忘れさせてよ、後輩くん。【期間限定公開】

あまさきみりと/角川スニーカー文庫

第1話 初恋を忘れたい先輩と小悪魔なタヌキちゃん

 幸運のイルカと出会えたら【止まっている片思い】が動き出す。


 そんな話を数年前に聞いた気がする。


 心の片隅で期待しているのかもしれない。


 錆びついて止まっていた歯車が──再び動き出すのを。


 そうじゃなければ、放課後に受験勉強をサボって潮干狩りシーズンの海岸に来たりなんかしない。


 幸運のイルカとやらが海面からひょっこりと顔を出さないかな~なんて思いながらも、そんな光景は想像するだけでシュールすぎる。


 そもそも幸運のイルカってなんだよ……木更津なら幸運のタヌキのほうがまだ見つかりやすそうな気がするって。知らんけど。


 海沿いを歩くのは受験勉強の気分転換、あるいは将来への焦燥による現実逃避。


 それ以上でも、それ以下でもないのだから。


「ねえ、そこの少年」


 東京湾のアクアラインや対岸に霞む川崎のシルエットも見飽きた。


 ……帰ろう。七月の受験生は呑気に散歩をしている場合じゃないんだよ。


 傾いてきた太陽。水平線が眩ゆい夕方の波止場を引き返し、金田みたて海岸の駐車場へ戻ろうとする。


「おーい、そこの辛気臭そうに歩いている少年」


 僕の背後で誰かが呼ばれている。


 どこの少年かは知らないけど、さっさと応答してやってくれ。


「キミだよぉ、キミ。さっきから海を眺めて現実逃避をしている感じの少年」


 まさかと思い、ゆっくり振り向いてみると……視線が交錯してしまう。


「ずっと無視されるから、わたしのことが見えてないのかと思ったぁ!」


 僕と向かい合う小柄な女性。いや、あどけない少女。


 好奇心を詰め込んだ瞳に僕の間抜け顔を映しながら、悪戯に微笑む。


「……僕?」


「近くにキミ以外の少年がいる~?」


 波止場には僕と少女しか見当たらず、海辺の音と僕たちの声が存在感を主張している。


 小さな違和感の正体はすぐに理解できた。


 地元中学の制服を着た年下っぽい少女にタメ口で少年扱いされたからだろう。


「地元民なら制服を見ればわかると思うけど、僕は高校生だからな」


「地元民なら制服を見ればわかると思うけど、わたしは中学生だったんだぁ~!」


 年上アピールを華麗にスルーし、上機嫌そうな女子中学生は身分を明かす。


 明るい表情や元気な声音から受ける第一印象は、馴なれ馴れしいお調子者だ。


「ちょっと~全身を舐め回すように見ないでくださいよ~」


 この生意気JC、初対面でもお構いなしにからかってきてんな。


「あいにく年下の子供より年上の女性のほうが好みなんだ」


「でも、わたしのことを変な目で見てましたよねぇ~? まあ、男子高校生なんて可愛い女子のことで頭がいっぱいなんだろうけどさぁ~」


「それはまあ、うん。見てたけど」


「……えっちだなぁ、少年は」


 女子中学生は瞳を細めながら呆れた声を漏らす。


「えっちな目ではないからな。そこが重要だから」


「はいはい~、健全な青少年なら仕方のない衝動ですからぁ~」


 めっちゃ茶化されるけど、こちとら年上の先輩なのだ。


 あくまで平静を装い、大人げなく怒ったり取り乱したりはしないのよ。


「育ち盛りの女子中学生が大好きなキミの嗜好はさておき~」


「さておくな。僕は年上の大人っぽい先輩がタイプだし、優しくて包容力がある女性に可愛がられたいの。わかった? もう少し大人に成長してから出直してくれ」


「わたし、中学生にしては結構大人っぽいと思いますけどぉ~?」


 自らの発育に自信があるのか、中学生は得意げに胸を張ったものの……所詮は義務教育の子供。身長はやや高めで中学生にしては大人の香りも微かに鼻を撫でるが、比較対象として咄嗟に思い浮かべた〝とある先輩〟と比べると色気の差は明白だった。


 無意識に鼻で笑っても許してほしい。


「……はっ、今後に期待賞だな」


「おいこら、エロガキ。いま鼻で笑いましたよねぇ~?」


「エロガキはお前のほうだろうが! 僕のほうが年上のお兄さんじゃ!」


「はあ~~、えっちなお兄さんだなあぁ~」


 なに溜息吐ついてんだ、僕のほうが疲れるわ。


「……で、僕に何か用でもあるの? こう見えてもヒマじゃないんだけど」


 おちょくられて脱線しまくった話をもとに戻す。


 いきなり呼び止めてきた理由が多少なりとも気になっていた。この子とは間違いなく初対面なので、用事がないのに話しかけてくる関係性は構築されていないからだ。


「え~? どっからどう見てもヒマ人じゃないですかぁ~」


「こう見えても毎日のように勉強してる受験生だよ」


「東京湾を眺めると頭が良くなるんですか? 知らなかったなぁ~」


 へらへらとあざ笑ってくる中学生相手に何も言い返せないよお……。


 年上の高校三年生を弄んで満足したのか、中学生はゆっくりと歩を進め……海岸の駐車場にぽつんと停とまっていたバイクの後部座席にちょこんと腰掛けた。


「ん~、シートが硬くて座り心地は良くないですねぇ」


「やかましい。勝手に乗って文句言うな」


「あと、それなりにボロくないですかぁ? ちゃんと公道を走れるやつです?」


「車検も通ってるから大丈夫だよ。一九六〇年代の車種にしては状態も悪くないって」


 色褪せや錆びが目立つレトロな鉄スクーターは、ラビットS301スーパーフロー。つまり僕が所有するバイクに蟹股で跨がっている精神の図太さを見せつけてきたのだ。


「どっち方面に帰るんですか~?」


「僕? みまち通りのほう」


「わたしと同じ方向じゃん! やったね~っ!」


 中学生はスカートから伸びた両足をぱたぱたと振る。


 だいたいの思惑が読めてきたぞ……。


「ここで会ったのも何かの縁なのでぇ、家の近くまで乗せてってください!」


 だろうね。それしか思い当らないわ。


「もしかして……ここから歩きで帰るのが怠いから僕に話しかけてきただけ?」


「それだけじゃないですよ? 寂しそうなキミとお喋りしてみたかった~みたいな?」


 円つぶらな目が縦横無尽に泳いでんだよな。


「実は自転車がパンクしちゃいましてぇ~」


「それで?」


「こっから歩いて帰るのは地味に遠くて怠いんでぇ~」


「それで?」


「二人乗り、おねしゃす」


 正直に白状し、ぺこりと頭を下げた中学生の少女。いきなり丁寧な態度で媚びてきやがったが「おねしゃす」というふざけた一言で気が抜ける。


「困っている女の子を置き去りにしないですよね……? ねっ、ねっ?」


 捨てられた子犬のような潤った瞳をやめろ。


 あざとさに呆れつつも放置して立ち去るのは後味が悪いし、この場所に来るたびに冷たくあしらった映像を思い出すのもしゃくだ。


「初乗りは三百円、その後は距離に応じて八十円ずつ加算。遠慮せずに乗ってくれ」


「ひどーいっ! こんな女子中学生からタクシーみたいな料金をぶん取るんですか!? そんなお小遣いなんてありませんよぉ~、年上の頼れるセンパーイ♪」


 こんなときだけ先輩扱いの猫撫で声を操りやがる……!


「おねがーい、おにいちゃん? おうちに帰ろ?」


「妹よりは後輩設定のほうが好きだな……じゃなくて。もう、しょーがない……」


 僕はうんざりしながらも自分用のヘルメットを被かぶり、運転席へ跨ったついでにチョークレバーを引く。挿し込んだキーをONへ回し、右足で後輪ブレーキを踏みながらセルスイッチに触れ、かなり年季の入ったスクーターを始動させた。


 ぽんぽんぽんと小気味のいいエンジン音が鳴り始め、海の音を機械的に汚す。


「わたしを乗せるとキミにも素敵な特典がありまーす」


「へえ、どんな?」


「ずばり……美少女中学生を後ろに乗せて地元をツーリングしたという青春の甘酸っぱい思い出です! 年頃の男子なら憧れるシチュじゃないですか? ねっ?」


「聞いた僕がバカだったな」


「死ぬほど憧れてくださいよバカ受験生」


 うすーいリアクションがお気に召さなかったらしく、すぐ背後に座る中学生にヘルメット越しのチョップをもらう。


「もし置き去りにしたら、受験に失敗する呪いをかけますからねぇ~」


「もしそうなったら高校受験に失敗する呪いを返してやる」


「うわー、クズお兄さんですねー」


「クズ妹が何言ってんだ」


 今回だけは地元民のよしみで送迎してやろうじゃないか。困ったときは助け合い。僕がよく知っている〝先輩〟なら、こういう場合でも優しく手を差し伸べると思うから。


 中学生にも予備のヘルメットを手渡し、手際の悪い装着を見守る。


「まあ、初回限定サービスということで今日は無料送迎してやろう」


「わーい、陰気で冴えない少年でも優しいところがあるじゃーん。ただのダメダメ浪人予備軍じゃなかったんですねぇ~」


「さっさと降りろや」


「うそうそ、キミはカッコいいメンズです。もう惚れちゃいそうです。へいへい」


 お調子者な中学生の思惑にすっかり乗せられつつ、先ほどまで海を眺めながらウダウダと渦巻いていた女々しい思考は一時的に消え去っていたことに気づく。


 いい気分転換になったかもしれない。


 この場所に来た数十分前までとは異なり、今の気分は幾分か晴れやかだった。


「落ちないように掴まっててくれ」


 身を寄せた中学生が僕の脇腹を掴んだ感触を合図にしてスタンドを下ろし、ブレーキを離しながらアクセルをゆるりと回していく。


 不快な排気ガスを海風に溶かしながら、古ぼけた愛車を発進させた。


 海辺から別の海辺へ。


 走行中の風切り音を跳ね返す声量で中学生に帰り道を案内され、鳥居崎海浜公園の遊具エリア『まごころ広場』に隣接した駐車場にラビットを停める。


「ここからだと歩いてすぐ帰れるので! あざした~!」


 ヘルメットを外し、地面に降り立った中学生は感謝の笑顔を振り撒く。


「ん~、なんですかその渋い顔はぁ。可愛い~女子中学生と密着しながらのニケツで青い春を感じましたよね? それなら安いもんでしょ~」


 僕は乾いた苦笑いを隠せない。子供を諭すのと大差ない口調で肩をすくめられ、こちら側が大人げないかのような印象操作をされてしまう。


「しょうねーん、ありがとっ♪」


 ──ふいに頭を撫でられ、不覚にも心臓の鼓動が小躍りした。


 お茶目な言動と甘い不意打ちを巧みに使い分けてきやがって……! 


