第56話
もし、熊川が語った留守番電話の内容が全て嘘だったとしたら、何とでも言い訳が付く。単純に、私室の前に鍵が落ちていたので、一人で出て行けという意味だと思ったとでも言えば良いだろう。
しかし、あの告白が全て本当だとしたら、この絶体絶命のピンチを切り抜けなければならない。私のすべきことは、真実を見極めることと、最悪の事態を避けること。車で追いかけ合いをしても勝ち目はない。高砂が車を停めたということは、そのまま
茜はその場に立ち止まったまま微動だにしない。それを不思議に思ったのか、高砂はエンジンを掛けたままドアを開けて車から降りた。大作りな白髪頭にチェーン付きの眼鏡を掛けた顔は、獲物を狙うカマキリの姿を思い起こさせる。
一方の茜は、これまで見せたことがないほど満面の笑みをたたえていた。
「栗谷さん……」
「高砂さん! 高砂さんですね。ああ、良かったー」
茜は胸の前で両手をぱたぱたと振る。高砂は少し首を傾げつつ近寄ってきた。
「心配して迎えに来てくれたんですか? ごめんなさい、お忙しい時に!」
「迎えに?」
「私、実は車の運転が凄く苦手で、免許証は持っているんですけど、ずっと乗っていなかったんです。それなのにこんな危ない山道を走ることになって……前も後ろも周りも真っ暗だし、急カーブばかりだし、でももう戻れないし。本当に怖かったんです」
「い、いや、栗谷さん?」
「それでも頑張って走っていたら、後ろから車のライトが近づいて来て、私、どうしようかと思ったんですけど、私の後ろから来るってことはお屋敷の誰かさんだと気づいたから停まって待っていたんです。そしたら高砂さんが出て来たから、ああ良かったって……」
「ちょ、ちょっと待って栗谷さん。落ち着いて頂戴」
高砂は困惑の表情を浮かべている。茜は普段よりも声のトーンを遥かに上げて興奮気味に喋り続けていた。いつも笑顔で、前向きに。モデルにしたのは引田千絵子だった。
「ええと、栗谷さん。あなた一体どうしたの? 何だか変よ」
「え、どうしたのって? どうしたんですか?」
「いや、でもあなた……どうしてこんなところにいるの? お屋敷から勝手に車に乗って、どこへ行くつもりだったの?」
「勝手にじゃないですよ? 麓の町へ行けって言われたから……」
「誰に?」
「神原社長に」
「椿に?」
高砂は声を上げる。茜は笑顔のまま、彼女の表情、一挙手一投足を丹念に観察する。こちらへの敵意は感じられないが、未だ半信半疑のようだ。
「椿がどうして……私には何も言わなかったのに」
「あれ? 私はてっきり話を聞いたから迎えに来てくれたと……どうしよう、これ、ママには内緒って言われていたのに」
「私に内緒で?」
「い、いえ。何でもないです……」
「……栗谷さん。どういうこと? あなた、椿に何を頼まれたの?」
「え、ええと、でも……」
「大丈夫よ。あなたは悪くない。別にそれであなたを責めたりしないから。椿のほうにもちゃんと言っておくから。だから教えて?」
「だから、その、チョ、チョコレートを……」
「チョコレート?」
「チョコレートを食べたくなったから、買ってきて欲しいって……でもママに知られたら、また叱られるから黙っていてって。それで車のリモコンキーを預かって……」
茜は口をもごもごとさせながら遠慮気味に話す。高砂はそれを聞くと、はぁっと大きな溜息をついた。
「全く、いつまでも子供みたいなことを……」
「すいません、高砂さん……」
「栗谷さんのことじゃないわよ。あなたはそんなことまで従わなくていいのよ」
「そうなんですか……でも、私も、その、正社員にしていただいたので」
「え、正社員に? 栗谷さんが?」
「はい、先ほど私の部屋で……これであなたも正社員よって」
「……でもあなた、辞めるんじゃなかったの?」
「そう思っていましたけど、正社員にしていただいてからは全然そんな気がなくなりました。今は何が何でもお役に立ちたいと思っています!」
「まぁ、そうだったの……それで急に明るくなったのね」
「はい! でもそのせいで私、神原さんの頼みを断れなくなったというか、何だか高砂さんにも言えなくて……」
「ええ、それでいいのよ。正社員になったなら、椿の言うことに逆らえないのは仕方ないわ」
「そうなんですか? 良かった……」
「私もそれで分かったわ。あなたは何も悪くない。それはちゃんと正社員になれた証拠よ。おめでとう、栗谷さん。これであなたも正式な【ひだまり】の一員ね」
高砂は嬉しそうに笑顔を見せる。茜も元気良くうなずいた。常識では噛み合わない会話にもかかわらず、彼女は全て理解し納得している。それは熊川の告白が真実であることを意味していた。
「……それにしても、チョコレート、チョコレートって、椿の偏食にも困ったものね」
「い、いえ、神原さんは悪くないんです。私が妃倭子さんを目覚めさせてしまったから、お詫びに何かお役に立ちたかったんです」
「そう……でもいいのよ。栗谷さんが責任を感じることじゃないわ」
「神原さんも……それで今夜は忙しくなるって」
「ええ、そうね。ちょっと早まったけど、これくらい何てことないわ」
「あの、今夜って何かされるんでしょうか? 私にお手伝いできることはありませんか?」
茜が尋ねると、高砂は少し窺うような目付きになる。薄氷を踏むような緊張感が通り過ぎた。
「……いいえ、あなたはお屋敷に帰ったら、そのままお部屋で過ごしていればいいのよ」
「ですが、神原さんの話だと……妃倭子さんの介護も今夜で終わりになるって」
「ええ、妃倭子さんの介護はもう必要ないわ。栗谷さんにはまた次のかたの介護をお任せすると思う」
「どういうことでしょうか? 妃倭子さんはどこかに移されるんでしょうか? それとも……」
「正社員になっても、何でも気になる癖までは治らなかったのかしら?」
高砂は針を刺すような視線と声を投げかける。茜は思わず言葉に詰まったが、
「栗谷さん。あなたは何も心配しなくていいのよ。あなたは椿と私の指示に従っていればいい。あなたはそれだけで幸せなはず。そうでしょ?」
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