第60話
「引田さん……もう、介護は終わったんです。私たちの仕事はもう、いらないんです」
「そう……そうだよ。そうなんだよ光江ちゃん。これから神原さんのお産が始まるんだよ。だから妃倭子さんは寝室にいなきゃいけない。動かしちゃいけない。返さないと、早く……」
引田は妃倭子を捕まえようと手を伸ばす。
「卵が無事に
「引田さん!」
いきなり熊川は部屋の燭台を掴んで引田の横面に振り当てる。引田は何の抵抗も見せずにそのまま床に崩れ落ちた。
「栗谷さん! 妃倭子さんと一緒に逃げて!」
続けてそう言うなり熊川は地面に倒れる。頭から血を流し、左目から眼球を
「お庭にね……お庭に、お花を植えてもらうの。バラの花園が広がって、私はお姫さまみたいに眠って……」
引田はぶつぶつとつぶやきながら熊川の体を引き寄せる。背中の服はボロボロに破け、ごっそりと
「……妃倭子さん! 行きましょう!」
茜は二人から目を逸らして妃倭子を支える。しかし妃倭子は足を引っかけたようにその場で転んだ。異常な重みが茜の肩に掛かる。何事かと思って顔を上げた。
寝室のドアから伸びた黒い腕が、妃倭子の足首を掴んでいた。
「何……」
茜は歯を食い縛って妃倭子の腕を引く。人間の腕ではない。異常に長く、金属のように黒光りしたそれは、
「栗谷さん……」
闇の中から名前を呼ぶ声が聞こえる。重く野太い、岩を擦り合わせたような声。吊り上がった巨大な目が、燭台の炎を受けてギラギラと赤く輝いている。額の上には
それはどこかで見た覚えのある、鬼の姿。
あるいは、人間よりも遥かに巨大なスズメバチの姿に見えた。
「返して、私の
「神原さん……」
茜は見た目も声もまるで違う怪物に向かって呼びかける。神原椿、これが本当の姿。目にしただけで足がすくみ、歯が震えて音を立てる。それでも妃倭子の腕を離さず
「栗谷さん、ママに会ったんでしょ? 私たちのこと、聞いたんでしょ? お願い、妃倭子さんを連れて行かないで。今、私にはこの人が必要なの」
「神原さん……私、あなたを信じていたのに。会社に雇ってくれて、仕事を任せてくれて、これからだと思っていたのに……」
「そうだよ。私、これからも栗谷さんには頑張ってもらいたいと思っている。本当だよ。あなたさえ良ければ辞めなくていいんだよ」
「私に人殺しをさせて! 人間の肉を食べさせる手伝いをしろって言うんですか!」
「それが嫌なら別の仕事に変えてもいいよ。普通の訪問介護もやっているし、社内の事務を任せてもいい。仕事なんて他にいくらでもあるから」
「毒を入れて言いなりにするくせに!」
「お金のほうがいいってこと? 人間はそうしているんだよね。私、【ひだまり】も人間の会社に合わせるべきだと思う。お薬よりもお金で社員を操ったほうがいいって」
「あなたは人間じゃない! 人間を食う鬼だ!」
「でもそれ以外はほとんど一緒。私はあなたを差別しない。どこで誰の子供産もうと、それが上手くいかなかったとしても、あなたに対する思いは変わらない。私たちの世界にだってよくあることだから。この赤ちゃんを愛するように、私はあなたを愛している」
ギチギチギチと、神原の笑う声が聞こえる。茜は常識の違いに困惑と諦めを感じていた。話に
「ああ……栗谷さん。もう時間がないの。手を離して。妃倭子さんを返して」
ぐんっと妃倭子を掴む手が強く引っ張られる。茜は慌てて両腕で掴み力を込める。
「妃倭子さんは渡せません!」
「……産ませて……苗床がないと卵を産めない。私の赤ちゃんが死んじゃう……」
凄まじい力が両肩に掛かる。妃倭子が顔を歪ませて叫び声を上げた。
「お願い、栗谷さん……何でも言うことを聞くから。私は殺されたって構わないから。だけど、赤ちゃんだけは見逃して。この子たちまで殺さないで、お願い……助けて……」
神原の地を
その時、妃倭子の手が茜の腕を掴んだ。
「妃倭子さん?」
妃倭子の血走った目が茜をじっと見つめている。獲物を狙う獣の眼光ではない、あの社員証にも映っていた、理性のある人間の
次の瞬間、妃倭子は茜の腕を振り解いた。
茜は力が抜けて後ろに
「妃倭子さん……」
ドアの向こうは闇に没して、もう神原の姿も見えない。茜は腕を伸ばして一歩前に踏み出す。しかしそれ以上は進まず、
見間違えかもしれない。気のせいだったのかもしれない。だが茜には、妃倭子が消える直前に正気を取り戻して、声を発したように思えた。鬼に捕らえられて、人間を食わされて、体を引き裂かれて、産卵の苗床にされる寸前に、彼女は切望した。
広都を助けて、と。
四十三
茜は大階段を全力で駆け上がり二階へと行く。上がりきったところで、大柄な介護ヘルパーの女と衝突した。
「おっとっと、ちょっと大丈夫? そんなに慌てていると危ないよ」
温かみのある太い声が聞こえる。見覚えがある。森の中で
「あ、あなたお屋敷のスタッフさんだよね。良かった、来てくれたんだね」
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