 からかっているだけなのは理解していても、ちょっと嬉しいのが男の子って生き物だ。


 単純すぎて清々しいね、まったく。


 そのままゆっくりと歩を進めた中学生が、次第に公園から離れていく。


 僕はバイクに跨ったまま、少女の後ろ姿を見送っていたのだが、


「わたしに素敵なことをしてくれたキミにも素敵なことが起きるといいですねぇ!」


 初夏の鮮やかな夕日に照らされた少女は、こちらに振り返りながら満面の笑みを咲かせてそう告げる。


 ふと、とある一点に視線が吸い寄せられた。


 中学生が髪に挟んでいたヘアピンはイルカっぽいデザイン。


 だからなんだというわけではないものの異様なほど似合っている気がして、そこはかとなく美しいように思えた。


 口を結びながら見据える僕に対し、中学生は声にはならない唇の動きを示す。


 去り際に見せた唇の動きは短くシンプルで。


 ──そして、ごめんね。


 完全に憶測。


 もし謝っているのだとしたら、なぜなのかはよくわからなかった。


 中学生が帰路へ消えていったあと、僕も帰るためにラビットを発進させようとした。


 しかし、本能が訴えかけてくる。海沿いの公園には似つかわしくないドリブルの音を鼓膜が拾い、エンジンを切ったラビットから降りたくなった。


 公園の一角に身体が引き寄せられ、自らの記憶に馴染んでいる経路の先……新しめの屋外バスケットコートが常時開放されている。


 バスケコートとはいっても、ゴールは片面だけの3on3専用ハーフサイズ。


 ここに来るときは心臓が過剰に高鳴っていたのを細胞が覚えているし、あの人が近くにいてくれると身体が軽くなった気がしていた。


 少年のことを可愛がってくれた姉のような〝先輩〟が微笑みながら、優しい声音で穏やかに褒めてくれるだけで──もっと好きになった。


 バスケコートにふらふらと近づき、ぽつんと立ち尽くす僕の足元にくすんだオレンジ色のボールが転がってくる。それは、紛れもないバスケットボール。


「いきなりはズルいですよ。心の準備なんてしてなかったのに……」


 驚きと嬉しさが入り混じった呟やきが自然に零れてしまう。


 ダメだ。まったく予想もしていなかったし、意表を突かれた無防備な心が甘美な恋心で満たされていく。


 かつての恍惚な感情を、恋をしていた日々を、ふつふつと思い出してしまうから。


 いきなり目の前に現れるのは、やめてくれ。


「そこの高校生くん、ボールを取ってもらえると嬉しいな」


 ボールを拾い上げた瞬間、薄汚れた心境をさらに漂白してくれるような女性の声。


 鼓膜を通じて心地よく広がる懐かしさ。


 ザラつく肌触りのボールを両手に抱え、僕は歩を進める。


 ゴール下で可憐に待っていたのは、見知った姿より大人びていた女性。


 ショートボブだった黒髪はブラウンのミディアムヘアーに様変わり。派手すぎないメイクにより素材が持つ透明感をさらに引き立てる。レーススカートが夏の微風で揺れるたび、小刻みに波打つ高揚感は頬に微熱を生じさせていった。


 その女性と見詰め合った僕は足を止められ、言葉を失うほど見惚みとれてしまったんだ。


先輩……」


 見知りすぎた年上女性の名を──呼ぶ。


「久しぶりだね、なつくん。半年ぶりくらいかな?」


 ひろ春瑠。一つ年上の大学生だ。


「いえ……春瑠先輩が卒業してからなんで、ほんの四ヵ月ぶりくらいですよ」


「それじゃあ夏梅くんがあまり変わってないのも納得だねー」


「春瑠先輩は結構変わりましたよ。髪も長くなったし茶髪に染めてるんで……遠目からだと誰かわかりませんでした」


「東京の大学生になったからさ、田舎者だって舐められないように頑張ってオシャレしてるんだけど……似合ってないかなー?」


 落ち着け、僕。動揺するな。


「に、似合っている……と思いますよ! 高校時代の先輩も好きでしたけど!」


「えっ、好きだったの? ワタシ、告白された?」


「あっ、いえっ、ち、違います……! 高校時代の爽やかな黒髪とか女バスのユニフォーム姿も先輩らしくて良かったなぁ~って意味で……!」


 緊張によってしどろもどろ。砂漠化した唇や舌が上う手まく回らない。


 くっそ、取り戻せ……四ヵ月前までの距離感! もう少し普通に喋ってたのに!


「うーむ、東京に染まった女子大生より木更津の小娘だったころのほうが夏梅くん的にはお好みなんだ? ワタシの乙女心は複雑だな~」


 不満そうに唇を尖とがらせる先輩も可愛い。


 ころころと移り変わる柔軟な表情は死ぬまで眺めていても飽きないね。


「こうして春瑠先輩と会うのが突然すぎたから……かなりビビってます。スマホにメッセージの一つでも入れておいてくださいよ」


「ここにいれば夏梅くんに会えるかな、と思ってさ。ワタシなりのサプライズだね!」


 僕は両手でボールを押し出し、春瑠先輩へ照れ隠しのパスを送る。実際まだ浮ついた心境は収まっておらず、顕著に上昇した心拍数も下降の素振りすらない。


 冗談抜きにいきなりすぎるだろ。心の準備くらいさせてほしかった。堪えられない頬の緩みを不自然に俯いたりして誤魔化すのが関の山だ。


「こらこら、そんなに春瑠お姉さんと会えたのが嬉しかったのかなー? 夏梅くんは相変わらず可愛いねぇ。弟にしたいくらいだ」


 冗談めかしな台詞を交えながら歩み寄ってきた先輩は僕の肩をポンポンと叩く。


 だらしない表情を晒したくない相手だが、好奇心旺盛な春瑠先輩は覗き込もうとしてくるもんだから咄嗟に顔を逸そらした。


「一人暮らしの新生活は慣れなくて少し寂しかったから、こうして制服の夏梅くんと話すのが懐かしくて落ち着くよ」


 僕は心底飢えていたのだろう。この人と話せる時間を。


 充実した時間は早く過ぎ去るのに、この人が高校を卒業してしまって物足りない日々になってからの四ヵ月は数年分に等しい体感だったかもしれない。


「あれ? 夏梅くん、ちょっと身長が伸びたんじゃないのー?」


「……たった四ヵ月じゃそこまで変わらないですって」


「えー? 絶対伸びてるって~。ワタシと何センチくらいの差があるかな?」


「ちょっ、春瑠先輩……」


 近い近い……お互いの身長を比べたいのか、妙に接近してくる春瑠先輩。


 香るフレグランスが恋する男子の心境を心地よく彩り、まつ毛の一本一本が鮮明に見えた。木更津にいたころよりも、大人の香りがした。


 咄嗟に一歩だけ後ずさる。


 じわりと帯びる肌の熱や不規則に揺れる自分の視線を悟られないように。


「せっかくだし、ちょっと見ててくれる?」


 おもむろに春瑠先輩はゴールのほうへ身体を反転させ、両手を添えたボールを夕焼け色の空へ放つ。伸び切った上半身。理想的なシュートフォームから放たれたボールは重力に引かれ、美しい放物線を描き、リングに吸い込まれていった。


「よしっ! まだまだワタシの腕は衰えてないな、うん」


 地面に落ちたボールが一回、二回と弾む。


 コートを叩くバウンド音が次第に小さくなり、やがて静寂に包まれたことで周辺を走行する車両の排気音がなおさらうるさく感じられる。


 よしっ! という可愛らしい発声とガッツポーズが、僕の五感を幸せに満たして奪う。


 今の白濱しらはま夏梅は──広瀬春瑠に感情を支配され、この人のことしか考えられない。


「夏梅くん」


「……えっ?」


 唐突に名前を呼ばれ、我に返った。


「じっと見つめすぎ。恥ずかしいじゃん?」


 眉をひそめた春瑠先輩におでこを突かれたものの、すぐに微笑んでくれる。


「ブランクの影響で下手になっていないかどうか、じっくり眺めていました。女バス時代と同じようないいシュートでしたよ」


「こらっ! シュートを外したらヤジでも飛ばすつもりだったんかい! 後輩のくせに生意気だな!」


 くしゃくしゃと髪を撫でられ、嫌がるふりをしながらも撥ね除けない後輩男子。


 あなたが卒業してからずっと、こんな時間を待ち焦がれていた。


「そういえばキミも受験生だよね。どう? 受験勉強のほうは順調かなー?」


「勉強は順調すぎるので帰省したときはいつでも遊びに誘ってください」


「ありがとっ! 持つべきものはどんなときでも駆けつけてくれる可愛い後輩くんだ」


 春瑠先輩との時間を共有したいから、可愛い後輩であり続けたいから、受験勉強が順調という小さな見栄を張っても許してください。


 彼氏になれないのなら、あなたにとって一番の後輩でいさせてほしい。


「ワタシと同じ大学に合格できるように頑張りたまえ。待ってるからね、後輩くん」


 無垢な微笑みに激励を添えられると、漠然と滞っていた寂しさが根拠のない期待感へと衣替えする。それくらい僕という人間の構造は単純明快なんだ。


 明確な夢なんてないけど、春瑠先輩と同じ大学へ進みたいという欲求はある。


 でもそれは、春瑠先輩が期待する僕の姿ではないだろう。


 幸運のイルカ……か。


 なぜかこのタイミングで出所不明の噂話が脳裏をかすめる。


 東京でのキャンパスライフやバイトが忙しく木更津に帰省する素振りすらなかった春瑠先輩が、夏の始まりに気まぐれで顔を見せに来た。


 僕が久しぶりにこの場所を訪れた日と同じ日、しかも同じような時間帯に。


 


 幸運のイルカと出会えたら【止まっている片思い】が動き出す。


 


 木更津の海に本物のイルカが泳いでいる目撃談はないけど、波止場で出会った女子中学生が偶然ながらも僕を導いたような形になっている。


 ……アホくさ。そんなわけあるか。


 出所不明の陳腐な作り話を本気で考えるのもバカバカしかった。


 イルカの髪飾りごときで関連性をこじつけるほど恋愛観をこじらせてはいない。


 僕の片思いはすでに永久凍土に等しい。


 春瑠先輩とお喋りできた小さな幸運を噛み締めるだけに気持ちを留め──夢心地だった気分を現実に戻す。


 明日からまた、受験勉強と現実逃避の日々。そうなるに決まってる。


 水平線で燃え滾ぎる太陽は夕方でも簡単に沈む気配がなく、誰も傷つかない現状維持の関係に浸る受験生の肌を未だに炙り続け、浮き出た汗がしっとりとシャツを濡らす。


 とっくに凍りついた初恋とは裏腹。


 今年の夏も、暑くなりそうな予感がした。




「待ってるからね、後輩くん……か」


 自分にだけ聞こえる独り言混じりの吐息を漏らし、つい口角が上がってしまう。


 ほくそ笑んでいる気持ち悪い男がここにいる。


 はあ~、受験勉強どころじゃねえ。夢見心地が止まらないんだが!


