第59話

「ああ、お屋敷へは入っちゃ駄目だよ。今から大事な儀式が行われるから。私たちはここでお祈りを捧げて、無事に終わるまで待っているんだよ」


「大事な儀式というのは、神原さんの……」


「そうそう。大事な大事なお産の儀式。私たちはそれを見守るために、この高砂さんのお屋敷に来ているのよ」


「そうですか……」


「ところであなた、途中で高砂さんの車は見かけなかった? 少し前に慌てて出て行って、まだ帰って来ないんだけど」


「さ、さあ、知りません」


「あと、この近くに男の子もどこかにいるらしいんだけど……」


「……下がってください、危ないですから」


「え、何?」


「下がって!」


 茜は右手を伸ばしてその胸を突き飛ばす。そして左手でクラクションを鳴らしながら、右足でアクセルを踏んで急発進させた。大音量に庭の女たちは驚いて身を引く。車はそのまま屋敷のドアを突き破ってエントランスへ入った。


「熊川さん!」


 茜は車を降りるなり声を上げて呼びかける。妃倭子を呼んでも来るとは思えず、耳の不自由な広都を呼んでも聞こえないので、熊川の名を呼ぶのが正解だと思った。


 屋敷内は照明が全て消えており、ロウソクの火を灯した燭台が等間隔に並んでいる。熊川の姿はない。代わりに介護服の女が数名、やはり何をすることもなくたたずんでいた。皆、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめている。屋敷に車が突っ込んできたというのに動じる素振そぶりも見せなかった。


「熊川さん! どこにいますか!」


 茜は女たちを無視して屋敷内を探し回る。全員、神原椿から毒を注入された正社員に違いない。神原と高砂の指示には忠実に従うが、それ以外のことには一切関心を持たない。恐らく今は待機の指示を受けているので、ただ立ち止まって待ち続けているのだろう。車で跳ね飛ばさなかったのは幸いだった。


 屋敷内は熱帯夜の蒸し暑い空気が充満しており、妃倭子の寝室で嗅いだような悪臭が何十倍にもなって漂っている。茜は吐き気を催す口元を押さえて足早に私室やダイニングやキッチンを覗いて回った。妃倭子の屋敷と思い込んでいた、人間を食う鬼の住処。陰気ながらも慣れかけていた風景は、暗闇と狂気にけがれた魔窟まくつへと変貌していた。


 大階段の脇を通ってリビングへと入ると揉み合う二人の女が目に入る。そこにいたのは相手の腕を掴んで必死に引きずろうとしている熊川と、その腕に食らいつこうと首を伸ばす素顔の妃倭子だった。


「熊川さん!」


「栗谷さん?」


 茜は二人の許へ駆け寄ると、妃倭子の後ろに回って彼女を羽交はがめにする。顎の下に腕を回して持ち上げて、噛みつかれないようにした。


「な、何をしているの? 栗谷さん。どうして戻って来た!」


「ごめんなさい、熊川さん! 私、何も知らなくて、熊川さんの話を聞いて全て分かりました」


「馬鹿! そんなことどうだっていいでしょ! 私が話したのは、あなたが二度とここへは来ないために。絶対に逃げなきゃと思って欲しかったからだ!」


 熊川は茜をにらみながら妃倭子の手を引く。妃倭子は喉が裂けるほどの声を上げながら激しく頭を振り回していた。


「妃倭子さん、大人しくして! お願いだから……もう私のことも分からなくなったの? 妃倭子さん!」


 熊川は悲痛な声で呼び続ける。妃倭子を屋敷から逃がそうとしていることが分かったので、茜も背後から押して無理矢理に歩かせた。しかし留まろうとする妃倭子の力も尋常ではない。なかば寝たきりだった彼女のどこからこんな力が出るのか。もし操られた意思だけによるものだとしたら、骨や筋肉が限界を超えて破壊される恐れがあった。


「妃倭子さん! 分かってください! あなたはここにいちゃいけないんです!」


「栗谷さん! あなたもよ! さっさとここから出て行け!」


 熊川は叫ぶが茜は首を振る。


「熊川さんを放っては行けません! 一緒に逃げましょう! 妃倭子さんも、広都君も、みんな一緒に!」


「私は! 私は……もういいから……」


 一瞬、熊川の目に穏やかな光が射し込んだように見えた。


「私は、もう戻れない。妃倭子さんを助けるためとはいえ、無関係な人を捕まえて、殺して、ミキサーでつぶしてきた。あいつらに操られてはいなかったけど、もう人間じゃなくなってしまったから。もう……ここから逃れることなんてできない」


「そんなことありません! 熊川さんは、私を助けようとしてくれました。あなたは人間です! 自分を犠牲にして友達の妃倭子さんを助けようとするあなたこそ、こんなところにいてはいけないんです!」


「栗谷さん……」


「妃倭子さんを元に戻す方法もきっとあるはずです! その時、熊川さんが側にいなかったら誰が介護をするんですか!」


 茜が叫ぶと熊川は口をつぐんで小さくうなずく。その時、彼女と出会ってから初めて気持ちが通じ合えた気がした。妃倭子もようやく力を出し切ったのか、その体はぐったりと重みを増している。入浴介助の時のように、二人で力を合わせれば屋敷から運び出せそうに思えた。


「茜ちゃん? 光江ちゃん?」


 その瞬間、懐かしい声が聞こえて、茜は体中に鳥肌が走った。


「どうしたの? 二人でそんなに大声出して。妃倭子さんのご迷惑になっちゃうよ」


 視線の先、リビングの入口に、笑顔の引田千絵子が立っていた。


四十二


「ひ、引田さん……」


 茜も熊川も驚き体を固めている。引田はまるで散歩でもするような足取りで、のんびりと近づいて来た。


「私、思ったんだけど、カレーを煮込んでいる間に、妃倭子さんをお風呂に入れてあげるといいと思うの。私と光江ちゃんの二人で。茜ちゃんはカレーの見張り番ね。それなら仕事が終わってすぐに食べられるでしょ? ね、茜ちゃん、いいと思わない?」


 茜は声も出せずにただ首を振る。どうしてここに? 妃倭子に襲われて麓の町の病院へ搬送されたのではなかったの? あの怪我で歩けるはずがない。普通に話せるはずがない。


「でもご飯はもう炊いたっけ? ちょっとおかために炊くのがコツなのよって、高砂さんが言ってたけど……あれ、妃倭子さん?」


「来ないで、引田さん」


 熊川がかすれた声で制する。しかし引田は不自然にかくんっと首をかしげるだけだった。


「光江ちゃん……駄目だよ。妃倭子さん連れ出しちゃいけないよ。妃倭子さんには黒い袋を被せて寝かせておくのがルールなんだから。それが私たちのお仕事なんだから。ちゃんと守らないと……」



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