第61話(終)

「な、何がですか?」


「広都君って男の子を探しに来たんでしょ? 私たちも頼まれたんだけどさ、どこにいるのか分からなくて。あなたなら分かるんじゃない?」


 女は親しげに目を細める。茜は息をんで彼女の手を離した。


「熊川さんもいなくなるし、引田さんも勝手に出て行っちゃうし。早く見つけて産卵室さんらんしつへ運んで……」


「知りません。私には分かりません、何も……」


 廊下の右手の突き当たりに目を向けると、ずっと鍵の掛かっていたドアが開いているのが見える。熊川が解体室と呼んだ部屋、山で遭難したカップルを閉じ込めて、恐らく重傷を負った引田も隠していた部屋、茜は顔をそむけると廊下の左手にある初めのドアを開ける。子供部屋では同じく妃倭子を捕まえた二人の女がベッドを持ち上げていた。


「何をしているんですか!」


「高砂さんに頼まれて、広都君を探している。ここ、子供部屋でしょ? タンスの中にもベッドの下にもいなくて。あの子がいないと神原さんの赤ちゃんが元気に育たないから。ねぇ、あなたは広都君を知らない?」


 女たちはベッドを下ろすと両手で布団をびりびり引き裂いている。見回す限り、広都の姿はどこにもない。茜は小さく首を振ると後ずさりしてドアを閉める。話をしているとこちらまで頭がどうにかなってしまう。廊下をさらに奥へと進むと、振り返って誰も付いて来ていないことを確認してから、ドアを開けて滑り込むようにして書庫へ入った。


「広都君……いるの?」


 広い部屋の奥に向かって呼びかけるが、広都の耳には届かないことを思い出す。書庫には明かりも灯されていないが、照明を点けるわけにもいかない。茜は自分の手元すら見えない暗闇の中、書架に肩が激突するのも構わず早足で奥へと向かった。


 広都が一人遊びに興じていた窓際へと辿り着くが、そこにも彼の姿はない。月明かりが射す一隅いちぐうにはスケッチブックや絵本や、積み木代わりの分厚い本が片付けられないまま放置されていた。


 どこへ消えたのか。子供部屋には捜し回る女たちがおり、庭の外にも見張りの女たちがいる。誰も居場所を知らないようだが、恐ろしいのは、彼女たちが命令に従うだけのロボットと化していたことだ。もしかするとすでに見つかり捕まっていたとしたら……。


 ざわっと絨毯じゅうたんを擦る音が聞こえて振り返る。


 書架の隙間から小さな二つの目が覗いていた。


「広都く……」


 大声を上げそうになった口を押さえて小走りで駆け寄ると、その小さな体を抱き締める。今は広都もこばもうとはせず、両腕でしっかりと抱きついてきた。狭い暗闇の中で隠れ続けていたのだろう。じっとりと汗をかいて震えていた。


『ひ、ろ、と。逃げる。一緒に』


 広都を離して手話で伝える。彼は不安そうな顔のまま小さくうなずいた。初めは手を引いて歩き始めたが、じれったくなってすぐに彼を胸に抱えて走り出した。小さくて細い子だと思っていたが、こうしてみると意外と大きくて重い。酷使こくしされ続けた全身の筋肉と関節が悲鳴を上げたが、聞こえないふりをした。


 廊下へ出ると辺りに霧のようなものが立ち込めているのに気づく。軽く嗅ぐと刺すような痛みが目と鼻の奥に走った。霧ではなく煙だ。広都の顔を胸に押し付けて、頭を下げて走り出す。煙はみるみるうちに廊下全体へと広がっていった。


「おお、その男の子が広都君?」


 先ほど見た大柄な女が煙の中で声をかけてくる。


「見つかったんだね。良かった良かった。大丈夫? 手伝うよ」


 茜は無言で女の手を払いけて通り過ぎる。女はさらに何か言おうと口を開いたが、同時に激しくき込んで床に手を突いた。あなたも逃げて! と叫びたいがそんな余裕はない。笑顔のまま苦しそうに顔を歪ませる様子を見ると、言っても無駄だと思った。


 煙は大階段の下から溢れ出すように立ち込める。しかし他に道はなく、茜は息を止めて一気に駆け下りた。一階へ下りるとそのまま右に曲がってリビングへと向かった。


 屋敷のあちこちから火の手が上がっている。燭台の火が引火したのだろうが、勢いが尋常ではなかった。あらかじめ床や柱に灯油かガソリンがかれていたのだろう。庭の物置小屋には車の燃料、ガソリンを保管していると引田も話していた。


 リビングには二人の女が、絡み合うようにして倒れていた。


 (熊川さん! 引田さん!)