 曇っていた世界に突如として穏やかな光が差し込んだかのよう。明確に違う。瞳に映る日常の景色がより鮮やかに生まれ変わった心境が心地良い。


 机の陰で器用に弄るスマホに表示されたメッセージアプリを眺めては口元を緩めている授業中の午後。


【夏梅くんのお母さん、相変わらず帰りが遅いんでしょ? 今日の夜はワタシも予定がないから、もしよかったら夕飯とか作りに行こうか?】


 嬉しすぎるメッセージの差出人は、もちろん春瑠先輩。


 流行りのキャラが敬礼している可愛らしいスタンプまで添えられていたので、僕も似たようなスタンプを秒速で返す! 断る理由がない。


 なんだよ、なんだよ~。


 いいのか? こんなに心躍るイベントが二日連続で起きてさ。


「なあ、夏梅。受験勉強の息抜きに今日くらいは遊んで帰らねえ?」


 授業の要点を解説する教師の声などお構いなし。隣席の友達がヒマ潰つぶしを持ち掛けてきたが、今の自分は男の友情を育んでいる場合じゃなかった。


「わるい。どうしても外せない先約があるから、さっさと家に帰る」


 スマホ画面を眺めながら爽やかに断ると、怪訝な視線で炙られる。


「お前……さっきからスマホを見てニヤニヤしてるよなあ? 女か? 女だろ?」


「察してくれ」


「おーいっ! 抜け駆けとかクソやん、クソ! 女と遊んでる受験生なんて浪人してくれや! 天罰下れ!」


 やかましいな。教師が咳せき払ばらいしながらこっちを睨んでいることに気づいてくれ。


「はーん、さては広瀬先輩だろ? お前ら、めっちゃ仲良かったもんなあ」


 だっる。


 好奇心旺盛な友達は声量を下げつつも、恋バナを膨らませようとしてきやがる。


「恋人より近い仲だからな」


「ざっけんな、裏切り者があ……。もう遊びに誘ってやらねーからな……」


「そんなこと言わずに誘ってくれよ、友達だろ」


 ウケ狙いの発言だったのに、そこそこ本気で悔しがられる。男子グループの友情に女の影を匂わせた途端、裏切り者扱いを受ける理不尽さよ。


 昨日は突然のことで舞い上がっていたが、一日ほど経たって冷静になってみると喜ばしいだけの状況ではないことを本能が察する。


 あの人は二日連続で地元に帰ってくる。ちょっと不思議だった。


 ようやく先輩が身近にいない生活を受け入れ始めたのに、不意打ちの出会いでみっともなく高揚し、不完全燃焼だった未練の種火が灯ってしまうなんて。


 適切な距離を維持しておきたい建前と、素直な欲求に従い安易に会いたいという本音の面倒な天秤が小刻みに揺れ動く。


 ……お人好しな先輩のことだから、特別な思惑ではないんだろうけど。


 年頃の男女が二人きりになるなら部屋は綺き麗れいに片付けておいたほうがいいよな?


 変な期待はしてないし異性として意識しない──なんて自分を騙そうとしても、頭の片隅では妄想の映像がリピート再生されている。


 はあ……もう勉強どころじゃない。


 うああ……春瑠先輩のことしか考えられねえ。


 とても青臭くて痛い。


 白濱夏梅の思春期は、一方的な恋に振り回されっぱなしだ。


「てか、まだ広瀬先輩のことが好きだったんだなあ。オレはてっきり──」


 そこまで言いかけた友達だったが、意味深な部分で台詞を切る。


「……春瑠先輩と付き合えるなんて思ってないよ。今はただ……弟みたいな後輩として可愛がってもらえれば」


 ──それだけで満ち足りているから。


 それ以上を望むのは贅ぜい沢たくで、絶対にありえない。


「お前、顔はまあまあ整ってるし頭も悪くないんだから、誰か他のやつと付き合えばいいのに。ここだけの話、夏梅のことを好きな女子は結構いるらしいぜ?」


「それは光栄だな。高校に入ってから女子に告白された覚えはないけど」


「当たり前だろーが。広瀬先輩と話してるときの夏梅は誰がどう見てもデレデレだから、他の女子が入り込む余地がねえんだよなあ」


「僕って……そんなにわかりやすかったのか」


「拗らせ片思い野郎」


「不名誉なあだ名はやめてくれよ」


「お前が片思いしている限り、お前も誰かの片思いを静かにへし折ってるのかもなあ」


「……知るか」


 素っ気ない返事をしながら、胸の奥がちくりと痛む。


 もし僕のことを好きなやつが身近にいたとしても、心が読める人間なんていない。


 声や文章に想いを託して伝えてくれないとわからない。


 僕自身も同様だ。


 好意を伝える気のない沈黙の片思いは、永遠に届かない。


「いっそのこと告ってみればいいのに。そのほうが楽になるんじゃねえ?」


「別にいいんだよ。春瑠先輩とは……ずっとこの関係のままで」


 他人事だと思って軽率な発言をされると、若干の苛立ちが芽生える。


 拗らせた自らへの不快を誤魔化すかのように、黒板に書かれた授業の要点をルーズリーフに書き殴ろうとしたが、シャーペンの芯がさっそく折れた。


 受験も恋愛も、もう少し上手くやれたらいいのに。


 勉強するモチベも折れたので、悶々とした気持ちに蓋をするべく机に突っ伏した。


「白濱先輩、ちゃーっす!」


 あっという間の放課後。帰宅部の友達と廊下で駄だ弁べっていたのだが、僕たちの会話は芯が通った大声に上書きされる。


 声の主は二人組。彼らの視線の先には僕がいた。


 見知った後輩たちが律儀に頭を下げて挨拶してくる光景を目の当たりにし、僕は思うのだ。


 ああ、そういうことね──と。


「……おっす。頑張ってな」


 僕が覇気のない声を返すと、後輩たちは会釈しながら立ち去っていく。


 彼らにとって放課後は自由な時間なんかじゃない。


 こんな場所で無駄に駄弁ろうともせず、体育館へ足早に向かうのだろう。


「今の誰? 夏梅の知り合い?」


 彼らとは面識のない友達が、僕に疑問符を投げる。


「ただの後輩。もうほとんど交流はないよ」


「そんな先輩でも見かけたら挨拶するなんて体育会系の上下関係はきっちりしてるねえ」


 えらく感心したように肩を竦められるが、ずっと帰宅部だった者には理解し辛づらい空気感かもしれない。


 そんな僕だって今は帰宅部側の住人なんだけども。


 家が別方面の友達と校門前で別れ、一人きりの帰り道に身を預ける。 


 通い慣れた自宅への経路。一般的な住宅街があるかと思えば、海沿いの河川には無数の小舟が並んでいる木更津の景観。


 アクアラインが開通してからは神奈川や東京への利便性が格段に向上し、大型ショッピング施設が郊外に進出した影響も重なって駅周辺の商店街は活気を失いつつあるらしい。


 僕の家が近い〝みまち通り〟も昔は商店街だったらしいが、僕の世代はタヌキの石像が出迎える住宅街の印象しかないだろう。


 春瑠先輩みたいに東京の大学へ進みたいという気持ちもわかる気がする。


 でも……僕はこの町が好きだ。


 様々な場所を通り過ぎるだけで、春瑠先輩との思い出を感じることができる。


 この町で春瑠先輩と出会い、彼女に恋をしているから──


 とっくに見飽きている風景にも、僕は恋をしている。


 地元の景観に一般市民として溶け込み、矢那川の富士見橋に差し掛かったとき──背後から近づいてきた一台の自転車が颯爽と通り過ぎた。


 ママチャリの運転者はブレーキを握り締め、小さな橋の途中で停車。運転者の女生徒がくるりと腰を捻り、上半身だけこちらに振り返る。


 だから僕も帰路への足を止められてしまう。


「その見覚えのある間抜け顔は、夏梅センパイじゃないですか」


 


