キモっ……気持ちいいくらいに……純粋な息子やのう……」


 この母親、キモいって言いかけなかった? 息子やぞ?


「ちょっとだけ、真面目なことを聞いていい?」


 春瑠先輩がアップした写真をぼんやりと閲覧しながら、尋ねてみる。


「二日酔いだから……真面目なことは……あまり喋れないけどー……」


 眠そうに瞼を擦りながらも、母さんは耳を傾けてくれる。


「終わった初恋が忘れられない人を好きになったとしたら……どうすればいい?」


 僕の問いかけを受けた母さんは適量の水を口に含み、喉を濡らして呼吸を整えた。


 寝起きの酔っぱらいじゃなく、息子の相談に乗る母親の顔に切り変わったのだ。


「……失った人以上の大切な存在に……なってあげることね……」


「失った人以上の大切な存在になれなかったら……?」


「たぶん……新しい恋に進めない……ずっと……過去の面影に……縛られ続ける……」


 失った人への渇望が現象を発生させるのなら、それ以上の大切な存在を見つけることで空白が満たされ、現象から解放されるという仮説は理に適かなっている。


 心のどこかでは楽観視しているけど、海果が示唆した『永遠に失う』『最悪の結末』とやらが異物として心の片隅にこびりつき、消えてはくれない。


 思い過ごしに越したことはないが、SNSの写真を凝視しているうちに……どこからともない焦燥に駆られる。


 濃い青の空に染められた早朝の海へ一直線に並び立つ無数の柱。ブルーアワーの海岸を渡る電柱群は不思議な世界観を醸し、空想の海を描いた絵画のよう。


「ちょっと出かけてくる!」


 居ても立ってもいられなくなった。母さんの「えっ……シジミーっ……」という情けない声を聞き流し、部屋着のまま玄関を飛び出す。


 荒くなった呼吸を整えるわずかな時間も惜しみ、庭に停めていたラビットへ乗った。


 


 木更津駐屯地を迂回し、二十分もかからずに着いたのは、深い青の夜明け前が待ち構えた海中電柱が映える江川海岸。


 液晶画面越しでは伝わらない自然の音色や海の匂い、肉眼だからこそ実感できる幾重にも折り重なった青色と灰色の層は感慨深い。


 その写真映えする世界には不釣り合いな変哲のない陸地。人間はここまでしか立ち入れず、申し訳程度のロープやブロックが幻想的な海への侵入を阻んでいる。


 春瑠先輩と思われる後ろ姿は、そんな味気のない陸地に立っていた。


 明らかに立ち止まっているのに……このまま海へ吸い込まれていくんじゃないか、引き擦り込まれるんじゃないかという錯覚が脳裏を過よぎる。


 春瑠先輩が五歩ほど足を踏み出せば──簡単に入水できてしまう。


 そんな位置に好きな人のシルエットはたたずんでいた。


 手の届かないところに、遠ざかってしまう。


 永遠に、失ってしまう。


 だから僕は駆け出し──懸命に手を伸ばした。


「春瑠……先輩……!!」


 無我夢中で背後から駆け寄り、春瑠先輩の腕を引き寄せるように掴むと、彼女は振り向きざまに瞳を大きく見開いていた。


「晴太郎……先輩……?」


 放心状態の春瑠先輩はここにいない誰かの名を、消え入りそうな声で呼ぶ。


「な、夏梅くんか! びっくりさせないでよぉ、もう!」


 我に返った先輩の声音は驚きのあまり上ずっていたけど、普段見せてくれるありふれた表情と大差なくて、僕は肺の二酸化炭素を余すことなく吐き出す。


「夏梅くん、おはよう」


「……おはようございます」


 朝の挨拶と共に微笑んでくれた春瑠先輩に見み惚とれ、掴んでいた腕をあっさり離した。


「こんな朝っぱらに何をしてるんですか……?」


「ジョギングがてらSNS用の写真を撮ってるんだぞ。早起きで友達と差をつけるのだ」


 ふふん、と得意げに胸を張る春瑠先輩。


 海上に電柱が並ぶ風景が写真映えするため、海や空がより美しく際立つブルーアワーの時間帯には絶好の撮影スポットとなっている。


「春瑠先輩も今どきの女子大生だったんですね」


「失礼だなぁ。どこからどう見ても今どきの女子大生じゃん」


「ダメンズの世話を焼くしか趣味がないと思ってました」


「そりゃあ世話を焼きたくなるよ。ダメンズ後輩くんのお姉さんだからね」


「先輩ではあるけどお姉さんではないでしょ」


「生意気言うようになったなぁ。昔はワタシのお尻を追いかけてばかりだったくせに~」


「あー、聞こえないっす」


「春瑠お姉さーんって言いながら、駄々っ子みたいに甘えることもあってさぁ」


「僕の負けでいいんで! 黒歴史はもう忘れてください……」


「いやでーす。昔の可愛かった夏梅くんは忘れてあげませーん」


 眉をひそめた先輩も僕の中ではどんなに芸術的な写真より映える。


 照れ臭さが勝って先輩の顔を写真に収められないから、密かに記憶へと焼きつけるのが精いっぱいなんだけど。


「夏梅くんこそ、どうしてワタシが今ここにいるってわかったの?」


「江川海岸か久津間海岸の二択で迷いましたが、久津間海岸のほうは潮干狩りシーズン以外は立ち入り禁止なので」


「それはそうだけど、ワタシは何も連絡してないはずだけどなー?」


 ちょっと意地悪な口調で試してくるので、後輩はタジタジになってしまうな!


