第58話

 高砂は新入社員を指導するような口調で説明する。茜は何も言い返せずに口をつぐんだ。彼女の話は正論だ。だからこそ、人間の自分には受け入れることができなかった。


「栗谷さん、あなたは運が悪かったのよ。たまたま就職活動中に【ひだまり】を知って、うっかり椿に気に入られて、そのせいで私たちを知ってしまった。でも正社員になる前に抜け出せたのは、運が良かったのでしょうね」


「……でも、高砂さんに追いつかれてしまった」


「大丈夫よ。私たちはもうあなたを追うのは止めにするわ」


「捕まえようとはしないんですか? それを信じろって言うんですか?」


「私たちにできるのは、暗闇を渡り歩いて人間を襲うだけ。仲間を集めて無理矢理連れさらうこともできるけど、ここまで知ってしまったあなたとはもう関わりたくないわ。警察へ行かれたり、インターネットで広められたりしたらたまらない。私たちにはもう、そこまでの力はないのよ」


 高砂は諦めたように溜息をつく。その声に嘘は感じられなかった。


「何度も言うけど、これは栗谷さんのせいじゃない。私たちのミスよ。だから、あの屋敷もこの山も捨てて、【ひだまり】も潰して、またどこかへ隠れるわ。それでお互い忘れましょう。ね、それでいいでしょ?」


「……よくありません」


 茜は首を振って拒否する。高砂の言葉に嘘はない。しかし巧みに同情を誘う老獪ろうかいさが見え隠れしていた。


「一度知ったことを忘れるなんて、私にはできません」


「じゃあどうするの? このまま私をここで殺すの?」


「そんなこと、私にはできません。私はあなたたちとは、鬼とは違います」


「栗谷さん?」


「だから、人間として……捕らわれている人たちを救いに行くだけです」


 茜は高砂から身を離すと、左に回って彼女の車に乗り込む。そして集中ロックボタンでドアの鍵を全て掛けると、シフトレバーを『R』に動かしてアクセルを踏んだ。


 エンジンのかかり続けていた車はすぐに反応し車がバックする。ボンネットに乗り上げていた高砂の体が路上に滑り落ちた。


 前方で停車する茜の車はすでにエンジンを切っており、リモコンキーもポケットに入っている。ここで高砂を置き去りにすれば追いかける手段もなくなるだろう。自らの存在を隠したい彼女は警察を呼ぶこともできず、タクシーを呼んで屋敷まで送り届けてもらうこともできない。【ひだまり】の社員を呼んでもすぐにはここまで駆けつけられないだろう。


 茜は目一杯にハンドルを切って車を転回させる。必死で逃げてきた道を今度は引き返さなければならない。しかも向かう先は人里ではなく鬼の住処すみかだった。


「栗谷さん!」


 その時、脇から飛び込んできた高砂がフロントガラスに貼り付いてきた。


「屋敷へは行かないで! 椿には手を出さないで!」


「高砂さん! 離れてください!」


 茜は車内で叫ぶ。しかし高砂は強く首を振った。


「どうかお願い! 椿に卵を産ませてあげて! 大切なお産の邪魔をしないで!」


「駄目です! そんなことさせられません!」


「あなたが行っても何も変わらないわ! 苗床は時期を過ぎると使えなくなる。妃倭子さんは椿から卵を受け取らないとそのまま腐って死んでいく! 元には戻せないのよ!」


「だからって、放っておくことなんて私にはできません。広都君だっているんです!」


「あなたたちは言ったじゃない! 千人の子のうちの一人を失ってもそれだけ嘆くなら、たった一人の子を失った嘆きはどれほどのものかって!」


「高砂さん……」


「あなたたちはそう言って、私たちの母をさとしたのよ! それなのに、何十億人もの子を持つあなたたちは、ごくわずかな子供しかいない私たちが、ささやかに命を繋ぐことも許さないの?」


 高砂がガラスをへだてた向こう側で必死に訴えている。白髪頭しらがあたまを振り乱し、眼鏡はなく、顔中に深い皺を何本も走らせて目を見開いている。もはやそこに普段の穏やかな上品さはない。しかし鬼の形相にも見えない。茜にはそれが、命がけで娘を守ろうとする母の姿に思えた。


「もう……止めてください。高砂さん!」


「お願い、栗谷さん。屋敷には戻らないで! 私たちには関わらないで!」


 高砂の叫びが車内に響く。茜は勢いよくハンドルを切るとアクセルを素早く三回踏み散らした。車は激しく前後左右に揺すられて、高砂の体が剥がれ落ちる。そして車体を整えると今度はアクセルを限界まで踏み込んだ。


 ルームミラーには路上に倒れ込む高砂の姿が映っている。しかしそれもすぐに暗闇に紛れて、あとは何も見えなくなった。


四十一


 視界の遠くに捕らえた屋敷は不安と恐怖を塗り固めたような存在感を周囲に放ち、ぼんやりと赤い光を帯びている。その佇まいはまるで獲物を待ち受けるかのようにも、あるいは逆に一切の干渉を拒むかのようにも見えた。


 住み込みで働いていたはずの場所だが、なぜか今は初めて訪れるかのような緊張感を抱いている。それでも茜は決してブレーキに足を移すことなく車を走らせ続けた。


 柵の朽ち果てた門をくぐって庭に入ると、赤々と燃える篝火かがりびが何本も立てられていることに気づく。その周囲には十名ほどの人間が、何をすることもなく佇んでいるのが見えた。全員女性で、一様に【ひだまり】で支給されている介護服を身に着けている。一体何をしているのか。徐行運転で通り抜けていると、やや年上らしき若い女が近づいて来る。茜は運転席のウィンドウを下げた。


「お疲れさまです。あれ、お一人で来られたんですか?」


 女は気さくな笑顔で親しげに声を掛けてくる。薄化粧で髪を束ねてお団子にした、よく働く先輩のような風貌ふうぼうをしていた。


「あなたも呼ばれたんですか? 【ひだまり】のスタッフさんですよね?」


「え? は、はい……最近入ったばかりの新人なんですけど……」


「あ、やっぱり! あれぇ? 見覚えのない方だなぁと思って。私こんな美人さんは絶対忘れないのになぁって、不思議に思っていたんです」


 女は冗談を言って一人でころころと笑う。場違いな陽気さに背筋が凍るような寒気を感じた。


「どちらで勤務されているんですか? もうお仕事には慣れましたか?」


「あ、いえ……それより私、ここへは初めて来たんですけど、ええと、何をすればいいんでしょうか? 皆さん、お屋敷の中へは入らないんですか?」



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