 見覚えのある間抜け顔はお互い様だよ。


とう……」


 自らのほうけた口から、彼女の名前が自然に零れ落ちた。


 細身の肩に毛先が触れるショートボブな髪型は夏の爽やかさを演出しているが、声色には冷感が滲み、僕を映す瞳はやや強張っている。


 僕が通う高校の制服を着た二年生『たかなし冬莉』が目の前にいる放課後は、鮮烈な懐かしさすら覚えてしまう。


「……いつもはセンパイを見かけないのに、今日は珍しく帰るのが早いですね」


 溜め息混じりの小声から察するに、褒められていないことは確かだ。


「こう見えても受験生なんだ。たまには真っすぐ帰って勉強しないとマズいだろ」


「……センパイがやる気を出すなんて、超常現象の前触れのような気がします」


 めちゃくちゃ失礼な後輩だな。


「冬莉は備品の買い出しか?」


「……そうですね。マネージャーの仕事ですから」


「買い出しにしては、ずいぶんと遠くまで来てるよな。ドリンクだけなら学校近くのコンビニで十分じゃない?」


「……帰ろうとするセンパイが見えたので、たまには様子を見てあげようかなと」


 そのためだけにチャリで追いかけて来たんかい。


 よほど心配されているらしいな、このダメダメ受験生は。


「学校の近くで話しかけてくれたらよかったのに。チャリならすぐに追いつけたよな?」


「……センパイと話すのが久しぶりなので、どう話しかけていいのか迷ってただけです」


 話しかける第一声を考えているうちに、僕の背後をずっと彷徨ってたらしい。


 ついに意を決し、颯爽とチャリで通り過ぎながらの第一声が「その見覚えのある間抜け顔は、夏梅センパイじゃないですか」だったというわけだ。


「ふふっ……冬莉らしい」


「……なに笑ってるんですか。センパイは相変わらず腹立たしいですね」


 笑みを吹き出してしまう先輩と、やや不機嫌そうにムッとする後輩の対比が懐かしい。


 この一年の間に忘れかけていた。


 こんな放課後の一ページは、もう味わえないかと思っていたのに。


 お互いに肩を並べ合いながら阿吽あうんの呼吸で歩き出したものの、変な気まずさが二人を包み込む。よそよそしくて背筋がむず痒いような雰囲気が場の空気を濁した。


 仲が悪いわけじゃない。久しぶりに話したから、以前の距離感を取り戻すのに手間取っているだけなのだ。少なくとも僕のほうは、だけど。


「……春瑠センパイですか?」


「へっ?」


「……夏梅センパイがやる気を出すのは、春瑠センパイ絡みですよね」


「いやいや、春瑠先輩は関係ないって。気のせい気のせい」


「……その焦ったような反応で察せますよ、センパイ」


 実際その通りなので強く否定できないけど易々と肯定するのも躊躇う。


 静かな声色に怒りは感じないものの、小さい棘が忍ばせてあるように感じるのは気のせいだろうか。


「……夏梅センパイは嘘をつくときの癖があるんです」


「マジで? 自覚がないから参考までに教えてくれ」


「……嫌です。私だけ見抜けるほうが面白いじゃないですか」


 意地悪な冬莉は意味深に表情を綻ほころばせながら、


「……相変わらず、嘘をつくのが下手ですね。夏梅センパイは」


 こちらへ視線を移し、ほのかな温かみを覗かせた微笑みを残す。機嫌がいい……いや、機嫌の良さを表情に表す冬莉は珍しく、不覚にも可愛いと思えた。


「冬莉だって相変わらず笑うのが下手だな」


「……うるさいです。というか、笑ってないですし」


 遺憾の意を表明した冬莉の指先で肩をぺしっと小突かれる。


「ムスッとした不愛想な顔より、笑った顔のほうが可愛いと思うけど」


「……軽々しく可愛いって言わないでください。センパイに口説かれても迷惑なので」


「ああ、いつも可愛い。冬莉はホントに可愛すぎる。めっちゃ可愛くてヤバい」


 可愛いを連呼するたびに何度も小突かれたが、一発目よりも力加減が優しい。


「この場所……いつの間にか更地になってたんですね」


 富士見橋を渡ってから少し先、数軒のスナックが点在する地味な路地の一角にぽっかりと空いた更地を見詰めた冬莉が自転車を押す足を止めた。


「……センパイ、覚えてます? 中学のころ、ここにあった廃墟を待ち合わせ場所にしてセンパイの朝練に付き合ってましたよね」


「ああ、もちろん。そのときはスマホを持ってなかったから、お互いの家が近いこの場所で待ち合わせをしてたんだよな……」


「……そうです。センパイが寝坊して朝練に遅刻するたびに、私は不機嫌になりながら建物の前で待ってたんですから」


 二人の舌が滑らかになり、細やかな思い出話にも花が咲く。


 ボウリング場やゲーセンが複合した娯楽施設のビルだったが、僕たちが小学生のころには完全に廃業したらしい。


 昭和の匂いが漂う古ぼけた廃墟だけが暫しばらく残されていたものの、どうやら僕たちが待ち合わせをしなくなったあとに取り壊されてしまったようだ。


「ここがまだ営業していたとき、一度だけ連れてきてもらったことがあったんだ。ボウリングの他にも卓球とかビリヤードもあってさ、めっちゃ楽しかったな」


「……初耳です。センパイのお母さんに連れてきてもらったんですか?」


「いや、中学生だった春瑠先輩と一緒に」


 何気ない一言を零した瞬間、冬莉の瞳がジトっと重くなった……ような?


「……隙あらば春瑠センパイとの思い出を語りますね、夏梅センパイは」


「うう……過去の思い出に縋らないとやってられないんだよ……」


「……はあ、初恋を拗らせまくった夏梅センパイらしいですが」


「なんか怒ってる?」


「……怒ってないですよ。どうしようもないな、と思ってるだけです」


 冬莉が漏らす溜め息には呆れの他にも「こいつは救えねえな」みたいな諦めが混ざっているのかもしれない。きつい後輩だ。少しは温かい言葉をくれよ。


「……私も似たようなものなので、どうしようもないのはお互い様ですが」


 どこが似ているのかは抽象的な台詞から読み取ることはできなかったけど、今この瞬間みたいに冬莉がふいに晒さらしてくれる一瞬だけの笑顔は何回でも見ていたい。


 更地の前で数分ほど立ち止まり、円滑に紡いでいた談笑が……ふと途切れた。


「……卒業後の春瑠センパイは、お変わりないですか?」


「ああ、普段通りの春瑠先輩だったよ。むしろ前よりも元気になった気がするくらいだ」


「……それなら安心です。卒業してからは顔を見ていなかったので……普通の大学生活を送れているなら良かったです」


 僕と冬莉に共通する過去の記憶が脳裏に過よぎったのだろうか、お互いの声音が重厚に引き締まる。軽々しい雰囲気が消え、時折視線を足元に逃がしながら。


「……来月はウインターカップ予選です。三年生にとって……最後の大会です」


「僕にはもう関係ないよ」


「……センパイはもう、部活には戻らないんですか?」


 数秒の沈黙を挟み、言い辛そうにしながらも冬莉は投げ込んでくる。


「ないよ。もうバスケはやらない」


 ほぼ即答。


 表情や声色などに波風は立てず、僕は淡々と返事をした。


「……それは、夏梅センパイのお兄さんが歩んだ人生の真似ですか?」


「退部するときにも言っただろ。それは関係ないって」


 一切の躊躇ちゅうちょなく、僕の弱い部分をくすぐってくるのが冬莉らしいな。


「バスケよりも大切なものがあった。兄さんの代役になってもいいから、春瑠先輩のそばにいてあげたかった。ただ、それだけだったんだよ」


 それだけを言い残し、僕は自宅の方向へ歩を踏み出し始める。


 反対側の学校に戻るであろう冬莉を置き去りにして。


「……夏梅センパイ!」


 寂しい背中に冬莉の声が刺さり、僕は振り返らざるを得ない。


 冬莉は自転車のカゴに入れていたビニール袋から円柱の物体を取り出し、何を思ったのか……僕のほうへ放り投げてきた!


「……っと!」


 咄嗟に差し出した右手で掴んだ瞬間、金属が冷えた感覚と結露が手のひらに浸透する。


 受け取ったのはアルミ缶のジュース。さらっとしぼったオレンジだった。


「……勉強を頑張るセンパイに差し入れです」


 部活をやっていたころもこうやって、マネージャーの冬莉から──


 懐かしさが膨張し、全身を瞬時に駆け巡った。


「……たぶん無理でしょうけど、春瑠センパイと同じ大学に合格できるといいですね」


「正直、大学受験に挑むかどうかは……まだ迷ってる」


「……本当に心配ばかりかけさせる人ですよ、夏梅センパイは」


 消え入りそうな声で呟きながら、今度は冬莉が背を向ける。


 ペダルを漕こぎ出した後輩の後ろ姿は次第に遠く離れていき、僕の視力があいつを判別できなくなるまで一分もかからなかった。


 心配させてごめん。


 わざわざ様子を見に来てくれてありがとな、冬莉。


 


*  *  *


 好きな女の子が家に来ることを想像するだけで、足取りがふわふわと軽い。


 今なら大空まで羽ばたけそうな気がする……などと能天気に、はしゃいでいた自分がアホだった。


 普遍的な一軒家の自宅に戻り、いつものように玄関で靴を脱いだ瞬間──。


「ちょっと~、冷蔵庫に冷たいジュースが入ってないんですけど~?」


 …………。


 ……どうしてっ? 困惑を禁じ得ない。


 ここでは聞こえないはずの声が、リビングから聞こえてきたのはなぜでしょう。


「あっ、しょうねーん。おっかえり~♪」


 リビングのソファに寝転がりながら、両足をパタパタと跳ねさせる少女。


 いや、少女とくくるのは美化しすぎか。


 なんか懐かれてしまった小生意気な中学生。


 にこやかな表情で告げられた台詞を理解できず、というか意図がまったく読めず、僕は開いた口が塞がらなかった。


「ウチの家、ついにタヌキが忍び込むようになったのか」


「誰がタヌキですか! どう見ても可愛い~美少女中学生じゃないですか!」


「それなら不法侵入で通報しよう」


「不法侵入じゃないですよ~。わたしたち、もう友達じゃないですかぁ~」


「誰が友達じゃ。まだ会って二日目だろうが」


「男女が単車でニケツしたらもうダチですよぉ! てか、家に帰ったら可愛い女子中学生がいるなんて普通は喜ぶところでしょ~っ! まったく最近の草食系とやらはぁ~!」


 もしかしたらアレか?


 親切にされた相手を親だと思い込んで懐いてくる系のタヌキちゃんなのかな?


「……てか、僕のお菓子を勝手に食うなよ! 受験勉強の休憩で楽しみにしてたのに!」


「あはは~っ、懐かしい~。わさビーフってまだあったんですね~」


 食害で駆除してえ。


 侵入したタヌキJCが悪びれもせず、僕のスナック菓子を頬張ってやがる。


「というより、どうして僕んちの場所を知ってるんだよ……。しかも玄関の鍵は?」


「近所に住んでるので少年を何度も見かけたことがありますし~。玄関のドアはガチャガチャしたらフツーに開きましたけどぉ?」


 さては出勤するときの母さんが鍵を締め忘れたな。困った母親だ。


「害獣駆除の業者なんて近くにあったかな……」


「えっ、どこに害獣がいるんですか? 冴えない浪人候補生と超絶美少女JCしか見当たらないんですけどぉ? ん~?」


 殴らないけど殴りてえ~~~~~。


 ぎゃーぎゃーと御託を並べながら菓子を食いまくる自由奔放さがウザいので、とりあえずスナック菓子を奪い取っておく。


「あっ! わたしのわさビーフっ! どろぼう!」


「泥棒はお前だろうが!」


 幼稚な中学生は奪い返そうとソファから起き上がってきたため、僕は背伸びをしながらスナック菓子を高く掲げた。


 往生際の悪い中学生が懸命に手を伸ばし、ぴょんぴょんと飛び跳ねてくる。


「か弱い女子をい~じ~め~る~な~っ! んっ、ぬっ!」


「よーしよしよし、タヌキちゃん。頑張ってお菓子を取ってみるんだ」


「こらぁ! 犬みたいに頭をな~で~る~な~っ!」


 茶化すように頭を撫でてやれば、中学生は負けじと背伸びしながら密着してくる。


「おすわり」


 お座りを命じたら律儀にソファへちょこんと正座してくれた。


「よーしよしよし、えらいえらい」


「わーい! 少年はやっぱり優しいなぁ~♪」


 ご褒美に頭を撫でつつスナック菓子をプレゼントしてやると、満面の笑顔で食べ始めた中学生……うん、飼い犬ができたみたいで癒されるな。いや、飼いタヌキか。


 所詮は義務教育のお子さま。生意気だけどなずけるのもちょろいぜ。


「そういえば、木更津セントラル跡地の前で後輩ちゃんと青春してましたよねぇ?」


 冬莉との立ち話をこっそり覗き見されていたらしい。


「あそこにあった娯楽施設って木更津セントラルって名前だったのか。ずっとボウリング場とか廃墟って呼んでたから正式名称は初めて知ったよ」


「えっ? 木更津市民なら常識じゃないですかぁ~? もうとっくに閉館しちゃいましたけど、木更津セントラルシネマっていう映画館もフロア内にあったんですよぉ。そこで映画を見るのがわたしの青春だったなぁ~」


 中学生のくせに一丁前な青春を語るねえ。


「子供のころは父親の方針で遊ばせてもらえなかったから、遊び場には詳しくないんだ」


「あーあ、少年ともう少し早く出会っていれば連れて行ってあげたのになぁ。女子中学生と一緒に映画を見るという青春の思い出をプレゼントしてあげられたのにぃ~」


「女子中学生とデートとか補導されそうなんで遠慮しとくっす」


「うっわ、めっちゃ照れてる! そういうなところ、嫌いじゃないぞ♪」


「油揚げをやるから大人しく帰ってくれ」


「わたし、キツネじゃねーです」


「ごめんよ、タヌキちゃん。揚げ玉をあげるから大人しくお帰り」


「やーだ! もっとお菓子をくれないと帰らないたぬー♪ 屋根裏に住み着くたぬー♪」


 たぬー、じゃねえ!


 あざとい語尾つけても可愛くないからな。


 ……どうでもいいが、じゃれてくるタヌキちゃんと仲良く遊んでいるヒマはないのだ。


「このあと大切な来客が来るんだよ」


「へえ、そうですか~」


「本当に来るからな」


「わたしのことはお構いなく~。ペットのタヌキみたいに振舞うんで~」


 構うわい。こいつ、意地でも居座るつもりだな。


「家に女子中学生を連れ込んだ、なんて誤解をされたら僕がどうなるかわかるか?」


「どうなるんです~?」


「待ち受ける修羅場、ドン引きされて嫌われる、場合によっては警察に捕まる、受験どころじゃなくなる、中学生に手を出したというレッテルがはられる、社会的な死」


「はっはっは、おもしろいおもしろい」


 腹を抱えて笑ってんじゃねえ! こちとらマジでビビってるんじゃ!