「変な時間に起きちゃったんで二度寝しようと思ってたら、春瑠先輩がSNSを更新してたので……ここにいるのかなって」


「ふーん、ワタシのSNSを見てくれてたんだ。ふーん、夏梅くんがねえ」


 うっかり口を滑らせてしまい、春瑠先輩がニヤニヤと嘲笑あざわらってくる。


 先輩のSNSをこっそりと閲覧するという僕の趣味がバレてしまった……。


「それでセンパイに会いたくなっちゃった? ワタシが何してるか気になっちゃった?」


 興味本位な追及が止まらねぇ。夜明け前でも可愛いな、くそ。


「先輩と遊びたいので、今日はこのまま学校を休んでもいいですか?」


「センパイをサボりの口実に使うなー。そんなに不良な男の子だったっけか?」


「春瑠先輩が見張ってくれないからですよ。どうして卒業しちゃったんですか」


「そんなこと言われても困るんだけど。留年すれば良かったってことー?」


 むくれる春瑠先輩を朝一番に堪能させてもらった。


 日の出時刻が迫るにつれ、空や海面が次第に青白く生まれ変わっていき、その神秘さを逃すまいとお互いにスマホのシャッターを切りまくる。


「春瑠先輩は兄さんとここに来てましたよね。今日みたいな夜明け前、写真を撮りに」


 シャッターボタンをタップしていた二人の指が、ほぼ同時に止まった。


 僕にとってはねたましい記憶でしかない。


 兄さんはラビットのケツに春瑠先輩を乗せて、先輩が行きたいところや写真を撮りたいところに連れて行ってあげていた。


 歯は痒がゆさを感じながら見送っていた自分を思い返すたび、感情に苦みが生じる。


「晴太郎先輩もね、ワタシの写真を気に入ってくれてたんだよ。アップするたびにコメントをくれて、写真の場所に行こうって誘ってくれたりして」


「ほんとに……僕なんかとは全然違いますよね……」


 コソコソと写真を見て、先輩の後を追っかけて来るようなやつとは大違いだ。


 顔のパーツや声質が似ていても、僕が兄さんの代わりになんてなれないのはわかり切っているのに、春瑠先輩が持つ過去の面影に劣っている自分が不ふ甲が斐いなくて、惨みじめ。


