第57話

「……はい、その通りです。神原さんからも、そう言われました」


「それなら、もうあなたは妃倭子さんのことは考えなくてもいいはずよ。私が言うんだから間違いないわ。そうでしょ?」


「はい、その通りです。……でも、広都君はどうなるんでしょうか?」


「広都君? ああ……」


「妃倭子さんのことはもう何も心配していません。でも妃倭子さんがいなくなったら、息子の広都君はどうなるんでしょうか? これからも私たちがお世話するのでしょうか? でもママと離ればなれになるなら可哀想だなぁと思って」


「……あの子のことも心配いらないわ。栗谷さんが面倒を見なくても大丈夫よ」


 高砂はそう言うと、なぜか苦笑いを見せる。その瞬間、茜は真顔に戻りそうなほどの恐怖を感じた。辺りの闇が狭まって来るような不安。がさがさと、見えない森の騒ぐ音が聞こえた。


「あの子も、ママと一緒になって幸せになるでしょうから」


「はぁ、ママと一緒に……お屋敷から出て行くんですか?」


「いいえ、妃倭子さんが……まあ、とにかくそれもあなたが気にしなくていいことよ」


 高砂は話を切って回答を誤魔化す。茜も、そうですかぁ、とのんびり答えてとぼけたふりをした。これ以上追及するとまた怪しまれてしまう。


 しかし今、高砂は何を言おうとした? 妃倭子さん『が』……? 『と』ではなく、『は』でもなく、『の』でもない。『が』のあとに続く言葉は? 妃倭子が、広都を?


「あ……」


 その意味に気づいた時、茜はいきなり高砂に体当たりして車のボンネットに押し付けていた。


「ぐっ!」


 ゴンッとボンネットに音が響き、高砂の喉から呻き声が漏れる。茜は彼女に覆い被さるように体を乗せて、右腕を首元に押し付けていた。考えるよりも先に体が動いていた。


「く、栗谷さん? 何を……」


 高砂はずれた眼鏡の奥で瞬きを繰り返す。何が起きているのか理解できていないらしい。茜の顔からは笑みが消え、豹変したように怒りと興奮に強張っていた。


 付け焼き刃の芝居は終わった。熊川の告白は全て真実だった。それで茜は、自分でも信じられない問いを彼女に投げかけた。


「高砂さん……あなたたちは妃倭子さんに、広都君を食べさせる気ですか?」



四十


 ヘッドライトの強い光とエンジン音が周囲の世界を包む中、茜は高砂を強く押さえつけている。力の加減が利かないのは、得体の知れない存在に対する恐れが拭えないから。しかし服の上から感じる彼女の体は老人らしく、細く固く骨張っており、およそ人間と違った様子は全く感じられなかった。


「高砂さん、そうなんですね? 心配しなくていい、ママと一緒になるって、妃倭子さんが広都君を食べるってことですね?」


「な、何? まさかあなた……」


「私は【ひだまり】の正社員なんかじゃありません。神原さんから毒なんて受けていません」


「そんな……じゃあどうしてそのことを? だ、誰が……」


 高砂は目を見開いて唇を震わせている。その狼狽が質問を肯定していた。


「私は全部知っています。あの屋敷で何が行われているのか、私たちが何をさせられていたのか。どうして私が雇われて、連れて来られたのかも」


「何てこと……」


「私も産卵の苗床にするつもりだったんですか!」


「……だから私は、外の人間を入れるのは反対だったのに。伝手つてを頼って、身元のはっきりした人間を、十分吟味ぎんみしてから雇わないと危ないって……」


「高砂さん!」


 その時、高砂は筋張すじばった首を目一杯に伸ばして茜の右腕に食らいついた。ずきりと肉と骨に強い痛みが走る。まるで興奮した獰猛どうもうな野犬に噛みつかれたような恐怖を抱いた。


 しかし、それ以上の力は感じなかった。歯形は残るだろうが肉まで裂ける不安はない。茜はそのまま右腕を伸ばすと、高砂の後頭部を車のボンネットに強く打ち付けて引きがした。


「ああ悔しい……。老いてさえいなければ、こんな細腕噛みちぎってやるのに。こんな力も跳ね飛ばして、その首に食らいついてやるのに……畜生……」


 高砂は無念そうにぎりぎりと歯軋はぎしりする。それを聞いて茜はさらに体重をかけて彼女を押さえつけた。


「何ですか……あなたは」


「悔しい……この意地汚いサルどもが…………」


「教えてください、高砂さん! 一体、何なんですか! あなたたちは!」


「……私たちは、鬼よ」


「鬼……」


 茜は思いがけない言葉を繰り返す。高砂は恨みの籠もった目でにらみ返していた。


「鬼子母神……人間にたぶらかされて、神に祭り上げられた鬼の母。その千人の子の末裔まつえいが私たちよ」


「まさか……嘘ですよね?」


「伝説は、伝説。しかし私たちは人間をさらい、人間を食らい、人間を苗床に産卵して子をす。それが宿命、生態、生きる術。私たちは今までそうやって生きながらえてきた。知らないはずがないでしょ。あなただって鬼の存在は今までに何度も目にして、耳にしてきたはず。人間を脅かし、恐れられて、やがて退治される。人間にとって永遠の天敵、その本物が私たちよ」


 茜は衝撃的な告白に呆然とする。本物の鬼。昔話や漫画に登場する悪の代表格。人間を食べていた頃の鬼子母神の子供たち。しかし高砂には鬼の角もなければ力もない。目の前にいるのは、雑踏に紛れると見失うほどありふれた老婆だった。


「語り継がれる力を失い、術を忘れ、寿命さえも縮まってしまった。でも人間を食らい、人間を使って繁殖する本能だけは、昔も今も変わらない。だから私は【ひだまり】を作って人間の社会に入り込んだ。目的はただ一つ、生き延びるため。それだけよ」


「……そのために、今まで何人もの人間を殺して、食べて、操ってきたんですか」


「そうよ。それがどうしたの? 人間だってやっていることじゃない」


「人間は他の生き物に卵を生み付けたりしない!」


「でも他の生き物ではごくありふれたこと、自然の営みよ。あなただって知っているでしょ?」


 ジガバチは芋虫に卵を生み付けて繁殖する。ハエは腐った肉や糞便などに卵を生み付けて幼虫の栄養にする。


「寄生虫や細菌やウィルスだって、宿主がいなければ数を増やせない。それは何も異常なことではないし、認めないと言う資格は人間にだってないはずよ」


「ありません……だけど、私はあなたたちの行為を許すことはできません」


「分かっているわ。それが天敵というものよ。だからあなたが許すか許さないかも、私たちにとっては何の関係ない。恨みじゃないの。人間が憎くてやっているんじゃないのよ。そうするしかないから、そうしているだけなのよ」



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