「はいはい、わかりましたぁ。邪魔者はさっさと帰りますよぉ~だ」


 不貞腐くされた中学生だが、あお向けのまま立ち上がる様子が一切ないのはなぜだ。


「アレでわたしに勝てたら、ですけどね?」


 テレビの下に散乱していたゲームソフトを指さすタヌキJCの明らかな挑発。


 上等だ、仮にも先輩として戦いのリングに上がってやるよ。無駄にお姉さんぶる生意気なマセガキめ。さっさと完全勝利してここから叩き出してやるぜ。


 自信満々の眼差しだったくせに、タヌキちゃんはゲームが超下手くそだったというね。


 最新のゲーム機を初めて触ったらしく、操作方法も一から教えたあとに練習プレイを一時間ほど挟んだこともあり本気の対戦なんてできるはずもない。


 そのまま叩き出せたけど、僕の隣で無邪気にコントローラーを握るこいつを強制的に追い出すのは忍びないと思い、さっさと帰れとは言い辛くなっていった。


「この石炭をトラックに積んで燃料タンクまで運ぶみたいだな。僕がトラックのアクセルを操作するから、お前はハンドルを操作してくれ」


「うむむ、ゲーム初心者に無茶を言ってくれますねぇ。ふにゃふにゃ人間の操作が難しいんですよぉ~」


 対戦ゲームではなくヒューマン フォール フラットを楽しむ二人は、もはや時間を忘れて純粋に遊び始める。


「そうそう、そのままハンドルを切って曲がって……もっとハンドルを切ってくれ……」


「ふんにゃあ! ハンドルをめっちゃ切りますよぉ!」


「やりすぎやりすぎ! ハンドルを戻せ! 落ちる落ちる! あっ、あっ!」


「あっああああっ! 少年のせいでトラックが落ちたぁああああああああああああ!」


「お前がハンドルを戻さないからだろ! また石炭を積み直さなきゃいけないのか……」


「今度は少年が石炭を積んでくださいねぇ」


「お前の責任なんだからお前が石炭を積んでこいや」


 調子こいた中学生がハンドルを切りすぎたせいでコースを外れ、僕たちが操っていたふにゃふにゃ人間はトラックごと真っ逆さまに落下してしまう。


 二人の興奮した大声が交差し、白熱した盛り上がりに包まれるリビング。


 窓の外が夕闇で薄暗くなってもゲームに熱中していたのだが……スマホにメッセージが届いた音でテレビ画面から目を切り、スマホを見ながら我に返った。


【キミの家にもうすぐ着くから】


 あっ!? やっちまったっ……!!


 春瑠先輩からの新着メッセージを理解した瞬間、発汗とともに焦りが湧き起こる。


 家の周辺に春瑠先輩が近づいているとしたら、いま下手に追い返すと二人が鉢合わせてしまう可能性が高い。


 足元には菓子やゲームが散乱してるので『今さっきまで誰かと仲良くゲームパーティしてました』感が凄すごいし、証拠隠滅にも多少の時間を要する。どうする。どうすればいい。


 ピンポーン!


 鳴り響くインターホンに連動し、縮み上がる心臓。込み上げる焦燥。


「こんにちは。夏梅くん、いますか?」


 玄関ドアの向こうから聞こえる可憐な声音は、紛れもない春瑠先輩で。


 もう来ちゃったのか! いや、僕が帰宅してから二時間以上は経ってるんだけども、ずっとゲームに集中していたので体感的にはあっという間だったのよ……。


 どうせ照明の光が玄関の外にも漏れているだろうし、時間稼ぎの居留守も使えない。


「しょうねーん、なんでそんなに焦ってるんですかぁ?」


「誰のせいだと思ってんだ……!」


「堂々と明かしちゃえばいいんですよ。わたしたちのか・ん・け・い・を♪」


「忍び込んで食料を食い散らかしたタヌキと駆除したい家主の関係ね」


「誰が忍び込んだタヌキですか! 正々堂々と正面突破した善良なタヌキですし!」


 他人事だと思ってへらへらするタヌキちゃんと漫才している場合じゃないんだよ。


「夏梅くーん、さっきから女性の声もするけどお客さんでも来てるの?」


 ほら、春瑠先輩に声が筒抜けじゃん!


「……わたしの声、聞こえちゃったんだ」


 真顔の中学生がぼそりと囁ささやいた独り言を、僕の耳はかろうじて拾う。


「こんなに大声で喋ってたら春瑠先輩にも聞こえるだろ……」


「まあ、それもそうですよねぇ。この家は音漏れも激しそうですし」


 ほっとけ。築四十年以上の木造一軒家、母親の実家だよ。


 母方の祖父母は別宅で快適な余生を送っているため、母親と二人暮らしである。


「すみません、春瑠先輩! ちょっと部屋を片付けてたので……!」


「逆に散らかしちゃいましたけどねぇ!」


 タヌキJCの一言は圧倒的に余計だが、これで数秒は稼げる。


「……春瑠先輩に変な誤解をされたくないから『僕に勉強を教えてもらっている近所の中学生』を演じてくれ。恋愛なんて無関心の『真面目な』中学生な」


「しゃーないっすねぇ。アカデミー賞級の名演をしたりますわぁ」


 念入りに〝真面目な〟を強調すると、中学生は怠そうにしながらも了承した。


 急場しのぎの浅はかな案だが、めちゃくちゃ小声での口裏合わせを済ませ──いざ玄関ドアを開放。わざわざ様子を見に来てくれた女子大生を出迎える。


「夏梅くん、外は暑かったなー。待ちくたびれちゃったよ」


 腕組みした春瑠先輩がご立腹そうに仁王立ちしており、僕は恐縮しながらの苦笑いしかできなかったものの……先輩の表情はすぐに柔らかくほぐれた。


「なんちゃって! ワタシのほうこそ、夏梅くんが勉強で忙しいところに押しかけちゃってごめんね」


「いえ、まったく勉強してなかったんで大丈夫です。むしろゲームしてました」


「んん? それはそれで心配しちゃうけどー?」


 今度は春瑠先輩が苦笑いを返し、白濱家の敷居を跨またいだ。


「あっ、可愛いお客さんがいる。だから女の子の声も聞こえたんだー」


 ついにリビングで顔を合わせた春瑠先輩と近所の中学生。


 この場で僕一人だけが無駄な緊張感に包まれ、過剰に分泌される生唾をごくりと飲み込んでいるのだろう。


「……ごめんなさい」


 なぜか謎の謝罪を中学生が呟いたので、自分の心拍数が顕著に上昇していく。


 意味深に謝ったら、なおさら変な関係だという誤解を生みかねない。


 春瑠先輩も見るからに困ってるし、この小悪魔タヌキ……言葉を一つ間違えば修羅場待ったなしのスリルを楽しんでいるのだろうか。意図が読めない。一瞬だけのぞかせた苦しそうな表情はアカデミー賞級の名演なのか。


 昨日出会ったばかりの関係性では、わかるはずもなかった。


「初めまして、夏梅くんの一つ先輩で大学生の広瀬春瑠です。その制服は中学生かな?」


 気を取り直し、簡素に自己紹介する先輩。


「こんにちは。少年……じゃなくて、夏梅お兄ちゃんに勉強を教えてもらっている近所の中学生です。趣味は人間観察と潮干狩りです」


 うっわ、きんもー。お前……夏梅お兄ちゃんってさあ。


 近所の清楚な少女キャラを演じているのか、落ち着いた口調に静かな声色を乗せているので違和感の気持ち悪さが限界突破しそう。


 喉元までせり上がってくる笑いに耐えろ。僕が指示したんじゃないか。


「夏梅くん……この子、もしかして……」


 ああ……春瑠先輩にバレた……?


 さらば、高校生活。たぶん始まりもないだろう大学生活。会ったばかりのJCを家に連れ込む男という不名誉な看板を一生背負って生きていくよ。


「めちゃくちゃ可愛い~っ!!」


 いきなり声を弾ませた春瑠先輩は……思いっきり抱き締めたのだ! 


 疑う素振りすらなく、清楚(を装っている)中学生を!


「こんなに可愛い女の子が近所にいたんだね! ていうか、夏梅くんも早く紹介してくれたらよかったのに~もう!」


「す、すみません! こいつ、ちょっと人見知りで! 僕以外になかなか懐かなくて!」


「ほーん、確かに物静かで真面目そうだもんねー。夏梅くんが勉強を教えてるからか、優等生って感じがするもん!」


 騙している僕が言うのもなんだけど、春瑠先輩は純粋すぎて心配になるな。


「お兄ちゃん以外には懐かないっていうか、夏梅お兄ちゃんが大好きっていうか~」


「勉強の教えかたが好きなんだよな! 僕の勉強法はわかりやすいから、はははっ」


 おい、やってくれたなあ……!


 マジでいらんアドリブをかまされ、無駄に焦った僕は食い気味に台詞を被せた。


 僕にだけ表情が見える角度でニタニタと口元を歪ゆがめる中学生。場の主導権を完全に握られ、冷房が効いているのに発汗が止まらない。


「そういえば、夏梅くん……勉強せずにゲームやってたんだよね?」


 しまった……玄関での「ゲームしてました」発言もそうだし、リビングに散らかる菓子やプレステは勉強の欠片もないパーティルーム状態という説得力のなさ。


「こいつ、友達がなかなか作れないらしいので最近の遊びを教えてたんですよ。これでゲームの話題にも入っていけるし、友達の家に行ったときもゲームで盛り上がれる……友達と仲良くなるための勉強、みたいな?」


 我ながら苦しい作り話だと思う。


「……夏梅くんって本当に優しい人なんだね!! そっかそっかぁ……夏梅くんの先輩でいられることを誇りに思うよ!」


「春瑠先輩が教育してくれたからです……!」


 ちょろすぎる。春瑠先輩は簡単に信じてくれたばかりか、ちょっと涙目になっているのでそこはかとない罪悪感が。


「名前はなんていうの?」


「えっ? 白濱夏梅ですけど」


「ふふっ……それは知ってる。話の流れ的に中学生ちゃんの名前でしょ」


 うっかりアホな返事を炸さく裂れつさせてしまい、春瑠先輩に笑われてしまう……。


 そういえば中学生の名前ってまだ聞いてなかったな。勉強を教えるほど懐かれている設定なのに名前を知らないのは、かなり不自然に思われるのでは?