 自虐の心境を吐息に混ぜる僕の頭に、春瑠先輩はそっと手を置いた。


「夏梅くんはお世話したくなる後輩でいいんじゃないかな。懐いてくれて慕ってくれるキミがいたから、ワタシは人生に絶望しなかったんだよ」


「こんな僕でも……先輩の人生に必要ですか?」


「ワタシがしっかりしないとダメだな~って心配させてくれる不器用な後輩くんがいたから、初恋だった人を失った悲しみから立ち直れた。かけがえのない恩人だよ、キミは」


 涙が零れそうになったのを誤魔化すため、僕はゆっくりと俯うつむく。


 兄さんの代役を演じ、春瑠先輩が救われたのだとしたら、それだけで──何者にもなれない人生にも役割があったんだと自己肯定できる。


「でも、キミは自らの大切な時間を費やしてしまった。ワタシはキミの生きかたを変えてしまったの。ワタシにできる償いがあるなら、教えてほしいな……」


「あのときの春瑠先輩を一人にするなんて、僕にはできなかっただけです。見返りは何も求めていません」


「優しいんだね、夏梅くんは。ありがとう……」


 お姉さんぶって頭を撫でてくれる。


 年齢は一つしか変わらないのに、僕のほうが一回り年下みたいな絵面だった。


「春瑠先輩が世話を焼いてくれるのは、僕への償い……なんですか?」


「元気がなさそうな夏梅くんを心配しているだけさ。過保護なのかなぁとは思うけど、できる限りの手助けができたらなって」


 抜けた後輩を元気づけるために初めてのバイト代をゲーム機に使って……一緒に楽しんでくれた。色褪せた日常にきらびやかな光をくれた。


 兄さんの代役を演じていられるだけだとしても、光栄すぎる贅沢だ。


「あの海中電柱、老朽化して危ないから八月には撤去されちゃうらしいよ」


「えっ……? そうなんですか……」


「もう二度と見られない景色だからさ、写真で残しておかないとなーって思ったんだ」


 春瑠先輩が兄さんと一緒に来ていたころの風景がもうじき失われてしまう。


 漠然と抱く喪失感が、この人をこの場所へ導いたのかもしれない。


「さて、綺麗に写真も撮れたし次のスポットに行こうかなー」


 最高の写真を撮って満足したのか、踵きびすを返した春瑠先輩は駐車場に停めていた僕のバイクへ歩み寄り、ヘルメットを被かぶりながら後部席に跨またがる。


「ジョギング中じゃないんですかー?」


「キミが来たらジョギングがツーリングになるんだよーっ!」


 したり顔で調子のいいことを言ってくれる。こっちに来いと言わんばかりに運転席のシートをタップする仕草も僕の恋心をいちいち擽るから困ってしまう。


 どこへでも、どこまででも、あなたとなら行ける気がした。


 くだらないお喋りをしながら目的地のない旅をしたい──とラブコメの神様に願った。


 夜明けの光が、そっと瞳に触れる。物悲しい寒色だった空にはオレンジのグラデーションによる朝焼けが燃えるように光り輝き、反射した海も暖色に様変わり。


 思考の片隅に燻くすぶるゆうはくしゃくしゃに丸め、静かな大海原に投げ捨ててしまおう。


 春瑠先輩は変わっていない。


 普段通り、片思いの鼓動をしきりにたかぶらせてくれる人だ。


 二人乗りのバイクは排気ガスの匂いを残し、木更津駅方面への進路をとる。


 今度はすぐに到着しないよう、アクセルを少しだけ緩めた。


「もしよかったら、次の場所にも連れて行ってくれると嬉しいなーっ!」


 走行音に負けじと声を張り上げた春瑠先輩が、喜ばしい誘いをくれる。


「学校に遅刻しちゃいそうなんですけどー?」


「午前くらいはサボっちゃえ!」


「まあ……春瑠先輩がそう言うなら仕方ないですよね!」


「あれー? ちょっと嬉しそうじゃない? 不良な大学生に誘われてテンションが上がっちゃったかなー?」


「嬉しくないっす。これがフツーっす」


「うそだぁ。春瑠お姉さんとサボり逃避行ができて嬉しいんだぁ。素直じゃないんだぁ」


「あーもう、うるさいな!」


 背中をつんつんと悪戯に突いてくる先輩、めっちゃ可愛いな……はあ。


 心がリズミカルに躍り狂い、サボりの誘惑をなんなく受け入れざるを得ない。


「……それで、どこに向かえばいいんですか?」


「いつかのキミと行ったことがある……市民プール!」


 


*  *  *


 この流れは予想外だった。


 お互いの実家に立ち寄り、必要な持ち物を準備してから再集合した午前十時……水着姿の僕が棒立ちしているのは海浜公園のプールサイド。


 はるか頭上で燃えたぎる太陽の射光を吸収したコンクリートは足裏を炙り、鉄板で焼かれる食材の気持ちを体験できそうだ。


 フェンスに囲まれた海浜公園プールの敷地は全体的に色褪せ、設備はお世辞にも優れているとは言えず赤錆びや老朽化が目立つ。


 しかも、普通の二十五メートルと幼児プールしかない。


 小学生のころに一度だけ訪れたときの光景が蘇り、当時の懐かしさと甘酸っぱさで脳内が満ち溢れていると……


「ごめーん! 日焼け止めを塗るのに時間かかっちゃってさーっ!」


 フレッシュな声の方向へ振り返る。


 平凡すぎる質素な市民プールに──水着の天使が降臨したのだ。


 純白の瑞々しい肌に添えられたビキニの水着姿は健康的でもあり、色気と艶っぽさも感じさせる絶妙なバランス。この人が部活を引退して久しいのに、現役時と変わらない引き締まったボディラインが美しい。


 すらりと高い身長、お尻や太ももの筋肉も……健全な高校生には刺激が強すぎる。


 順調に育ち続けたな、この人。


 六年前にここで見たスク水の春瑠先輩よりも、かなり。


 胸の豊かな膨らみを筆頭に発育が著しい春瑠先輩の立ち姿は、僕が小学生時代に見たスクール水着姿の面影を凌駕していたのだ。


「夏梅くん」


「はい?」


 そのまま近寄ってきた先輩が、おもむろに顔を前に突き出してくる。


 フレグランスの香りを感じ、興奮のスイッチが入った僕の心拍音が煩く奏でられた。


「えっち」


 そう呟かれ、僕の口からは熱がこもった吐息が漏れてしまう。


「先輩の身体を舐め回すように見るのはやめましょう」


「冤罪です。僕は見ていません」


「男子のえっちな視線なんて女子にはお見通しだからね? 覚えておくように」


 ジトっとした視線を強め、あからさまに威圧を放つ春瑠先輩。


 思春期男子の卑猥な思考が筒抜け……正直、めちゃくちゃ恥ずかしい。


「ふふっ……最初にキミをここへ連れてきたときも同じような会話をしなかった?」


 春瑠先輩が思い出し笑いを浮かべた。


「……そういえば、そんな気がします。小学生のころから成長してないですね」


「ふーん、昔から夏梅くんは水着の女の子が大好きだったんだー。そんな後輩に育てた覚えはないのに……春瑠お姉さんは悲しいよ、まったく」


「いや、誰でもいいわけじゃないです! 春瑠先輩の水着姿だから興奮しただけで!」


「こらっ! 何を言っているのかなキミは! そんな目でワタシを見られると困るっていうか……! あー、えっちな後輩くんだなぁーもう!」


「春瑠先輩の水着姿が魅力的なのは事実ですもん。それにスク水時代よりもめっちゃ育ってるのが悪いです!」


「す、好きで育ったわけじゃないから! スク水時代って言いかたも生々しい!」


「誤解しないでほしいんですけどスク水時代が嫌いってわけじゃないですよ!? スク水の春瑠先輩も見たいっすもん!」


「そんなこと誰も誤解してないってば! あと、大学生にもなってスク水なんて絶対着ないからね!」


 開き直りの熱弁が止まらない後輩と、赤面して恥ずかしがる先輩の不毛なやり取り。


 幼児用プールで遊んでいた子供たちに「仲良し夫婦だぁ~」と指をさされ、我に返った僕たちは冷静の仮面を取り繕う。


「後輩くん、ワタシは買ったばかりの水着を披露しに来たわけではないんだよ」


「水着じゃなくて水着姿を披露しに来たんですよね」


「違うから。えっちなのも程々にしよう?」


「はい」


「泳ぎに来たんだよ、わかる?」


「はい、泳ぎに来ました」


「わかっているならいいけどね。それでは水泳前の準備体操~はじめ!」


 お互いに音楽なしでラジオ体操のような動きをやり始めた。


 せっせと身体を伸ばしたり折り曲げたりする春瑠先輩を、よこしまな気持ちでチラ見してしまう浅ましい野郎を許してくれ。好きな人が美肌の大部分を晒しているのだから、男子としては過剰なほどに意識しまくってしまうのよ。


