第54話
どくんっと心臓が胸の奥で跳ねる。人肉。意外とは思わなかった。不思議と、そうではないかという気がしていた。だが、決して当てたくはない予想だった。
『妃倭子さんが苗床になって最初に口にしたのは、彼女の夫の肉だった。私が見た時には、もうバラバラの死体になっていた。私と引田さんはそれを屋敷の二階にある解体室に運んで、さらに小分けにしてパックに詰めて冷凍して、少しずつ妃倭子さんに与え続けた』
行方の知らない妃倭子の夫。広都の父親は死んでいた。そして屋敷の二階にあった鍵の掛かった部屋は、やはり単なる開かずの間ではなかった。しかしそこでは、茜の暗い想像を遥かに超えた陰惨な作業が行われていた。
『それから何度も、会社から送られてくる新しい死体を処理して妃倭子さんのご飯にしてきた。一番新しいのは若いカップル。誰かは知らない。でも、まだ二人とも生きていた』
茜はその正体に勘付いている。先週に山へ入って遭難したカップル。警察にも捜索隊にも見つからなかった二人は、麓の町を挟んで正反対にあるこの山の屋敷で捕らわれていた。
『カップルは先に女の方から解体して、妃倭子さんの食事に使った。作業のほとんどは引田さんがやった。鶏や魚を
いつも朗らかで仕事熱心だった引田の顔が思い浮かぶ。彼女は遭難したカップルについても全く知らないと話していた。しかし彼女は嘘を吐いていない。異常な殺人鬼でもない。毒でまとも思考力を奪われて、会社の方針に逆らうことができなくなっていた。
初日の午後、入浴介助の際に見つけた、長く茶色い髪の束。その翌日に朝食を介助している際に妃倭子が吐き出した、黒ずんだスジ肉。あれは遭難した女の死体だった。普段の食事とは別に、恐らく深夜に与えられていたのだろう。
『カップルの男は、私が逃がした。栗谷さんがキッチンで見た男だ。あなたと引田さんが麓の町へ行った隙に逃がそうとしたけど、あの人はもうおかしくなっていて、私を突き飛ばして部屋から飛び出して行った。自分の目の前で恋人を殺されたんだから仕方ない。屋敷から出て行ったと思っていたけど、まだキッチンにいた』
山奥の屋敷に現れた不自然な全裸の包丁男。彼が向けた獣のような眼差しには、怒りと恐怖の色が浮かんでいた。茜も恋人を殺した仲間と思い込んだのだろう。彼が再び屋敷に戻ってくるはずがない。無事に保護されたか、森の中で息絶えたかは分からなかった。
『私があの男を逃がした理由も、妃倭子さんのためだった。苗床は人肉を食べないと体調が整わなくなる。それであいつの産卵を遅らせられると思った。でも、そうはいかなかった。与える人肉が不足すると、引田さんは、自分の足の肉を切って妃倭子さんに食べさせた』
今朝、引田は左足を引きずって歩いていた。森の中で妃倭子を捜索している時、彼女の左の太腿が異常に出血していることに気づいた。昨日の深夜、ふらつきながら階段を下りていた女は妃倭子ではなく、二階の解体室から自分の足を切って妃倭子の許へと向かう引田の姿だった。
二件目の留守番電話が終了する。正面にはなだらかな一本道が続いている。左右の森が迫り来るように視界の両端を遮り、ヘッドライトの先に目を向けても町の明かりはどこにも見えない。逃げているはずなのに、忌まわしい地獄へ向かっているようにしか思えなかった。
三十八
『そして今日、栗谷さんが全てを動かしてしまった』
三件目、最後の留守番電話は熊川の責めるような口調から始まった。
『あなたがしてしまったことは、あなたが思っている以上に取り返しの付かない事になってしまった。妃倭子さんの黒袋を取ってはいけない理由はもう分かっていると思う。妃倭子さんが目覚めて動き回ってしまうから。でもそれだけなら対処できた。問題は、妃倭子さんが引田さんを食べてしまったことだった』
暗黒の森の中、妃倭子は
『私はその様子を見ていないが、あいつらの話によると相当食い荒らされたらしい。それで妃倭子さんは一気に苗床の準備を整えてしまった。今まで適切な量を与えて維持させて来たのに、栄養過多になって成長しきってしまった。このまま放っておくと、多分妃倭子さんは腐りきって本当に死んでしまう。そうなると苗床としての機能を果たせない。だからあいつは、神原椿は……今夜、妃倭子さんに産卵すると思う』
熊川の声が震えている。自分の言葉に脅えているのか、屋敷のエントランスで電話を掛けている所を見つからないかと心配しているのか。留守番電話を繰り返して一気に
『私はそれに気付いたから、栗谷さんをこの屋敷から逃がそうと決めた。神原椿があなたを部屋に閉じ込めたのは、これからのことを見せないようにするため。そのあとに毒を注入して【ひだまり】の正社員にするためだ。
栗谷さん、私があなたの過去を探ったのは、あなたがあいつらの仲間として屋敷に来たのか、全くの部外者として来たのかを知りたかったから。あなたの流産をあいつらに話したのは、あなたが産卵の苗床として不向きかもしれないと伝えたかったから。それが関係しているかどうかは私も知らないが、あいつらはちょっとためらったように思う。そうでなければ、あなたはあの場で毒を注入されていたかもしれない』
「そうだったんですね……」
『何も知らなかった栗谷さんは、きっと私を恨んでいると思う。だけど、私の話は信じなさい。あいつらは裏切り者を絶対に許さない。だからこのまま行方をくらまして、何もかも捨てて逃げなさい。そしてあいつらのことも、屋敷のことも、私のことも、全部忘れなさい……さよなら』
プツリと、電話の切れる音が聞こえて留守番電話が終了した。
茜はスマートフォンをポケットにしまうと、ハンドルを握り直してアクセルを踏み込む。道は曲がりくねった上り坂に入り思ったほどスピードは出なかった。ルームミラーから見える車の背後は、まるで何もかもが消え去ったように黒一色に塗り潰されている。しかし何者かが追いかけてくるような気配だけは次第に強まりつつあった。
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