「こいつは……タヌキ。そう、タヌキちゃんです」


「えっ、タヌキちゃんっていう名前なの? イルカの髪飾りをつけてるのに?」


 あっ、純粋だからタヌキで押し通せそう。


 可愛い響きだよね、タヌキちゃん。これからそう呼ぶか。


「だーれがタヌキちゃんですかぁ? お兄ちゃーん、ウケ狙いの冗談もほどほどにしてくださいねぇ~」


「痛い痛い、ごめんって。お前はタヌキよりは可愛いから……」


「ありがとうございますぅ~~惚れちゃダメですからねぇ~~?」


 静かなる怒りを人差し指に込めた中学生が、作り笑顔を取り繕いながら僕の脇腹をぐりぐりと抓つねってくる。普通に痛いよう。


「わたしの名前は〝うみ〟です。顔も可愛いし名前も可愛いので以後お見知りおきを♪」


 中学生が軽快すぎる自己紹介をかました。


 海果……か。夏っぽくて可愛らしい名前じゃないの。


「夏っぽくて可愛らしい名前だね! さっきまでとキャラが違う気もするけど?」


「こういう風に自己紹介すれば人気者になれるって夏梅お兄ちゃんに教わりました。わたしは気乗りしなかったんですけど、お兄ちゃんが無理強いして……」


「夏梅くーん、真面目な子に変なこと教えないの。明らかにキャラと違うでしょ」


 おーい、僕が怒られたじゃん。騙している側が言うのもあれだけど、春瑠先輩は騙されているんです。そっちが海果の本性なんです。


 先輩が見てない瞬間にぺろりと舌を出して煽ってきやがるところとかね、ウザいよね。


「ちなみに夕飯まだ食べてないよねー? どうせ自炊はしてないだろうし、お料理上手な春瑠先輩がちゃちゃっと作ってあげよう」


 社会的な死はどうにか回避できたらしい。


 安堵の息を吐いたと同時に、忙しい先輩がわざわざ来てくれた理由を思い出す。


「僕としては本当にありがたいんですけど、このために東京から来てくれたんですか?」


「まあ、木更津に帰る理由は他にもあるんだけどね。受験勉強を頑張る後輩くんを少しでも応援したいと思ってるからさ」


「東京から木更津って地味に遠いし、交通費も千円以上はかかりますよね……?」


「気にしなさんな。高校生よりは時間もお金も余裕があるからー」


 何かのついでに立ち寄ってくれただけだとしても、日常の細やかな幸せとして噛み締められる。ずっと片思いしている憧れの人が、心配して様子を見に来てくれる。しかも僕のために手料理を振舞ってくれる。


 告白なんてしなくても、彼氏彼女になれなくても、そんな青春の一欠片が続いていければ──それだけでいい。現状維持を動かす必要性なんて、ない。


「夏梅お兄ちゃーん、ゲームの続きをしましょうよぉ。まだ石炭を運んでいる途中だったじゃないですかぁ」


「海果ちゃん、まずは散らかした部屋を片付けようねー?」


「はい! 春瑠姉さん!」


「やーい、春瑠先輩に怒られてやんの。ざまあねえな」


「夏梅くんも一緒に散らかしたんでしょ? 片付けなさい」


「はい! 春瑠先輩!」


「やーい、春瑠姉さんに怒られてやんの。へっへっへ、ざまあないですねぇ」


 くっそ! 僕と似たような煽りをすんな! 同じ精神レベルだと思われるだろ!


 キッチンに移動した春瑠先輩が夕飯の調理をしているあいだ、僕と海果は手分けしてリビングを片付ける。


「夏梅くーん、今日は冬莉ちゃんと一緒に帰ってきたんだって?」


 えげつない問いかけをもらい、肺の空気をすべて吹き出しそうになった。


「どうしてそれを知ってるんですか……!?」


「さっき、冬莉ちゃんに教えてもらったんだよねー」


 得意げに自らのスマホ画面を見せつけてくる春瑠先輩。


 そこには【だらしないバカ受験生をよろしくお願いします】という冬莉のメッセージが表示されていた。


 ふーん、だらしないバカ受験生ね。


 ……えっ、これって僕のこと? 冬莉には〝だらしないバカ〟だと思われてるの?


「冷蔵庫の残りものを使わせてもらおうかな。あと調味料も貸してもらいまーす」


 冷蔵庫の中を覗いた先輩は手慣れた様子で食材を並べ、さっそく料理を始めた。


「どう学校は? 三年生になったんだもん、色々と忙しいでしょ?」


「まあ……それなりに。一応は受験勉強とかありますからね」


「ホントに勉強してるのかなー? ワタシが家庭教師として見張ってあげようか?」


 冗談交じりの談笑をしている時間が、好きだ。


 なんだかんだで甘えさせてくれる人との空気感が、好きだ。


 先輩が食材の下処理を進め、包丁がまな板を叩くリズミカルな音を奏でながら他愛もない話題を振ってくる。先輩の優しげな声も相まって夢見心地の音色だった。


 ずっと料理が完成しなければいいのに。


 手料理は食べたいけれど、食べ終わってしまえば春瑠先輩は帰ってしまうから。


 だから話題を長引かせて、調理の手を遅らせる悪あがきをしてしまうのだ。


 充実している時間ほどあっという間に過ぎ去っていく。その感覚を久々に味わい、自らも驚く弾んだ声の節々には寂しさも混ざり合う。


「わたしの家族が心配するので、そろそろ家に帰りますねぇ」


 リビングの片付けを済ませた海果は、せっせと帰り支度を始めた。


「えー? せっかくだから海果ちゃんも一緒に夕飯を食べていこうよー。実家に連絡するならスマホ貸そうか?」


「春瑠姉さんの夕飯もご馳ち走そうになりたいんですけど、ここで食べちゃうと満腹になって実家のご飯が食べられなくなっちゃうのでぇ!」


 現時刻は十九時過ぎ。実家暮らしだという中学生はご家族に心配されるだろうし、家族揃そろって夕飯を食べるなら海果のぶんも用意されているよな、きっと。


 さすがに申し訳ないので、春瑠先輩もそこまで強くは引き止めなかった。


「どうせ近所なのでいつでも遊びに誘ってください! それではぁ!」


 春瑠先輩には従順というか、ちゃんと挨拶をしてからリビングを去っていく海果。見送りのために僕が玄関まで付き添うと、靴を履いた海果は真正面からこちらを見据えた。


「……近所なので見送りはここで大丈夫です。あとは二人だけで、ごゆっくり♪」


 おもむろに顔を近づけてきた海果は、そっと吹きかけるような小声で話す。


 しんどい。中学生に空気を読まれる高校生ってダサすぎるのでは。


「……一応言っておく。ありがとな」


「うっ、気持ちわるっ! わたし、感謝されるようなことしましたっけ?」


 マジで気持ち悪そうなドン引き顔をされると、さすがに傷つく。


「……なんか海果と絡むようになって春瑠先輩とも久しぶりに会えたからさ。お前がいなかったら海浜公園のバスケコートなんて行かなかっただろうし」


「えへへ~、わたしは恋のキューピッドですねぇ。『やまと』の回転寿司が食べたいでーす」


「しゃーないな……今度、木更津店で奢ってやるよ」


「素敵なことが起きてよかったですね! それじゃあ、がんばれ少年!」


 玄関ドアを通りながら海果が言い放った台詞は、昨日も聞いた気がした。今日は『素敵なことが起きたあと』なので言い回しは若干異なっていたけど。


 玄関ドアが完全に閉まる寸前まで憎たらしく微笑んでいた海果だったが──


 また、だ。


 微かに動いた唇。空気を震わせる気のない無音の言葉が、届く。


 ごめんなさい。


 どうしてお前が謝るのかは、わからない。


「はい、できあがり。春瑠先輩の特製焼きそばでーす!」


 海果が帰宅してから数分後、大皿に盛られた焼きそばを春瑠先輩がテーブルに並べる。


 冷蔵庫に残っていた野菜や冷凍の豚肉を食べやすいように刻んで炒め、光沢のあるソースが絡む麺と和えたオーソドックスな出来栄えだった。


 正直、夕方に菓子を食べたので空腹とは程遠い。でも、濃いめのソースと豚肉の香ばしい匂いが鼻を執しつ拗ように撫でるうえ、春瑠先輩が僕のために作ってくれたという事実を脳が認識するだけで口内に唾液が充満してしまう。


「んっ? どしたの? まさか……お菓子を食べすぎてお腹が減ってない~とか、小学生みたいなこと言わないよね?」


「めっちゃ腹ペコっす。いただきます!」


 冷めないうちに下品な音を抑えず一口啜すする。無防備な口の中に濃厚なソースが絡み、野菜の水分や肉汁が溶け込んだ油を舌が次々と追い求め、麺を挟み上げる箸が止まらない。