「変態くん」


「あっ……後輩くんって呼んでください……」


 冷たい目で叱られたため、邪なチラ見を中断した。


「それにしても、どうして突然……」


「ここに誘ったのかって?」


 僕の質問内容が読めたらしく、先輩は屈伸しながら先の言葉を被せてくる。


「このプール、今年の夏で閉鎖しちゃうんだってさ。だから最後に遊んでおきたくて」


「そうだったんですか……」


「そういうこと。もう一度、キミと来られて良かったー」


 僕はプールに来る機会がほとんどなかったけど、先輩と遊んだ風景が失われるのは一抹の寂しさを覚えた。江川海岸のときの先輩も似たような心境だったのだろう。


 準備体操を済ませた先輩はゆっくりと腰を落とし、プールの水面へ美麗な右足を伸ばしながら水と下半身を同化させていく。


 僕も見よう見まね。ほのかな恐怖心によりすくんだ足をどうにか踏み出し、プールサイドから水面へ下りる。飛沫しぶきが起きないほど控えめに下半身を水に沈めた。


「さあ、先輩後輩の対決をしようじゃないか」


 泳ぐ気満々の春瑠先輩だが、僕の表情は曇っていることだろう。


「春瑠先輩」


「んー?」


「僕、泳げないんですけど」


「あっ、そういえばそうだった! キミが小学生のときも同じことを言ってたなー」


 思い出したかのように苦笑いする春瑠先輩。


「水泳の授業はほとんど見学だったんだよね?」


「小学生のときは家庭の方針で……子供のころに泳ぎの練習をしなかったから、水泳は今でも苦手です。水自体があまり得意じゃないっていうか、まだ少し怖いんですよ」


 水泳に対してトラウマがあるわけではないが、自分の人生には不要だと決めつけていた事情もあり、僕にとっては未知の領域に近かった。


「それじゃあ、泳げるようになろう」


「はい?」


「せっかくの機会だし、ワタシが教えてあげるから、ねっ?」


「ええ……?」


 ねっ? って言われてもなぁ……。


 聖母の微笑みを繰り出した春瑠先輩が両手を差し伸べてきたため、僕の気持ちが揺れ動く。小学生ならともかく僕はもう高校三年生だぞ。一歳年上の大学生に手取り足取り教えてもらうわけには……わけには! 十八歳としてのメンツが! プライドが!


「さすがに子供扱いしすぎたかな? 練習くらいは一人でできるかー」


「えっ!? あの! その……僕は……!」


 両手を下ろした春瑠先輩に対し、僕の口惜しさが膨張していく。


 大人ぶりたい建前を本音が上書きしていき、ついに抑えきれなくなった。


「……まったくの素人なので一人ではできません」


「それじゃあ、面倒見のいい春瑠お姉さんと一緒に練習する?」


「春瑠先輩がそこまで言うのなら仕方ないなぁ~春瑠先輩が教えたいなら~」


「教えるのやーめた」


「いやいや噓です。春瑠先輩の手を貸してください、お願いします」


「素直でよろしい。それでこそ可愛い後輩くんだ」


 両手を再び差し出してきた春瑠先輩が眩しい。


 さすがに恥じらう僕は瞳を伏せつつも……ぎこちなく両手を握り返した。


「もう怖くない?」


「……怖くなくなりました」


「そっか、良かった!」


 アホみたいに単純だ、僕は。


 春瑠先輩が側そばにいれば、水に入ることへの苦手意識も一時的に忘れられる。


 濡れた肌と体温が伝わり、柔らかい感触が心地よい。合法的に春瑠先輩の手と触れ合えるだけでも最高級のご褒美イベントに思えて仕方がなかったのだ。


「ワタシの手にしっかり掴まっててね。そのまま……バタ足!」


 下半身を浮かせた僕は水面と平行になり、両足を交互に上下させて水面を激しく叩く。


 学校をサボった高校生が市民プールでバタ足の練習……どういう状況なんでしょう。


 小学生相手のような先輩の対応で童心に帰り、憧れのお姉さんからバタ足を教えられている自分の姿……もし同級生やとうにでも知られたら恥晒しってレベルじゃないな。


 背徳感があるのに……拒めない! 圧倒的な癒しに逆らえない!


「手はずっと握ってるから怖くないよー。ゆっくり、ゆっくりでいいからねー」


「こう……ですか?」


「そうそう、すごいすごい! うまいねえ~夏梅くんは!」


 春瑠先輩は幼児をあやすように語り掛けてくる。


 僕だけの癒しボイスを耳が拾うたびに胸がときめいてしまい、だらしない表情を曝け出しそうになってしまう。


「夏梅くーん、ちゃんとアドバイスを聞いてる?」


「聞いてます」


「ほんとかなー? さっきから変な顔してない?」


「泳ぐのに必死な顔です」


 助言というよりは癒しの音声として聞いています。


 僕は優しく手を引かれ、不格好なバタ足で地道に前進していったのだが、目の前に春瑠先輩の胸元があるため興奮物質の分泌が止まらない。


 幸せすぎるがゆえの心臓発作で死にそうだ。死因が幸せって最高なのでは?