 茜は声には出さず呼びかけて近づく。熊川は噛みちぎられた喉から大量に血を流して息絶いきたえており、引田は裂けた背中から内臓が零れ落ちていた。たった数日だけの先輩たち。どうしてこんなことになったのか。しかし感傷に浸っている余裕もなかった。


 凄まじい大きさの爆発音とともに、身を切り裂くような絶叫が隣の寝室からこだました。


 振り返ると勢いを増した炎が頬を撫でる。すでに寝室のドアは焼失し、壁が崩れ落ちている。充満する煙の向こうで、鮮血のように噴き出した赤い炎が輝いていた。


 その中で影絵のような姿を見た。


 禍々まがまがしいほど巨大なハチが、動かなくなったイモムシに向かって、膨張ぼうちょうした腹を打ち付けていた。


 しかしその姿は、一瞬のうちに炎と煙にき消された。


 目を下ろすと、広都もじっとその様子を見つめている。黒い瞳に赤い火が揺らいでいた。


 茜は彼を抱いたまま背を向けると、もう振り返ることなく屋敷の玄関に向かって走り出した。


四十四


 外では女たちが、じっとその場で立ち止まって、燃えさかる屋敷を眺めていた。


 皆一様いちように口を半開きにさせて、誰も何も動こうとはしなかった。


 茜はそのまま庭を抜けて門柱の辺りまで辿り着くと、ようやく広都を下ろしてから激しく咳き込んだ。喉と鼻に痛みが走る。涙と鼻水が垂れて、拭うと手の甲がすすで真っ黒になった。


 広都は地面に座り込んで屋敷のほうをぼんやりと見つめている。不安に思って顔を覗き込むと、弾かれたように抱きついて大声で泣き出した。小動物が母を呼ぶような切ない声で。茜も抱き締めて泣いた。


「ごめんね……本当にごめんね……」


 茜は彼の耳元で聞こえない謝罪の声を何度も繰り返す。助かって良かったなどと言えるはずもない。約束を果たすことができなかったのだから。真実にもっと早く気づいていれば、もっと適切に行動してれば、もしかするとこの惨事は避けられたかもしれない。最初から全て手遅れだったと分かっていても、その後悔はずっと残り続けるだろう。


 がらがらがらと、屋敷の一部が崩壊した。煙がわっと盛り上がり、雲となって月を隠した。この煙は狼煙のろしのように麓の町からも見えるかもしれない。山が燃えていると気づいたら夜明けには救助も駆けつけるだろう。


 毒で心を奪われて、【ひだまり】の正社員となった女たちはどうなるのだろう。指導者を失って元に戻るのか、心的ケアが必要になるのか。医師に鬼の存在を説明したところで分かってもらえるとは思えない。恐らく集団催眠を受けたように扱われると想像した。


 ぞっと、何かの視線を感じた気がして茜は振り返る。


 しかし、そこには深い夜の森が広がるばかりで何の姿もない。


 いや、たとえ何かが潜んでいたとしても、この暗がりでは見つけることもできないだろう。


 人間を操り、人間を食らい、人間に卵を生み付ける、鬼。鬼子母神きしもじんが残した千人の子の末裔まつえい。彼らは人里離れたどこかに隠れて、あるいは街の中で堂々と生き続けている。


 高砂藤子と神原椿の母娘おやこが種族の最後だとは思えない。宮園妃倭子の前には真田駒子が犠牲になり、引田千絵子は【今はお子さんも生まれて幸せになられた】と話していた。引田は神原の毒で操られていたが嘘ではないだろう。鬼の子供たちは、間違いなく今もどこかにいるはずだった。


 茜は再び屋敷を見つめる。高砂藤子がこの惨状を目にすれば、必ず恨みを晴らしにやって来る。どこに隠れていても捜し出して、どこまでも追い詰めて、最も相手が苦しむ方法で復讐をげるに違いない。絶対にそう考えている。鬼と人間は天敵だが、母の愛は変わらないと知っていた。


 しかし、茜も殺されるつもりはない。何が何でも逃げ切って、生きびなければならない。もう自分の一人の命ではない。両手で抱き締めた胸の奥に、広都の体温が伝わる。たとえ自分が犠牲になっても、この子だけ守らなければならない。それが彼の母と交わした最初で最後の約束だったから。


 逃げよう。逃げ続けよう、どこまでも。


 茜はそう心に誓った。


(おわり)



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