「味はどう? ソースとかは市販のだし、そんなに不味くはないと思うんだけど」


「先輩が作ってくれたので格別に美味いです」


「気を遣ってくれる後輩で嬉しいなー。おかわりもあるからいっぱい食べてね!」


 まんざらでもない春瑠先輩が椅子に座り、僕たちはテーブルを挟みながら向かい合う。


 これだよ……母の味より食べた先輩の味。


 プロ級に美味しいとか、色味や盛りつけが芸術的に映えるとかではないものの、落ち込んでいるときや悩んでいるときに辛さを忘れさせてくれる。


「こらっ、よく噛んで食べなさい。あと、たまにはサラダとかお味噌汁も作ってバランスのいい食生活を心がけること」


 僕の母親より母親らしいことを言ってきた。


 食べ盛りの息子を世話しているような眼差しの先輩に見守られながら精いっぱいの現状維持を満喫していたのだが──時折、無性に目を逸らしたくなる。


「春瑠先輩は……」


「ん? ワタシがどうかしたの?」


 きょとんと瞳を見開く先輩を目の当たりにすると、いつも言葉が詰まってしまうから、


「いえ……なんでもないです」


 今日もまた、はぐらかす。


 この幸せは偽物。


 先輩の笑顔も、穏やかな声も、煌びやかな瞳の奥も。


 たぶん、僕に向けられたものじゃない。


 焼きそばの味つけもトッピングされた具材も、僕の好みに合わせたものじゃない。


 そんな現実を改めて思い知らされるたび、胸の底にじくじくとした鈍痛が生じ、湿った息が喉奥に痞つかえてしまう。


「夕食のあとはDVDでも見ようよ。前から見たかった旧作をレンタルしてきたからさ」


 タイトルを聞かずとも、先輩が借りてきた作品を悟る。


 過去の先輩が……僕以外と観に行っていた映画だから。


「その映画、めっちゃ観たかったんですよね」


 自分の言葉とは真逆。観たくない。


 自らが纏う偽りの笑顔に隠した劣等感で、脆弱な片思いが締めつけられそうだ。


 共同作業の家事も一段落し、リビングのテレビで再生した邦画。


 しかし……内容なんて微塵も頭に入らず、右から左へ通り抜けていくだけ。


 隣に座る春瑠先輩には甘酸っぱい思い出があり、僕には何も思い入れがない。


 あるはずもない。


 それは果てしなく長い──百三十分間の拷問だった。


「じゃーん! バイトの初給料で買っちゃった!」


 DVDを見終わった直後、先輩は自らの鞄から最新のゲーム機を取り出し、僕の眼前に提示してくる。大学生活で始めたバイトの給料が振り込まれたのだろう。


「夏梅くんが持っていないゲーム機だよねー? 二人分のコントローラーがあるからさ、ちょっとやらない?」


 大人のお姉さんかと思えば少し子供っぽいところも可愛い。この携帯ゲーム機はテレビにも接続可能でコントローラーも二つに分離するタイプだった。


「あ、あー、それ僕もやってみたかったんですよねー」


「でしょでしょ? 受験勉強の息抜きにゲームも悪くないよねー、たまになら!」


 ゲーム機の色違いを僕も所持しているけど、買ったばかりのゲームを見せびらかす先輩のモチベーションが下がりそうなので空気を読む。


 僕は初心者を装いながらガチ初心者の先輩と仲良くプレイしたいんだ。


「夏梅くん相手に練習して大学の友達にも負けないようにしないと!」


「ゲームに熱中しすぎて終電を逃しても知りませんよ?」


「あははっ、そんなに子供じゃないから。今日は肩慣らし程度にサクッとやるだけー」


 ……とかなんとか笑い飛ばしていた春瑠先輩だが、座布団に座ってゲームを始めてみると予想以上にはしゃいでいた。


 それこそテレビ画面を注視し、二人揃って時間を忘れているくらいには。


「春瑠先輩……よっわ」


「ちょっと、夏梅くん! イジワルしないでよーっ! 大人げないなぁーっ!」


「僕が強いわけじゃないです。春瑠先輩が想像を絶する弱さだっただけ……ですから」


「決め台詞みたいに言うのが余計に腹立つ! 後輩のくせに生意気だなーっ!」


 初心者の春瑠先輩は想像以上にゲームが弱く、こてんぱんにしてやった。


 これでも手加減する僕が連戦連勝を続けるたびに、春瑠先輩は涙目を晒しながら理不尽なブーイングを飛ばし、先ほどまでのお姉さん感は消え失うせていた。可愛い。


「なんだか賑やかだと思ったら……春瑠ちゃんが来てた……」


 背後から不気味な掠れ声がしたため、ゲームをしていた僕らは同時に振り返る。


 洒落っ気の欠片もない地味な私服、ロングの毛先が波打った細身の女性。


 とろんと眠そうな目元にうっすらと浮き出たクマは、ナチュラルメイクだと隠しきれない。


「おかえり、母さん。今日も遅かったね」


「あーっ、さめさん、お久しぶりです! お邪魔してましたー」


 春瑠先輩がかしこまって挨拶した相手は僕の母親『白濱小雨』だった。


 母さんはふらふらと千鳥足で徘はい徊かいし、リビングのソファへ倒れ込むように沈む。


「うっわ、酒くっさ……まーた仕事帰りに飲んできただろ」


「……うへへ……ちょーっと飲んだけど……酔っぱらってないもん……」


「酔ってるやつはみんなそう言うんだよ」


 だらしない表情や甘えたような喋りかたも素面しらふとは思えないし、いつもは不健康な真っ白の顔が上気して朱色が差している。


「ちなみにどこでいくら使ったの?」


「……夏梅……私が無駄遣いすると、すぐ怒る……今回は怒らない……?」


「うんうん、怒らないから正直に白状してくれ」


「……うーんとね……『大衆食堂とみ』に行って~……タンメンと餃子ギョーザ……」


 それくらいなら普通の夕飯だな。怒るほどではない。


「……それとねー……ハムカツに野菜イタメ……ポークソテーライスも食べた!」


「生ビールは?」


「……大ビンで……三本!」


「一人でどんだけ飲み食いしてんだ! だから家を建て替える金が貯まんねーんだろ!」


「……ひーん、夏梅が怒る……怒らないって言ったのに……」


 俊敏な動きで春瑠先輩の後ろに隠れ、こちらの様子を窺う母さん。


 毎日のように繰り広げられる白濱家の恥部を晒してしまったが、見慣れた光景だなぁと言わんばかりに苦笑いする先輩に「まあまあ、夏梅くんも怒らないであげて」と宥められてしまう。こんな浪費家の飲んだくれにも優しい……天使やん。


「……私は飲むと満腹中枢がイカれるタイプでして……もちろん帰り道は運転代行を使ったから……安心して……ねっ!」


「そのせいでなおさら支出が増えている件はどうしましょうか」


「……ふへへ……かざもっちゃんが代金をまけてくれた……」


「いつも世話になって……かざもりさんには頭があがらないな」


 母さんが毎度のごとく世話になっている運転代行のフリーターこと風森さん二十歳はたち。


 僕も見知った間柄ではある。


「……春瑠ちゃん……お腹減ったぁああああ……」


「めちゃくちゃ食ってきたばっかじゃん!」


「……私は飲むと満腹中枢がイカれるタイプでして……」


 この母親、さっきと同じことを言いやがる。


「焼きそばを作り置きしてあるので、レンジで温めますねー」


「あーっ、さすが春瑠ちゃん……息子ともども、お世話になってます……」


 ソファの上でぐったりと脱力した母さんだが、この光景は日常茶飯事なので僕も春瑠先輩も取り乱したりはしない。本当の母さんより母親らしいのが春瑠先輩なのだ。


「ここで脱ぐな。自分の部屋で着替えろ」


「……ほっほっほ……家族だし……気にするでない……」


 酒気帯びのため暑いらしく、おもむろに脱いだ上着や靴下をソファの背もたれに放り、ぶかぶかのTシャツに着替え始める母さん。部屋が散らかる元凶なのがわかる。


「……冷蔵庫から……お酒を取っていただけないでしょうか……」


「春瑠先輩、無視していいですからね」


「やだやだ……無視しないで……ここから動けない……うわーん……」


 幼児化した母親の図ずう々ずうしいお願いに反応した春瑠先輩は「はーい、ちょっと待っててくださいねー」と、嫌な顔一つせずに応じる。


「……春瑠ちゃん……私のママになってくれないかな……ばぶう……」


 わけわからんことを呟く母さんだが、ママはあんたなんだよなぁ……。


「春瑠ちゃんも……好きなお酒があったら……飲んでいいよ……」


「十九歳の未成年です♪」


「なんですと……? 仕方ない……夏梅でいいや……一緒に飲もうぜ……」


「息子が高校生なのを忘れてんのか?」


 残念そうに手足をバタつかせた母さんは春瑠先輩からグリーンラベルを受け取り、ソファへ横たわりながら躊躇なく喉奥へ流し込む。


「というか、春瑠ちゃん……今日泊まっていくの……?」


「いえ、遅くても終電で帰るつもりですけど」


 きょとんとする春瑠先輩だったが、僕は質問の意味を察し、壁掛け時計に視線を移す。


「春瑠先輩、終電の時間……たぶん間に合わないですね」


 時刻は二十三時を回ったところだが、木更津駅の千葉方面は二十三時四分が終電。


 これに乗らないと千葉駅発の終電にも乗り換えられないが、今からバイクで送ったとしても残り四分では間に合わないだろう。


 乗り遅れが確定し「困ったなー」みたいな嘆きを漏らす先輩だったが、


「お泊りしてもいいの?」


「へっ?」


 妙な湿り気を帯びた不意打ち発言に、僕の思考は一時停止させられた。


 お泊り、とは。


 僕の家に先輩が宿泊するということです? 


 僕が春瑠先輩と一夜を共に過ごす?


「でも、お泊りセットとか着替えを持ってないから難しいかなー」


「まあ、そうですよね。泊まらないですよね」


 全身の筋肉を支配していた強張りから解放され、安堵と落胆が交錯する。


 まあ、そうですよね……なんて淡泊に対応した素振りを見せた後輩男子だけど、気取った仮面の下は動揺や興奮による気持ち悪い表情が隠れていた。


 この人、どこまでが本気なんだか……後輩を無自覚に弄ぶのは勘弁してくれ。


「今日は実家に泊まるね。ここからだと徒歩で二十分ちょっとだし」


 それが無難だろう。僕が一人で舞い上がり、一切眠れる気がしないし。


 春瑠先輩は数秒ほどで帰り支度を整え、寝転んだまま軽く手を振る母さんに「それではお邪魔しました!」と挨拶した。


 玄関まで付き添った僕だったが、ラビットの鍵を手に取る。


「深夜に一人で歩かせるのも心配だし、バイクでも良ければ家まで乗せていきますよ」


「へぇー! 夏梅くん、バイクの免許なんていつの間に取ったの?」


「中免を取ったのは去年の夏です。まあ、部活をやめてヒマだったんで……」


 春瑠先輩は喜びを含んだ声を漏らしたが、潤んだ瞳が揺れているように感じた。


「……お言葉に甘えて、お願いしようかな」


 そのときの先輩は触れただけで壊れてしまいそうなほど、儚くて美しかった。


 


*  *  *


 無人のごとく静まり返った深夜の富士見通り。ラビットの軽快な音だけが響く中、ヘルメットを被った女性が運転手の腰に両腕を回す。


 世界には僕と先輩だけが取り残され、逃避行でもしているかのよう。七月上旬の夜風は海の香りを攫さらい、生温く吹き流れていく。


 ツーリングで切り裂く夏の夜風は気持ちいいけど、絶えず背中に伝わってくる先輩の温もりに勝るものはなかった。


「夏梅くん、ちょっとだけ寄り道していかない?」


 走行音や風の音に混ざり、背後からそんな提案が聞こえてくる。


「もう夜中の十一時なんですけど!」


「ワタシと夜更かしするのは嫌かな?」


「先輩と夜更かしするのは慣れてるんで、どこにでも付き合いますよ!」


 明日も学校だが寝坊しようとも問題ない。


 深夜徘徊で補導されようがまったく構わない。


 二人きりの時間ができるだけ長く引き延ばされてくれるのなら。


 このままどこか遠い彼方まで、あなたと行けるのなら。


「うあーっ、すぐ着いちゃったねーっ!」


 マジですぐ着いちゃったなあ。


 駐車場に停めたバイクから降りた春瑠先輩。


 瑠璃色の夜空に両手を突き上げ、縮こまっていた背筋を軽快に伸ばす。


 最低でもアクアラインは越えたかった……という僕の密かな願いは叶かなわず、富士見通りを一直線に走り抜け、秒針が十周する程度の時間で目的地に到着してしまった。


 道に迷ったふりをすれば……などと、小さな後悔を胸中で呟きつつも、さすがに通い慣れたスポットなので浅はかな思惑は自重した。


 海沿いの開けた場所を青白い常夜灯が照らし、低いコンクリ壁やフェンスの向こうには吸い込まれそうな黒の水面が待つ。


 遠くにぼんやりと浮かび上がる工業地帯の光。


 淡い暖色が重なった水平線は深い眠りに落ちる東京湾へ一筋の道を描き、波の揺れに合わせて人工の光も控えめに躍る。


 鳥居崎海浜公園──ここが春瑠先輩の寄り道だ。


「夜に来たのは久しぶりなんだけど、結構遅い時間なのに意外と人がいるなー」


「周辺は釣りスポットですからね。夜釣りしてる人も珍しくないですよ」


 春瑠先輩は感心したような声を漏らす。実際、周囲には釣り人らしき人影が疎まばらに動いており、黒い海に向かって糸を垂らしているみたいだ。


「春瑠先輩は夜釣りがしたかったんですか?」


「そんなわけあるかー。めちゃくちゃ手ぶらなんですけど」


 半分冗談のつもりだったのに、天然な発言だと思われたのか苦笑されてしまう。


 明らかに釣り人じゃない風貌の男女もちらほらと見かける。それこそ、僕たちの雰囲気が浮かないくらいには。


「……ここ、恋人の聖地って言われてますよね」


「うん、知ってる。そこそこ有名じゃん」


 水平線の工業地帯を眺めながら春瑠先輩は淡々と答えた。


 木更津を舞台にしたドラマが十数年前に放送され、ロケ地の一つにもなった鳥居崎海浜公園は恋人の聖地と呼ばれるようになったとか。恋人同士をイメージした二匹のタヌキが鼻をくっつけているモニュメントにも【恋人の聖地】と大きく記載され【LOVE】とかたどられた柵には大勢のカップルが残した南京錠がぶら下がっている。