 プールサイドの子供たちに「あのおにいちゃん、おとななのにこどもみたいでカッコわるーい」と嘲笑われたけれども、この夢心地な瞬間を味わい尽くしてやるぜ。


 彼氏彼女というよりは姉と弟。


 春瑠先輩にとっては弟の面倒を見るのと大差ないとしても、僕のほうは意識しっぱなしなので高揚感が脳内に充満する。


 容姿、声、仕草……そのどれもが青少年の感性を執拗に擽り、昂り続ける胸の鼓動がちっとも静まってはくれず、プールの水温程度では火照りを冷却できなかった。


「さっきから顔赤いよ? ひょっとして恥ずかしい?」


「……もう高三なので、この状況はめっちゃ恥ずかしいです」


「出会ったころは小さい弟みたいだったのに、いつの間にか外面を気にする生意気な大人になっちゃってさあ。今だけは小学生に戻ったつもりになってもいいんだよー?」


「おねショタの関係になれってことですか……!?」


「いや違うけど。変なこと考えてるっぽいから今の発言は取り消すね」


「春瑠先輩が期待させたくせに」


「期待させてませんー。いやらしい勘違いをしたキミが悪いんですー」


 くだらない内輪ネタを交えながら手を引かれ、生温かいプールをゆったり泳ぐ……この蕩けるような至福の時間が永遠に続いてくれたらいいのに。


「ほんとに……いつまでも世話の焼ける後輩くんだ」


 今みたいに苦笑されつつ、何歳になっても世話を焼かれていたい。


 ずっと手を繋いだまま、こうして目の前に春瑠先輩がいてくれるだけで──


 僕にとっては過去の夏を大幅に更新し、今年が最高の夏になるから。


 マンツーマンで一時間半ほど練習し、真昼の時間帯が近づいてきたころ、


「それでは夏梅くん、今日の成果を披露してください」


 五メートルほど離れた春瑠先輩は右手を上げ、『ここまで泳いでこい』という雰囲気を醸し出す。二十五メートルではなく、十メートルでもなく……たったの五メートル。


 春瑠先輩が僕を甘やかしている証拠だし、二人きりだから容赦なく甘えられる。


「もし春瑠先輩のところまで泳げたら、何かご褒美をください」


「えー? 変なこと考えてないー?」


「めっちゃ真面目っす。僕という人間は、ご褒美があると頑張れるんですよ」


「うむ、それは一理あるかもしれないねえ」


 あっ、優しい。ご褒美を真剣に考えてくれているっぽい。


「いいよ。それでキミが頑張れるなら」


「春瑠先輩ってホントにお人好よしですよね」


「誰にでもお人好しなわけじゃないよ? 可愛い後輩くんのお願いだから」


 いちいち僕の恋心をきゅんとさせてくれる人だ。


「それでは……いきます!」


 水に顔をつけた僕は両手を突き上げ、プールの底をキック。力任せに両足をバタつかせながら、どうにか泳いで前に進もうと試みた。


 ゴーグルなしの濁った視界と、両足が水面を波立たせる煩い水音。


 視覚と聴覚がほぼ遮られた状態でもわかる。


 スタート時に比べ、ほとんど現在地が変わっていない。原因は単純。無駄に力が入り、不格好なフォームになっているから。


 一メートルほどしか進んでいないと理解しながらも、ご褒美が欲しい僕は必死に足を上下に動かし続けた。


 ………


 ……あれ? 進行方向に伸ばしていた両手が何かに包まれ、温ぬくもりを感じる。


 誰かが、目の前にいる。


「夏梅くん、お疲れさま」


 泳ぐのをやめて思わず顔を上げると、ゴール地点の春瑠先輩が迎え入れてくれていた。


「僕……五メートルも進んでない気がするんですけど」


「でも、ちゃんとワタシのところまで泳げたでしょ?」


「それはまあ、そうですけど」


 腑に落ちないというか、不思議な感覚だった。


 視界がぼやけていた状態でも前に進んでいるかどうかくらいはわかる。


 僕はほとんど泳げていない……となれば、先輩がこちらに寄ってきたということ。


「後輩を甘やかしすぎると……もっとダメな人間になっちゃいますよ」


「ワタシ、夏梅くんを甘やかすのが趣味かもしれない」


「嬉しいけど……趣味悪いです」


「えー? いつまでも優しいお姉さんのままでいさせてよー」


 そこらへんの砂糖菓子よりも甘ったるい感情を教えてくれる。


 僕を甘やかしてくれるから、もっとダメになっていく。


 その感覚が大変心地よい。いつまでも浸っていたい。


「よく頑張ったね。さすがは自慢の後輩くんだ」


 そして、トドメの一撃と言わんばかりに頭を撫でてくれる。


 不意打ちに弱い僕は一気に頬が熱くなり、見開いた瞳の向きが定まってくれない。


 後輩殺しだ。こんな先輩、誰でも惚れてしまうでしょ。


「帰りにコンビニでアイス奢ってあげるね。それがご褒美!」


「いや……それだけじゃ足りないです」


「えー? 夏梅くんは何がお望みなのかな?」


「もう一度……僕の頭を撫でてください」


 僕は欲張りだから、さっきの快感をもう一度味わいたい。


 きょとんとした春瑠先輩だったが、僕の頭頂部に手を添えてくれた。


「ワタシの可愛い後輩くん、よく頑張りました」


 わしわしと撫で回してくれるたび、快感が痺れとなって全身を駆け巡った。


 手を伸ばせば容易に届く距離にあなたがいる。


 優しげな瞳に僕の姿を映してくれる。


 僕は広瀬春瑠という人を惚れ直し、火照りきった恋心を吐息に混ぜてしまうのだ。


 プールのあとに立ち寄ったコンビニでピノを奢ってもらい、二人で三個ずつ食べた。


 春瑠先輩が「昔みたいに、あーんしてあげようか?」と問いかけてきたため、先輩が串に刺したアイスへ口を開きかけたものの……さすがに僕も小学生ではない。


 冷静さをどうにか保ち! 断腸の思いで! あーんを断る!