「夏梅くんは、こういう恋人っぽいイベントは嫌い?」


「いえ……好きな人とならやってもいいかなと思います。大人になってから恥ずかしい黒歴史になったとしても、大切な人と過ごした日々には変わりないので」


「今日はワタシとなんかでごめん。夏梅くんもいつか好きな人と来たいよねー」


 申し訳なさそうな先輩は弱々しい声で謝った。隣に並び立つ僕は愛想笑いでお茶を濁したが、そうでもしないと抑え込んできた本音を吐露しそうになる。


 今まさに、好きな人と来ている──と。


「春瑠先輩は、どうして僕の家に来たんですか?」


 後輩の純粋な心を翻ほん弄ろうした理由は聞いておきたい。


「なんとなく、かな。最近の夏梅くんがだらしないって冬莉ちゃんに聞いたから」


「……それだけですか?」


「うん、それだけ。昨日会ったキミは寂しそうな顔をしていた気がするからさ」


「寂しそうな顔なんて……してないですよ」


「そっか。それじゃあ、ワタシが過保護だから心配になったってことで」


 お姉さんぶった余裕の微笑みは、すべてを見透かされているような感覚をもたらす。


「この場所に来たかったのも、なんとなく……ですか?」


「そう、この場所に用事なんて何もないよ。本当に……ただ寄り道したかっただけ」


 一見は平静。しかし──


「地元に戻ったときはさ、立ち寄るようにしてるんだ。ワタシが好きな場所だから」


 絞り出されたような声が……夜の海に攫われていく。


「兄さんも……この場所が好きでした」


 僕の台詞も喉に痞えたが、落ち着いて静かに吐き出す。


「うん、知ってる」


 春瑠先輩はほんの微かに頷うなずき、


「──だからワタシも好き。キミのお兄さん……せいろう先輩に会える場所だったから」


 一粒だけの涙が、彼女の頬を伝う。


「時々ね……キミが晴太郎先輩に見えるときがあるの。彼のバイクに乗る夏梅くんの後ろ姿は本当に似てる」


「……僕は弟なので、兄さんのラビットに乗れば雰囲気は似るんじゃないですかね」


「兄弟だから不思議じゃないんだけどさ。二人の姿がダブって……仕方ないんだ」


 先輩は自らの顔を手のひらで覆い、脆弱な表情を隠した。直視していられない。僕は反射的に目を逸らしたい衝動に駆られ、戸惑う視線を水平線へと逃がす。


「ここにいるのは可愛い後輩の夏梅くん。わかっているはずなのに……ワタシは今でもあの人がいた最後の夏で……時計が止まってるのかもしれないね」


 兄さんと面影が重なったから、春瑠先輩はこの場所に寄り道したくなったのだろうか。


 今この瞬間、春瑠先輩の隣にいるのは白濱夏梅。


 僕が〝大嫌い〟だった白濱晴太郎であるはずがないのに。


 春瑠先輩の初恋が叶うことは、永遠にない。


 僕の片思いが叶うことも、絶対にありえない。


 


 白濱晴太郎は……一年前に死んでいるのだから。


 


 春瑠先輩が涙を流していても、優しく抱き締めることすら叶わない。


 それは僕の役目じゃない。


「ワタシはまだ……許されてないみたい」


「何を……ですか?」


「とっくに終わっている片思いを忘れる権利が、ないみたい」


 春瑠先輩は……どこを見ているんだ。


 あなたの視線が固定されている黒い水面の先には、何もない。


 ましてや生身の人間の存在感など、あるはずもない。


 海に引きずり込まれそうな恐怖感と、ちょっと目を離してしまえば彼女が消えてしまいそうな感覚に襲われ、東京湾を眺める先輩から目を逸らせない。


 ポケットから取り出したスマホを耳に添えたあなたは──綺麗な涙を流しながら、誰の声を聞いているのだろうか。


「もう好きじゃないし、とっくに吹っ切ったつもりだったのに……どうしても先輩の残像が消えてくれないんだ」


 広瀬春瑠が恋焦がれているのは失われた〝本物〟であって、僕は本物の居場所に図々しく居座りながら物真似をするだけの〝偽物〟でしかないのだ。


「終わった初恋を忘れさせてよ、後輩くん」


 それでも──春瑠先輩が悲しみや喪失感を少しでも忘れられるのなら、僕は白濱夏梅として報われなくてもいい。


 


*  *  *


 春瑠先輩を広瀬家まで送り届けてから、自宅近くの道でバイクを降りた。


 ぐちゃぐちゃに錯さく綜そうする感情を冷やしたい。エンジンを切ったラビットを押して歩きながら、街灯だけが照らす不気味な夜道をのろのろと進む。


 誰もいない深夜のみまち通り。


 この場に似つかわしくない制服姿の人影が正面に現れ、思わず足が止められてしまう。


「中学生が出歩いていい時間帯じゃないけどな」


「高校生だって出歩いちゃいけない時間じゃないですかぁ」


 対峙したのは……海果だった。


 数時間前まではゲームで遊んでいたタヌキちゃんと同一人物のはずなのに、僕を映す瞳に物悲しさを宿した立ち姿は別人のよう。


 年下の少女が背負う重苦しい空気に呑のまれ、軽口など叩けなくなった。


 踏み締めたアスファルトに靴底が縛られる。


 滲んだ汗の粒が流れ落ちる。


 夏の夜なのに鳥肌が腕を侵食し、暑さが消失したと錯覚してしまう。


 イルカの髪飾りが月明かりを纏い、妖しい存在感を放っていく。


「わたし、実はタヌキじゃなくてイルカだったみたいなんですよね」


 こいつの言っている意味が、すぐに理解できない。


「わたしの姿を見てしまった時点で……いえ初めて見えてしまった瞬間からあなたの……夏梅少年の〝止まっていた片思い〟は、いやおうなしに動き出したんですよ」


「どういうことだよ……」


「実際に動き出した自覚はありますよね? すべてが偶然だと思っていましたか?」


 間延びしたムカつく口調に戻ってくれ。


 事実を淡々と突きつける沈着な喋りかたをやめてくれ。


 違うだろ、お前はそんな言動が似合うキャラじゃないよな。


「現状維持はもう許されません。あなたの片思いは自分の手で再び動き出すか、永遠に失うかのどちらか一つしかないんです」


「ただの冗談だよな。からかってるだけだって……怒らないから正直に言ってくれよ」


「別に怒ってもいいですよ。それで少年の気が済むなら、いくらでも嘘つき呼ばわりして結構ですが……わたしの言ったことは何も変わりません」


 アカデミー賞級の名演なんかじゃない。


 声色の変化、表情の微妙な違い、僕を見据える視線……そのどれもが僕の知る海果ではなかった。いや、ふざけていた小悪魔な姿こそが演技だったとでもいうのか。


「誰なんだ……お前は」


「幸運のイルカ、みたいなものです。わたしを見つけたら〝止まっていた片思いが動き出す〟ような存在らしいですよ?」


「ずいぶんと曖昧な存在なんだな……」


「わたし自身もよくわかってないので。わたしを認識できた数少ない人たちは例外なく行き場のない気持ちや現状維持の恋心を一人で抱え込んでいた人でした」


 突拍子もない話すぎて、すべてを鵜呑みにできはしない。


 どこからどう見ても、こいつは生身の人間だとしか思えないから。


「その人たちがどうなったのか、教えましょうか?」


 答えを知りたい僕は……静かに頷く。


「どうしようもなかった現状維持が進み出して好転するか、その人にとっての最悪な結末になるか……二つに一つの未来が待ち受けます。どっちにしろ強制的に動き出すんです」


「やめてくれ……ありがた迷惑だ」


「そう言われても、わたしにはどうすることもできませんので。夏梅少年みたいな拗らせた人とわたしが引き合うことで発動する〝呪い〟みたいなものですから」


「それが幸運のイルカの正体だとでも言いたいのか……?」


「それは勝手にそう呼ばれるようになっただけでしょうねぇ。イルカの髪飾りをつけてるし、木更津の海辺によく出没するので……噂話が広がっていく過程でキャッチーな題材にするために名付けられたんじゃないかと」


 唐突な混乱が眩暈を引き起こしたが、もはや闇雲に拒絶する気力も湧かない。


 仕事や飲み会の帰りと思われる通行人が近くを通りかかっても、僕のことを怪訝な横目で見たり逃げるように距離を置いて避けていく反応を感じ取った。


「深夜の路上で夏梅少年が独り言を喋ってるように見えるんじゃないですか?」


 本当に見えてないのか……僕以外には、こいつの姿が。


 聞こえていないのか、こいつの生意気な声が。


 私服姿にヘルメットを着用している僕とは異なり、海果は中学の制服を堂々と着ているのに……夜間巡回中の警察官ですら見向きもしない。


「あの! そこに中学生がいませんか……?」


 補導を覚悟して呼び止めてみたが、


「不気味なこと言わないでくださいよ……誰もいないじゃないですか」


 ヤバいやつに話しかけられた、みたいな顔を露骨にされてしまい、まるで相手にされず立ち去られてしまった。


 もしかしてと思い立ち、スマホのカメラを海果に向けてみても……薄暗い歩道と住宅街の影しか映らない。


 思春期ならではの妄想として笑い飛ばしたいのに、虚言扱いの根拠が失われていく。


「ちょっと待て……春瑠先輩にもお前の姿が見えていたよな。だとしたら……」


「春瑠姉さんにも〝現状維持で止まったままの片思い〟がありますから。夏梅少年には心当たりがありすぎると思いますけど」


「春瑠先輩の片思いが動き出すわけないだろ!! だって先輩が好きだった人は……僕の兄さんは……。とっくに終わったんだ……あの人の初恋はもう……!!」


「ごもっともですが『常識では測れない現象』が起きるでしょう。これまで確認できた不可思議な季節は七つ。そのうちの一つの季節が訪れ、あなたたちの現状維持を壊します」


 ありがた迷惑なんだよ。


 行き場のない恋心にさえ目を瞑つむれば……いずれ風化するまで我慢すれば、沈黙の現状維持は誰も傷つかずに関係も壊れない。心の平穏を保っていられる唯一の手段なのに。


「ありがた迷惑なのはわかってます。でも……わたしにはどうしようもないので、キミたちの片思いが報われるのを祈りながら見守ることしかできません」


 だからお前は──


「ごめんね、わたしのせいで……キミたちは苦しい思いをすることになる」


 会うたびに悲しげな眼差しで謝っていたのか。


 イレギュラーな自分が存在するだけで誰かの関係や未来を大きく狂わせてしまうから。


「これから始まるよ。もう会えないはずの想い人が現れる〝かげろうの夏〟が」




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