 冷たそうにピノを頬張る春瑠先輩の横顔ばかり見ていたから、アイスの味なんてどうでもよかった。


 


*  *  *


 ああ、あのまま一日中……先輩と遊んでいたかったのに。


 優等生ぶった先輩に「出席日数も大切だから午後からは登校しようね」と言われてしまい、昼休み中の教室へちゃんと登校したのだ。


 ……ふと、窓の外へ意識が向く。


 遠目からでも見覚えのある女生徒が一階の渡り廊下を足早に歩いていた。


 少しだけ、迷う。


 足先が重い感覚は無意識な敬遠の表れかもしれない。


 しかし、一人ぼっちで歩くあいつの後ろ姿に意思が捻じ曲げられてしまう。


 追いかけたい。そんな衝動が破裂した。二階から一階までの階段を駆け下り、昇降口を上履きのまま素通り。屋外の渡り廊下も駆け抜けた。


 食後の運動と自分に言い聞かせ、先ほどあいつが通ったばかりのルートをなぞる。想像以上に筋肉がきしみ、体力が著しく衰えたせいか息が切れる。


 やがて出迎えてくれたのは、足音さえも響き渡る第二体育館。


 無数の窓より差し込む太陽光で日焼けした床板、複雑に交差する競技用のライン、左右に備え付けられたバスケゴール……どれもが見慣れていた。


 そして、磁力が引き合うように先客と目が合う。


「……夏梅センパイ?」


 体育館の壇上近くにどっしりと置かれた漆黒のグランドピアノ。その前にある伴奏者用の椅子にちょこんと腰掛け、開いた文庫本を両手で支える制服姿の冬莉がいた。


 お互いの間にバツが悪い空気感が滞留する。


 別に用事があるわけでもないのに、無駄に息を切らした帰宅部の男が来訪したのだ。


 冬莉も状況が把握できていないと思う。


「相変わらず……昼休みはピアノの前で本を読んでるんだな」


 不気味な静寂を嫌い、僕から何気ない雑談を振ってみる。


「……放っておいてください。校舎から遠い第二体育館は静かな空間なので、一人で本を読むには申し分ないんです」


「ごめん、邪魔して」


「……ほんとです。何もしていないセンパイなんて邪魔なだけですよ」


 物静かに囁いた冬莉は俯くように視線を落とし、手元の文庫本をまためくり始めた。


「……しないんですか?」


 突っ立っていた僕に対してなのか、読みかけの小説に栞を挟んだ冬莉が小声で呟く。


「……シュート練習、しないんですか?」


 いったん小説を膝の上に置き、試すように問いかけてくる冬莉は足元に転がっていたバスケットボールを拾い上げ、遠慮気味に差し出してくる。


「受験生がシュート練習しても頭は良くならないと思うんだけど」


「……私にとってセンパイが昼休みに自主練しているのは当たり前でしたから」


「いつのころの当たり前だよ……」


「……センパイがバスケ部を辞めた一年前くらいまでの当たり前、ですかね」


「もう自主練をする必要がないからな」


「……でも、今日はここに来たんですね?」


 お前の姿が見えたから、とは言いづらい。


 教室で友達と駄弁だべるより、冬莉に見守られつつボールと遊ぶほうが身に馴染なじむ……などと、思っていても口走ることは躊躇われた。


「……ちょっと太ったんじゃないですか? たまには運動してください」


「えっ? そんなに太った?」


「……一年前よりは筋肉が減った気がします。顔もだらしなくて引き締まっていない……あっ、それは元々の素材がアレでした」


 やかましいなあ! と心の中でツッコんだ。


「……どうぞ」


 冬莉が両手で押し出したボール。


 僕は衝撃を吸収するように受け取り、一回、二回、三回。ボールを床に叩きつけ跳ね返ってきたところを何度も叩きつける。


 数えるのも馬鹿らしい軽快なドリブル音が、二人しか存在しない体育館に大きく反響した。ボールの軌道を目視で確認しなくても、間接視野で把握できる。瞳はゴールに向けられているのに、ボールは右手や左手に吸いついてくる。


 一時的に戻っているのだ。


 冬莉がマネージャーとして見守ってくれていた過去の華々しい感覚が。


 ボールをドリブルしながら傍らに引き連れ、歩を踏み出す。薄汚れた上履きの靴底が床板に擦れるたび、きゅ、きゅっという青春の靴音が奏でられた。


 再び本を読み始めた冬莉はページを捲る手が鈍くなり、心なしか耳を澄ましているようにも思える。


 足元に近づくスリーポイントライン。その内側には入らない。


 ドリブルしていたボールに両手を添え、目線のやや上に掲げ、つま先が浮いた一秒未満の時間、伸び上がった全身を発射台にして──打つ。


 脳内が想像した軌道と同じ。


 緩やかなバックスピンが効いたボールが理想的な弧を描き、ゴールを綺麗に通り抜け、そよ風のようにネットを揺らすまでのイメージが再現された瞬間だった。


「……夏梅センパイのスリーポイントは美しいですね」


「褒めてくれるのは嬉しいけど、ずっと本を読んでなかった?」


「……わざわざ見なくても音を聴けばわかります。ドリブルの音、靴が擦れる音、シュートを打つとき少しだけ宙に浮く音、ボールがネットを通り抜ける音。夏梅センパイの音は耳に馴染んでいますから」


 この台詞は冗談に聞こえない。ドリブルからシュートまでの音が深く馴染むほど、冬莉が毎日のように近くにいた時期もあったのだから。


「練習の音、うるさくない?」


「……練習しているのが赤の他人だったら、気になって立ち去っているでしょうね」


 冬莉は一呼吸を挟み、僕のことを見据えた。


「──でも、センパイの音を聴きながら過ごす時間は嫌いじゃないです」


 お互いに視線を交差させたまま押し黙ってしまう。それぞれの気恥ずかしさが次の言葉を遮り、黙るという行為でしか対応できないのかもしれない。


「……ほら、サボらないでください。シュートが一本決まったくらいで満足ですか?」


「マネージャーみたいなことを言うのな」


「不思議なことを言いますね。現役の女子マネージャーですよ」


 ほくそ笑む冬莉。


 転がるボールを拾い上げ、当然のように包まれる静寂。そしてまた、静まりを汚す合図のドリブル。それが延々と繰り返されるだけの昼休みが緩やかに過ぎ去っていく。


 湿度が高いためか、体育館はやや蒸し暑い。あまり蒸発しない汗が制服のワイシャツを上半身に纏まとわりつかせる。


 だが、不快じゃない。苛立ちはしない。前髪をしっとりと濡らす汗は体温を下げるためだけの役割ではなく、充実と青春の成分が溶け込んでいる。


 僕自身……カッコいい姿を冬莉に見せたくて、愛想のない声援が欲しくて愚直に流し続けた見栄っ張りの汗なのだ。


「……はあ、センパイは世話が焼けますね」


 冬莉は呆れたような溜め息を吐つき、予め持参していたハンドタオルを差し出してくる。


「これ、お前が部活で使うやつだろ? 僕が使ってもいいのか?」


「……それは予備のタオルです。汗フェチじゃないので洗って返してください」


「はいはい」


 厚意に甘え、タオルを受け取る。アニメキャラのデザインは真面目な冬莉には似合わないものの、柔軟剤の芳香は思考の火照りを収め、心身を落ち着かせてくれた。


「……センパイ、匂いを嗅ぐのはやめてください」


「冬莉……めっちゃいい匂いするのな。果物みたいな甘い香りというか」


「……バカなんですか? 私の匂いじゃなくてタオルの香りですけど」


「中学のころに行った冬莉の部屋もこんな匂いだったような?」


「……私の部屋の匂いを覚えている無駄な記憶力が気持ち悪いです!」


 ほんの出来心でからかってみたら頬を赤らめた冬莉に叱られてしまい、詰め寄ってきた彼女にタオルをさらわれてしまう。


「……女子の部屋に入った経験が乏しい先輩にとっては貴重な思い出なんでしょうね。おじさんになっても『僕、後輩女子の部屋で遊んだことあるから』という唯一の栄光を何度も語り続けるモテない姿が想像できます」


「泣いてもいいか?」


「……後輩の女子に泣かされたっていう不名誉な称号が欲しければ、どうぞ」


「いらねえ。泣かないもん」


「……残念です。後輩女子の匂いが大好きっていう称号だけになりました」


「冬莉がめっちゃいい匂いなのは事実だし」


「……ばか。いい加減にしてください」


 からかってくるのは冬莉なのに、なぜか恥ずかしそうにそっぽを向かれてしまう。


 攻撃力は高いくせに防御力が弱い後輩だから、余計に可愛がりたくなるんだよ。


「……あと五分で昼休みが終わってしまいますね」


 冬莉がそう呟くように、体育館の壁掛け時計はもうじき昼休みが終わる時刻を差していた。用具室にボールを片付けた僕だったが、若干の名残惜しさを感じる。


「冬莉」


「……なんですか?」


「もしよかったら、お前の音も……久しぶりに聴かせてほしい」


 やや躊躇しかけたものの、雰囲気に後押しされて厚かましいお願いをしてみた。


 意味を悟ったらしい冬莉は押し黙るも、ピアノの前にあった椅子へ再び腰を下ろす。


「……そんなに聴きたいですか?」


「聴きたい」


「……そんなにそんなに聴きたいですか?」


「そんなにそんなに聴きたい」


「……お断りです」


「えっ!? 聴かせてくれるような流れだったのに!」


「……意表を突かれたセンパイの顔はおもしろいですね。それが見たいんです」


「趣味わる」


 年上の僕をからかうように焦らしてくるのも冬莉らしい。


 心なしか唇の両端が上向きになり、やや肩の力を抜いた冬莉は……ピアノの鍵盤蓋を静かに開け、白と黒が綺麗に揃う鍵盤に細い指を添える。


「今日は少しだけ気分がいいので特別ですよ──」


 お互いに無言となった体育館。手元へ視線を落とした冬莉が深呼吸した音も拾えるほど静まり返った空間に、音色が咲く。


 鍵盤に指先が引き込まれ、緩やかに踊り始める。音数が多い右手の指を器用に操り、メロディを生み出す。冒頭は囁くように弱く、徐々に音が強く跳ねる。


 二つの手が鍵盤を叩くたび、それ以外の雑音が消失したような感覚。


 僕の意識が冬莉の音色に支配され、没入した聴覚が魅了される。


 視覚さえも釘づけにされ、ピアノを弾き続ける冬莉から目を離せない。


 僕も知っている曲名──夏の日の贈りもの。


 これだ。


 音楽の海に沈み込んだ冬莉の指が紡ぎ出す旋律は。


 右手の躍動感を支える左手の指。メロディの高音域を包み込むようなベースラインを整え、一つの曲として融合させていく。


 いや、指だけじゃない。


 冬莉の右足も同時に動く。ダンパーペダルを踏み、放す。そして踏む。


 それにより軽やかに伸びた音が弾いていない弦の共鳴をも促し、広がった奥行きを付与してくる。


 巧みに強弱をつけた右手が上下に激しく揺れ、盛り上がりは最高潮へ。覆い尽くす懐古に胸が鷲わし掴づかみされ、痺れにも似た震えが止まらない。


 うだるような暑さから解放され、爽やかな風の錯覚が全身を吹き抜けていく。


 中学のころによく聴かせてもらった。身体が勝手にうずき出す。合唱の歌声が脳内で再生され、僕も男子パートを歌い出しそうになってしまう。


 冬莉のピアノが、僕にとっては身近だった。


 僕のバスケが、冬莉にとっての身近だった。


 いつからだろう。


 お互いの音を手放し、身近だった日常が変わっていってしまったのは。


 最後の音を鳴らした中指が鍵盤から放れ、次第に音が消えていく。


 やがてピアノの音は聴こえなくなり、冬莉はゆっくりと鍵盤の蓋を閉じた。


「中学の合唱コンクールを思い出したよ。僕も課題曲として歌ったし、あのころと同じ綺麗な音色だったから……思わず聴き入ってしまった」


「……初心者向けの簡単な曲ですから、少し練習すれば小学生でも弾けますけど」


「いや、冬莉のピアノだからもっと好きなんだよな。この曲のことが」


「……あのころは楽しかったです。夏梅センパイがピアノを聴いてくれて……今みたいに褒めてくれて。もう……そんな日常は戻らないんですけど」


 沈んだ面持ちの冬莉がそう呟き、昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴った。


「その気になれば戻るだろ、今日みたいにさ」


「……今日は特別なので。もうピアノは弾きません」


 そっと立ち上がった冬莉は僕の横を通り過ぎ、自分の教室へ帰ろうとするが……すぐに立ち止まった。


「誰だ! 学校の許可をもらわずにピアノを弾いてるやつは!」


 体育館の正面出入り口に教師が立ち塞がっていたからだ。どうやら体育館のピアノは使用の申請が必要らしく、予期せぬ音色が聴こえたため様子を見に来たのだろう。


 規則に厳しそうな教師なので説教は免れない、と僕は覚悟したが──


「……センパイ、逃げましょう」


 僕の手を握り、微かに囁いた冬莉は……一目散に逃げ出す。


 まさかの行動であつにとられたものの、僕も抵抗せずに走り出した。


 教師の制止などお構いなし。上履きのまま体育館の裏口から飛び出した僕たちは全速力で教師を振り切り、体育館へ置き去りにしてやる。


 後輩に手を引かれながら渡り廊下を走り抜ける一連の流れは僕の中で斬新だった。


「……こういう不良っぽいのも、たまになら悪くないですね」


「ああ……たまになら、な」


「もし先生が怒りに来たらセンパイが説教されてください」


「おかしいだろ。お前が説教されてくれよ」


「……そのときは一緒に説教されましょう」


「それしかないよな」


 横目を流れていく光景は非日常のように映り、いつもより煌びやかに輝いていたんだ。


「あの、冬莉」


「……なんですか?」


「手、いつまで握ったままでいればいい?」


 冬莉もようやく気づいたようで、ほのかに顔を紅潮させながら手を振り解ほどく。


 校舎に駆け込んだ僕らは息を切らしつつ、反射的に少しだけ距離を置いた。


 手が届きそうで届かない。


 むず痒いような居心地のまま二人は各おの々おのの教室のほうへ別れようとしたが、


「……夏梅センパイ」


 名前を呼ばれ、冬莉のほうへ踵を返した。


 下手投げで何かを放り投げた冬莉を確認し、反射的に右手を伸ばす。手のひらに握られた円柱の物体はひんやりと冷たく、清々しい水分が五指に浸透した。


「……運動のあとは水分補給をしてください。今は昼休みだけのマネージャーより」


 さらっとしぼったオレンジ。


 試合に勝利したあとはこれを飲むのが最高だったんだよ。


「……ああ、ありがとな!」


「……明日もピアノ前で本を読んでいますので──」


 それ以上の台詞を、冬莉は紡がなかった。


「夏の体育館、暑くない?」


「……夏梅センパイが体育館を走っていた夏のほうが……暑かったですよ」


「お前が鍵盤の前に座っていた夏も……なかなか暑かった気がするぞ」


「……いつの間にか冷めきった大人になったんです。私も、夏梅センパイも」


「今日みたいな日が……昔はいっぱいあったんだけどな」


 忘れかけていた疲労と満足感、久しぶりに過ごす冬莉との昼休み。戸惑いながらも拒絶しなかった充実感を胸に秘め、軽い足取りで教室に戻った。

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